さもゆ
2024-11-14 22:53:09
46261文字
Public BF
 

【A英】Oh,My God!

※59丁目の高級マンションでの事件。アニメ準拠。英二がモブ(狂信者)に襲われます。
※実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※チャイナ・ミエヴィルの『クラーケン』という小説に出てくる「エクス=ファッキン=キューズ・ミー」という台詞をアッシュに言わせたかったんです。(クラーケンでは「くそったれなお言葉を返すようですが」と訳されていました)
※他にもクラーケンをそこはかとなくオマージュさせて頂いています。

2019.1.14
2019.1.22
2019.3.2
たまごのお粥pixiv投稿作品

 きみは神様を信じているか? そう、神様さ。ははは、そう言うなよ。いいじゃないか、客と信仰について話しても。
 宗教? なんでもいいよ、なんの宗教でもいい。きみは、きみの神様を信じているか? きみの、きみだけの神様をだ。そんなものいないって? そんなことはない、知らないだけさ。
 きみは知らないだけなのさ。知らないだろう? きみだけの神様ってやつを。
 何度も同じことを繰り返すなって、ごめんよ、これは私の癖だな。気をつけようとは思ってるんだけど。
 ああ、私の神様かい? もちろんいるよ。私だけの神様。私を愛し、私を救け、私とともにおられる。そんな神様がね。
 ……そんな顔をするなよ。きみにもいるんだぞ。ここに至るまでの状況できみを救けはしなかったかもしれないけどね、確かにいるんだ。助けては、くれないけれど。くたばれ? そう思うのも仕方ないかもしれないな。
 だって、知らないだろう? きみは知らないんだから。
 神様っていうのは、くそったれなもんなのさ。









 アスラン・J・カーレンリースは、不可思議な感覚から強制的に目覚めさせられた。じっとりと背中に汗をかき、なんとも言えない不快感を逃すべく身を起こす。隣のベッドでは、奥村英二が規則正しい寝息を立てており、それだけで少しばかり気が落ち着いた。
 いつも見るような──寝起きの悪い自分が飛び起きて怯えるようなあの悪夢──ではない夢を見ていたはずだが、もう既に内容は靄がかっている。
 確かあれは、自分がまだ幼く、男娼として心を殺しきれず未熟だった頃の、当時変な奴だと思った客の夢だった。
 行為には及ばず、変態的な指示もせず、乱暴どころか髪の毛一本も触れ合わず、ただベッドの上で神様がどうのと話してきた男。神父か何かかと問うても違うらしく、カルト集団の一員だろうと勝手に結論づけた、どこか不気味な客だった。それでもきっちり安くはない金を払い、何もせず出て行ったのを、自分はどこかほっとして見ていた。あの日々は、正しく地獄だったので、いもしない神様について語る信心深いお客の方がずっとマシだったのだ。
 神様を信じているか?
 今その問いかけをされても、答えは変わらないだろう。
 Fuck you くたばれ

「アーッシュ! 起きろ! 今日は昼からアレックスが来るって言ってたろ?」
 なるほど英二はいつもこんなに声を張り上げながら起こしてくれるのか、と半ば感心しながら閉じていた瞼を開けた。ちょうど布団を剥ごうとしていた英二と視線が合い、「えっ、きみ、どうしたの? 今日はやけに早いじゃないか……まさか目を開けたまま寝てるとか」と言われるも普段のことを思えばそりゃ驚くだろうしこちらも改めて有難みというものも感じる。普段は一度目の英二の目覚ましをちっとも認識していないのである。
「おはよう、英二」
「あ、ああ、おはよう」
 ベッドから降り、剥き出しの脇腹をかきながら部屋を出ると、後ろから少し不安そうな声がかけられた。
……眠れなかったの?」
 彼はとても鈍い人間だが、こういうことばかりはよく気がついた。他人に訊かれれば放っといてくれと冷たく切り捨てるが、こいつにだけはむしろ逆だった。しかしだからと言って全てを包み隠さず話すのは嫌なのだ、英二が傷つくのが分かっているから。
「オニイチャンの作った朝食を、朝食として食べたくってね。頑張って起きたんだよ」
 振り返ってニヤリと笑ってみせれば、英二は眉尻を下げていた顔を、ようやく明るくさせた。
「ふふん、今日はねえ、珍しくトーストなんだよ」

 お隣のMrsオーウェンから貰ったと言うつやつやの苺ジャムを小麦色のトーストに塗りたくり、ぱくりと食べる英二はどことなく機嫌が良さそうだった。
 チキンサラダにフォークを突き刺しながら、その様を見つめる。このマンションに実質軟禁暮らしをさせてからしばらく経つが、彼は文句も言わず呑気なものだった。ご近所づきあいをしている辺り逞しささえある。
「何?」
 大きな丸い黒目で見つめ返され、「いや、」自分の口端を指で示した。「ついてるぜ、オニイチャン」慌てて指先でジャムを拭う年上に「ガキみたい」と揶揄うとムッと頬を膨らます。そういうとこが益々なんだけど、とは言わずにおこう。
「英二はさ」
 トーストにジャムを塗りながら、なんとはなしに気になっていたことを訊いた。
「神様を信じてるか?」
「神様?」
 英二は突飛な発言に突っ込むでもなく困ったふうに顔を顰め、ううんと唸った。
「その神様ってやつは、キリストのこと?」
「いや、宗教はなんでもいい。日本なら仏教か? とにかく、なんかそういう、天上におわすく……
 くそったれ、と言おうとして言葉を飲み込み、言い換えた。
「素晴らしい何かをさ、信じてるか?」
 もちろんその呼び方を皮肉と分かっている英二は、「素晴らしい何か……うーんと、説明が難しいんだけど」不慣れで訛りのある英語を一生懸命口にする。
「日本はさ、初詣には神社に行くんだけど、これは神道ってやつだし、お寺で死者を弔うのは仏教だし、でもクリスマスを祝うのはキリスト教だし、ハロウィンもするし、バレンタインも……これは宗教じゃないのか……? とにかく、たくさんの宗教が入り交じってて、日本だけでも八百万の神様がいるんだ」
「ああ」
「僕の故郷、出雲もね。わりと有名な神社があって……だからそういう点で言うなら、神様を信じてるってことになるかもしれない」
 でも、と続けた。
「そうだな、オウム真理教って分かるかい?」
「知ってる。地下鉄でサリンをばら撒いたカルト集団だろ」
「そう。そういう、一柱の神様や一人の教祖様を盲目的に信じて、何かをするのが信仰なら、僕は神様を信じてないってことになるかも」
 たぶん、大抵の日本人が同じだと思うよ。そう締め括った英二は自分がどれだけ不思議なことを言ったか分かっていないに違いなかった。アメリカは圧倒的にキリスト教徒が多く、その中でも宗派は様々だ。祈りなさいと散々説いてくるものや、苦痛を伴うことが大事だと頭のイカれたものもある。しかし全てはキリストという一人の人間(アッシュは彼を神だとは思っていない派だった)に辿り着くのだ。日本はあんな小さい国に神様が八百万もいて宗教戦争が起こらないのが不思議である。
「自分だけの、」
 しかしあの男が言ったのはそういうことではないような気がした。
「自分だけの、神様ってやつは?」
「どういうこと?」
「俺も、よくは、分からない。ただ自分を愛し、救け、傍にいる、そんな神様がいるって思ったことは?」
 言っていて反吐が出そうになった。そんなものがいたら世界はもっと平和で、血肉を争うこともなく、自分は英二と同じように生きていけただろう。
「それって、」
 英二は首を傾げ、眉間に皺を作った。
「きみのことじゃないか?」
「は?」
「だって、僕を愛し……好き? でいてくれて、助けてくれて、誰よりも傍にいてくれ、て……
 真っ直ぐこちらを向いていた目が、うろうろとさまよい、「……ち、違うか」たははと気まずそうに照れ笑いを浮かべる。
「違わない」
 うっかりトーストを握り潰しそうになりながら、アッシュも視線を気恥ずかしげにさまよわせ、すぐに首を振った。
「違わないけど、違うな」
「え?」
「そういうことなら、お前だって──」
 彼の方がよっぽど神様だ、と思った。
 血に濡れた両手と畜生のような人生を持つ自分を恐れず、見返りも求めず、蔑ろにもしない。平等と無償の愛と平穏で包んでくれる英二は、あの男の言葉を借りるなら、アッシュの、アッシュだけの神様のようだった。
 あいつは、こういうことを言っていたのだろうか?
 そうならば納得できると同時に、少しの違和感も覚えた。
 あれはそんな世の一般的な素晴らしさを説いている雰囲気だったろうか? 分からなかった。



 アッシュに呼び出されたアレックスは、ソファに座る自分たちのボスを見て口には出さずとも驚いていた。時刻は正午。普段なら英二が何度目かの叩き起しをしに寝室に向かう時間だったからだ。
「いらっしゃい、アレックス。お昼食べた? まだなら、一緒に食べようかって話してたんだよ」
「え、ああ、まだだが、」
「よーし待ってろ、玉子焼きがうまく焼けるようになったんだぜ」
 ぱたぱたキッチンへ向かう英二を見送り、確かに他人の家なのになぜか有りもしない自分の家に帰ってきたような妙な感覚に陥りながら、アッシュに頼まれていたことを報告しにソファへ近寄る。正面に座り、寝起きでも不機嫌でもない尊敬するボスにホッとしつつ、「で、どうだった?」「ああ、ボスの言った通り──」いつもの如く血生臭い報告会を始めた。

「OK、じゃあ引き続き頼む。くれぐれも気をつけろよ」
「了解だぜ」
 話を終え、ふと後ろから漂ってきた匂いに一気に空気が丸ごと入れ替えられた感覚がした。甘じょっぱい、空腹を促す美味しそうな匂い。
「話は終わった?」
 英二が少し離れたところで、窺うようにこちらを見ていた。先程まで『玉子焼き』とやらを作っていたらしい匂いを漂わせている。
「終わったよ」
「じゃあみんなで食べよう。見てくれ、今までで一番綺麗に巻けたんだ」
 そう自慢気に胸を張った英二が、たった今人の生死が関わる命令を下したアッシュとともに住んでいることを、もう何度思ったかしれないが素直に凄いと思った。ある種の尊敬と、羨望。アッシュをボスとして崇拝するアレックスたちリンクスメンバーは、この日本人を決して傷つけない。彼を傷つけたら即ちボスに銃を向けるのと同じことだと知っているからだ。
「行こうぜ、アレックス。『玉子焼き』は納豆と比較にならねえほど美味い」
「あ、ああ」
 自分たちを、真昼の下で年相応にさせてくれる、それが英二だった。
「納豆だって慣れれば美味いに決まってるのに」
 むすっとした表情でリビングに踵を返した英二の後ろ姿を見やり、そのパーカーの模様を認識したところで、アレックスは立ち上がりかけていた動きをとめる。
「アレックス?」アッシュが訊いた。「どうした?」
……アッシュ、別に大したことじゃねえんだが」
 本当に。別段気にすることでもない、現に滅多に開かない記憶の保管庫でカスみたいに忘れ去られる運命だった、ちょっとしたこと。
「──あの鳥、」
 けれど、英二が好んで身につけるキャラクターだったから、自然と目につくようになり、今も英二のパーカーの背中に張りついている鳥の模様が。
「最近、よく見るんだ」
「は? そりゃお前、あいつ以外でもあれを『カワイイ』って思う奴がいるんだろ」
「いや、そうじゃなくて……
 何か変だと思った自分の勘は、果たして正解なのか?
 アレックスは疑心暗鬼になりながらも報告した。
「落書きでさ。俺たちのアジトだけじゃない、街の荒んだ至る所で、よく見るんだ、最近。あの鳥を」



 ノリノリ鳥という斜め上を見つめ仁王立つ鳥のキャラクターは、人を舐め腐った態度をしているように見える。
 と以前英二に言ってみたところ、それがいいんじゃないかと憤慨された。それから日本人がよく使う『カワイイ』について懇切丁寧に語られたが、その基準は様々で英二の『カワイイ』の基準はどう足掻いても自分と違うようだと理解するのを諦めた。
 とにかくアッシュは、ノリノリ鳥のことは好きでもなんでもなく、だがまあ英二が揃いで買ってきた服を着る程度には、あの鳥に慣れてしまっていた。
「不良たちがグラフィティアートするくらい、ノリノリくんは世間に浸透してるんだね」
 英二がうんうんと頷き、彼曰く少し味付けを濃くしすぎた豚肉の生姜焼きを頬張る。「やっぱりちょっと辛いかな」同じく生姜焼きを咀嚼していたアレックスは「そうか?」と首を傾げていた。ケチャップ大好きアメリカ人にはこれは無味と同じかもしれなかったが、アッシュは美味いと思いながら食べている。玉子焼きも、確かに今までで一番形になっているし優しい甘さだった。口には、出さないけれども。
……アレックス、ほんとにその鳥だったのか?」
「ん? 間違いねえよ。人を小馬鹿にしたような目なんかそっくりだったぜ」
「やめてくれよ、確かにちょっと見下してる感じあるけど、ノリノリくんは決して人を馬鹿にしてるわけじゃないんだよ。たぶん」
 矛盾に塗れた反論をする英二を尻目に、アッシュは美味い飯を食べながら眉を顰めた。
 アレックスが言うには、街の外れや不良の溜まり場、ビルとビルの隙間など、大きさや色は統一されてなくともあのキャラクターが落書きされており、リンクスがよく集まる場所の壁にもあったらしい。元々ノリノリ鳥が好きか英二に感化された奴かが適当に描いたのだろうと思い放っておいたら、次第に街のどこかしこで見つけるようになったと。「……ノリノリくんにケチつけるわけじゃねえけど」アレックスが言った。「センスねえぜ、ありゃ」同感だ、アッシュは頷いた。
「なんだよ、下品なことが書かれてるよりいいだろ。僕写真撮りたいな。今度見に行こうかな」
「やめとけ英二。撮る価値ねえよ」
「ええーっ、でも気になる。誰が描いてんだろうね? よっぽどノリノリくんが好きなのかな。……バラバラの場所に描いてあるんだったら、全部別人ってこともあるのか」
 アレックスと顔を見合わせた。
 それはなんだか、おかしいような気配を、アッシュとアレックスは感じ取っていた。今までノリノリ鳥の落書きなど見たことがなかったし、そもそも英二が好んで身に着けるまであんな鳥が服のロゴになっているなど知らなかった。それに、不良が描くグラフィティアート(ただ単に意味のない文字の羅列やスラングがほとんどだが)としては、幼稚すぎるという点もある。複数人が急に街中にあれを描くのはどこか不自然に思えた。まあ、今まで知らなかったから気に留めなかっただけで、本当はもとから描かれていた場合もあるのだが。
「ミッキーを探せみたいな感じだったりして。面白いなあ」
 一人にこにこと楽しんでいる英二を見て、再度アレックスと顔を見合し、肩を竦める。
 考え過ぎだろう。まさかノリノリ鳥の落書きが何か大事にでもなったりはしないさ。






 ――ここ十数年前にできたとある新興宗教がある。
 宗教は無数にあるため、定義は総括できず、その新興宗教も宗教と呼べるかどうか怪しかった。
 しかし、彼らには信仰するものがあった。キリストでもなければアッラーでもブッダでもない、彼らだけの信仰対象。それは人かもしれない。物かもしれない。自然か、誰かにとってはゴミ屑かもしれなかった。
 その組織では、彼らにとっての、他の誰でもない、自分だけの神様を信じていられる。
 神、またはなんらかの超越的な絶対者、卑俗から離れた禁忌的に神聖なものを信仰し、行事にすることが宗教ならば、確かに彼らも宗教体系だった。個人の信仰を寄せ集めて出来上がった宗教。神は人によって違うのだ。



 オリバーは、別にこの鳥のことを好きだから描いているわけではなかった。
 両目を斜め上に固定し、羽を膨らませ、仁王立っている鳥のキャラクター『norinori』。
 ただ、自分の神様が、見る度にこの鳥が描かれた服を着ていて、そして彼はあまり素行が良くなさそうな青年たちと歩いていたから。もしかしたらそういう不良がいる場所に描いておけば、彼は自分を見てくれるのではないかと思っての行動だった。
 でも、やっぱり、駄目だな、と思う。
 だって彼は自分の神様なのだ。自分の、自分だけの神様。何があっても信じていられる人。
 一目見た時から、確信したんだ。あんなに神々しく、温かみのある存在に。ああいうのを啓示って言うのだろう。傍にいてほしい。話を聞いてほしい。笑いかけて、ただ、孤独な自分の隣に。
 けれどオリバーの神様は、オリバーの傍にはおらず、別の人間の隣を歩き、笑いかけ、話をしている。
 駄目なのだ。
 神様を自分のものにするには、行動が、足りない。
 オリバーは描きかけの絵を完成させるとその下にメッセージを書き、持っていたスプレー缶を放り捨て、路地裏から出ると人混みに紛れた。
 なんの変哲もないオリバーが、今から敬愛し崇拝する神様に会いに行くとは、誰も思わないだろう。






 ゴルツィネの経営するビルの出入りをカメラに収める役目は、もう流れ作業のようにできるようになったし、更に言えば録画機能という便利なボタンもあるのでそうそう気を張り続けることもない。このだだっ広いマンションの部屋に一人取り残されると、途端に何をすればいいか、した方がいいか、それらが無かったらただただ暇な時間が訪れることになる。
 英二はその日、暇を持て余していた。
 アッシュは出かけて行ってしまったし、自分の護衛役(御守り役とも言う)のコングとボーンズは来てくれるらしいが、それでもあと四時間は暇だった。一通り家事はした。散歩でもしたいものだがアッシュにお前一人では絶対に部屋から出るなと言われている。彼と自分のためにも破るつもりはない。
「暇だなあ」 
 一人は寂しいなどと言うつもりはないが、それでも四六時中一緒にいるアッシュやリンクスメンバーが一人もいないとなると、落ち着かなかった。こんなんじゃ駄目だな、と思う。本当に駄目だろう。そんなだから年下に見られるのだ。だいぶマシになったと思うが下手くそな英語も原因だろう。本気でセサミストリートを見るべきかもしれない。……いやいや、そしたら更に馬鹿にされるに決まって……
 ちらりと時計を見る。数分しか経っていなかった。
 スマホでセサミストリートの動画を検索した。

 いつ見てもクッキーモンスターは狂気が滲み出ている。そういえばずっと昔、まだ妹が小さい頃にクッキーモンスターが夢に出てきたとかで泣きついてきたことがあった。あの渋く深い声で妹を探しながら手当たり次第に周りのものを食い散らかしていったらしい。恐ろしいのはテレビの中のクッキーモンスターも大体その通りということだ。
「でも割と……かわいいよなあ……
 ずっと見ているとそんな気がしてくるから不思議だ。愛らしくないか? あの黒々とした柔らかそうな口の中だったら、手くらい飲み込まれてもいいような気がする。どこを見ているか分からない揺れまくる眼球もキュートだ。アッシュに言ったらどんな顔をするだろう。
 想像しかけて、噴き出し、こてこてに反論されるだろうから言うまいと誓う。
 英語の勉強というよりはクッキーモンスターの生態を観察している状態になった頃、画面にメッセージが映った。
 ボーンズからだ。『用事が予定より早く終わったから、今から行く。十五分後には着く』英二は申し訳なくなりながら文字を入力する。『ゆっくりでいいんだよ。気をつけてね。お茶淹れて待ってる』……この間、「お前とメールしてると、野郎とやり取りしてる気にならないからもっと事務連絡みたいに送ってくれ」と言われたことを思い出し、これでどうだと打ち直す。『事務連絡。ゆっくり、気をつけて来るべし。お茶を用意する』思った通りの英語になっているか少々不安だったが、送信を押した。『そうだけどそうじゃない』すぐに返ってきたメッセージに肩を落とした。じゃあどうすればいいんだ。
 キッチンに行き、ケトルでお湯を沸かす。コーヒーか緑茶かどっちにしようか迷っていると、軽快なチャイムが鳴った。いくらなんでも早すぎる。まだ五分と経っていない。
 英二はインターホンの確認画面のボタンを押し、そこに移った人物に首を傾げた。
「はい」
 マイクに向かって声をかけると、画面の中の男が笑みを浮かべた。二十代半ばくらいの、茶髪の男だった。配達員の恰好をしている。
「すみません、郵便です」
「ええ……っと、どちらからでしょう?」 
 ドアは開ける前に必ず確認すること。身に覚えがあってもなくても郵便物も確認すること。アッシュとの約束だった。
 男は困ったふうに頬をかいた。
「すみません、差出人の名前がないんですよ。直接、渡すよう頼まれて……日本人の方になんですけど」
「日本人……あの、どんな?」
「黒髪黒目の……
「んん、えっと、見た目おじさんでした?」
「まあ、はい」
 ――伊部さんだ。そうに決まってる。安全を配慮して彼はここに滅多に来られないし、わざわざ郵便にするような何かがあったのだろうか。
 英二は一抹の不安を抱えて「今開けます」ドアに向かう。一応ドアスコープも覗き、きちんと配達員の恰好をした男が何やらラッピングされた袋を持っているのを視認して、ドアを開けた。
「奥村英二さんですか? これを」
「は、はい。ありがとうございます」
 赤いリボンで締められた、一抱えする大きさの、重みのある袋を受け取る。
……中身が何かとか訊いたりしませんでした?」
 男は首を振り、「……覚えがないんですか?」と返品等の心配をしているのか眉尻を下げる。配達員は日本だけでなくアメリカでもブラック同然なのかもしれない。英二は慌てて「大丈夫です、あの、判子――はいらないのか、サイン? ですかね、ペンありますか?」とりあえず受け取った物を傍の棚の上にでも置こうと一歩退いた。
 ガタンとドアが音を立てる。 
 男がドアの内側に入って来ていた。あれはドアが閉まった音だった。
「すみません、……廊下で、待って頂きたいんです、けど」
 半歩、後ろに下がる。とんでもなく悪いことをしでかした、もしくは今からしでかされる予感がした。
「あの、お兄さん?」
「待ってたんです、ずっと」 
「え? ごめんなさい、何を――
 男が大股で一歩こちらに詰め寄った。視界がグレーのジャンバーで一杯になり、踵を擦らせながら仰け反る。そのまま後退ろうとした足は、両肩を掴まれたことによりたたらを踏むだけとなった。
 薄い青色の瞳が英二の瞳を覗き込んだ。
「俺は、待ってたんだ、ずっと」
 ぞわっと背筋に悪寒が走り、掴まれた肩から腕へと鳥肌が立った。男はどこか熱に浮かされたような表情をしていた。「待ってたんだ、あんたを……」譫言のように繰り返される言葉の意味が分からない。何を言っているんだ。この人は知り合いだったか? いや違う。
「は、離してください」
 男は不思議そうな顔をした。「どうして?」「け、警察を呼びますよ」呼べるわけがない。自分たちがここに住んでいるのは他人に知れ渡ってはいけないのだから。
 痩せて身長が高い男は、身を屈め、あろうことか英二の前に跪いた。そして英二の持っている袋のリボンを解く。
 噎せかえるような芳香が一瞬にして充満し、鼻をついた。視界が赤で埋め尽くされ、手の中から赤い色が散らばり床に舞い落ちる。それは数え切れないほどの薔薇の花だった。
 ぎょっとして今度こそ後退り、とにかく男から距離を取ろうと踵を返す。部屋は鍵がかけられるから、そこまで走ればいいのだ――かくん、と腕を引っ張られた。関節を抜かれるかと危惧するほど強い力だった。
「お願い、どこにも行かないで……俺の、神様」
 悲壮に満ち満ちた声が耳元に吹き込まれ、後ろから腰に腕を回される。そんな声を出したいのはこっちの方だ! 「はな……っ、放せ!」思い切り自由な方の手を振り上げるが、その手も取られくるりと前を向かされた。男の顔が間近に迫る。
「あんたは俺の神様なんだ。俺だけの……
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆーあーくれいじー!」
「ああ、お願いだよ、そんなこと言わないで。俺はあんたを崇拝しているんだ、愛してるんだよ」
「宗教勧誘なら他当たってくださいッ、僕は仏教徒です!」完全に日本語で叫んでいた。
 宗教勧誘。果たして宗教に勧誘されているのか甚だ疑問だったが、自分の耳と翻訳が間違いでなければこの男は英二を神様だと宣っているのだ。出雲の実家にたまに訪れたエホバの証人だってもっと整然とした信徒に見えた(話を聞く前に帰って貰うのが常だった)し、こんな強引に意味の分からないことを羅列したりしなかった。
 腕を取られたまま顔が近づいてくる。避けようと身を引いたら必然的に床に尻餅をつく恰好になり、勢い余って尾てい骨を強かに打った。「ってぇ……!」周りに落ちていた薔薇がひしゃげた。
 男が足を押さえつけるように馬乗りになる。冷たい床に背中をぶつけた。それから腹立たしいことに涙を浮かべながらうっとりと英二の目元を撫で、口を開いた。
「この瞳に、俺が映るのがどれだけ尊いことか。分からないだろう? 分からなくていいんだ、これからだもの。あんたは自覚がないかもしれない。でも、なあ、俺の神様なんだよ。俺だけのだ。どうかお願いだ、俺の名を呼んで。オリバーだ。笑ってくれ、俺を見て、俺を受け入れて、傍にいて……
 懇願するように首元に顔を埋められ、蛙の潰れた声が喉から搾り出たが男の耳には丸きり届いていないようだった。こいつは何を言ってるんだ!? さっぱり分からん! 剥き出しの首筋に生温かい息がかかり、「っ、どけ!」ようやくマトモに発せた単語も聞き入れて貰えず、両腕を一纏めに頭上で掴まれたところで、別の危機感が生まれた。
「俺を愛して……神様」 
 顔を上げた男の目は、情欲に濡れていた。
 ――お前は神様に欲情するのか!? 戦慄が走る。脳裏でゴルツィネ邸に囚われた時のことが蘇った。あの時はまだセーフだった。力尽くで服を脱がされ風呂に入れられ、暴れ回った挙句ベッドに拘束され悪趣味な性癖に付き合わされそうだったが、結果的に何事もなく済んだ。未だ誰にも喋っちゃいないし、これからも喋るつもりはない。けれど今は? こんなとこでそんなことをされてみろ、どうなるか分かったもんじゃない。このマンションでは平和に平穏に過ごさなければいけないのだ。あらゆる意味で!
「僕があなたの神様だって言うんなら、」
 落ち着け。力じゃ叶わない。冷静に、この世の全ての争いはコミュニケーション不足で起こるとテレビのお偉いさんが言っていたではないか。
「僕のお願い、聞けますよね」
……もちろん、もちろんだよ」 
「じゃあ、」
「でも俺の神様は、俺を愛してくれるんだ」
 コミュニケーション不足というのはコミュニケーションが通じない場合どうすればいいんだろう。
 どうにもできない。僕はあんたの神様じゃない! 叫びたかった言葉は一音も出てこなかった。代わりにひゅっと隙間風のような息が口から飛び出す。
 喉仏に熱く柔らかな感触が落ちた。
…………
 頭が真っ白になった。
 配達員が神様云々言い出した時点でキャパオーバー気味だった脳みそは、喉にキスを食らったせいで完全に機能を停止した。素直な体だけが鳥肌と冷や汗を生み出している。濡れた唇が喉仏から横に移動し、首筋にジリッと痛みが走る。いつぞやキスマークが原因で死に至った不幸な少年の記事を見かけたが、どうしてそれを今思い出したんだろう。馬鹿ではないか。見ず知らずの男に、もしや今、つけられたんじゃないか? そしてそれが原因で後になって脳梗塞でも起こしたら語り草になるような死に様になる。馬鹿野郎。だったら今玉砕した方がいい。
「こンの……ッ!」
 急速に再起動し始めた脳みそは、火事場の馬鹿力を湧き上がらせた。渾身の力を込めて体を捩じり、足をばたつかせ振り上げる。男のどこかしこかに蹴りが入ったらしく、呻き声とともに拘束が解かれた。「ざまあみさらせっ」男の下から這い出て毒づき、立ち上がろうと膝を曲げる。
 ずだんっ、と鈍い音と顎の痛みと背中の重みに呼吸が詰まり、薔薇の花弁がひらひら舞った。
――ッぐ、」
 冷たい床に頬がくっつき、強打した顎と圧し掛かられた背中だけが熱を持っていた。
 男が泣きそうな声音で言う。
「逃げないでくれよ。俺にはあんただけなんだ、愛してるんだよ……これからは、傍に、いてくれ……
 英二が傍にいたいと、世界中の全てが敵でも必ず自分だけは味方だと心から口にする相手は、こいつじゃない。
 アッシュ。
 金髪と緑の瞳を持つ、年下の癖に小生意気で賢くて優しくて――自分が寄り添いたいと、守りたいと思う壮絶な孤独を背負った――彼でないと。駄目なのだ。
「あんたが、何を言ってるか、僕には分からない」
 狂信者で不法侵入者で乱暴者の男を睨みつける。
「けど、今のは、告白ってやつですよね。だったら答えは決まってる。Noだ」
 薄い青色の両目に悲しみを押しのけて怒りが混じるのを見た英二は、歯を食いしばって来るであろう衝撃に耐えようとした。男の望むことをすれば早くに解放されるかもしれなかったが、それだけは絶対に嫌だった。
 殴られても、蹴られても、犯されても、全力で歯向かうつもりでいた。
「Ex-fucking-cuse me」
 ところが、聞こえてきた声に全身の強張りが解け、そうして嘘みたいに柔軟な思考回路を送れるようになった頭が、その言葉の意味を理解しようと働いた。
 エクス=ファッキン=キューズ・ミー。
 リンクスと一緒にいるうちに、英語もまともに話せないくせにスラングだけ覚えてしまうことがあって、見兼ねたアッシュが正しい使い方と意味を教えてくれた「fuck」。日本語で「ちくしょう」の意味しかないかと思っていたがそんなことはなく、嬉しい時や強調したい時にも使うと教えられた。けれどもまあ綺麗に英語を話せない自分が、あまり良くない言葉から使うのは宜しくないと、英二はほとんど(アッシュが子供に余計なことを教えた親のような顔をするのもあって)口にしないが。しかしたった今聞こえた強調言葉を映画風の日本語翻訳にするならば、意味はこうだろう。
 Ex-fucking-cuse me くそったれなことをお訊きしますが
「あんたはうちの英二に何してるんだ?」 
 男の背後、緑の瞳を怒りで燃やすアッシュがいた。