ある男の叙事詩

pixiv再掲
とある男の交際匂わせ。ナックルシティのモブはキさんが大好き
キさんの未来を大いに捏造していますが、ジムリ引退後、ポケモン研究なんかに勤しむ賢そうな職についていたらいいなあ、なんて妄想なのでお許しください



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 ある日、いつものように研究所の人間たちがまばらに出勤し始め、ワークチェアに腰掛けながら今朝の新聞やSNSに目を通していた。朝の始業時間までの少ない自由時間を、朝食がわりのダイエットフードで済ましていた女性研究員は、向かい側の男が少し変わった歌を口ずさんでいることに気づく。
 いつもなら聞き覚えのある、ガラルでは超有名アーティストのネズの歌を終始繰り返しているこのご機嫌な男は、機嫌の良さは変わらないが耳馴染みのないゆっくりとした歌をハミングしていた。メロディーも時折ぼんやりと声に出す歌詞も、聞いたことがない。
「それ、ネズさんの曲ですか?」
 ん? と男は顔を上げて、眼鏡を持ち上げながら、へらっと笑う。いつも穏やかな笑顔だというのに、それはさらに締まりのない顔をしていて、思わず女性研究員は顔を赤らめた。
 そうやって笑うことではぐらかされ、誤魔化されたんだろうが、まるで子供みたいに嬉しそうにするものだから、母性本能をくすぐられる。
 男は、今はフリーだと言っていた。特定の浮名を流す気はないのだと言う。けれどこの女性は何となくわかっていた、フリーである人ならば無防備にあどけない笑顔を振りまいたり、ゆったり幸せそうに歩くはずがない。
 今朝も、職場へ来るなりスマホが鳴った。彼のショッキングピンクのスマホロトムは何やらメッセージを届けて、それを見るなり男は目一杯の愛しさを込めて笑ったのだ。
 だから今日も彼女はフリーという発言にクラリとしがちな自分を、「惑わされない、惑わされないぞ……!」と叱咤し、残りのダイエットフードをバリバリと噛み砕く。彼女の幸せは果たしてすぐそばにあるのか、今日も登録してあるマッチングアプリからのメッセージを待つ。
 ……ちなみに一週間経って後に、アプリを通じて運命の男性をゲットできることになろうとは、当時の彼女には知る由もない。

 また別の日、男が前髪にメッシュを入れた。白くきれいな色で往来の黒い髪にもよく似合う。「白髪が増えたから、いっそ染めればいいかと思って」と言って男は、にかっと笑った。若い時と変わらない白く光る八重歯は、全く白髪の存在なんて感じさせない。その時研究所宛ての荷物配達を任されていた青年は、「何だかジグザグマみたい」と思ったそうだ。白黒の体、キラキラした目で主人を見つめるあのポケモン。あくタイプなのに憎めない、人懐こい様子はこの人に似ているな、と青年はちょっと思う。
 そして、変化はもう一つあった。男のピアスはシンプルに一つ、小さい頃から親にもらって大事につけていたのだと聞いたことのある男性研究員が、目敏く見つけたのは、そのピアスが片方無くなっていたことだった。
「大事な宝物なんだ」と昔を懐かしむようにはにかんで笑っていたのをよく覚えていたので、驚いて思わず伝えてみた。無くした、落としたの類であれば大変であったし、とお節介を見せた彼の言葉は、しかし杞憂であった。
「ありがとな、これ、自分で一個外しただけだから」
 ハハ、と肩を叩いて笑顔で応えて、男はその穴の開いた耳たぶに触れた。
 穴はもう塞がることはなく、ぽかりと開いていて寂しげにも見えるのに、その触れ方はひどく愛しそうにしていて、男性研究員はそれ以上男に聞くことをためらった。

 男の周囲では、わずかながらの男の変化を不思議に思いながらも、いつも柔和で優しく、笑顔の絶えない不思議な魅力を持ったこの男のことが大好きで、働く時に力を発揮しようと張り切れるのだ。
 ただ、その変化の兆しがどうしてなのか、理由が如実にわかる事態が発覚する。