シノハラ
2024-10-30 20:08:56
9959文字
Public アルカヴェ♀
 

賞味期限切れになっていた恋心が再燃しかかってる後輩と何もかも初耳の先輩のアルカヴェ♀

2024/1/24初出


 書斎の窓際に拵えてある作業用の机でカーヴェが突っ伏して眠っていた。もう部屋の中も薄暗いのにどこにも明かりがついていなかったので、てっきり不在だと思っていたのだ。
 朝食を食べながら交換した本日の予定では、彼女は家での仕事に始終するはずであった。とはいえ、予定が狂うことなどいくらでもあるだろう。
 もう少しだけ待って彼女が帰宅しなければランバドの酒場にでも夕食を調達しに行こうと思いながら書斎に引っ込んだ瞬間、塊が床に落ちていたせいでアルハイゼンはひっそりと肩を弾ませてしまった。おそらく、ほんの少しだけの仮眠のつもりだったのだろう。背の低い机の上には目覚まし時計が置いてあって、ベルを鳴らすための針はとっくに時間を過ぎている。この様子を見るに、彼女が二度寝を決め込んでしまったのは想像に難くない。
 とっぷりと深く眠っている彼女の横に座り込むと、否応なしに学生時代の自身の悪行を思い出す。アルハイゼンがカーヴェに初恋を捧げていた頃、彼女は課題の締め切り間際になるとよく眠たそうにしていたものだった。
 そういう時の彼女は決まってしばらく眠気に抗ってから、アルハイゼンに三十分したら起こして欲しいと言付けて机に突っ伏して眠ってしまう。組んだ腕の上に額を置いてもぞもぞしてから、五分と起たないうちにすうすうと寝息を立て始めるのだ。
 そうなってしまえば、アルハイゼンが名を呼びながら肩を強く揺するまで自ずから起きることなど結局一度もなかった。カーヴェの昼寝にしては深い眠りをいい事に、アルハイゼンはいつも彼女の髪をかき上げてこめかみを露にすると、こっそりとそこに唇を落とす。
 鼻先にカーヴェの匂いを感じながら唇を離すとアルハイゼンはいつも陶酔する息を吐いて、高揚と僅かな罪悪感に頭をくらくらとさせる。あとは彼女を起こす時間が来るまで自身も腕を組んで揺らぐ頭を支えるように片方の頬骨を押し付けて、寝入る彼女に熱の籠もった眼差しを寄せていたのだ。
 かつて燻ぶらせたまま終わらせてしまった恋情に煽られながら、アルハイゼンはあの時のようにカーヴェの髪を掬い上げて耳にかけてやる。それから同じように口づけを落とせば、彼女の好む香水の奥からあの頃を思わせながらも歳を重ねた女性の香りが鼻孔に滲んだ。アルハイゼンを一発で駄目にした匂いは今も威力は抜群らしく、あの時の眩暈に似た感覚を引き起こす。
 疼く胸中をそのままにアルハイゼンはカーヴェから唇を離し、やはりすうすうと寝息を立てるばかりの彼女に視線を落とす。おそらく一刻も早く起こしてやるのが彼女のためであると知りながら、アルハイゼンはあの頃の自身が望んだようにただ彼女が寝入る姿に魅入っていた。

    ※    ※    ※    ※

 ゆらゆらと肩を押されているのに気がついて、意識が浮上した。ぱちり、と瞬きをすると額辺りに自分の腕があって重さを受け止めていた腕が痺れているのが分かる。
「おはよう」
 聞き覚えのある男の挨拶を聞きながら頭を上げると、部屋が薄暗かった。おはよう? おはようと言うにはあんまりにも暗い。窓からは光が差し込んでいないし、背後で灯っているらしい書斎机の上のランプの明かりがなんとかカーヴェの視界を確保しているだけである。
 加えて気になるのは異様に軽くなった頭である。少しだけと突っ伏した時にはぐらぐらと重たかったのに、今は首の上にそれが乗っているのも意識できなかった。代わりと言ってはなんだが、丸められていた背中が痛い。
 つまるところ寝坊である。少し眠るだけのつもりだったので、カウチも使わなかったのにこの体たらくだ。
「ごはんできてない……
 なんなら予定していた仕事もできていない。もうとっぷりと日は暮れているわけで、もしかしたら普段の夕食の時間もとっくに過ぎているかもしれない。カーヴェを起こしてくれたらしいアルハイゼンにしおしおと謝罪すると、彼は特に気にした様子もなく相槌を打った。
「外に買うか食べるかにしよう」
「うっ、どちらにせよ僕が出すよ……
 急な出費に胸と懐が痛むが、引き受けた仕事をこなせていないのはカーヴェの方だ。であれば、支払いはカーヴェが持ってしかるべきだろう。
「いや、今回は俺が出す」
「なんで」
「こんな時間まで君を寝かせておいたのは俺だからだ」
 回答と共にすいとアルハイゼンが指先で机の一点を指すと、そこにはカーヴェが置いた記憶のある時計が鎮座していた。まじまじと針を観察すると、アルハイゼンが定時で帰宅する時間から一時間はゆうに過ぎた位置を示している。
「だったら起こしてくれよ! 僕にだって予定というものがあるんだ!」
 後から埋め合わせをするくらいなら、とっとと起こしてくれればよかったのだ。そもそも寝過ごした自分が悪いのは承知の上で、カーヴェはアルハイゼンを非難する。きゃんきゃんと甲高くなったカーヴェの声に少々眉を顰めてから、アルハイゼンは小さく溜息を吐いた。
「少し懐かしく思って君を見ているうちにこんな時間になっていた」
 懐かしい、と言われてカーヴェは突然昔の記憶をほじくり返すことになった。言われてみればたまに、アルハイゼンの横で仮眠をしていた事があったように思う。
「ひょっとしてだけど、昔の君もそんなことをしてたのかい?」
 何とはなしに尋ねてみて、そこそこ現実的な話のように思えてくる。好きな人が隣ですやすやと眠っていて、まじまじと見つめられる好機がすぐそこにあるのだ。
 それをほったらかして本を読むなんて、いやでもアルハイゼンであれば本を取るかもしれない。幼い頃から彼はカーヴェの良く知るアルハイゼンとしての自我を確立していたわけで、知識欲よりも恋愛感情を優先するかは正直なところ怪しかった。
 そんなことを考える余裕をカーヴェに与えるくらいには、アルハイゼンは沈黙を保っていた。その沈黙を肯定と取れということなのか、何か迷っている事があるのかまでは分からない。
「一つ謝罪したい」
「なんだよ藪から棒に。受け入れるかどうかは内容によるからな」
「それはもちろん承知している」
 そんな甘えた思考をしているつもりはないと溜息交じりに答えてから、アルハイゼンはカーヴェの方に手を伸ばした。予想をしなかった動きに身を強張らせているうちに、アルハイゼンの指先がカーヴェのこめかみに触れる。
「当時の俺は君のここに口づけをしていた」
 髪を掻き分けて直接肌を撫でてから、アルハイゼンの指先がカーヴェから遠ざかっていく。アルハイゼンの言葉を理解した瞬間、まだ背も伸びきっていない柔らかな頬をしていた彼の姿を覆い出す。
 そんな彼がカーヴェがぐっすりと寝入ってしまったのを確認してから、今みたいにカーヴェの髪を避けて口づけを落としていたと言うのだろうか。それから空気を揺らさぬように慎重に席に戻って、寝息を立てる少女を時間が許すまでじっと見つめていたのかもしれない。
「君、とんでもなく可愛いことするな……
 かわいい。あの頃から大層弁が立ち、減らず口も少なくなかったあの子が息を潜めてそんなことをやっていたなんて。めちゃくちゃに可愛い。可愛すぎる。
 そんな感想が先立ってしまい、合意なしに自分が口付けされていたなんて些細なことに思えてしまう。実感がないのが大きいのかもしれないが、まあ唇でもないのだし、何よりもう時効と言っても良いような昔の話なのである。
……さっきもしてしまったと言ったら?」
「さっきも⁉」
 ほくほくとしていたところに、続けざまに爆弾を投下されて今度は素っ頓狂な声を上げてしまう。高い音に共鳴して少し揺れただろうステンドグラスを意識しながら、カーヴェは喉をぐっと押さえつける。
「き、君ねえ……
 普段の調子に戻したいのだけれど、全然元に戻らないままの声でカーヴェはアルハイゼンを牽制する。自分達の関係を思えば、彼の行為が許されるかは相当に微妙なラインと言えるだろう。
 ぐずぐずと酒場で留まっていた夜にお互いに形になりかかった好意を晒したものの、はっきりしたがらないカーヴェの思いを尊重することにアルハイゼンは決めたらしい。彼がカーヴェに触れたのも、実のところあの夜以来初めての事だった。
 口論だって変わらずするし、悪態だってお互いにいくらだって吐く。けれど同時にアルハイゼンはカーヴェを十年分の愛情とやらを使って扱うようにもなったし、カーヴェも彼を優先する瞬間が増えてきた。
 カーヴェはきっともうアルハイゼンの事をほとんど好きなようなものなのだろう、とは思う。もしかしたら、かつての破綻なんてものがなければ早々に交際を始めていたかもしれないくらいには。
 多分、アルハイゼンだってそうなのだ。過去の自分の行動をなぞってしまうくらいには、カーヴェへの思いを戸棚から取り出して温め直してくれている。
 けれど、お互いにしっかりとした告白であるとか、交際の申し出なんてものには至らぬまま同居人というある意味安定した立場に収まっている。それなのに一足飛びでこういうことをされてしまうと、どうしていいのか分からなくなってしまうではないか。
「随分と反応が違うな」
「当然だろう。だって、昔の君は本当に可愛かったんだから」
 カーヴェがアルハイゼンに与えていた可愛い後輩というポジションはただの慣用句ではなかったのだ。今となっては平均を悠々と超えた身長と筋肉を持ち合わせた威圧感を周囲に与える男に成長してしまったが、カーヴェと出会った頃の彼は薄っぺらい体をした少年だった。
 顔の作りもまだ丸さが残っており、髪の色合いも相まってちょっと儚さすら感じる雰囲気までしていたのである。まあ、口を開けばそんなものは一瞬で粉々にすり潰されてしまうのだけれど。
「そうか?」
「そうだよ」
 子供の頃の自分を可愛かったと自認している人間などそういないだろうから、アルハイゼンの反応もやむなしではある。とはいえ、少なくともカーヴェにとってあの頃のアルハイゼンは可愛い可愛い後輩だったのだ。そういう少年が息を潜めてそっと思い人に口づけをするのと、この男がカーヴェに勝手に口づけするのでは訳が違うはずである。
 そう思いながら、カーヴェは帰宅してからのアルハイゼンの行動を想像した。おそらく朝に聞いた予定に反して真っ暗な居間に内心で首を傾げて、ひとまず書斎に本を取りに行こうとしたのだろう。そうして目覚ましを無視してぐうすかと眠るカーヴェを見つけて、その横に座り込んでカーヴェに口づけを落としたのだ。
 目を覚ました時には相当体を揺らされていたから、もっとたくさんしたところでカーヴェは目覚めやしなかっただろう。だというのに、この体ばかり成長した男は親愛を示すものと言い訳もできそうなことしかしなかったらしい。
……今もかわいいかも」
「この図体の男を捕まえていうことか?」
「うんまあ……でも可愛いと思うよ。子供みたいなことしてさ」
 そうして、今彼は自身の行為をカーヴェに許されようとしているのだ。カーヴェが今も育てているかもしれない彼への好意が自身の愚行を許すかどうか、きっと彼は確かめようとしている。そうすることでしか、今の彼はカーヴェの気持ちを測れないでいるのかもしれない。そういうところをカーヴェは可愛いと思ってしまったのだ。
「子供みたいな事以外の事をしようとしたら?」
「そしたら可愛いって思えなくなるかも」
 カーヴェの評価が何を根源にしているのか探りたいのか、アルハイゼンが追加の条件を提示してくる。反射的に自身の思いの源を隠してしまってから、これを彼に見せて良いものか迷ってしまった。
「俺は君にとってかわいいアルハイゼンでなければいけないだろうか」
 その迷いを見透かされたのかもしれない。するりとアルハイゼンの手がカーヴェの腕に添えられて、あ、と呆けた声を出してしまった。シャツを隔てた先にある彼の手の温かさにカーヴェは一度口を噤んで、急に渇いたように思えた口内を無理やり唾液で湿気らせる。
……だめじゃない、と思う」
 それから答えを待つアルハイゼンに何とか応じてやるとアルハイゼンは安堵したように目を細めて見せてから、カーヴェの顎に指を添えた。それから何が起きたかなんて、語るまでもないことだろう。