なんとこの後輩はカーヴェを好きだった時期があったらしい。彼曰く、一目惚れではなかったはず。ただ出会って日が浅いうちに、どうやら自らの内にあるそれが恋と名づけるべきものだと気がついたのだとか。
「聞いてない!」
そう、声を大にして抗議したのは、カーヴェがアルハイゼンの家に暮らし始めて最初の週末の晩のことである。伝えていなかったから当然だと平時と変わらぬ平坦な声で彼は告げて、手にしていたカーヴェ用の日用品を居間の机に置いた。
突然住む人の数が倍増したのだから、部屋しか足りていない状況だったのだ。一旦はアルハイゼン持ちで支払って後日返済する段取りにして、その日は二人で一気に家具と日用品を買い揃えに出かけた。家具の類は来週の週末に持ってきてもらえるように依頼して、来週には一通り物が揃うだろうとようやく一息吐けた時だったのである。
何日か二人で暮らしていて男女であれば起きるかもしれないような事が何一つ起きなかったので、正直侮っていたと言っても良いのかもしれない。彼が無差別に――特に関係が破綻した女を性的対象に選ぶような男ではあるまいと、無意識のうちに評価していた部分もあったのだろう。
事実、関係が良好だった頃も含め、今の今までアルハイゼンは性的接触をカーヴェに求めてきたことはない。そういう衝動が酷く少ないか、そもそもない男だとカーヴェが判断していても突飛な思考回路とは言えないはずだ。
だから、居間に辿り着いて市場ではほとんど見ない形のカウチに背を付けて体を伸ばしながら、しみじみと無駄な事なんて実は何にもないのかもしれないな、なんて思ってしまったのだ。
君と喧嘩別れをしていて良かったのかもしれない、と口にした瞬間アルハイゼンが怪訝な表情をしたのが分かった。それだけだと彼の表情が示すように、喧嘩を売る意図があると思われても仕方がない。
「ほらだって、仲良しの男女が同じ家で暮らしたらさすがに間違いの一つでも起きたかもしれないけど、今の僕らならそんなこともないだろう?」
すっきりした背中に少し力を入れて起き上がって、カーヴェはアルハイゼンに自身の思うところを続ける。そもそも喧嘩別れをした男女がどうして一つ屋根の下にいるんだという大前提については、もう気にしない方がいいと自身に言い聞かせる。
「……そうだな。君に片思いをしていた頃の俺なら、さすがにとち狂っていたかもしれない」
たっぷり深呼吸一回分の思考ののちに放たれたアルハイゼンの自供に、カーヴェは目をまん丸にさせられた。そうして通りに響いてしまいそうなくらいの大声で抗議してしまったわけだが、アルハイゼンが何かを気にした様子はひとかけらもない。
「えっと、学生の頃?」
「うん」
尋ねながらもそれ以外のタイミングなど自分達にはあるまいと思うが、アルハイゼンは意外と揚げ足取りの一つもなく応じてくれた。
「学生時代なら、間違いが起きるチャンスくらいいくらでもあっただろ」
思い返すまでもなく、関係が良好だった頃の自分達はべったりの関係だった。学年も学派も違ったので授業が合わないのが大半だと言うのに、放課後には必ず顔を合わせていたのだ。休みの日は猶更、共にいる時間は増えていたように思う。
時折冷やかされた事もあるし、今思い返せばあれだけ一緒にいて何もない男女というのもそういないだろう。実のところ、彼の証言を元に考えればかつての少年はそういう陳腐な関係にもなりたかったようなので、カーヴェにその気がないせいでそうなっていただけという話になる。
「俺が起こさなかっただけだ」
「凄いな君……」
「それはどうも。ともかく、俺は学生時代に君に恋をしていた時があったが、今はそうではないから安心してくれていいよ」
自分のかつての距離感を思い出したりしながら思わず称賛すると、アルハイゼンは気のない相槌を打ってくる。それからすぐにアルハイゼンはカーヴェに過去は過去でしかないのだと突きつけてきた。
はあそうですか、という顔をその時のカーヴェはしていたと思う。なぜなら、事の次第をしっかりと飲み込み切れていなかったので。
その日は一晩たっぷりと眠って、目が覚めた瞬間に怒涛の後悔が押し寄せてきたのは当然と言えば当然の事だったのだろう。あの誘いを受けた時のアルハイゼンはカーヴェをどう思っていたアルハイゼンだったのだろうか、とか、あれは片思いをしている相手にして良い事だったのだろうか、とか。そんなことをすぐにあれこれ考えてしまって、仕事があまり手につかない日々が続いてしまった。
次の週末に届いた家具を運び込んであれこれした後に、くたびれた体をカウチにへなへなと押しつけながらカーヴェはアルハイゼンに謝罪した。片思いをしていた時期がいつであれ、当時の僕は相当な悪女って奴だったんじゃないか。誑かしたと言われてもおかしくないような事を平気でしていたように思う。
そう、しおしおと告げて謝罪したものの、アルハイゼンは少し楽しそうに口元を緩めているだけだった。まあ、自分が原因で調子が狂っているカーヴェを見るのは意趣返しのようで気分がよかったのかもしれない。
その一件で、彼の恋心は本当にただの過去の蓄積の一つでしかないのだと気がついた。カーヴェがアルハイゼンと共にいられないと思ったように、あの時アルハイゼンだってそう思ったに違いない。愛想を尽かしたと言い換えてもいい。
そうなってしまえば、彼が抱いていた恋心なんてものはもはや過去の負の遺産でしかなく、現在のアルハイゼンに顧みられるものでもないのだ。そういう、その程度のものと彼の中で処理されている感情なのだろう。
カーヴェの方だって匙を投げているくせに、彼に綺麗さっぱり見限られたのだと思うと少し寂しさに似たものを感じてしまう。ついでに、カーヴェが恋でもフォローできないような醜態を他者に晒してしまった事実にちょっと嫌になる。
そして、向けられていたはずの感情が燃え尽きるその瞬間を遠い憧憬に置き去りにするまで、気づくこともできなかった不甲斐なさをカーヴェは確かに感じていた。カーヴェがアルハイゼンと同じ気持ちを抱けなかったとしても、カーヴェはそれを摘み取ってやる責任があったはずなのだ。萎れて目も当てられない状態になるまでそのままなんて、そんなのはあんまりだ。
――なんてことを思い出してしまうのは、アルハイゼンが酒場でカーヴェを見捨てて帰らないせいだ。今日なんて、もうラストオーダーも過ぎていて、つまみも酒もとっくに二人の胃の中にしまい込んでしまっている。
早く帰れとばかりに器もジョッキも片づけられてしまって、テーブルに残っているのはコップに半端に残った水と、少々の食べ零しの名残りだけだった。それでもカーヴェは席から立ち上がれないどころか、むしろ机が空いているのを良い事に突っ伏してしまっている。
倒れた視界の中に限っては他の客も見つけられず、耳を澄ましても一階からまだ粘っているらしい輩の声しか聞こえない。もしかしたら、二階の席にいるのは自分達だけなのかもしれない。
そんな中アルハイゼンはただ、カーヴェを待っているようだった。まるで、カーヴェを初めて自宅に連れ帰ったあの日と同じように。
もう好きでもない女を相手にどうしてそんなことをしてくれるのだろうか。このまま持ち帰ってぺろりと食べるつもりもないくせに、ぐずぐずするカーヴェに付き合って彼の貴重な睡眠時間を削ってくれている。その行為が彼が至上とするはずの利己主義にどう繋がるのか、カーヴェにはちっとも分からなかった。
「君はもう、僕の事なんて好きじゃないんだろう」
アルハイゼンと視線を合わせたくなくて、カーヴェは机に頬を付けたままぼそぼそと喋る。零した記憶はないが、最後に頼んだデザートに乗っていた甘いクリームの匂いが鼻先に留まって、少し胃もたれしてしまいそうだった。
「心外だな」
だから先に帰っていいよ。そう、カーヴェは告げるつもりだったのに、それよりも先にアアルハイゼンが密やかな声音で反論を始める。とはいえ、その音に不本意だと言いたげな響きは混ざっていないように思えた。
「恋愛感情とホルモンの興奮期間は連動していて、三年程度しか持たないという話もある。その間に愛情を育んだ者達のみが、関係を継続したり次のステップに進んだりする。俺のそれも例に漏れず終わってしまったが、溜め込んだ君への愛情はそろそろ十年分になるはずだ」
アルハイゼンが話したのはカーヴェも聞いた事がある話でもあった。恋愛の賞味期限としてまあまあ語られる機会のある、嘘か本当かもいまいち分からない類の話である。真偽はともかくとして、アルハイゼンはそのケースに自分を落とし込むことができるとカーヴェに告げたのだ。
「そういう君を置いていけるはずがないだろう」
そう告げながら、アルハイゼンの指先がカーヴェの髪を軽く撫でた。髪を撓ませるだけの接触に、カーヴェは思わず息を呑む。こんなふうに誰かに触れられる事なんてとんとなかったし、それがアルハイゼンによるものなんて俄かには信じられない。
「帰ろう、カーヴェ」
さらりさらりとカーヴェの髪を撫でながら、アルハイゼンはカーヴェに呼びかける。その声には面倒くささを楽しむような響きがあった。まるでその面倒事をカーヴェだから許しているのだと言いたげな。
「十年も一緒にいないだろ」
「そうだな」
ようやく一つ目の新規情報を飲み込んだカーヴェは何とか異論を絞り出す。それなのにアルハイゼンはテーブルと頬の間に挟まっていた髪を引きずり出すのに夢中になっているとばかりに、カーヴェに同意するだけだった。
「もう、二度と私的に話すこともないだろうと思っていた」
そんな日々を自分達は何年過ごしていたのだろう。それでも、アルハイゼンは十年と数えたのだ。ずっとずっと、アルハイゼンは恋情が残した置き土産を後生大事に積み重ねてきた。カーヴェが傍にいない時ですら。
恋愛感情なんてないって言ったのに。
「ずるい」
思わずアルハイゼンの手を振り払ってから、カーヴェは腕で光を遮るように顔を隠す。どくどくと心臓が音を立てて血液を押し出して、早く答えを出せとカーヴェを酷く急き立てている。
「そんなの、だって、君はもう僕の事好きじゃないのに、こんなの、僕の方が」
思い浮かぶ言葉を切れ切れに紡いでいるうちに決定的な言葉を選んでしまいそうになって、カーヴェは慌てて口を噤む。そうしていないと心臓が口からでてしまいそうで、ずきずきと痛む頭から熱が溢れ出して頬や耳たぶを熱くするのが分かった。
「君がそう思ってくれるなら、きっとまた君を好きになれる」
そっとアルハイゼンがカーヴェの腕を掴み、カーヴェが隠した表情を白日の元に晒そうとする。簡単に振り解けてしまうくらいのはずのそれに、カーヴェは最後まで抗うことができなかった。
「本当?」
アルコールと全く別の理由で赤く染まった頬をアルハイゼンの手のひらが撫でるのを見ながらカーヴェが尋ねると、柔らかい相槌が返ってきた。アルハイゼンの手のひらも熱を持っているのが分かって、地平がゆらゆらと揺れる。
「嘘だったら酷いからな」
「うん」
肌に爪を立てるほどの威力もない脅しに、アルハイゼンはやっぱり優しい相槌を落とす。声音をそのまま形にしたような柔らかさでそっとアルハイゼンがカーヴェの耳の形を確かめてきて、カーヴェの肩をふるりと震わせた。
その怖気に似ているけれどどこか異なる感触を散らしながら、カーヴェは初めてあの家に帰って良いのだろうかと思ってしまった。それなのに、アルハイゼンが望むようにしてやりたいとも望んでしまう。
彼を見上げてその眼差しを見れば、その答えが分かるのかもしれない。そう思いながらも、鈍くなった頭はなかなか決断に至れぬままカーヴェはぐずぐずとカーヴェに触れ続ける指先に酔うことしかできなかった。
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