坊ちゃんとボディガード

ニル主
タイトル通りのAU
敬語のプロタゴさん


実の父よりも長くそばにいてくれて、母とは別に愛情を注いでくれた人。
低く穏やかで、厳しさの中に優しさと愛情を併せ持つ声色。その声をずっと聞いていたくて、いつも寝汚いふりをしていることにはとうに気づかれているだろうけれど、それでもニールはそれを朝の日課としていた。
「坊ちゃん、坊ちゃん、起きてください、朝です」
「もぅすこし……
「ご主人様がお出かけになる時間なので、俺はそろそろ行かなくては。起きてください」
……ふふ、きみは僕以外にご主人なんていないでしょ」
……寝ぼけているんですね、さぁ起きて。あぁ、時間だ。俺はもう行きますからね」
……んん??」
「今夜は坊ちゃんの晴れの日だと言うのにあいつは。あぁ、起きましたね。おはようございます、坊ちゃん。では俺はこれで」
「待て待て待て。なんでお前が? 彼は?」
「体調を崩しまして。風邪でしょう。坊ちゃんにうつすわけにいかないので自宅待機です。送迎には別の者を遣わせますので。では」
巨体を翻し、軟弱者め、とかなんとか悪態を吐きながら、ボルコフは振り返ることなく部屋を出ていく。
……彼が軟弱者なら殆どのボディガードが軟弱者だろ」
ニールは起き抜けのボサボサ頭のまま呟いた。いつもなら彼が開け放ってくれる窓はカーテンが引かれたまま。ニールは窓に向かうとカーテンを引いた。あいにくと雲のかかった外の景色は、ニールの心を表しているかのようだった。彼が隣にいてくれたなら、雨が降ろうが雪が降ろうがいつだってそこはニールにとっての楽園なのに。



「来ちゃった」
「帰りなさい」
眼前で扉が閉まる。次いでがちゃりと鍵がかかる音。
ニールは軽く小首を傾げ、手に持ったそれをまず床に置いた。
ポケットから道具を取り出す。差し込んで探る。ものの数十秒で鍵は開いた。
道具をポケットに仕舞い、床に下ろしたそれを抱え上げ、髪をかき上げた。鏡がないのが惜しい。タイを再度締め直し、扉を開ける。
「閉めても無駄だってば」
開け放った扉から室内に続く壁に、男が寄りかかって腕を組んでいる。不法侵入を再び果たしたニールに深々とため息をついた。
「新鮮。スウェットだ」
「病人ですから。ボルコフから聞いたんですね?」
「風邪だって? 軟弱者とか言われてたよ」
「ウィルスに勝てるわけないでしょう。あなたにうつしたとなったら旦那様と奥様にお叱りを受けるのは俺なんですけどね」
振り返り、男は室内へと進んだ。ニールの突然の訪いに、仕方なしと判断したのだろう。ニールは後に続いた。スウェットの裾から覗く素足のアキレス腱にしばし見惚れる。
「気が済んだら帰ってくださいね。まだ本調子ではないので」
「そうなの? なら僕ご飯作るよ。寝てて」
男はふ、と優しげな笑みを浮かべて振り返った。
「とかげ入りの泥スープはちょっと」
……いつの話ししてんの」
こうして殊更に男はボディガードである男とニールの立場の違いを強調してくる。幼い頃に付き合わせたままごとは、清く美しい思い出なのだろう、男の中では。
「それにそんな格好のままキッチンに立たせるわけにいきませんよ。時間は大丈夫? あぁ、もう17時を過ぎているじゃないですか。パートナーの彼女の家は、ここからどれくらい? 運転ならできるくらいには回復していますが、危険ですので運転手を呼び」
男の言葉を遮るように、ニールは抱えていた花束を差し出した。
……綺麗ですね。パートナーの彼女は薔薇好き?」
「薔薇が好きなのはあんただろ。僕があげたんだから」
「さぁどうでしょう。綺麗な花束ですね。差し出す相手への練習台? 大丈夫。坊ちゃんなら身一つで十分魅力的ですから」
「いじわる」
ニールは胸に挿してあった薔薇の花を取り出す。生花は茎部分からリボンが伸びていた。ニールが薔薇の花束から抜き取り、自ら結んだものだ。薔薇の花束に結ばれていたリボンを一本抜き取っただけの急あつらえのコサージュ。花束を無理やり男の腕に押し付ける。男が眉を跳ね上げて花束を見下ろした。男の花束を抱えるのと反対の腕を取り、ニールはコサージュを男の手首に結んだ。
ニールが着る光沢を放つスーツは男が選んだものだ。オーダーメイドのスーツを着た息子の姿を見て、ニールの母は泣いた。美しく賢く育った息子はもうすぐハイスクールを卒業し、カレッジへと進む。立派に成長した我が子の晴れ舞台。プロムに参加する息子の衣装は、息子をよくよくに知るボディガードが選び抜いたものだった。その息子がプロムのスーツを羽織り、当日に訪ねたのは、麗しきどこぞの令嬢宅ではなく、風邪をひいて待機を命じられたボディガードの自宅だった。親の心子知らずを見事体現しているニールに男は頭を抱えた。
眼前に立つ少年から既に青年の域に達する愛し子は、万人が目を奪われるほどに麗しいかんばせをしている。
オーダーメイドのスーツに関しては、事細かに注文をつけた。体のサイズで知らぬところなどないし、好みよりも映えるカラーは両親よりも詳しいと自負している。
出来上がったスーツを誇らしげに見せても、ニールの笑顔を見ることはついぞなかった。
プロムはハイスクールのビッグイベントだ。間違いなくニールはプロムキングに選ばれるだろう。華やかな彼の隣にふさわしい、可憐な少女の翻るドレスを想像して、男は感慨深く思ったものだ。
彼が幼かったあの日あの時、差し出された薔薇の花束、心優しい愛し子が抜いた棘が、その指に傷をつけたこと。
心底薔薇が憎らしい。心底薔薇が愛おしい。
複雑な心持ちで男は抱えた薔薇の花束と腕に巻かれたコサージュを見下ろした。
──薔薇が好きなのはあんただろ。
その通りだ。幾度か男の家に許可なく訪問しているニールは男の部屋にも足を踏み入れている。ベッドの下の、隠された小さな箱。鍵のかかったそれを開けることはニールには容易い。誘拐された時、監禁でもされたなら、自ら脱出できるようにと男が幼い頃からニールに施した護身の鍵開け。使う方向性をやや斜め上に見出したらしいニールに開かれたパンドラの箱には、くすんだ薔薇の花束が今も静かに収められている。見つけたニールの顔は喜色満面かと思いきや、振り返ったその顔を決して見せないままに男を抱きしめて来た。汲んだ男はニールをいざない、灯りを落とし、手を繋いで眠った。
あれはいつのことだったか。
ニールが手を差し出してくる。ダンスに誘う仕草。男は眉を顰めた。あいにくと薔薇の花束で手は塞がっている。察したニールが男の手から薔薇の花束を取り上げ、後方へ放り投げた。室内に散っていく花弁。
視線で花弁の行方を追う隙に腰を掬われ、腕を取られ、強制的にターンを踏む。笑いながらニールが尚も近づいて来て、胸に顔を伏せてくる。
「あぁ、もう。シャワーを浴びていないんです。汗くさいでしょう。それに、うつります」
「あはは、あんたのにおいだ」
「坊ちゃん」
「ねぇ、僕これで卒業したらカレッジだ。一人前の男に見えるかな」
「さぁどうでしょう」
「ニールって呼んで」
……ニール」
……僕を愛してる?」
……とても深く」
──プロムでは一番大好きな人と踊るんだ。
スーツを着せかける時に、一度だけ笑顔を見せたニール。愛おしい人と踊ることを夢見心地に話すその表情に、ちくり、と胸に棘が刺さった。男はそれに気付かないふりをした。
音楽などない。
華やかなパーティ会場ではない。
薔薇の花弁が散る床。
プロムはとうに始まっているだろう。
方やオーダーメイドのスーツ、方やスウェットの上下だ。
男がニールの胸を押しとどめ、離れようとするも、ニールは決して手を離さなかった。
静かに向かいあい、静かに踊り出す。感じるのは互いの体温と、静かな吐息だけ。
そうして今夜も明かりを落とし、手を繋いで眠るのだ。
この時が永遠に続きますように、と互いに願って。