片膝をついて跪くこの光景は、見たことがある、と幼心に思った。なんかちがう。とも。そうか、今思えば、逆だ。跪いて差し出したかったのだ。彼に向けて。
『どうしました? 坊ちゃん』
小首を傾げて優しげに目を細めるその顔。
後ろ手を組んで兵士のように直立不動でいる彼の裾を、下方から見上げて引いたばかり。すぐに振り返って微笑んでくれたその人は、冒頭の通り目線を合わせてくれた。真っ直ぐに見つめてくるダークブラウンの一等美しい輝きに見惚れ、それを手にしたいと願い、自分だけを見て欲しいと我儘に乞う。
後ろ手に隠したそれを、差し出した。
庭師に頼んで自らの手で摘んだ赤い薔薇の花束。不器用なリボンが風に翻る。
『俺に……ですか?』
必死に頷く。同級生から聞いた、彼女の両親のプロポーズ。
──真っ赤な薔薇の花束を差し出して、ダッドはマムに結婚を申し込んだの。薔薇の花言葉はね、
『I Love You.』
驚いたように見開かれる目。すぐに赤くなってしまう頬を隠したくても、両手は薔薇で塞がっている。
やがてふんわりと笑んだその人の顔は、幸せそうに見えた。手から小さな薔薇の花束が抜き取られる。見咎めたように右手を離してはもらえなかった。
『……俺のために自ら? かわいそうに。痛かったでしょう?』
笑んだ顔が曇って眉根を寄せた顔へ。薔薇の棘を刺し、わずかに血が滲んだ右手の人差し指に、ちゅぅ、と音を立てて吸いつかれる。
『ありがとう、坊ちゃん。もちろん、俺も、あなたの──』
──pipipi
枕元のアラームに手を伸ばし、煩わしい囀りを止める。起き上がると、ニールはするりと落ちたシーツの先に目を転じる。キングサイズのベッドは広く、シーツの波が広がるだけだ。気怠さを押しやって腰の甘い疼きに思考を馳せる。舌打ちし、小さくFワードを放てば図ったようにドアがノックされた。許可も何も返答する前にドアが開く。
「坊ちゃん、あと10分ですよ。アラームは既にスヌーズが5回」
「……わかってるよ」
ニールは室内に踏み込んできた完璧な仕度のボディガードを恨めしげに見つめる。カーテンを開け放ち、クローゼットからニールの制服を取り出すその後ろ姿を眺める。
「……朝起きて1人は嫌だって言ってるのに」
「今日も朝食を食べてる時間はありません。栄養ドリンクのスムージーを作らせているのでそれを飲んで。あと7分」
喋りながらテキパキとニールに服を着付けていく。数十年慣れ親しんだ朝の日課だ。ボディガードである男は無駄を嫌い、今日も寸分違わずいつもの手順でニールのタイを締める。着せかける背や首、あちこちに性の色濃い爪痕の残るニールの体を見ても眉一つ動かさない。
「あの野菜汁すきじゃない」
「わがまま言わないで。行きますよ、鞄は? あぁもう髪に触らないで、ほら早く」
追い立てられるように、ニールは男に背を押され、慌ただしく部屋を出た。
小型馬車の由来を持つアメリカのSUVの黒光りする後部座席にニールは乗り込んだ。すぐ後ろから男が乗り込み、車内に入ったことを確認すると、車外のボディガードに頷く。ドアが静かに閉められ、やがてSUVは静かに発進する。
音を立ててスムージーを啜るニールに眉根を寄せると、男は〝音〟とニールを注意した。
運転席との間に隔てられた防弾ガラスはマジックミラーでこちら側は見えないし、会話も聞こえない。いつも通り運転手は粛々とハイスクールへの道のりを進む。
ごっ、と音を立てて、最後の一雫を吸い込み、ニールはストローを噛んだ。舐めて嬲る仕草のまま向かい合いの席に座った男は腕と足を組んだまま、ただニールを見つめている。飽きたニールはカップホルダーに空のプラカップを突っ込んだ。
ニールの父は自ら事業を起こした人で母は絵画の鑑定人だ。母は貴族に連なるが、成り上がりの父は敵が多い。多少後ろ暗い手段を使ってのし上がった父による差し響きは、幼い頃のニールにも及んでいた。その頃からだ。ニールに常に付き従うボディガードが配されたのは。元傭兵で格闘術に優れ、狙撃の腕も一流の男。幼少期から今に至るまで、常にニールのそばで、身の回りの世話をしつつニールを守ってきた。
目の前の男は室内通話機の声に応答する。運転手からの、工事中によりいつもの道を迂回する、という言葉に、気をつけろ、と返答する様を見て、今朝の夢を思い出す。車が迂回する流れに身を任せ、ニールは唐突に問うた。
「ねぇ、僕があんたに薔薇の花束あげたの覚えてる?」
「あぁ」
「やり取り覚えてる?」
「あぁ」
「…………僕の性癖歪めたのって絶対あんただ」
頬を膨らませてニールは勢いよく背もたれに沈んだ。男は片頬で笑った。
キィィィィ──
ブレーキ音ともに旋回する車、猛スピードで走り出す。
『待ち伏せです。罠だ。後方、1台』
車内の通話機から運転手の声が一方的に流れる。
「振り切れ」
『Yes,sir』
「工事中の迂回などと手の込んだことを」
男が懐に手を差し込みながら舌打ちする。
「また? いい加減飽きないのかな」
のんびりとニールが嘯く。幼い頃から幾度も繰り返されてきたこと。父には敵が多い。翻ってそれは男がニールを守ると同義だった。
誘拐、身代金、人質、見せしめ──そのいずれかの贄は息子であるニールだ。何度も何度も何度もあったこと。その度に男がニールを守ってきた。
ニールが後ろを振り返って後車を覗き込もうとすれば、席を立った男が覆い被さってきた。
「坊ちゃ、ニール、このバカ!」
「あ! ひどい!」
『撃ってきます!』
ドン!
三者三様の叫びとともに、リアウィンドウにヒビが入る。後方につく車から、発射された弾が防弾ガラスをわずかに傷つけた。このまま同じ箇所に打ち込まれたなら窓が完全に破壊される。
ニールの上に覆い被さった男は、胸筋でニールの顔を押しつぶしたまま、懐から取り出した銃のスライドを引く。
「ンン、ぷ、は、ちょ、最高だけどくるし」
豊かな胸の間から捩って顔を出したニールに構わず、男は眼光鋭く窓の枠に手をかける。が。
「っ、ア、ん」
ぎゅむ、と上向いた尻を鷲掴みされ、長い右手人差し指が男の後孔をスーツの上からなぞった。いつぞや薔薇の棘に傷ついたその指が的確に男の性感を弄ってくる。
「にぃ、おま、ばか、なにして……!」
「明け方までしてたからまだ拓いてるんだねここ」
「ニール!!」
「約束してよ、勝手にベッドから抜け出して毎回毎回無かったように振る舞わないで」
「今そんな場合か!!」
「言質取るまで離さな──いってぇ!!」
強烈な肘打ちを脳天に食らったニールは拘束しようとした両腕を思わず離してしまう。
つむじに熱い吐息、ちゅ、と響くリップ音。
「わかった、いい子だからじっとしておいで。それと、後で説教だ」
肘打ちに悶絶するニールの脳天にキスを施した男は、猫のようにするりと窓から身を乗り出す。走る車から片腕のまま、引き金を引く。
滑るような音とブレーキ音、次いで、がしゃん、と何かが激突する音。
いつも、いつも、いつだってニールのために繰り返される命のやり取りだ。
囲い込んでも男は拘束を解いて、ニールのために銃弾の前に身を晒す。幾ら抱き潰しても、幾ら願っても、幾ら乞うても、男はニールを守る。愛する人が自分を守って死ぬようなことがあれば。失う恐怖に怯えながら、それでもニールは男の庇護の腕の中にいられたなら、と願う。
──ありがとう、坊ちゃん。もちろん、俺も、あなたのために、引き金を引こう。
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