しちろ
2024-02-14 16:15:27
25351文字
Public LOM・宝石泥棒編
 

宝石泥棒編 8

『月読の塔の誘惑者』25000字。

月読の塔の誘惑者

 
 ケヒケヒ、ケヒケヒ。
 腹立たしいほど軽薄で滑稽で……それでいて真っ昏な深淵を思わせるような、根源的な不安を呼び起こす声だった。
 ケヒケヒ。ケヒケヒ。
 否、声……ではない。嗤っている。嗤っていやがる。チクショウ、なにがそんなにおかしい。いきなり現れてきて、よってたかってオレを笑いやがって。
「それ見ろ。罪人だ、罪人だ」
「罪『人』じゃない、珠魅だ。珠魅は奈落の底へ送らなければ」
 ケヒケヒ。ケヒケヒ。

 ――なんだコイツら……なんのことだ。

 真白く輝く太陽が、死の大地を痛烈に灼く。地を蹴る足元が熱い。皮膚が焼けただれそうになる。それでも瑠璃は息を切らせ、喘ぎながら、足を動かし続ける。
 前に、ただ前に。意味など分からない。ただ逃げるため。正体不明の、不気味な影から逃れるために。
 終わりなど見えない、果てしなく広大な砂漠地帯。
 ただでさえ苛烈な土地にあって烈日は南中にあり、砂漠は最も過酷な時刻を迎えている。
 影は執拗に追ってくる。哀れなネズミを捕らえようと、黒い手を次々伸ばす。それでいて、逃げる瑠璃を面白がるように追跡を緩めたりもする。いや、奴らは実際に面白がっているのだ。そうでなければ疲れ果てた瑠璃などとっくに捕まって、奴らの言う奈落の底とやらに引きずり込まれているはずなのだ。
「クソ! 離れろ!」
 もう何十度目か。
 慣れない剣で影を闇雲に斬りつけるが、分離したそれはすぐに元通りつながった。なまくらを握る手にはもう力が入らない。小馬鹿にしきった嘲笑があちこから聞こえてくる。チクショウめ、忌々しい。


 瑠璃は孤独だった。
 この世に生まれ落ちて以来、心を許せる者は一人もいなかった。人里に下りれば奇異な目で見られ、時に意味も分からず襲われた。そのたび瑠璃は恐怖と怒りを募らせた。何よりも、自分に寄り添う者がいないことが苦しかった。
 なぜ。なぜ、この世界で、自分だけが違う。深い孤独と誰も答えてはくれない疑問が、常に瑠璃を苛んだ。自分以外の者たちは集落を作り、温かな住処を持ち、仲間や家族とともに生活しているではないか。それなのに、どうして自分だけがそうではないのか。
 ぶつけどころのない怒りと焦燥と、嫉妬と。入り乱れる激情を、果たして何と呼べばよかったのだろう。
 消せない負の感情を胸にさすらううち、やがて、瑠璃は自分がそこいらにいる人間とは違う、『珠魅』という生き物らしいと知ることになった。
 その日、瑠璃を襲撃したのは盗賊と思われる人間の一団だった。
 兵隊崩れかそれとも、古戦場で死体でも漁ったか。そろいもそろって草臥れた甲冑を着込み、赤い房飾りのついた兜をかぶっている。

『こりゃ運がイイ、まさか珠魅の生き残りとは』
『しかも、見ろよ。一人きりでいて武装もしていない。きっと、姫だ』
『核だ、核を奪え。上物だぜ、あれさえありゃあ、一生遊んで暮らしたって釣りが来る』

 人間たちは薄汚れた兜の下で黄ばんだ歯をむき出しにし、下卑た笑みを浮かべた。
 『珠魅』と呼ばれた瑠璃は、その時、ようやく理解した。
 核……この胸の石のことか。自分にはあって当然のこの石は、こいつら『人間』には、ないのか。
……そうか」
 そうか。自分は、この自分とよく似た生き物とは違ったのだ。欲望まみれで醜悪な、『人間』という生き物とは。
 『珠魅』がなんなのか、瑠璃にはよくはわからない。ただ、本能が叫んでいた。この『核』と呼ばれたモノを奪われれば、自分は到底生きてはいられまい。
 聞き苦しい雄叫びを上げ、襲い掛かってくる人間ども。その姿はもはや人などではない、飢えたケダモノ……いや、獣のほうがよほどましだ。彼らは喰えもしない核など狙いはしない。
「ふざ、けるな……!」
 瑠璃は死に物狂いで一人の武器を奪い取り、手当たり次第、めちゃくちゃに斬りつけた。
 人間たちは大いに狼狽した。
「コイツ、都落ちした姫じゃない、騎士だ! 距離をとれ、食いつかれるぞ!」
 剣の作法も構えも、瑠璃は何も知らない。無我夢中で剣を振り、あるいは力任せに叩きつけた。瑠璃が剣を振るうたび断末魔の悲鳴が、真紅の血煙がいくつも上がった。気がつけば自分以外に動く者はいなくなっており、周りには人間の死体がいくつも転がっていた。
「チクショウ……
 汚れた剣先から、ぽたぽたと鮮血が滴っている。固く握りしめた剣が、剣を握る腕がカタカタと震えていた。衣類も肌も、返り血で真っ赤に染まっている。
 瑠璃はガチガチにこわばったラピスの手を逆の手で柄から引きはがすと、頬に飛んだ血を、やはり血で濡れた拳で拭った。身体がひどく重たく感じるのは、疲労のせいだけではおそらく、ない。
 チクショウ……
 もう一度胸の内で呟き、物言わぬ死体については、それ以上考えるのは止めた。
 人間どもは自分を珠魅の生き残りだと言った。ならば、どこかにまだ仲間がいるはずだ。
「騎士と、姫……か」
 初めて聞くが、どうやら、自分は珠魅の騎士というモノなのだろうか。
 その辺に転がる死体の服で刀身の血糊を拭うと、剣に合う鞘を探した。間もなく見つけ、それに刃を納める。ろくに手入れなど為されていない、曇った剣だが、こんな物でもないよりはましだろう。
 以来、瑠璃はより用心して人間を避けるようになった。それだけではない。自分と違う姿の生き物とはできる限り距離を置き、世界の全てから逃げるように生き延びた。
 やがて流れ着いたこの砂漠にも、瑠璃の味方はいなかった。
 そのかわり、天敵も存在しなかった。
 苛烈な灼熱の大地は、夜になれば息も凍る氷点下となる。外界からのあらゆる侵入者を拒む、適応した者のみが生き残れる死の大地。とてもではないが、やわな人間の生きていける環境ではない。
 だが、今の追っ手は人とは違った。
 岩の影から、砂の海から。地の奥底に秘された地下水のように、じわじわと湧き出ては迫りくる無数の影。黒い手を伸ばし、隙あらば瑠璃を捕らえ、地の底へ引きずり込もうとする。

 ――アイツらは何なんだ。

 何者だ。なぜ自分を追う。いくら質しても、明確な答えは返ってこない。
 影は執拗だった。
 お前たち珠魅は罪を重ねすぎた。あらゆる生命が負うべき命の誓い、命ある者の掟に背いた。マナの、世界の理に逆らう生き物はすべからく奈落に落ちるべきなのだと彼らは言う。
 まったく意味が分からなかった。
 奈落とはたしか、死後の世界だったか。それと自分と、何の因果があるというのか。得体の知れない、漆黒に覆われた影のなかで、無数の白い眼だけが空虚に浮かび上がっていた。
 どれほど時間が経ったのか。心身ともに限界だった。
「つっ……!」
 砂地に足を取られた。しまったと思う間もなくマントをひっつかまれ、ぐいっと後ろに引かれる。
「クソ、離せ……!」
 温度のない冷たい手が、藻掻く瑠璃の足に、腕にするすると絡みついてきた。
 つかまれたまま強引に剣を振りあげるが、やはり影は斬ることができない。霧か霞のように手ごたえがなく、霧散してはすぐ元に戻ってしまう。
 愚かだ。世の理に背を向けた、愚かな珠魅め。
 続々と集う影たちは瑠璃を取り囲み、足掻く獲物を嘲けり、嗤った。
「さてさて、往生際の悪い珠魅一名様。奈落の底に、ご案内……
 四肢を捕らわれ、もはや逃げようもない。
 ふざけきった文言とともに、地の底へ引きずり込まれそうになった、その時だった。
 一条の光が、砂漠の空を割った。
 青白い光は流星のように降り落ちて、たちまち瑠璃を捉える影を烈風とともに切り裂いた。
「うわっ!」
 捕まれていた力から、急に解放される。大きく体勢を崩した。堪えようにも足元が砂では踏ん張りがきかない。自分でマントのすそを踏んでしまい、瑠璃は思いきり尻もちをついてしまう。しまったと思ったが、影はもう襲ってはこなかった。瑠璃を捕らえていた者どもは謎の光に引き裂かれ、嘘のように消え失せていた。
 そして、瑠璃の目の前には。
……剣?」
 瑠璃が光だと思ったものは、一振りの長剣だった。抜かれてはいない。金の細工を施された青い鞘に収まったまま、神々しくも地に燦然と突き立っている。
「忌々しい、あの剣だ」
「運命の剣だ。運命の」
「まさか、そんなことが」
 剣の一撃を逃れた影が、瑠璃を――正確には剣を遠巻きにして、騒ぎ立てた。瑠璃を追いまわしていたときとは、まるで様子が違う。影たちが心の底から怖れ慄いているのが、瑠璃にも分かった。なんなのだ、この剣は。

「去れ、奈落の亡者ども」

 それ耳にした瞬間……瑠璃の核がひどく熱を帯びた。声だ、それも女の。
 初めて聞くその声は、運命と呼ばれた剣よりも鋭い――灼熱の砂漠にありながら、凍てつく刃のような美しさを備えていた。 
「お前たちが追うこの者は、何も知らぬ若い珠魅。お前たちの言う大罪とは無縁であろう」
 眩しい眼を細め、よくよく目を凝らす。逆光を背にした、黒々としたシルエット。それが淀みない動きで近づいてくる。
「即刻解放し去ぬが良い、さもなくば」
 違う、シルエットではない。その女は黒かった。礼服のような戦装束も髪飾りも、そして何より、その胸に抱くものが。
 影たちがどよめく中、漆黒を纏う女は虚空へと手を翳す。いかなる力によるものか、たちまち瑠璃の目前から剣は消え、女の手中に収まっていた。
「私がその男に代わり、お前たちの相手になろう」
 運命の剣が迷うことなく影たちへと向けられる。立ちはだかる者に一切の容赦はしない。女の琥珀色の双眸が、影たちを突き刺すように冷たく煌めいた。
 この女には勝てぬと悟ったか。すべての影たちは跡形もなく、消え去った。
 危機が去ったことを見極めて、女は静かに剣をひく。
……核は無事か」
 地べたに尻をついた情けない格好のまま、瑠璃は首を縦に振った。喋ろうにも、疲労と酷暑で乾ききった喉は張りついていて、声が出ない。
「このような砂漠に、珠魅がいるとはな……なるほど、ラピスか」
 女が瑠璃の核を一瞥した。
 その眼差し、声音、身にまとう雰囲気。
 瑠璃は思わず圧倒される。女は息をのむような美しさと、何者をも寄せ付けないような、張りつめた空気を併せ持っていた。秀麗な美貌に反して、戦いを得意としているのだろう。先ほどの長剣とは別に、海の意匠が施された巨大な槌を携えていた。
 ふらつきながらも瑠璃が立ちあがると、女は怪我がなくて何よりだと言った。
「君は、よもやここの住人ではあるまい、旅の最中か? 好き好んでこの地のいるとは思えぬが……。人間のいる場所は住みにくかろうが、できることならせめて砂漠とは違う土地を選びたまえ。いかな珠魅でも、ここはあまりに過酷すぎる」
 そう言う彼女自身は、なぜここにいるのか。女は瑠璃に忠告だけ残し、踵を返しかける。
 ああ、行ってしまう。
「ま」
 言いかけた瑠璃は喉元を押さえ、軽く咳き込んだ。「待ってくれ! 貴女は、もしかして」
 かすれた声で必死に叫んだ。
 彼女の、胸元の黒い石。それは……自分と同じものなのではないか。人間にはもちえない、自分と同族の。
 女は立ち止まり、振り返ると、砂まみれの瑠璃を見やった。ろくに戦う力を持たない、ちゃちな剣を腰に佩いただけ。自分が何者かもわからぬ、無力な若者を。
 張りつめていた女の雰囲気が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
「レディパールだ、若きラピスの珠魅よ。核は黒真珠、役目は騎士。宿命は……君に話しても詮無いか」
 瑠璃の瞳にみるみる光が灯った。騎士……珠魅の騎士は、やはりいたのだ。
 隠しきれない高揚感を胸に、瑠璃が名乗ると、レディパールは「瑠璃か」と繰り返した。
 ただ、それだけのこと。
 ただ、彼女の唇が自分の名の形に動いた。
 声が、名を呼んでくれた。
 それだけで、瑠璃の胸はひどく高鳴った。仲間に名を呼ばれたのは、生まれて初めてだったから。
「レディパール、教えてくれ。騎士の役目とは? 騎士と姫とは何だ? そもそも珠魅とは何だ?」
 顔を紅潮させる瑠璃を見て、レディパールはわずかに驚いたようだった。
「君はもしや、自分以外の珠魅を見るのは、初めてか」
 瑠璃が肯定すると、レディパールはそうか……と、どことなく物思わしげに呟いた。
「我々珠魅は、宝石を核――心臓とし、生まれた種族。一人一人が、騎士もしくは姫としての役割を持っている。騎士は姫を守り、姫は騎士を癒す。同族の中から己の運命となるただ一人を選び、互いを宿命として生きてきた。珠魅とは、そういう種族だ」
 騎士と姫。核。珠魅という種族。
 レディパールの紡ぐ言の葉を、瑠璃はひとつひとつかみしめる。人間の口から絶望とともに聞いた単語が、今は砂漠の太陽よりもまばゆかった。
「レディパール。騎士と姫とは、珠魅ならば誰でもなれるのか? 宿命は、珠魅ならば誰にでもいるものなのか? もしそうなのだとすれば、オレにも宿命と呼べる存在がどこかにいるのか?」
「さてな。瑠璃よ、君は若い。騎士としての生き方か姫のそれを選択するのは君自身だ。宿命に関して言うならば、残念なことに珠魅はひどく数を減らした……ゆえに容易には見つからぬかもしれないが、いずれにしても、それも君次第だろう」
 矢継ぎ早の問いに対する答えは、十分とは言えなかったかもしれない。それでもレディパールのくれた回答は、瑠璃に大いなる光をもたらすものだった。
 自分には珠魅としての未来がある。自分は、自分で生き方を選ぶことができるのだ。それは、この世のあらゆるものを恐れ、逃げてきたばかりの瑠璃に、見知らぬ新たな世界が拓けた瞬間だった。
「レディパール」気持ちの高ぶりを抑えられぬままに、瑠璃は口にしていた。「あなたに、オレの宿命になってもらうことはできないのか」
 その瞬間、切れ長のレディパールの目が、わずかに丸くなったように見えた。
 それから瑠璃に会って初めて、かすかに笑ってみせた。 
「なにを言うかと思えば、ずいぶんと豪胆だな。若きラピスラズリの珠魅よ、私にそれを求めるのか?」
 瑠璃は顔を赤らめた。自分は豪胆なのではない、なりふり構っていられなかっただけだ。
 わかっているのかいないのか、レディパールは静かに微笑み、そしてゆっくりと首を横に振った。
「それはできぬ相談だ。私にはすでに宿命がいる。そして、私はその宿命のため、務めを果たすために旅をしている。私が君にしてやれることは、あまりないだろう」
 これに落胆するのは、瑠璃の勝手というものだろう。瑠璃には運命の出会いとすら思えたが、目的のある旅をするレディパールからすれば、瑠璃とはたまたま出会っただけ。たまたま助けただけなのだ。
「だが、若き珠魅よ」
 レディパールが琥珀の瞳を煌めかせる。その輝きは研ぎ澄まされた刃のように鮮烈で、美しかった。
「これも何かの導きだろう。私にできることで良ければ、願いを言いたまえ」
 レディパールの言葉は、瑠璃には天の導きに等しかった。願いならば、ずっと思い描き続けたものがひとつある。今、生まれて初めて、手が届きそうになっている願いが、ただ一つ。
「仲間が欲しい。珠魅の仲間は、どこにいる?」
「同族の居場所は私も知らぬ。すまないな。今の私には、それはどうにもならぬ」
「ならば、せめて……
 瑠璃は彼女に望んだ。
 彼女のような、いかなる敵を相手にしても戦える力。自らを守る力。
 すぐに仲間を得られぬなら、仲間を得られるその日まで、いつか仲間と出会える時まで、生き延びられるだけの力が欲しかった。
 瑠璃の訴えを聞き届けたレディパールは、
「よかろう、この剣を君に」言って、手にしていた剣をためらいもせずに差し出した。「運命の剣という」
「運命の……
 出された剣を、瑠璃は信じられない思いで見つめる。運命の剣。まさしく先ほど尋常ならざる力をを見せつけ、瑠璃を救った剣に相違ない。
「いいのか、この剣をオレなどに」
 ただの武器ではあるまい。
「構わぬ、旅の途中で手に入れたものだ。なんでも斬れるが一度しか使えぬ。君が心から断ちたいと思うものに出会ったとき、使うがいい」
 奇跡を語るレディパールの言葉を、瑠璃は信じるしかない。鞘に納めた状態で、あのすさまじさだ。抜いたら如何ほどのものなのか。

 ――この剣を、オレが。

 未知なる力への興奮と畏怖の感情、相半ばに、瑠璃が剣へと手を触れた瞬間。
「うっ……!?」
 砂漠の太陽よもりはるかにまばゆい、目を灼く閃光がほとばしった。
 それだけではない。
 光は、暴力的なまでの烈風と質量を伴っていた。渦巻く奔流は無防備な瑠璃を襲い、翻弄する。髪が、マントが、容赦なくなぶられた。危うく吹き飛ばされそうになった瑠璃は、とっさに、両腕をあげて全身をかばった。
……なん、だったんだ……
 間もなく光の洪水は収まり、顔をしかめながら、薄目を開ける。だが。
「誰も、いない……?」
 そこには、誰もいなかった。影も、剣も、たった今まで瑠璃に語り掛けてくれた、黒い真珠の騎士も。
 地表をなでる風を一筋だけ残し、あとは果てのない砂の海が広がるばかりだ。
 彼女は、自分にわずかでも微笑みかけてくれた、黒真珠の珠魅は。
「レディパール……?」
 そろそろと、覚えたばかりの名を呼ぶ。しかしそれもまた、砂漠の風に流れて空しく消えていった。
「そんな……。オレは……また一人に……
 瑠璃はよろめいた。
 砂漠はしばしば、迷える者たちに現実にはない景色を見せるという。
 すると、あの黒い真珠も幻だったのか。自分が望むあまり、砂漠がひととき見せた、甘く儚い幻覚。
 絶望する瑠璃の前で……ゆらり。
 乾ききった地表からゆらゆらと、陽炎が立ち昇った。
「なんだ……
 はじめは無色だった陽炎は、やがて仄かに色づき、小さなひとひら、またひとひらへと形を変える。雪のようなそれは薄紅色の花弁のようにも見え、無数の花弁が瑠璃の前に集まると今度は、ゆっくりと小柄な人の姿を形作っていった。
「しん、じゅ……?」
 瑠璃が茫然と名を紡ぐ。
 砂漠に生まれた、薄桃色の花弁の泉のなか。
 運命の剣を両手で差し出した姿の、真珠姫が静かに目を閉じて立っていた。
「瑠璃くん」
 可憐な形の唇が、愛おしげに瑠璃を呼ぶ。黒真珠とはまったく異なる、甘くて今にもとけそうな、淡雪のような声。
 瞳を閉じてはいるものの、無垢で柔らかな微笑みも、頬が少し赤らんでいるのも、瑠璃がよく知るいつもの真珠姫だった。
「よかった、真珠……
……瑠璃くん?」
 全身が溶けそうな安堵感が瑠璃を包みこみ、気づけば瑠璃は、真珠姫を運命の剣ごと抱きすくめていた。
 そうだ、夢だ。これは、夢。
 自分は真珠姫の騎士で、真珠姫は自分の姫だ。
 かつて放浪していた砂漠で、黒真珠の騎士から運命の剣を授かった瑠璃は、その後真珠姫と出会った。瑠璃の腕の中で、過去の記憶の一切を失っていた彼女。自らの宿命を得た瑠璃は、真珠姫の騎士として生きる道を選んだ。剣は、なまくらから黒曜石に変えた。薄く黒い刀身は闇に紛れ、夜襲をかけてくる珠魅狩りどもを討つに都合が良い。危険から逃げるだけだった青年は腕を磨き続け、多くの魔物を倒し、核を狙う珠魅狩りたちを退けるだけの力量を手に入れた。
「心配しなくていい。オマエのことは、オレが守る。だからもう、オレのそばから離れるな」
「うん……瑠璃くん」
 甘えるようにうなずいて、真珠姫は小さな頭を瑠璃の胸に押し当てる。
 彼女の柔らかな頬は……氷のように冷たかった。
 ぞっとした瑠璃の胸元で、ふふ、と場違いな笑い声がした。
……ホントウに?」
 蒼白の瑠璃が真珠姫を見下ろすと、硝子玉のような空虚な目が瑠璃をじいっと見上げていた。
 桜色の微笑みは、青白く虚ろなそれに。柔らかな春風のような声は、なんら温度を感じさせない空虚なものに。華奢な首が、壊れた人形のようにころりと傾く。
「ごめんなさい、瑠璃くん……。もう、あなたのために涙はながせないの……
 ごとり。
 無機質な音を立て、真珠姫の首が落ちた。
 砂の上に転がった首の、瞳はぽっかりと穴が開き、虚ろな眼窩がどこまでも深い闇を映しこんでいる。
 残された真珠姫の身体は、瑠璃の腕の中で砂となり、もろもろと崩れ去った。
 瑠璃は絶叫した。

……!」

 自分の悲鳴で目が覚めた。
「ここ、は……
 肩で荒い息をしながら、目だけを動かす。
 砂漠ではなかった。ひどく、暗い。薄暗い視界に、やたら平和ボケした雰囲気の、木造りの天井が見えている。なんだ、この場違いな空間は。
 そう思った瑠璃だが、すぐに勘違いに気がついた。違う。場違いは、自分のほうだ。
 ここは、家のなか。それもどうやら真夜中か。
 瑠璃は何度も大きく息を吐き出しながら、自分がメキブの洞窟で負傷したこと、そしてカイの家に運ばれたことを思い出した。
……夢、か」
 右腕を持ち上げて、額をぐっしょり濡らす汗を拭い捨てる。石でできた腕は、自分のものではないように重たかった。なんという、ひどい夢だ。
「そうだ、真珠……!」
 勢いよく起き上がった瑠璃は、呻いて仰向けに倒れこんだ。身体は柔らかな布団と枕が受け止めてくれたが、振動で鋭い痛みが走った。
「チクショウ……
 体の自由がまったく利かない。
 核が尋常でなく痛んだ。一挙動……どころか一呼吸ごとに激痛が走る。こんなザマでは、真珠姫を探すどころか、身の回りのことさえ何一つできはしないだろう。核に傷を負うとはこういうことか。
 この状況でひとつ安堵できる点があるすれば、自分のあげた悲鳴が夢のなかだけであったらしいことだ。下手に声を出したり動けばおそらく、階下にいるだろうカイにすぐばれる。彼女は人間とは思えないほど人が良すぎるし、およそ人を疑うということを知らないが、あれで勘は悪くない。
 喉がひどい渇きを訴えていた。この現実だけは夢の砂漠と地続きのようだ、腹が立つ。
 瑠璃はサイドテーブルに置かれてあった水差しをつかんだ。
 伏せたグラスが添えてあったが、中身を移し替えることなく口をつける。一息に飲み干したい気分だったが、傷ついた身体はそれすら許さなかった。やっとのことで少しだけ飲み、濡れた口元をぬぐう。こんな些細な動作さえままならない。
 水差しを元の場所に戻すと、サイドテーブルの横に剣が二振り立てかけてあることに気がついた。黒曜石の剣と、もう一つ。
 いつの日か、レディパールにもらった、あの剣だ。
 一度だけ、なんでも斬れるという運命の剣。話を聞いたカイは、魔法みたいだと素直に驚いていた。
……魔法みたい、か」
 薄く笑い、自嘲する。
 この剣を手にしてから、ずいぶんな月日が経った。
 奇跡の剣。奇跡の涙。
 今日までにいくつもの伝説を耳にしてきたが、現実にはいつだって、魔法のような奇跡など起こりはしない。血のにじむような努力をして力をつけてもより強いものに踏みにじられ、その度に無力さを思い知らされるだけだ。見つけた仲間たちは宝石泥棒に次々と殺され、己の姫を守ることさえできなかった。
 たしかにレディパールは、自分に剣をくれた。しかしどんなに剣が優れていたところで、使い手の腕が及ばないのでは意味がない。

 ――けれど、そうだとしても。

 それでも、自分は真珠姫の騎士だ。彼女の騎士となったあの日、あの瞬間から、瑠璃は真珠姫を守ると決めた。誓った。
 なにがあろうとも彼女だけは守らなければならない。なんとかして、真珠姫を探さなければ。

『世話をかけたな、ラピスの騎士』
『君は自由だ』

 ――あの人ならば、オレよりうまく使うのだろうか。

 レディパールが授けてくれた運命の剣。なんでも斬ることができるという、奇跡の力。
 もしも本当に叶うのならば、瑠璃が斬りたかったものは、この世にひとつだけ。ひとつだけあった。

 

 ■■■



 いつの間にやら、また眠りに落ちていたらしい。それか単に気を失っただけか。
 気がつけば、すっかり明るくなっていた。
 左の方向からカサカサという物音が聞こえ、視線を向ければ、カイが柱にかけられた葉っぱの束をめくっていた。彼女によればあの葉っぱ、部屋の隅に置かれたサボテンが日記をつけているというのだが、瑠璃は信じられずにいる。
 瑠璃が身じろぎした気配に気づいたらしい。カイが、ひょこっとこちらを向いた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
「いや、ちょうど目が覚めたところだ」
 なんとなく、夜中よりは幾分マシにはなっているような気がする。
 強がりのつもりはなかったのだが、いざ起き上がろうとするとまた激痛が走った。
「なあ、真珠は……
 瑠璃が尋ねると、あからさまにカイの表情が曇った。これだけ嘘がつけない人間も珍しい。
 やがてかえってきたカイの返答は、瑠璃が予想した通りのものだった。やはりまだ見つかってはいないのか。
「今日は、すこし落ち着いたみたいだね。真珠ちゃんはあたしが探しに行くよ」
 自分が探すと言った瑠璃だが、彼自身、無理が効かないのは認めざるを得ない。今の自分では、カイの足手まといにしかならないだろう。
 カイにもう少し眠るよう言われ、瑠璃はその通りに目を閉じて応じた。


 ……ふりをした。