――。
――…………。
ほのかな石鹸の香りがする。
温かい手で頭を撫でられて心地よい。
俺は昔からこの温もりを知っている。
これは。
こいつは。
俺だけの、■■■だ。
柔らかい何かが触れる。
何かが触れた箇所から火が灯る。
もういいだろう。
炎の奥から
本能が囁く。
もう随分と待った。
もっと。
もっと。
もっと、深く。
欲しい。
欲しい。
無垢な■はこの手の中にある。
俺は。
俺の。
俺だけの。
俺だけの■■■を、■■を――!
――バチンッ!!
「起きろ。おい。起きんか、この筋肉だるま」
「んぁ
……?」
頬を何かに叩かれる感覚に意識が浮上した。自分がうたた寝していたことを悟り、目をパチパチとしばたたかせる。
すぐ目の前にドゥリーヨダナの顔があった。湯上りのせいか顔に血色が戻っている。髪を下ろしたことであどけなさが生まれ、無防備さが余計に際立つ。バスローブ姿でソファにしなだれかかるように座る、その色っぽい姿とのアンバランスさに、何故だか眩暈がしそうだ。
はっとして急いで口輪をつけ直した。
「俺はどれくらい寝てた?」
「知るか。わし様がバスルームから出て来た時にはもうぐーすか寝とったわ。んー
……ということは少なくとも十分は寝ておるな」
「さっさと起こせよ
……」
「呼んでも揺すっても起きんかったお前が悪い」
ドゥリーヨダナはやれやれと言いながらソファから立ち上がる。
「わし様はもう寝る。すっかり湯冷めしてしまったわ」
そう言い残してドゥリーヨダナはリビングを出ていった。
口輪を外し、肩の力を抜く。不意な接近に思ったより緊張していたようだ。
ソファに横になると、ドゥリーヨダナの残り香が鼻腔をくすぐった。
刺激されたのは鼻だけではなかった。
「
…………風呂行くか」
水を浴びて頭を冷やそう。
焦燥感でまごつきながら、その場でシャツを脱いだ。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、何かが窓ガラスを叩く音が聞こえた。
カーテンを捲り外の様子を見る。飲み会が終わった頃に降り始めた雪が勢いを増していた。風も出て来て、雪の粒を窓に叩きつけてくる。積もりはしないだろうが、今夜は冷え込むだろう。そういえば朝の天気予報でそのようなことを言っていた気がする。
リビングの灯りを消してゲスト用の寝室へと向かえば、まだ起きていたドゥリーヨダナが部屋の前で立ち塞がっていた。腕組みをして扉に寄りかかっているので開けられない。邪魔だ。
「どけ。俺は眠い。つーか先に寝たんじゃねえのかよ」
「
…………………………ろ」
「あ?」
ドゥリーヨダナがぼそっと何か言ったが、声が小さ過ぎてほとんど聞き取れなかった。
「なんだよ、もう少しでかい声で言え」
「
……れの、
……やで
………」
「だから聞こえねえって。いつもの無駄にでかい態度はどうした」
俯きがちに喋るせいで口の動きも読めない。心なしかもじもじしている。気味が悪い。
暫くゲストルームの前で睨み合いが続いた。
先に折れたのはドゥリーヨダナだった。
赤い顔で俺を見据えて、たどたどしく吠えた。
「
……こっ、今夜は冷える、から、わし様の湯たんぽになれ、と、言ったんだ!」
その言葉に俺は虚を突かれた。
ドゥリーヨダナが言ったことはつまり
――。
いや。いやいやいやいやいや。
おそらくそこまでは求めていない。どうせそのままの意味だろう。逸って行動を誤れば、こいつは何をしてくるか分からない。具体的には事が終わった後に寝首を掻こうとして来そうだ。いや、する。この男は間違いなくする。返り討ちにはするが、なるべくならこれ以上拗らせたくはない。もう十分だ。
だが一周回って
……そういう展開もありえるか
……?
あ、嫌な思い出が
……。
「おい! 何故黙る! なんとか言え!!」
「うるせえ! こちとら今脳内審議中だ!」
「お、おぉう
……わかった
……いや分からんが!?」
唐突な誘いについて熟考していると、痺れを切らしたドゥリーヨダナが喧しく騒ぎ立て始めた。まだ審議の途中だが、これ以上先延ばしにしていたら拗ねて撤回するかもしれない。そんな勿体ないことさせてたまるか。
「しょうがねえな
……寝ぼけてベッドから蹴り落とすなよ」
「こっちのセリフだわ」
ドゥリーヨダナはふんっと無駄に胸を張り、ゲストルームの隣にある自分の寝室へと入って行った。軽く深呼吸を繰り返した後、俺もその部屋の扉を開いた。
部屋の真ん中には存在感を放つクイーンサイズベッドが鎮座している。寝るためだけの部屋は飾りっけは少なく、家具もベッドの他はベッド脇の小さなチェストと、サイドランプが置いてあるだけだ。動けなくなったドゥリーヨダナを運んだことは何度もあるので、この部屋に入ること自体は初めてではない。しかしこれまで共に寝ることは無かったので、鳩尾のあたりがふわふわとして落ち着かない気分だ。
ドゥリーヨダナは既にベッドに入っており、寝る体勢を整えていた。
「何をぼけーっと突っ立っておる。さっさと来い」
「お、おう」
言われるがまま、ドゥリーヨダナの隣に潜り込んだ。ひんやりとしたベッドシーツの感触の他に、何かが足に当たる。それがドゥリーヨダナの足だと分かり、俺は無心で口輪をつけた。すると隣から訝し気な視線が向けられた。
「お前
……まさか寝る時もそれ着けているのか?」
呆れたような表情でドゥリーヨダナが口輪を指差す。
「一人の時は着けねえよ。
……寝ぼけて噛み付いたりしたら、その
……事だろ」
「
…………確かにな」
「お前が首輪着けるんなら必要ねぇんだぜ」
「断る。第一、そんなもの実家の箪笥で肥やしになっとるわ」
身を守るための首輪をぞんざいに扱うオメガなど、世界でこの男くらいなものだろうな。
呆れる俺をよそに、ドゥリーヨダナはいそいそとチェストの引き出しから照明のリモコンを取り出している。
「電気消すぞ」
「ああ」
ドゥリーヨダナがリモコンを操作すると天井のライトが消えた。真っ暗になったことで、余計に隣の体温をまざまざと感じる。思ったより近いな、これ。
平均より図体のでかい男二人だと、さすがのクイーンサイズもやや狭い。うっかり寝返りを打つとベッドから落ちてしまうような気がしたが、あまりくっついているのも具合が悪いと端の方へ寄る
……のだが。
「こら、湯たんぽが離れるな。あと布団に隙間を作るな。冷えた空気が入る」
などと言ってスウェットを掴んできやがる。
ふざけんな。マジで。
可愛いことすんじゃねえよ。ドゥリーヨダナのくせに。ワザとか?
「お前な、俺がどれだけ
――」
「ぐぅ
……」
「マジかよ」
ひとこと言ってやろうと振り返れば、ドゥリーヨダナは既に夢の世界に旅立っていた。寝付きがよすぎる。よすぎて引く。
指先で軽く頬を摘まんでみたが、寝息のリズムは変わらない。本当に眠っているようだ。
「
……人の気も知らねぇで」
ドゥリーヨダナの腰にそっと腕を回した。
パジャマ越しに伝わるこの温もりを自分だけのものしたい。アルファだのオメガだの、そんなものは関係ない。第二次性が明らかになる前からずっと、俺の願いは変わらない。
たとえよく知る相手だろうと、俺以外がこいつの番になるなんて死んでも嫌だ。横から掻っ攫われるくらいなら、今すぐにでも「俺がお前の“運命”だ」と刻み込んでやりたい。
けれど
――番になったら、きっとドゥリーヨダナは心を一生明け渡さない。
それは
……そんなのは嫌だ。
いくら馬鹿でロクデナシのトンチキ野郎でも、けしてそれだけの男じゃない。
ドゥリーヨダナが首輪を捨てる覚悟をした時、俺は傍で見ていた。
無謀な奴だと思った。馬鹿だと思った。
一方で、どうしてここまで強がることが出来るのかと感心していた。首輪なしでアルファの存在する世界に立ち向かうなど、一体どれ程の胆力がいることだろう。小心者のくせに、ここぞと言うところで妙に逞しくなる。
原動力はどうせ俺を含むアルファへの嫉妬心や、窮屈な生活を強いられることへの不満や反発心だろう。あいつの動機はいつだって綺麗ごとじゃない。
だが死骸が土壌となって美しい花を咲かせるように、ドゥリーヨダナは実際にアルファ達と渡り合っている。その姿に惹かれる者も多くいる。
意地で花を咲かせ続ける男に対し、アルファへ首を差し出せなどと言ったらどうなる。下手すれば屈辱のあまり壊れかねない。それでは意味がない。アルファの俺に従順なドゥリーヨダナなど、そんなものは求めていない。
一方で、普段騒がしい男が伏せっている姿を見ると、どうにも胸が痛くなる。自分が番になる気も、他人に任せる気もないくせに、プライドなんてさっさと捨てちまえと言ってしまいそうになる。我ながら醜い矛盾だ。子供の方がマシな恋愛をしている。
纏まらない思考に溜息が漏れる。
「
……俺たちはいつまで、こんなこと続けるんだろうな」
寝ている奴に問いかけても、返ってくるのは寝息ばかりだ。
音を立てないよう慎重に口輪をずらし、ドゥリーヨダナの額に、軽く触れるだけのキスを落とす。
口輪を元の位置に戻して目を閉じた。
朝起きた時、腕の中にドゥリーヨダナがいたら、朝飯は少し豪勢にしてやろう。
そうあって欲しいという願望を抱いて、一夜を過ごした。
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