リビングに通じる扉を開けると、花の匂いが強みを増した。
匂いの元は部屋の中央にいた。存在感のある大きなカウチソファに、男が一人スーツのまま寝ている。傍にあるローテーブルにピルケースが蓋を開けた状態のまま放置されており、中の薬がいくつか零れていた。床にはコートとマフラー、それとビジネスバッグが無造作に落ちている。廊下と同様、リビングの空気も冷たい。防寒具を脱ぎ捨てているところを見るに、暖房を必要としない程に体温が上がっていたのだろう。
落ちている服を踏まないよう避けながらソファへと近寄る。男はスーツのまま仰向けになっていた。半端に解きかけのネクタイがだらしなく垂れている。顔色は最悪だ。頬に触れると案の定ひどく冷えていた。
「ドゥリーヨダナ」
頬を軽くはたきながら男の名を呼んだが、中々目を覚まさない。肩を強めにゆさゆさとゆさぶりだせば、ようやく身じろぎだした。
「おい。せめて毛布くらいかぶれ。風邪ひくぞ」
「
…………ん
……」
「起きろ」
「
……んぅー
…………だれだ?」
「俺だ」
ドゥリーヨダナの瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳が少し彷徨った後、俺を見つけた。寝起きのぼんやりした顔が、不機嫌そうに歪むまでは速かった。
「
…………カルナめ、ゴリラは呼ぶなと言うたのに
……」
ぶつぶつと文句言いながら、寝返りを打ってこちらに背を向けた。誰がゴリラだ、と言いたくなったがぐっと堪える。どれだけ悪態を吐こうと、声に覇気がないのは隠せていない。ダウンジャケットを脱いで被せてやれば、やはり寒いのか自分で肩まで引き寄せた。
「飯は食ったのか?」
「
…………」
「食えそうか?」
「
…………」
「粥作る。米はあるか?」
「
…………カルナが買っておった」
「よし」
家主には勿体ない程設備のいいキッチンに移動し、これまた無駄に大きい冷蔵庫を開ける。中は食材がみちみちに詰まっていた。俺も食うと見越して買ったのだろう。ひとまず粥を作るのに必要な材料だけ出して調理に取り掛かった。
俺はアルファで、あいつはオメガ。
第二次性が確定した日から、その事実は否応なしに俺達について来た。
診断結果が出た時、俺自身はまだ実感が伴っていなかったこともあり、ただ医者の言うことに頷いているだけだった。当人よりも周りの大人達の方が騒いでいたことが不思議で、ほんの少し不快だったことは覚えている。
一方ドゥリーヨダナはと言えば、オメガだと知った奴の両親が可愛い長男の将来を思って悲嘆にくれてしまい、一時は食事も喉を通らぬ程だったらしい。そのことを聞いた時、俺は「大袈裟な」と思わず言ってしまったが、俺に話をした兄は憐みを含んだ声で「大袈裟じゃあないんだよ」と言った。その意味を理解することになるのは、もう少し先のことだ。
何はともあれ、そう生まれついてしまったものは仕方ない。俺はよく分からないなりに自分の二次性を受け入れ、それまでとあまり変わらない生活を続けた。俺からは誰にも言ってないのにもかかわらず、俺がアルファ性であったことを学校の奴等が全員知っていたのは面食らったが、隠す気もなかったし、こちらが変に振る舞わなければ厄介なことにはならなかった。まあ男女問わずアプローチが増えたことは確かだが、目立つ変化はそれぐらいだった。
そんな俺とは正反対に、ドゥリーヨダナは自身のオメガ性を隠すことを選んだ。そのため病院から渡されるオメガ用の首輪もつけず、二次性を問われればベータだと答えていた。躊躇なく答えるため皆その嘘を信じた。中にはあいつの容姿や成績、家柄などから「実はアルファなんじゃ?」と勘繰る奴もいたが、オメガであるとは考えもつかないようだった。それだけ一般的なオメガのイメージとは程遠い振る舞いを徹底していたという証左でもある。
オメガであることを隠すため、最初のヒートを迎える前から薬でフェロモンを調整し続けてきた。そのため近くにヒートを起こしたオメガがいても誘発されることはないし、アルファに補足されることもない。奴の狙い通り、周囲はドゥリーヨダナのことを優秀なベータ、あるいはアルファだと認識している。真実を知るのは家族と主治医、それから俺を含めた親戚のごく一部と、ドゥリーヨダナ自身が信頼した一握りの人間だ。
しかしその代償は年々あいつ自身を蝕むようになってきている。身体の正常な働きを強い薬で無理矢理抑え込むのだ、何ともない方がおかしい。一般的に最も広く使用されている抑制剤でも多少なりとも副作用はあるし、本来は必要な時だけ服用するものだ。それをドゥリーヨダナは早い段階から継続して常用し続けている。そのせいですぐに薬への耐性が出来て効かなくなり、より強いものへの変更を繰り返す羽目になってしまっている。今服用しているのも、効果が期待出来る反面、副作用がきつめと来た。食欲減退、吐き気、倦怠感、不整脈
……そんなものが重なった結果、真冬に暖房もつけずソファの上でくたばってた訳だ。
医者からはもう大分前から番を作るよう説得されているらしい。最近ではプライバシーに関わる問題だからと、病院側から積極的に番を作れとは言わないようだが、流石に目に余る状態らしい。親も折に触れてアルファとの見合いを勧めているようだが、素直に言うことを聞く奴であれば、そもそもこんなことになってはいまい。
だがその意地っ張りもそろそろ限界じゃないかと俺も感じている。ヒートの度にこうして飯を食わせに来ているが、回数を重ねるごとにフェロモンが抑えきれなくなっているように思う。元々強い方ではあったが、長年抑え続けてきた反動か、あいつのフェロモンは少量でもかなり効く代物になった。もはや人を狂わせる毒と言っても差し支えない。
自他共に認める親友のカルナをヒート中は絶対に家へ上げないのは、奴自身フェロモンの歯止めがきかなくなっている自覚があるからだと、前回のヒート時にカルナが言っていた。
「ならいっそのことお前が番になってやりゃいいじゃねえか」
悲壮感を漂わせるカルナに対し、俺は何気なくそう言った。どこの馬の骨かも分からん相手に番わせるよりか安心だろう、と。
するとカルナは俺の目を真っ直ぐに見つめ、
「それは、お前が心から望むことか」
とまるで俺を試すような質問をぶつけてきた。心の内を見透かすような眼差しだった。
俺はカルナの問いかけに、何も言い返すことが出来なかった。
キッチンタイマーが鳴った。
鍋の蓋を開け、中の具合を確かめる。米の原型が無くなるぐらいまで煮た方が胃には良いだろうが、好みに合わせておいた方が食は進むだろう。器に少量を盛り、粗熱を取る。気持ち多めに入れたスパイスが、部屋中を漂う花の香りを少しだけ誤魔化してくれた。
「おい。飯出来たぞ。起きろ」
リビングに戻りドゥリーヨダナを起こす。俺のダウンジャケットを抱えこみ丸まって眠る様は、さながらダンゴムシのようだ。
「起きやがれトンチキ」
「ん
……うるさいぞゴリラ
……」
「粥を頭から食わせてやろうか?」
「
……野蛮な奴だ、まったく」
ドゥリーヨダナはぶつくさ言いながらも起き上がり、ソファの背もたれに凭れた。その瞳には存外しっかりと理性の光が灯っている。抑制剤はそれなりに役目を果たしているようだ。
ドゥリーヨダナの右隣に座り、器からスプーン半分程の粥を掬う。念のため吹き冷ましてやってから、スプーンをドゥリーヨダナの口元に持っていく。しかしなかなか口を開けようとはしない。毎度のことなので、こちらもすぐに引くようなことはない。
「口開けろ。食わねえと無理矢理ねじ込むぞ」
「
……」
「どうせまた点滴だけでやり過ごしてんだろ。食わねえと体力戻らねえぞ」
「
……分かってる」
ようやくおずおずと細く開いた唇の隙間に、スプーンを挿し込む。粥が口に入っていったのを確かめてから、そっとスプーンを引き抜く。
「美味いか?」
「
……味が分からん」
「美味いに決まってんだろ。俺が作ったんだぞ。ほら次」
「横暴過ぎるぞ貴様
……はむ」
仏頂面で咀嚼する様子を観察する内に、ある事に気づいた。顔をドゥリーヨダナに近づけ匂いを嗅ぐ。
「何だいきなり
……ゴリラの次は犬の真似事か」
「ゴリラの真似もした覚えねえよ。
……お前今日どこ行ってたんだ? お前じゃねえオメガの匂いがする」
「っ、クソッ」
随分とご機嫌斜めだな、今日は。思い出すのも嫌な程なのか、忌々しげに舌打ちをして、ネクタイを力任せに解いた。そのまま床にネクタイを投げ捨て、スーツのジャケットとベストも同様に脱ぎ捨てた。その勢いのままシャツも脱ごうとしたため、器をテーブルに置き、ドゥリーヨダナの手を止めた。
「冗談抜きで風邪ひくぞ。寝巻き持ってきてやるから少しくらい我慢しろ」
暖房はつけたが一度冷えた身体はそうすぐには温まらない。薬の副作用で身体機能が落ちている今は尚更だ。
「
……ならお前の上着を貸せ」
「
…………しょうがねぇな」
スーツのジャケットは料理を始める前に邪魔だからとダイニングテーブルの上に放置していた。仕方なくダイニングから目当てのものを持ってドゥリーヨダナに渡すと、また眉間に皺を寄せた。
「煙草と香水の臭いが酷いぞ
……」
人の服になんという言い草だ。まあ、けして良いものではないことは確かか。
「悪かったな。こちとら飲み会帰りなんだよ」
「
……」
「メンバーにオメガはいなかった。心配すんな」
「ふん
……」
ドゥリーヨダナは嫌そうにひん曲げた顔のまま、俺のジャケットを羽織った。寝ている時にかけてやったダウンはひざ掛けにされている。人の服で暖を取るドゥリーヨダナの隣に再び陣取り、粥を口に運ぶ作業を再開した。
「で? 何があったんだよ」
オメガの匂いの元について追及することも忘れなかった。ドゥリーヨダナはまた顔をしかめ、がりがりと苛立たし気に頭を掻いた。そして低い声で詳細を語り始めた。
「
…………仕事で取引先の一人と会っていた」
「ああ。それで?」
口が開いたのでスプーンを突っ込む。そうすると少しだけ眉間の皺が和らぐ。
「はむ
……おい、入れすぎだ。
…………そいつがわし様に是非にと言って、オメガを数人連れて来おった。はむ、はむ
…………上流階級のアルファ御用達クラブから派遣してもらったとかなんとか言ってな」
なるほど。その取引先相手とやらは、ドゥリーヨダナをアルファと思い込んだくちか。それにしても質が悪い。クラブというのも何やら胡散臭い。
「一応聞くが、それは合法なのか?」
「法の網の目を探すのが趣味の連中が関わっとるんだ。言うまでもなかろう。この国の経済界にも顧客がいるとは耳にしていたが、いざ目の当たりにすると、想像以上に気分が悪い」
「へぇ
……名うての経営者様は大変なこった。それからどうしたんだ? まさかその賄賂、受け取った訳じゃねえよな」
「物騒な顔をするな、はむ
…………話にならんと言って、さっさと帰って来たわ」
そのドゥリーヨダナの反応を先方がどう受け取ったか、一抹の不安が残る。趣味に合わず拒絶されたのだと素直に受け取ってくれればいいが、倫理観や個人の嗜好故ではなく、実はオメガだからこそ誘いに乗らなかった
……と解釈されてしまっていたら
――。
それでもその場で痛い目を見るよりかはましか。実際のところ、全く影響なしとはいかなかったのは、本来の周期よりも大分前倒しでヒートが始まった点を見れば明白だ。
「それでお前はフェロモンの煽り食らってぶっ倒れて、カルナに俺を呼ばせたって訳か」
「わし様は
……はむっ
…………貴様なんぞ呼んではむっ
………………ええいっ、雛鳥の給餌じゃあるまいし、次から次へと突っ込むな!」
「今ので最後だ。一応聞くが、おかわりは?」
「
……いらん。これ以上は戻す」
ドゥリーヨダナは口に手を当て、首をゆっくりと横に振った。子供並みの食事量だったが、それだけでも腹に入れることが出来たならまずまずだ。吐いてしまえば元も子もない上にマイナスなので、こちらも無理強いはしない。
「もう寝るか? 寝るなら運ぶぞ」
「いや
……シャワー浴びてくる。お前の手は借りん」
ドゥリーヨダナは気怠そうに立ち上がると、ふらふらとした足取りで浴室へと向かった。三十分以上出て来なかったら様子を見に行くことを決め、口輪を外してソファーに身を沈めた。口を何度か大きく開けては閉じて、自由になった顎を解しながら、俺に連絡を寄越したカルナに「飯食わせた」とだけ打って送った。すぐに既読がついて、感謝の言葉が返ってきた。
ヒート期に入ったドゥリーヨダナは他人を一切寄せ付けない。アルファもベータも関係なく拒絶する。それは家族や信頼を寄せる者に対しても同じで、むしろより強固になる。オメガの性に振り回される己の姿を見られることも、フェロモンで襲わせてしまうかもしれないことも、どちらもあいつには耐えがたい苦痛なのだそうだ。
だが放っておくとあいつは抑制剤の副作用や貧血等で倒れかねないので、結局は誰かが傍にいてやらないといけない。だから俺がその役を担うことにした。
俺はアルファで番もいないが、オメガフェロモンへの耐性が人より強い。毒のようなドゥリーヨダナのフェロモンにも、抑制剤と自制心で対抗できる。そう言って遠慮なく踏み込む俺と、毛を逆立てた子猫のように逃げるドゥリーヨダナとの間ですったもんだした結果、三つの条件を設けた。
一、他のオメガと接触していないこと。
二、抑制剤を摂取していること。
三、口輪を装着すること。
全ての条件を守ることで、傍にいることを認めさせた。初めて大型犬用の口輪を見せた時、あいつは愕然としていた。信じられないものを見たような顔でしばらく俺を罵倒した後、急にうなだれたかと思えば小さな声で「好きにしろ」と言った。言ったからには責任を取れと合鍵を作らせ、周囲にもしっかりと根回しをし、今に至る。
この話を兄貴に伝えた時、
「お前が番にならなくていいのかい?」
と聞かれたが、なるつもりはないとだけ答えた。あくまであのドゥリーヨダナが番を持つ気になるまでの役目だ、と。
俺は、ドゥリーヨダナとは番にならない。その代わり一人にもしない。
首輪を着けないドゥリーヨダナの代わりに、今日も俺は口輪をつける。無防備なうなじを傷つけないために。
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