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2024-10-24 00:38:20
4941文字
Public 拳コユ
 

メランコリー

前に画像であげてそのままだったやつ。再録集には収録済みですが加筆してます。
お付き合い済拳コユで、ちょっと不穏



 あぁ、いけないなぁ、と思った。

 出会ってからの月日は彼の生きてきた時間に比べたらほんのちっぽけなものではあるけれど、その分色濃い自負がある。だからこそ、左目だけという狭い視界でも彼の目がどろりと濁ったことに気がついたし、彼がそれをすぐに隠そうとしたことにも気がついた。

 ダメですよ。

 言おうとしたがマスクがほんの少し曇っただけ。彼の眉間に深く皺が寄る。今度は隠そうとしなかった。
「見えてるか」
 彼らしくない静かな声だった。小さく頷く。口布にほんの少し牙が浮いたので笑ったのだろう。目は変わらぬままだ。
「そっか、良かった」
 彼は声だけ少し軽くして、わたしのほっぺたに手をあてた。ひんやりとしていて、芯に温もりがある不思議な手。擦り寄るように頭を動かすと眉間の皺が少しとれた。
「一ヶ月だってよ」
 断片的な会話だが、何を言っているのかはわかる。きっとわたしがこれからこのベッドに縛り付けられる期間の話だろう。思ったよりも長い。嫌だなぁ。そう考えていると彼はまた不機嫌そうな顔で私の額のガーゼを撫でた。
「短えくらいだ、文句言うな」
 何も言ってないのに。
「目が言ってんの」
 ケンさんだーいすき。
……
 天を指していた耳の先がへちゃりと倒れる。ああ、本当にわかるのかな。もしかしたら目でも耳でもない、どこか別の場所でわたしの声を聞いているのかもしれない。彼は人ならざるものだから。
「さあ、どうだかね」
 またわたしの頭の中と勝手に会話をして、彼は立ち上がった。
 瞼に隠れる寸前、瞳の中にまた濁った何かを見たような気がして慌てて手を伸ばす。けれど腕はわたしの記憶の何倍も重たくて指先が震えただけ。
 優しい彼は足を止めて腰を折り、わたしの手を撫でてくれた。手首をかえして大きな手に指を絡める。ぴくりとひとつ跳ねた硬い指が徐にわたしの手を包む。

「お嬢ちゃん」
ダメですよ、ケンさん。
「何が」
わかってるくせに。
「何もわからんよ」
ダメですってば。

 何度も何度も、言い聞かせる。わからないフリをしていることがわたしにバレているのも、聡い人だからわかっているはずなのに。

 彼がしようとしていることはわたしの為だけれど、きっと彼の為にはならない。それが彼の中で当たり前であったとしてももう、そうする必要のない時代になっている、そうでしょう。貴方は充分わかっているでしょう。だから絶対、ダメですよ。

「べつに、なんもしねえって」

 貴方のことだからきっと、とても上手に事を済ませるのでしょう。誰にもわからないよう、知られないよう、全て終わらせる事ができるんでしょうね。
 弟さんたちにすら気取られないように、美しく終わらせてしまうのでしょう。でもダメなんです。
彼はわたしを見据えたまま、ドロドロした血潮色の灯を消さなかった。
 おちゃらけた柄の着物に似合わぬ静かな目が、じいっとわたしを射貫いている。厳密にはわたしではなく、わたしの向こう側。既に収容された誰かを見ているのだろう。
 こうなったら、仕方がない。
……ん、さん〟


 あなたをきらいになりたくないんです、ケンさん。


 頭の中で呟く。すると彼は細めていた目をまんまるくしてから俯き、何かを堪えるように唸りながら頭をガリガリ掻いた。手ぬぐいの上からとはいえ、赤くなってしまわないだろうか。
 ハラハラしながら見ていると、彼は体の中の空気を全て吐き出すかのように長く大きく嘆息した。顔が上がる。
「そりゃおまえ、狡ィよ」
 目尻を下げ、困ったように笑う。常のからりとした雰囲気はまだ戻ってはいないけれど、さっきまで瞳を占領していた仄暗さはない。
 彼が笑いながら口布を引き下げた。空いた片手でわたしの顔にかかった酸素マスクをずらす。
素直に目を閉じた。乾いた唇を湿った何かがぺろりと舐めて濡らしてから、そっと重なった。音の一つもなく、ただ触れて離れた。
 マスクを戻された感覚があって目を開けると、そこにいたのは市民の皆々様に野球拳を仕掛ける、ちょっと御迷惑な吸血鬼がいた。いつもの彼だ。
「また翌夕来るよ。なんか欲しいもんある?」
 欲しいもの。なんだろう、何がいいかな。
「甘いモンでも持ってこようか」
 甘いもの。素敵ですね。そうだなあ、桃がいいな、桃。
「桃?」
 はい、とろけるくらい甘くて、じゅんわり果汁が溢れるような、熟れた桃。ケンさんに剥いてもらって、一つずつ食べさせてもらいたい。
「わかったわかった、とびきりを選んできてやるよ」
 我儘娘。そう言ってわたしの頭を一つ撫でた彼は今度こそ背中を向けた。
 ぺちぺち、ビーチサンダルが床を叩く愉快な音がする。病室の引き戸を開けた彼は出て行く前にわたしの方を振り向いた。
「また明日な」
 目尻に少し皺のある、わたしの大好きな目が細くなる。
 はい、またあした。頭の中で言って微笑むと、彼も笑ってひらりと手を振って扉を閉めた。
 足音が遠くなるのを聞きながら目を閉じる。じくじく、胸の奥の痛みを自覚した。これは怪我のせいじゃない。

 わたしは彼に、とてもひどいことを言った。あんなのは脅しと変わらない。彼がわたしを好きでいてくれているという一点につけ込んだ、ひどく残酷な行いだ。
 きっともっと上手なやり方がある。でもわたしにはそれがわからない。もっと大人になったら、それこそ彼のように長く生きたらわかるのかな。
 わたしの考える大人という生き物はもっと大人だと思っていた。でも実際はこんなものだ。全くスマートじゃない。彼からしたら人間なんてみんな子供みたいなもの。
 窓の外を見る。病室は過ごしやすい気温に保たれているけれど、ガラス一枚隔てた外は酷く蒸し暑くて湿った空気が満ちているのだろう。
 今日は確か、弟妹さんと一緒にお食事に行っていたはず。途中で切り上げて来てくれたのか。
 こんな中わざわざ足を運んでくれたというのに、わたしが彼にした行いは最低だ。後悔と自己嫌悪が漣のようにわたしを埋め尽くして行くのを止められない。
 彼は約束を守る人だ。また明日。そう言った。きっと陽が落ちたらとびきりおいしい桃を持ってきてくれる。
 もしかしたら弟さんと妹さんも一緒に来てくれるかも。甲斐甲斐しくお世話してくれるんだろう。父を笑えぬほど、過保護な人だから。
 わたしが未熟だからいらぬ心配かけてしまうのだ。もっともっと腕を磨いて、父のように強くならなくちゃいけない。そうしたら彼も笑ってわたしを送り出してくれるはずだ。情けないほどの心配をかけなくて済むし、わたしもこんなひどい真似をして彼を縛り付けなくてもいい。

〝ごめ、ね〟

 なんとか音にした謝罪がむなしく霧散する。
 勝手に降りてくる瞼に抗うことができないまま、波に飲まれるように眠りに落ちた。