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たかさき
2024-10-21 01:42:40
62849文字
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二人のピエタ
FF7/ヴィンクラ/R-18/
2ページ目→2025/4/28更新分
注意等:
・クラウド→女体化はしないけど妊娠の表現あり
・ケット→リーブと基本別人格、ちょっとかわいそうなことになる
・リーブさん→口調が一定してない
・ヴィンセント→野良犬の服
・「嘘つきの見る夢は」(
https://privatter.me/page/661bd6831f057)のかなり後の続話
1
2
星を救ったとされる戦いを覚えている者はもう、誰もいない。
長い年月が過ぎて、文明の中心は西へと移り行き、国境線は新たに引かれては消され、そしてまた引かれ直された。
エネルギーの在り様が変わり、人々の生活が変わり、世界の形が少しずつ変わっていったが、人の本質というものは大きく変わるものでもないらしい。
結局のところ、富めるものは富み、貧しいものは貧しいという世界の法則は相も変わらずあるようだった。
長い時が過ぎてもあまり変わることのない人々の顔つきを眺めながら、長い長い旅をしている二人がいる。
一人はかつて星を救った青年と呼ばれた人間で、もう一人は妙な縁でその青年の旅の仲間となった人間だ。
ただし、事実としてはそうなのだが、例えば二人にあなた方はそのような存在なのですかと聞いてみれば、きっと曖昧な表情で答えに窮することだろう。
金髪の青年はややあって口を開く。
――
星を救ったのは、俺じゃないよ。
長い黒髪の、青年と呼ぶにはやや年経た男が続けて口を開く。
――
私を人間と呼ぶのは、ふむ
……
どうだろうな。
それを聞いた金髪の青年が、苛立ったように黒髪の男を振り向く。
――
人間だってば。あんたも俺も。同じこと何回も言わせるなって。
黒髪の男はそれを聞いて、表情を変えるでもなく頷く。
――
お前がそう言うならば、そうなんだろう。
例えばということで問いかけた人間のことなど、二人は明日には忘れている。
何故なら途方もないほどの明日を二人はこれからも生きていくからであって、そして二人にとって重要なことはもうお互いのことしかなかったからだ。
お互いのことを除けば、後はせいぜい、この世界が後いつまで続くかということくらいだろうが、それも二人にとってはもはやどうでもいいことなのかもしれなかった。
* * *
無機質なコンクリートの建物が続く街並みを、歩く人影は一つもない。
建物は特に大きく崩れていたりするわけでもないが、よく見ると窓ガラスはひび割れ、あるいは叩き壊されたのか周囲に細かい破片が散らばっている。見通せる建物の中は空っぽのショーウィンドウに裸のマネキンが転がっていたり、商品を何も載せていない棚ががらんと並んでいたり、時折どこかで何かのゴミと化したものが風に吹かれて音もなく転がっていたりした。
きれいに舗装された道を、クラウドは一人、フードを目深に被って俯き加減に歩いている。
転がっているゴミや、散らばっているガラスの破片さえ目に入らなければ、人々が普通に行き交っていてもおかしくない風景なのに、それでもここは建物の間を虚ろに吹き抜けていく風の他に何の音もなく、しんと静まり返っていた。
空をちらりと見上げると、他所と変わらぬ青い空に千切れた白い雲がふわふわと漂っている。
もう随分前のことだが、旧ミッドガル
――
言わずと知れた神羅カンパニーの象徴である鋼鉄都市だが、今や廃墟となって久しい
――
の上空にオメガが出現するという傍迷惑な一騒動があった。
オメガの出現。言葉にすると簡単だが、それは即ち星の滅びを意味する、とんでもないことだったのである。すったもんだの末にオメガを何とか食い止めて星が滅ぶなんてことにはならなかったものの、出現したオメガが空から消えることはなかった。それから長いときが経った今でも、空を飛ぶ鯨のように、あの辺りを漂い彷徨っているはずである。
それが一体何を意味するものなのか、星に生きる小さな存在たちに分かろうはずもない。
随分と長い間、空中にただ浮かんでいるだけと思われた白い物体は、その体の端から水晶を砕いた細かな灰塵のようなものをきらきらと舞い散らせていた。
それらはやがて雨と共に、地面へと降り注ぐ。
土や水へと沁み込んだその何かは地表に生きる命の中に取り込まれ、その体を少しずつ、少しずつ、蝕んでいく。
オメガとは、星の滅びを再生へと巻き戻すようプログラムされた存在であって、それ自体に意思はない。悪意の籠った意図でもって本来起きるはずのないときに無理やり起こされたオメガは、中途半端にスイッチを押されたまま宙を漂い、自身のプログラムを少しずつ遂行していたのである。
そのことに最初に気付いたのは、WRO
――
リーブ・トゥエスティが開設した組織が何と今でも世界の中立的機関として存在している
――
の保健部門の職員の一人である。彼は各国の死亡統計を分析している最中、特定の地区の死因において「詳細不明」が少なくない割合を占めていることにふと目を止めた(単なる心不全としか書かれていない)。死亡に至る原因病名が特定されていないというのは大きな問題であるのだが、もう一つ気になったのは、死因が詳細不明とされた人々の死亡年齢が平均に比べてやや若年という点である。死を迎えても不思議ではない年齢にまだ達していない人々が、特に大きな疾患もないのに、ある日ぱったりと歩みを止めて眠るように星に還る。そんなことを想像して、彼は疲れたように笑う。考えすぎだ。比較的若年といっても、これくらいは十分に誤差の範疇といえる。死因の特定もできない出来の悪い医師がその地区に偶然多くいたということのほうが、残念ながらよっぽど現実的だ。大学時代の教授の顔を思い出して苦笑しながら、端末の画面に映る地図を眺め続ける。何とはなしに、「詳細不明」が見られる地域を地図上に浮かび上がらせてみる。その地域にぱっと思いつく共通項など特にない。衛生環境、貧困問題やドラッグ、内戦、特異的な感染症の流行
――
そういったものが咄嗟に頭に浮かんでくるが、どれも取り立ててピンとくるものはない。しかし、その形に頭の中で何かが引っ掛かる。先日、他部門の同僚と、俗にウェポンと呼ばれる存在の生態分析について話をしたことがあった。分析といっても未だに殆ど何も解明されていないに等しいが、それらの分布図、行動様式など、少しずつ見えてきているものがあるのだと嬉しそうに語っていた。例えば、この地域の上空には空を飛ぶ鯨のような白い物体がふわふわと
――
いや、まさか。
彼は半分笑ったまま、半分嫌な汗をかきながら幾多の資料に当たり、報告書を作成した。報告を受け取った部門長は局長へと報告をあげた。眉間にしわを深く刻んだ局長は、WRO永久特別顧問として未だ在籍しているリーブへと連絡を寄こした。
プログラムとして生き続けているリーブの人形がその連絡を受けたとき、ご冗談デショと呟いて眉間を指で押さえ、机に突っ伏したまま暫く動かなくなったのは別に電池切れとかそういうことではなく、何やほんまに疲れましたわぁという生身を持った当時の彼そのものとしか思えない生々しい挙動であった。
リーブが局長だった時代に起きたかつての一騒動が、当時とて大迷惑以外の何物でもなかったけれども、まさか後世にまでこんな迷惑を及ぼすことになろうとは。
長く生きる因果を課せられたクラウドとヴィンセントがリーブの元に呼び出されたのは、その翌日である。
調査してください。
分かった。
金は払えよ。
ごく短いやり取りを経て、そうして二人は旅に出た。
以来、リーブから直接指示を受けて各地を放浪しては土や水を採取したり云云々々ということをやっている。
二人にとって長い旅に出るのは苦痛でも何でもない。二人が出会ったのはかつての旅の途中で、行先の見えない中で共に道を歩いて行くことは、彼らにとってはごく当たり前の風景の一つだったからだ。
コンクリートの街並みを抜け、石畳の坂道を上ると屋根の低い住宅街が見えてくる。
無人となった家々を通り過ぎながら、クラウドは坂道を上り続けている。
歩き続けていると細かい破片が靴裏に擦れて、ガラスを引っ搔くような感触が伝わってくる。
確か、この坂を上ったところにあったはずだ。記憶違いでなければだけど
――
。
若干の不安を抱えながら歩いて行くと、やがて目当ての建物が見えてきたのでほっと一つ息を吐く。灰色の尖塔のある、古い教会。重い木の扉を押し開けるとみしみしと音がして、割れたスタンドグラスから漏れる日の光にちらちらと埃が舞っているのが見えた。足を踏み入れると石の床にも細かな砂塵が散らばっていて、踏みしめる度に小さい悲鳴のような音を立てた。
静謐の中、柔らかい光の降る場所に立ち、クラウドは天を仰いで、そっと目を閉じる。
思い出したい風景があったからである。
かつて一緒に旅をした仲間たち。その仲間の大事な家族たち。長命を生きる種族であるナナキを除けば、皆はもう星へと還ってしまった。そのことを淋しいと思わない日はないが、淋しいと思う必要がないことも知っている。それを思い出すために、クラウドは教会を訪れては、暫し祈りの時を持つ。クラウドにとって祈りとは叶わない何かを願うことではなく、昔に交わした約束が今も変わらずあるのだと確認するための行為だった。そう思える程度には、この背は様々な多くの手によって支えられていると信じることができていた。
(
……
遅いな)
それらの手の中でも、一際大きな手を持つ者。その手がなければクラウドは今でも叶わない何かを願うだけだっただろうと思う者
――
が、まだ、来ない。
(
……
何してんだ、あいつ)
いら、とした気分が背筋からもぞりと這い上がって片眉をぴくりと跳ねさせる。
一緒に旅をしていても、必要に応じて別行動をとることも、ままある。別行動の期間が短いこともあれば、長いことだってある。そんなことは分かってんだとクラウドは言いたい。だけどこの街で合流しようと奴が連絡してきたのは三日も前のことである。この人のいなくなった場所でいつまでとも分からないまま過ごすのがどれほど気をやられることなのか、あの男は分かっているのだろうか。
苛立ちが次々と湧き起こる中、ふと甘い香りが鼻を掠めた。クラウドは目を閉じたまま、あ、と顔を上向かせる。甘く絡みついてくる、花々の匂い。
それだけでささくれだった気分がふわりと霧散して、そして甘い香りは別の甘い記憶を連れてくる。
遥か昔のことだけれども、ここではない別の教会で、クラウドはある約束をしたのだ。
待ち合わせ場所を決めたくせに一向に姿を見せようとしない、目下クラウドを苛立たせている張本人と。
そういう約束は、皆の前でしないといけないんだよ。
ピンクのリボンをつけた、クラウドの歳の半分にも満たない女の子が指をぴ、と差しながら言ってくる。
皆にお祝いしてもらって、いっぱいのお花で飾ってね、ああそんないつもの服じゃ駄目だよ、その日しか着ない特別な服を着るの。まぁったく何も分かってないんだからクラウドは。しょうがないなあ、マリンが選んであげます。
彼女がまるで年上のお姉さんのように話すのを、クラウドは微笑ましい気持ちで聞いていた。
クラウドは白いドレスを着なきゃ駄目! と言い出すまでは。
瞬時に悟った。全く冗談を言っている目ではない。何を言っても話が通じるとは思えず、困ったクラウドはそばにいた幼馴染に縋るように目を向けた。そうしたら幼馴染までもが言い出したのだ。
白じゃなくてもいいんじゃない? クラウドには青が似合うもの。ねえマリン、どう?
もう、ティファも分かってないんだから。誓いを交わすときは白いレースのドレスでしょ。他のお色はその後のパーティーで着るんです。
ああ、なるほどね。じゃあクラウド、これなんかいいんじゃない?
えええええええマリンはこれがいい。絶対これ!
駄目だ。何を言ったってもうこれは、駄目だ。
タブレットや(どこから持ってきたのか)雑誌を手にきゃあきゃあと盛り上がる二人を前にして、クラウドはちかちかしてきた目を何度かぱちぱちと瞬きながらこめかみをそっと押さえ、このまま立ち上がってお茶でも取りに行くふりをしてそのまま外に出て軽く大陸一周などしてみるというのはどうだろうかという思いを巡らせていたところ、テーブルに長身の影がすっと差した。
あっ、ねえねえどう思う? マリンは絶対にこれがいいと思うんだけど。
これを、クラウドが着るのか?
そう!
マリンの指が差す先を暫く見やった後、柔らかな赤い目がこちらを向く。
私は、いつもお前が着ている服が一番美しいと思う。
えーっ、とすぐさまマリンが不満の声を上げたが、彼の言葉はそこで終わったわけではなかった。
だが、もしお前がこれを着たなら
……
その美しさに並び立つ者はいないだろうな。
真っ直ぐにそう言われてしまって、マリンもティファも更にきゃあきゃあと騒ぎだす中、クラウドは火照ってきた顔を俯かせるしかなく、その後に何と答えたのか全く覚えていない。
だから、何故その白いレースのドレスなんてものを着ることになったのか、クラウド自身、今でもよく分かっていない。
そもそもドレスの着こなしも振舞いも一体何をどうすればいいのかさっぱり分からないまま、英雄の眠る教会で、幼馴染に付き添いを頼み、仲間にも立ち合ってもらって、覚束ない足取りで向かい合う。
互いの手を取り合って、口にした約束の言葉は今思い出しても恥ずかしさに頭がぐらぐらと揺れるほどで
――
……
「
……
私の、愛しい妻」
不意に後ろから伸びた長い腕がクラウドの体を抱きすくめる。
クラウドは一瞬はっとして体を緊張させるが、自分の身体の一部と思うほどによく知った腕と分かると途端に全身の力を抜いた。
「私の可愛い恋人」
抱きすくめた手が腕を引いて、クラウドの身体をくるりと回転させる。
目深に被っていたフードをそっと後ろに外され、目を閉じたままでも光が瞼の裏にまで温かくじわりと広がった。
「私の英雄
――
私の、全て」
右手を取られ、手の平に、全ての指に、手の甲に、唇が落とされる。
手の甲からゆっくりと見上げてくる赤い目を、クラウドはようやく目を開けて間近で見ていた。
そして頬を両手で挟まれて、まるで何かをねだるように額を合わせて目を深く覗き込まれる。
クラウドは暫くその目に見惚れていたが、躊躇いがちに口を開いた。少し困ったように、若干首を傾げて。
「俺の
……
旦那様
……
?」
ふっ、と目の前の表情が穏やかに破顔する。
「そんな言葉、使わなくていいと言っただろう」
ふふ、とクラウドも少し笑って、頬の両手に自らの手も添える。
「俺の、
……
俺だけの、ヴィンセント」
どちらともなく唇を触れ合わせて、顔を傾けて、息まで飲み込むように深く重ねる。頬に添えられた手が腰へ、首の後ろへと回されて、二人の間に一切の何物も入らないようにして。
濡れた音を立てて、名残惜しそうに僅かに唇を離して、少しだけ目を開いてお互いを暫く見つめ合って。
「クラウド
……
今も、これからも、お前を離すことは決してない」
俺も、としかクラウドが言えなかったことも、その他の言葉一言一句全て、あのときと一切変わらない。
もう一度閉じる前に見たヴィンセントの瞳は、あのときと変わらず深く底の知れない赤い炎を宿していて、その目が今でも自分しか見ていないことにクラウドはこれ以上のない幸福をようやく感じ取ることができたのだった。
「
――
いや、遅いんだよ今まで何してたんだよ三日だぞ? あんたが連絡してきてから俺ずーっとここで待たなきゃいけなかったんだぞこんなホテルも風呂もトイレもコンビニもないところで! 分かってるのか?」
「分かっている、待たせてすまなかった。お前と落ち合う前にもう少し南の方を見ておきたかったんだが
…………
コンビニ?」
「そんなの一緒に見りゃいいだろコンビニは言葉の綾だよ分かるだろとにかく俺はこの三日間携帯食しか食ってないんだからな!」
「それはそうだろうが
……
一体どうした、クラウド」
蕩けるような目で見つめ合っていたのも束の間、クラウドは思い出したようにばっと顔を上げて胸の内を吐き出すように一気にまくし立てた。
旅ならば当たり前のことだろう。それなのに何を言っているのかと首を傾げたヴィンセントの表情が、僅かに曇る。
「
――
疲れたか、長旅に」
心配そうに頬を撫ぜる指に、クラウドは安堵と苛立ちの両方を感じて、自身より一回り大きい躯体の胸元に全身で寄り掛かる。
何も言わずとも受け止める腕があることに、触れた先に温もりがあることに、少しだけ苛立ちが塵に紛れて消えていく。それは今まで目にした風景には感じられなかった温もりだった。
「ならば、一度家に戻ろう。サンプルの数も十分ある。これならリーブも文句は言わないだろう」
迷いのない言葉に、クラウドは体をより強く押し付けた。腕を巻き付けて、温かみを逃がさないようにする。いつになってもどこか不安定で、どこか脆い。そういう自分にいい加減嫌気がさすが、目の前の男はそれがお前なのだからそれでいいと言う。クラウドにはそれがいいことなのかどうか、未だによく分からない。
「はいな! 文句なんかありまっかいな今回もようけサンプル集めてもろうて感謝感謝ですわでもほんま言うたらもうちょっとだけ
――
むぎゅ」
「後にしろ、ケット」
「むぎゃい
……
」
ヴィンセントのフードからぴょこんといきなり飛び出した猫(型ロボット)が肩に乗って陽気な声で喋り始めたのをヴィンセントの大きな手の平が即座に遮ってフードの中へと再び閉じ込める。
普段ならクラウドがそんなことしてやるなよかわいそうだろと庇うところだが、今だけは何も言わなかった。
クラウドは巻き付けている腕をまだ離そうとはしていなかったし、ヴィンセントも抱きしめる手を緩めるつもりはまだなかったからだった。
* * *
かつて要塞都市であったジュノンは、現在は連邦共和国を名乗り、その港は今でも東西の流通と経済の中心を担っている。
クラウドとヴィンセントは、その港から出る船に乗って西側へと帰るところである。彼らの定住する居宅は現在、西側の大陸にあるネオ・ミッドガル
――
リーブがWROの局長時代に長年の紆余曲折と艱難辛苦の果てにようやく完成させた
――
にあるからだ。
ジュノンから出る船に乗るのは、そんなに容易いことではない。まず入国するのに身分証明やら何やらの諸手続きで数日、それから乗船及び出国するため再び身分証明やら何やらの諸手続きに更に数日。世界が複雑化するに従って国境を跨ぐ移動も煩雑化し、手間と時間がかかるようになっていった。そんな中、二人にとって幸いだったのは、やはりリーブという社会体制の再構築に関わった人間が隣にいたということだろう。
身分証明やら、生活保障やら、健康保険やら。他の人々とはかなり異なる生き方を課せられた二人が移ろいゆく社会でもちゃんと根を張って生きていけるようにと、リーブはありとあらゆる手段を使って(時には法を作ってまで)整備してくれていたのである。その恩恵がなければ二人とも大陸間の移動一つとってもチョコボに乗るか単価の高い空路に身を潜ませるかカオスの翼で頑張って空を飛ぶか、いずれにしても密入国で国家警察のお世話になるしかなかったのだから。
「ボクが作ったIDカード、ほんま優秀ですわぁ。これのおかげで入国やら乗船やらが何と! 他の方々は全部合わせて三日間もかかるところが! お二人はたった数時間で! ぜーんぶ済むんですからねえ!」
「分かってるよケット、ちゃんと感謝してるって」
「その優秀さをカームでも発揮してくれたら良かったのだがな。カードの照合ができなかったおかげで一日足止めを食らった」
「それはボクのせいとちゃいますやんあちらさんの機械が古かったんですやん。いやいやそうやなくて、ボクが言いたいのはですねぇ
――
どんどんややこしなってはりますなあ色んなことが、いうことですわ」
入国の許可を得たセンターの中にあるレストランで久々に人間らしい食事をとり、ようやく一息ついたところだった。
テーブルの上で器用に皿をよけてくるくるとステップを踏むように歩き回っていたケットが、いつもの調子の良さをふっと潜めて耳をぺたんと伏せ、どこかしんみりとした声で言った。
クラウドは黙って頷き、ヴィンセントは表情を動かすこともない。
ケットの漏らした感想はクラウドの実感と一致していたが、それがどういうことを意味するのか、あまり積極的に考えたい内容でもなかった。少なくとも、クラウドにとっては。今は考えるよりもまず休みたいというのが本音だったし、それよりも気になることもある。テーブルに置かれたマグカップを手に取りながら、クラウドは向かいに座るヴィンセントの顔をちらりと盗み見た。
ケットは立場上、そして為人の上でも、今まで渡り歩いてきた様々な場所で一体何が起きているのか、プログラムをフル回転させて仮説を組み立てているに違いない。人の消えゆく街、歯車に綻びの出る都市。
ヴィンセントは今、何を考えているんだろう。
彼は考えていることをそう簡単に口にはしないけれど、そもそも今まで見てきたものに興味があるのか。この旅の行く先は一体どんなものだと思っているんだろう。そんなことが何となく頭に引っ掛かる。
「
……
ん?」
視線に気付いて、ヴィンセントがこちらを見る。問いかけの声は低くて柔らかく、表情は穏やかだ。その声と視線はクラウドに心地良い安心をもたらすものだった。それも、数日ぶりの。さっきの教会での体温を思い出し、クラウドはテーブルの上に置かれたヴィンセントの手に、そっと指を触れさせる。
「
……
今日は、久々にベッドで寝られるな」
右手の、人差し指。一番敏感な指の腹に触れてみると、数秒も待つことなくその手を強く握り返された。
口では何も言わないくせして、熱を孕んだ目で射貫くように見つめてくる。
「あのぉお二人さん? ボクの言うたことちゃんと聞いてます? ボクやっぱり気になるんですよねぇ、もうちょっとこっち調べてみてからでも船に乗るのは遅くな
――
ぐぎゅ」
ヴィンセントがクラウドを見つめたままケットの頭を鷲掴んでテーブルへと押し付けたので、クラウドはさすがにそれはかわいそうだろ、とだけは言った。
二人(と一匹)が宿泊する部屋のドアを閉めるなり、後ろから強く抱きしめられるのをクラウドは分かっていたし、待ち受けていたはずだった。
灯りを点けることもなく、こめかみに、首筋にと唇を押し当ててくるのをちょっと待ってと腕を緩めさせ、自分から振り向いて同じ強さで抱きしめ返す。昼間の教会とは違った角度で深く唇を合わせて、そのまま待つことを良しとしない足が動き出すのを止めることもなく、フード付きの上着を床に脱ぎ落としながら、後ずさるようにしてベッドへと追いやられる。もつれこむように二人の腕が絡まった塊がベッドへと倒れ込んで、スプリングに跳ねた体が沈み込むほど体重をかけられた。のしかかる重みと耳元にかかる吐息の熱さだけで汗がじわりと滲んで、顔にかかる長い髪をくすぐったいと思いながら目を閉じると、窓の向こう、遠くから耳慣れない潮騒の音が聞こえてきた。
「待って
……
ちょっと、待って、ヴィンス、」
「クラウド
……
」
「ま、待ってってば
……
おねがい、」
既に切羽詰まった呼吸の途中で咄嗟に出た言葉を数度繰り返したところでヴィンセントはようやく顔を上げ、問いかけるような眼差しを投げかけてくる。
「今日は、やだ
……
したくない
……
」
そのときのヴィンセントの表情は一体何といったものか。
何を言っているかは分かるが、何一つ分からない。頷いてやりたいが、頷けない。聞いてやりたいが、絶対に聞きたくない。
それらが全部渦巻いて瞬きの一つもせず今すぐにでも先へと進みたいのに動くこともできずに指先をうろつかせているヴィンセントなど、長年共に生きているクラウドももしかしたら初めて見た姿かもしれない。
「何故
……
?」
そして暫くしてから発された、肺から絞り出すような声。僅かに下がる眉尻を見て、クラウドも焦ったように言葉を探す。
だって、クラウド自身、したくなかったわけではないのだ。ほんの、ついさっきまで。そもそもヴィンセントに抱かれたくないなんて、今を含めても思ったことなどない、はずなのに。
「波の音が、うるさくて
……
だから、」
「
……
波の、音?」
「ごめん、今日は、むり
……
」
「クラウド
……
クラウド、さっきから一体何を言っている、」
何を言い出したのか自分でも分からないくらいだから、ヴィンセントは到底納得できなかったらしい。クラウドの頬を掴んで顔を近づけようとしたが、クラウドは頑なに腕を突っ張って首を振った。
「だめだって、潮の匂いがして気持ち悪いし、さっきの食事も脂っこくて不味かったし、ほんとにむりなんだって、」
思いつく限りの言葉を羅列するが、言えば言うほどそうじゃない、と言い訳したくなる。そうじゃないんだ、あんたに抱かれたくないわけじゃなくて、そんなことを思ってんじゃなくて、違うんだって。なのにそれらは口から出てこない。隙間なくくっついたヴィンセントの下腿は既に熱を持って、離れるどころかぐい、と足の間に押し付けられて、そうされて嫌どころか体の中をこじ開けられる感触がありありと蘇って、体は勝手に甘く疼き出しているというのに。なのに、潮騒のうねる音が耳にうるさくまとわりついて離れない。頭の中を掻き回されるような訳の分からない苛立ちに、何よりクラウド自身が一番混乱していた。
そんなこちらの胸中など、ヴィンセントからしたら知る由もないのは当然のことだろう。大体誘ってきたのはクラウドではないかと、普段のポーカーフェイスは一体どこに消え失せたのか、じりじりと焼け付くような眼光が明らかに不満を物語っていた。
「
……
分かった」
が、ヴィンセントはそれ以上のことをしようとはしなかった。滅多にない大きな溜息を一つ吐くと、大きな躯体を引きはがすようにして起こし、横にどさっと音を立てて寝そべった。
そうなると途端に寒気を感じて、慌てて体を起こす。ヴィンセントは不貞寝を隠しているつもりなのか片手で目を覆っていて、あまり見せることのない子どもっぽい仕草に思わず笑みが漏れそうになる。口の中を噛んで笑みを押し殺しながら、そろりと体を下の方へと移動させた。
「ヴィンス
……
あの、口で、するから」
「
……
なに」
「口でするから、ゆるして
……
」
ジッパーにかけた手を、さっと伸びた大きな手ががっちりと掴んでくる。
「やめろ、
……
いい、そんなことはしなくて」
「でも」
「いいから、やめてくれ。
……
止められる自信がない」
ヴィンセントの目は情欲よりも怒りに滾っていて、それさえクラウドの体の内をぞくりと震わせる。混乱は未だに去らなかったが、喉の渇きだけはいつも以上にあって、唾液が口内にこみ上げてくるのが分かる。
クラウドはヴィンセントの目を見つめたまま、ハイネックのジッパーを見せつけるように下げてみせた。
「いいよ
……
あんたが満足するまで、全部飲むから」
掴んでいる手の力が弱まったのを感じ取って、クラウドは今度こそ笑って見せる。
服の上から固く張り詰めているところに唇を押し付け、柔らかく歯を立てて食んでやると、はぁ、と諦めの詰まったような大きな溜息が聞こえた。どうなっても知らんぞ、とぼやく声も聞こえたが、無視する。多分、ヴィンセントが本気でどうにかしようとしたら、クラウドは抗う術を何一つ持っていない。この腕を引き千切ってでも意のままにしようと思えば、この男はできてしまう。クラウドの中には、矛盾する二つの気持ちが両立している。あんたはそんなことしないよ、という気持ちと、あんたがどうしてもそうするというなら仕方ないから全部受け入れるよ、という気持ち。腕を引き千切られるのは嫌だけど
――
「
――
あ。ケット、おやすみ」
ふと思い出して、クラウドは脱ぎ捨てた服に向かって言った。
フードの中からぴょこん、と這い出た猫型ロボットは、いやあいつ気付いてくれはるかなとドキドキしてましたわ、とぼやきながら電源のある場所までとことこと歩き、そのままくたりとと眠るように丸くなる。
おやすみ、というクラウド(もしくはヴィンセント)の言葉でケットは充電モードになる。充電できるときにしておかないと、道中いきなり白目を剥いてばたんと倒れるケットの姿を見るのは心臓にあまりよろしくない。
丸くなりながらも耳がぴくぴくと小さく震える様子を暫く眺めていると、憔悴したような唸り声とともに後頭部を強く掴まれて股間へと押し付けられた。その手つきは容赦ないものだったが、クラウドは気分を害することなく、寧ろ笑いながら口を開けて舌を伸ばした。
* * *
ジュノンからネオ・ミッドガルへと向かう船は、コスタ・デル・ソルの港への経由を必要としない。ミッドガル市国の領土内にある、別の港へと直行するからだ。
その港から市街地へは、専用の地下ケーブルが走っている。その路線図は複雑怪奇で、中央管理部門の職員以外には知らされておらず、中にはダミーの線路もあると聞く。
ケーブルに乗り込むとき、クラウドはいつも在りし日のリーブの横顔がちらつくのだった。仲間に対しては物腰柔らかで、話し方も穏やかそのものだが、その顔が別の方向を向いたとき、そこには一分の情さえ排除する合理主義と実利主義の面が浮かんでいて、それがこの都市の構造にも表れているような気がしてならない。理も利もないと判断されれば、すぐさまスイッチを切られて線路の迷路の中に孤立化するのを想像してしまい、こいつだけは敵に回したくないと心底から思う。
進行方向に向かって並ぶ座席を見渡し、適当な空席に座ろうとしてヴィンセントに腕を掴まれた。何だよと口にする間もなく車両の一番後ろまで引っ張られて、窓際の奥の席へと追いやられる。何なんだよ一体と言う前にどさっと音を立てて隣にヴィンセントが座り、その座った場所が一般常識より大分近いというか二人の腕やら足やらがびたっとくっついて、クラウドは開きかけた口を閉じてそっと窓際に体を寄せて距離を取ろうとするとその隙を狙っていたとばかりにヴィンセントがより体を(勿論クラウド側へ)ぐっと押し込んできたのでクラウドの身体はべちゃっと窓に押し付けられた状態になったし片足はほぼヴィンセントの足の上に乗り上げていたし、だから一体何なんだとさすがに腹が立ってヴィンセントに文句の一つも言おうと振り向いたところ一見いつもと同じ表情だがしかし温度が氷点下に冷え切った赤い目と合ってしまい、クラウドは再び口を閉じてそのまま顔を窓の方へ逸らそうとした。が、ヴィンセントはまたもぐいっと肩を組むように腕を押し込んできてそれがクラウドにとっては丁度いい枕替わりにはなるものの一種の閉じ込められた状態というか首を動かせない状態にもなってやっぱりどうしても腹が立ってヴィンセントの足を思い切り踏みつけた。いや、踏みつけようとした。しかしその前にもう一方の手でざらりと太腿を撫でられて、残念なことにクラウドの足はそれだけで力が抜けきって、たった数ミリ宙に浮かしただけで終わってしまった。
もう我慢ならないとクラウドは口を開こうとしたが、先に開いたのはヴィンセントだった。
「さっき、お前が座ろうとした席の後ろ」
クラウドの足を撫でた手をすっと上げて、長い指で手前の方を指す。
「
……
が、何だよ」
「座っているのは昨日、船の中でお前に馴れ馴れしく話しかけてきた奴だ」
「
……
そうだっけ。そんなこと覚えてな」
「クラウド」
「
……
なに」
「一週間だ」
「
……
なにが」
「一週間、お前を抱いていない」
「そっ、れは、あんたが全然来なかったからだろ俺が悪いんじゃな、ン、む、」
枕替わりの腕がしっかりとクラウドの首を捕えていて、逃げられるはずもなく。
ただでさえ間近にあった顔が呆気なくその距離をないものにし、周囲には普通に人もいるというのにしっかりと深くまで唇が覆い被さってきて、服を引っ張っても腕を突っ張ってもびくともしない。息苦しさに堪らず身を捩ると唇だけ僅かに離されて、それでも顔はまだ間近にあった。足を撫でていた手が躊躇いもなくすっと足の間に入ってこようとしたので、慌てて掴んで潜めた声で抗議する。
「ばか、こんなところで、」
「そうだな。こんなところですることじゃないが、そろそろそんなマナーは知ったことではないしどうでもいいと思い始めているところだ」
「やっ、だめ、やだって!」
「今日は嫌だと言われても、聞いてやれない」
「せめて場所は選べよっ、こんなところじゃ、」
何をしてもびくとも動かなかった体が、不意にあっさりと離れていく。
「こんなところじゃなければ、いいんだな?」
「あ
……
」
「ならどこでしようか? 人の目が気になると言うなら、トイレを貸し切りにでもするか?」
「やだよそんなの
……
家で」
唐突に、オレンジの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。
船を降りてケーブルに乗るまで、生鮮食品を売っているところなどない。持ち込みだって禁止されている。たかが駅構内の自販機で売られている無果汁の加工飲料に違いないのだが、その人工的な甘味料の匂いは先日来クラウドの胃の中に巣食っていた気分の悪さを不思議とすんなり溶かしたのだった。
クラウドは一つ瞬きをして、それからゆっくりとヴィンセントの頬に口づける。あくまで唇ではなく、頬に、そっと押し付けるようにして。そして唇だけを動かして、殆ど音のない声で囁く。
「家でしようよ
……
こんなところじゃ声も出せないし、楽しくない」
ヴィンセントも同じように、数度瞬きをする。
「家に着くまで後数時間も我慢しろ、と
……
?」
その声にはまだ若干の険が含まれていたが、気配が少し柔らかくなったのを感じて、クラウドは笑って頷いた。間近にある頭を今度はクラウドが腕の中に抱え込んで、長い黒髪を梳いてやる。
「ゆっくり寝てなよ。あんたどこでも寝るの得意じゃないか。それに昨日はあんまり寝てないんだろ」
「お前が隣に寝ているのに安眠できると思うのか
……
」
「ん。だからほら、おやすみ」
髪を梳いて、その頭に口づける姿は恋人のようでもあり、母のようでもあり。
ここでヴィンセントがそうはいくかと暴れ出したらクラウドには今度こそなすすべもなかったが、獣は大人しく引き下がることを選んだようだ。
少しだけやはり我慢ならないというように不満げに鼻を鳴らしてはいたが、両腕をクラウドの腰へと回し、額を胸に擦り付けるようにして、やがて諦めたように目を閉じた。
クラウドはそれを見届けてから、自身も目を閉じた。安眠できなかったのはこっちだって同じなんだと言ってやりたかったけど、それを言ったらもう収集が付かなくなって少なくともケーブルに乗っている間中ずっと喧嘩する羽目になるのは目に見えている。
ふっと体に軽い重力がかかる。騒々しい音を立てることもなく、ケーブルが家のある方向へと動き出していた。
こんな重力程度で体が揺れるはずもないが、ヴィンセントの手がクラウドの胸を引っ掻いていったのでこら、と頭に噛みついたら、腕の中からくつくつと笑う声がした。
地下ケーブルから市街地を循環する地下鉄へと乗り換え、そこから分岐する路面電車にまた乗り換えて、見知った景色にようやく帰ってきたなという感覚がしみじみと湧いてくる。
都市の中心部から少し離れた郊外ではあるものの、通りには昼間でも多くの人が行き交っている。高層の建物は少なく、開けた視界の遥か先に、かつての巨大遊園地のゴンドラが灰色の影となってひっそりと佇んでいるのが見える。生気に満ちたこちら側と、時を止めた向こう側。クラウドはこの風景に、何故か安らぎに近いものを覚えるのだった。旅の道中には体の中に常にある緊張が、少しずつ解けていく。
「
――
クラウド、どこへ行く」
歩き出そうとするクラウドの腰をヴィンセントがぐっと掴んでくる。
地下ケーブルからというか、その前の船中でも、ヴィンセントが必要以上に距離を詰めてびたっと貼り付いてくるのはもう仕方ないことなのかもしれないが(そうだろうか)、それにしてもと、クラウドはわざと聞こえるように溜息を吐いた。
「だって、買い物に行かなきゃいけないだろ。冷蔵庫、何にも入ってないんだから」
「そんなもの、後でどうにでもなるだろう」
「どうにでもならないよ。水道水しかないんだぞ。夜は、まあ、一食くらい抜いたっていいけど、明日の朝に飲むコーヒーだってないんだぞ」
「コーヒーならカームで買った分が少し残っているはずだが」
「港で没収されたの、忘れた? あんたほんとそういうところ
……
俺は、朝にあんたの入れてくれるコーヒーが飲みたいんだよ」
「
…………
」
最後は小声になった。大声で言うことでもないし。それにどうせ明日は一日動けないだろうし、そんな状態で買い物に行くなんてごめんだよと思いはしたが口にはしない。そんなことを言ったら火に油を注ぐだけだ。
小声で伝えた言葉はどうやら有効だったようで、ヴィンセントはそれ以上何も言うこともなく、マーケットへの道のりを大人しく付き従ってきた。
この辺りは郊外ということもあって、街並みは中心部よりレトロな雰囲気を持っている。駅前の広場を抜けるとテント式の屋台が並んでいて、木箱の中には色鮮やかな野菜や果物、スパイスやハーブが積み上げられ、木漏れ日の温かさとともに豊かな匂いがそこかしこからむせ返るように漂っていた。オレンジ、レモン、ネーブル、ベルガモット。今そこで捥いできたような香りがつんと鼻に突き刺さる。
クラウドはぴたりと、足を止める。ヴィンセントはそのまま立ち止まってしまったクラウドを不思議そうに振り返った。
「ヴィンセント
……
」
「? どうした、クラウド」
「コーヒーと、オレンジ」
「
……
それが?」
「沢山買ってきて。あとミルクも。俺は先に帰ってるから」
「待て、何か気になることでもあるのか」
「沢山だぞ、分かった?」
ヴィンセントの答えを待つこともなく、絡まる腕から猫のようにするりと抜け出すと、足早にその場を去る。
後ろからヴィンセントの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返ることなく自分の家の方向へと駆け出して行った。
「はぁっ、はあ
……
は
……
」
数年ぶりの我が家という感慨も何もなく、クラウドは寝室へと駆け込むなり、もどかしそうにクローゼットの奥からシーツを引っ張り出してマットレスの上に放り投げ、それをきちんと広げることもせず、くしゃくしゃの状態のまま上に横たわった。横たわるというより、シーツを被って丸まったというほうが正しいか。
微かな埃の匂いと、あとは染み付いたヴィンセントの匂い。自分の匂いも混じっているんだろうが、そんなものはどうでもいい。クラウドはミノムシの如く丸まって、顔ごとシーツに擦り付けてその匂いを堪能する。はあ、と荒い息がいつまでも治まらない。たかが数十分走ったくらいで、こんなに心臓がばくばくと伸縮して脈が乱れることなどない。クラウドは上気した顔で、片方の手はシーツの端を掴んだまま、もう片方の手でズボンの前を寛げさせた。片手で固く締めてあるベルトを外すのは難儀なことで、焦れったく最後は力任せに引き抜いて床へと放り捨て、ジッパーを引き下ろす。その中に手を突っ込んで自身を握り込むと、それは既にぬるりとしたものでねとついていた。
「はぁ、は
……
んっ、あ、ア、ぁ」
握り込んだ手を何も考えずただ上下に動かす。そんな拙いやり方でも、これがあの男の指だと思えば性感はあっという間に上り詰めて、シーツに包まったままの体がびく、びくと大きく跳ねる。深い息を吐き出し、やがてまたじっと動かなくなった。手と足がだらりと伸びていって、シーツの擦れる音がもぞもぞとする。半ば閉じた目で、服やシーツに飛び散ったものをぼんやりと眺める。濡れた手を少し動かすだけでくちゃ、と粘っこい音がした。
自分以外に動くもののない一人きりの部屋は、どこまでもしんと静まり返っていた。
くちゃ、くちゃと音を立てさせてぼうっとしながら、ベッドからはみ出した足をぶらぶらとさせる。靴を脱ぎたかった。長旅用の頑丈な厚底靴をぶらぶらさせたところで脱げる訳もないことは分かり切っていたが、気怠い身体には靴を脱ぐためだけに起き上がることさえ億劫だった。
「ン
……
」
仕方なく、靴を履いたまま、尻を少し上げる。靴を履いたままということは、ズボンが脱げないということだ。のろのろとした動きで、下着ごとズボンを膝あたりまでおろし、うつ伏せ気味の体勢でくちゃくちゃになった指を足の間に這わせていく。
「っ、ふ、んぅ
……
んん
……
」
眉根が悩まし気に寄せられ、クラウドは苦しそうな声を漏らした。全然、求めているものと違う。指を一本から二本、三本にして、くちくちと音が立つまで出し入れしているのに、気持ちいいところまで指が届かない。ヴィンセントの長い指なら、簡単に届くのに。彼の指を思い出して、顔をよりシーツに埋めさせる。遅い。早く。買い物なんてものの五分で終わるのに、何やってんだ。大体、吐き出すだけで欲が治まらなくなったのは、誰のせいだと思ってるんだ。あの街で落ち合うと決めたのに三日間も待たせて、それがどれだけ長かったか。駅に降り立って、足に馴染んだ道を歩いた瞬間、抱かれたくて堪らなくなって、あの場でもしヴィンセントがケーブルに乗車したときと同じようなことをしてきたなら、あの広場の衆目のある中でも犯されたいと望んだかもしれないくらいに。
――
かつ、と音がした。何の音かなんて考える必要もない、耳に住み着いているヴィンセントの靴が立てる足音。
続いてごとごとっ、と何かが続けざまに落ちる音がする。それが何かなんてもはやどうでも良く、クラウドは掴んでいたシーツを離して、音のしたほうへ手を伸ばした。
「
……
クラウド?」
「も、おそい
……
!」
部屋のドアから入って来たヴィンセントには、クラウドが何をしているか一部しか目に入らなかっただろうが、声も匂いも何もかも分かっていたはずだ。
ヴィンセントはベッドへと足早に近づき、着ていた上着を途中で床へ叩きつけるようにして脱ぎ捨てた。
「
――
ふぎゃっ!?」
ケットの不運さはその上着のフードの中で包まって寝ていたのが、それを忘れていたヴィンセントに床に投げ出された上に起きた瞬間声を出してはいけない場面を目撃してしまったことだろう。
慌ててもう一回シーツに隠れてしまったクラウドとベッドに片足を乗り上げたヴィンセントが同時に叫ぶ。
「ケット、おやすみ!」
「分かってますぅ! ボクが悪いんとちがいますぅ
……
」
泣きそうな声で放り出された上着の中にもぞもぞと潜り込むケットの哀れな後ろ姿を気にする余裕は、残念ながら二人は持ち合わせていなかった。
ヴィンセントは寝るとき以外着用している革手袋を放り捨て、白いシーツも引き裂く勢いで剥ぎ取ると、目を潤ませ、頬を上気させたクラウドがそこにいた。そればかりか、白い足を膝まで顕わにして、片手はどろどろに濡れていて。
「
――
待てと言われても、もう待てんぞ」
「い、から、はやく、もう、」
ヴィンセントの地を這うような低い声に、クラウドは切羽詰まった高い声で返す。余裕なんて最初からない。どんな声を自分が出したかなんて省みる暇もない。ただ、ヴィンセントが目をすっと細めて無意識にか舌なめずりをしたのを見て、クラウドも生唾をごくりと飲み下した。
「あっ
……
ぅ、」
ヴィンセントは無言で、クラウドの両足をまとめて抱え上げると、捩じるようにしてクラウドの胸につくくらいに折り畳んだ。
ズボンを脱がさないままだったので、足を自由に動かすことができなかった。膝から下のズボンが拘束具のように絡みついて、開くことさえもできやしない。クラウドが脱ぐのを面倒くさがったように、ヴィンセントも面倒だったようだ。クラウドの邪魔でしかない靴やらズボンどころか、自分の服さえ脱ぐことなく、折り畳んだ足を見下ろしながら、最低限のベルトを外してクラウドと同じように床へと放り投げ(ケットには当たっていないので大丈夫)、中から既に猛った自身を取り出して、自分の手で軽く扱く。
その僅か数秒の間、クラウドは熱に潤み切った目で、ヴィンセントを見上げていた。
もう少しで、ずっと前から待ちわびていたものを、ヴィンセントは与えてくれるはずだ。たっぷりと、クラウドがもう無理だと泣き喚いても、暴力的な快感で全て塗り潰してくれる。
閉じた足の間、ヴィンセントを受け入れる場所を、長い指が確かめるようになぞって
――
ヴィンセントがぐっと上半身を前に傾け、クラウドの顔を覗き込んで来る。
唇は触れなかった。でも、キス以上に濃密な気配がそこにはあって、散々待てを言い渡されてようやく餌にありついた獣の射貫くような赤い目が、クラウドの全身をじっとりと汗ばませる。
ぐ、と固く張り詰めたものが尻の穴に宛がわれて、触れた部分からじんとした熱と痛みがじわりと広がっていく。
「う、く、ぅ
……
」
挿入は、ゆっくりだった。内壁を押し広げるように、こじ開けるようにして腹の中を浸食していく。擦れる部分が熱くて、どくどくと脈打つのさえ伝わって来る。吐く息が震えて、これだけでもう既に呼吸もままならなくなっていた。
「
……
クラウド」
「あ
……
ヴィンス
……
」
ぼやけていた視界が、名前を呼ばれてクリアになる。目の前にヴィンセントの顔があって、そうだと分かった瞬間に生温かい涙が筋を描いて流れ落ちた。
両手で頬を挟まれて、唇を深く重ねる。互いに目を閉じることなく、探り合い、曝け出すように。濡れた音を立てて、舌を舐め合って、息が苦しいのに、離れてほしくないと思う。上体が捩じれて苦しい体勢の中、クラウドは片手を伸ばしてヴィンセントの髪を掴み、首を抱き込もうとした。
でも、それは叶わなかった。今までゆっくりだった動きが豹変し、ヴィンセントはさっと上体を起こして、クラウドの足をぐ、と抑え込む。
「ヴィ
……
ぁ、あ、あッ!」
途端にずぶりと深く埋め込まれた。腰を無造作に掴まれ、がつがつと突き上げられる。打ちつけるたびに肌がぶつかって、張り付くような湿った音を立てた。
いつものヴィンセントなら、もっと丁寧に、時間をかけて、全身を隅々まで愛でてくれるのに。そんな思いが、頭を掠める。今までの飢えをすぐさま満たそうとするような直接的で激しい動きに待ってと言おうとしたが、喉からは甲高い喘ぎ声しか出てこない。ヴィンセントに余裕がなかったように、クラウドにだって余裕など全くなかった。ヴィンセントにしがみつこうとした手は中途半端に、揺さぶられるまま宙をさまよっている。
長いストロークでこじ開けられた場所の更に奥深くまで広げられて、そこに熱く固いものを埋め込まれて、中からぐずぐずと溶けていく。足を閉じさせられているからか、それとも久しぶりだからなのか、中の動きがいつもよりありありと感じられて、その動きに絡みつくように腹の中が蠢いている。力の入らなくなった体を思う様揺さぶられ、何もかもが堪らなく気持ちいい。内股がひくひくと痙攣し始めて、早くも絶頂が近づいているのが分かる。
不意にヴィンセントの手が伸びて、クラウドの両足を掴み、自分の肩に担ぎ上げた。
そして腰を強く引き寄せて、ぐぅっと自身をより深くねじ込んで来る。
「
――
あ、ア、んぁああっ」
「もう、ほしいのか。これだけ待たせておいて、堪え性がないな」
逃れられない圧迫感に、クラウドは堪らず体を波打たせた。喉を反らして苦しい息を吐きながらも、ヴィンセントに向かって何度も頷いて見せる。皮肉交じりの口調にも抗う余裕なんて一つも残っていない。
「ほし
…
ぃっ、ヴィ、セ、ちょうだいっ、はや、くぅ、」
「
――
っ、全く
…
!」
ヴィンセントの、苛立ちとも焦りともとれる呻きが聞こえて。
ぐ、と圧迫が増したのと同時に、彼の首筋に浮き立つ血管と、流れる汗が見えて。
浅く早くなった挿出に、宙をさまよっていた手をぐっと握り込まれて。
顔が近づいて、キスをくれるのかと期待したらそうではなくて、耳元に口を寄せられて、ほら、飲め、と囁かれて。
「あッ、ぁあんッ、ぁ
――
……
」
腹の中に熱いものがたっぷりと注ぎ込まれるのを感じて、一際高い声を上げた。
達した体がぶるぶると震えて、苦しいほどの快感に耐えられずに白い喉を大きく反らす。
直接触れられたわけでもない性器から、腹にぽたぽたと力なく白い液体が垂れて、やがてシーツへと落ちて沁みを作っているのが涙でぼやけた視界にぼんやりと映っている。
腹の熱が緩い射精によるものなのか、それとも中に大量に注がれたからか、どちらなのか境目がもう分からない。
達したにも関わらず絶頂がずっと続いているような感覚で、クラウドは体を震わせながら自分の温かくなった腹を撫ぜていた。
「
――
クラウド、まだだ」
「
……
っ?!」
気怠い余韻に浸っていたところ、がつんと意識を揺さぶられるようにして体を持ち上げられる。
完全に力の抜けた体を起こされて、相変わらずズボンも靴もくっついたまま不自由な足をひとまとめに抱え上げられて、ヴィンセントの膝上にどすんと乗せられる。
ヴィンセントの顔は見えない。膝上に座らされ、後ろから抱きしめられている状態だからだ。
――
そして、座らされているということは。
「ぁあっ
……
?! まって、さっき、イッたのにっ
――
や、あぁ」
既に硬度を十分すぎるほど取り戻したものを再び腹の中に入れられて、中を知り尽くした動きは達したばかりの体にとって気持ち良さより苦しさのほうが勝ってしまう。
しかし手も足も力は抜けきっているし、足に至ってはヴィンセントに抱えられたまま指先一つ動かすこともできず、ヴィンセントのなすがままにされるしかなかった。
腰を上げて、落とされて、下から強く突き上げられる。
溺れるような感覚に陥って、クラウドは泣き出しそうな声をあげる。実際、大粒の涙がぼろぼろと零れていた。
「だめっ、ヴィ、だめって、まってぇ、てば
…
!」
「ふ、っ、クラウド、」
ぎゅっ、と後ろから強く腰を掴まれて。
「一週間分だ」
ごり、とねじ込まれて。
「やっ、ぁあアアああッ」
耳元で何より求める声で囁かれて、逃がそうとしない腕にしがみついて、クラウドは頭を振って泣いた。
熱い、気持ちいい、気持ちよくなってほしい、俺の体で、苦しい、出してほしい、また、さっきみたいに熱いのを、もっと、たくさん、欲しい、ほしい、この男の全部を、この
――
腹に。
「あ、あかちゃん、できちゃうぅ
…
っ」
――
愉悦の果てにクラウドは一体何を口走ったのか、自分でも分かっていなかった。
まってと何度言っても止まることのなかったヴィンセントの動きが、ぴたりと止まる。
不意に訪れた静かな時間に、クラウドは意味も分からず体をひくひくと痙攣させたまま、ただ与えられるだろう熱をずっと待っていた。
気が付くと、目の前に真っ白なシーツが広がっていた。目と鼻がマットレスの弾力にぶつかって、つんとくるような痛みにちかちかする。
顔面がめり込むほど、強い力で背中をベッドに抑えつけられたのだと気付いたときには、意識は既に飛びかけていた。
目の端に映るヴィンセントの腕が、無数の血管が浮いて、ぐん、と質量を増している。それと同時に、腹の中の強烈な圧迫感。
そしてヴィンセントの黒髪が、赤と白の交じり合った長い長い髪がクラウドの視界を覆い隠すように広がって
――
意識が、途切れた。
* * *
ヴィンセントの眠りは、あまり深いものではない。
隣に眠るクラウドが指先一つ動かしただけで意識は水面下に浮かび上がり、クラウドが体を起こしたら瞼は勝手に開くようになっている。何か用事でもない限り起きようとしないという一面もありはするが、眠っている最中でも外の気配を絶えず探っている感覚はもはや体の一部となっており、今更切り離せるものでもなかった。
だから、ヴィンセントが何者にも邪魔されず、自身の睡眠欲が十分に満たされたからという理由で自然に目覚めるというのは滅多にないことだったので、朝の薄光が瞼に染みてゆっくりと目を開けたときに感じたのは「よく寝た」という単純で珍しい充足感だった。
無意識に、手が左側を探る。ヴィンセントにとって何を置いても最優先となる存在に触れ、確かめるという行為は起きて一番に行う本能的なルーティンだった。
手にふさりとした、柔らかくて少しぱさついた感触。愛おしむような手つきでそれを確認するとともに、ヴィンセントの目が完全に開く。
次の瞬間、どごぉっ、と鈍い音が壁に炸裂した。
寝起きと思えない速度で跳ね起きたヴィンセントが、手にした柔らかくふさっとしたものを掴み上げ、壁へとぶん投げたからである。
「ぷぎゃっ!」
同時に上がる悲鳴。ぶん投げられた柔らかいもの
――
ケット・シーが叩きつけられた壁に数秒めり込んでいたが、やがて重力に負けてずるずると落ちる。
その様を寝起き特有のぼうっとした眼差しでヴィンセントは暫く見つめていたが(ケットと分かって起きた瞬間の緊張感は霧散していた)、後頭部をがり、と掻いて、ベッドからのそりと這い上がった。
「おはよう、ケット」
「おは
……
やないですよねえ他に言うことがありますよねえ?!」
ぽて、と床に落ちたケットがぴょこんと立ち上がって、怒りを顕わに振り向くが如何せん外見のかわいらしさからその本気の怒りがどうにも伝わりにくい。ましてや相手はヴィンセントである。ケットがどれだけ叫ぼうが拳をぷるぷる震わせようがどこ吹く風という表情でベッドの下に落ちているズボンを拾い上げ、淡々と着替え始める始末。
「すまん、まさかここにいるとは思わなくてな」
「ごめんで済んだら警察はいらないですよねえ?! そろそろ訴訟も辞さないですよ?! ボクを一体何やと思ってますのんストレスボールか何かやと思てませんか全くもう!」
ぷんすこ怒って地団太を踏んで見せれば、ヴィンセントの態度も口調も変わらないもののすまん、ともう一度謝られたのでケットもそれで良しとしたのかどうかは正直なところ、分からないのだが。
ケットは一旦怒りを鎮めて、元いたベッドの上へひょいと上り、床から拾い上げたTシャツを着こんだヴィンセントを見上げる。
「
……
クラウドさんのこと、聞かないんですか?」
神妙な声。ぺたんと下がった耳。もじもじと落ち着かない手。
ヴィンセントは何となくいつもの手癖で、ケットの頭をくしゃりと撫ぜてやる。そうするとケットの耳がぴくぴくと動くので、その動きは見ていて心地いいものがあった。
猫の人形と自身以外に動くもののない部屋を、改めて見渡す。カーテンの隙間から柔らかい陽射しが漏れて、床を穏やかに照らし出していた。きっと窓を開ければ爽やかな風を感じることができるだろう。良い朝とはこういうものを言うのだろうと思う。
「私が気付かなかったくらいだ。クラウドはそうと決めて部屋を出て行ったのだろう」
「それって、あの
……
」
「姿を消した、とも言うな」
ケットの耳がぴょこ、と跳ね上がる。が、ヴィンセントの口調は穏やかなままだった。様子もいつもと変わらず、ベルトを締めてから窓を開け、暫く風景を見下ろすなどしている。
「ケット、リーブに連絡を頼めるか」
「え、あ、はい、クラウドさんの捜索を?」
「いや。もうすぐ昼だ。昼食でも一緒にどうだと」
「へっ
……
」
暫し動きを止めるケット。変わらず風景を眺めているヴィンセント。その背の高い後ろ姿に、もう一度ぷるぷると拳を震わせる。
そしてその拳を振り上げて口を開こうとしたとき、突然扉が勢いよくばたん!と開いた。
「あなたねえそんな悠長なことをしている場合ですかッ!」
「り、リーブさん?!」
ケットが驚いてその名を叫んだとおり、両手で扉をぶち破ってこの静かな朝に怒声でもって闖入してきたのはリーブ・トゥエスティその人である。
勿論人形ではあるのだが、生きている当人だとどうしても錯覚しそうになるくらい、その姿には在りし日の面影がそっくりそのまま残っていた。
彼は当時と変わらぬ鋭い目でヴィンセントを見やっていたが、とことことやって来た小さな猫を目に留めるや、相好を崩して手を差し伸べ抱き上げる。
「ケット、久しぶりですね。元気にしていましたか? おや、毛がたくさんほつれていますね。所々破れもしている。後で繕ってあげましょうね」
「リーブさん、あの人ひどいんですぅ。何かゆうたらボクをボールのように投げつけるんですまるで一番最初に会うたときのことを忘れんぞと言わんばかりに。リーブさんからもそんなことしたらあかんってちゃんと言うたってくださいよぉ」
「はっはっはそれはいけませんねヴィンセント、大切にしてやってくださいよこの子も繊細なんですからねそしてその物騒な銃をお仕舞いなさい、久しぶりだというのにつれないですね全く」
「人の家のドアを破壊するのは物騒ではないというのか
……
」
呆れ果てた顔でヴィンセントはぼやき、寝室にいきなり乱入してきた侵略者に対して癪ではあったが言われたとおりに銃口を下げた。何しに来たのだと問う気力もなかった。ケットとリーブは情報共有のネットワークが繋がっているのだろうし、そうでなかったとしてもこの部屋に実は盗聴器やカメラが仕込まれていると言われたところで今更驚きもしない。かと言って許すわけでもないが。
扉を蹴破る勢い(実際に破った)で入ってきたリーブだったが、険しい形相は既に跡形もなく、いつもの柔和な面が表れている。ケットを抱っこしたままヴィンセントのほうを振り向くと、さて、と手を叩いた。
「それではお誘いもいただいたことですし、少々早いですがランチにしましょうか。久々に私の腕を振るうとしましょう、ああ冷蔵庫が空なのは存じ上げていますよ、ちゃんと材料は全て買ってきていますからねご心配なく」
「えっ、でもリーブさん、クラウドさんがいなくなったんです、ご飯なんて食べてる場合じゃありませんて!」
ケットが驚きの表情でリーブを見上げる。
まさかこの人までヴィンセントと同じようなことを言い出すとは、とでも言いたげな表情だ。
リーブの操作から切り離されてAIを搭載され、リーブと意識を共有しながらも別人(猫)格を持つに至ったケット・シーは、リーブとは少し違ってどこか純粋な幼子のような思考回路を持つようである。それは一体、誰が望んだことなのであろう。
ともかく、ケットの抗議にリーブは微笑んだまま片眉を上げ、ヴィンセントを見やるだけで口を開くことはなかった。
だからケットは仕方なく、とことことヴィンセントのほうへと向かい、その肩へとよじ登る。
「ヴィンセントさん、早くクラウドさんを探しに行きましょう。ボク見たんです、まるであの旅の頃のような思い詰めた顔をされて部屋を出て行かはって、でもボクはてっきりすぐ戻って来るもんやとばっかり
……
ねえ、聞いてはります? 何でそんなに落ち着き払っていられるんです!?」
必死の身振り手振りで言い募るケットとは対照的に、ヴィンセントは腕を組んで窓にもたれかかったまま、身じろぎ一つしない。それがケットにはもどかしいようだった。
ふむ、と一つ考え込むような素振りで、ヴィンセントが窓の遠くを眺める。
「落ち着いてなどいない。寧ろ、かなり取り乱している」
「大体最近のクラウドさんの様子もおかしかったし
……
へっ? とりみだして
……
どこを?」
「それに心配だ。お前の言う通り、ここ数日のクラウドの様子は確かにいつもと違っていたからな」
「ほぉん
……
取り乱す言うておきながら腕組んでこんなに冷静沈着に喋る人ボク生まれて初めて見ましたわぁ
……
」
「慌てて追いかけたところで見つかるわけでもない。クラウドがそうと決めて出て行ったのならば、こちらも腰を据えて捕まえるまでだ。
――
それに、これが初めてというわけでもない」
「ーーああ、そういえば、前にも一度ありましたねえ」
リーブが懐かしそうに苦笑する。それももう遥か昔の話で、だから笑っていられるわけだが。
一方、ヴィンセントは苦々しい表情を浮かべている。この男にとっては、遥か昔の話だからといって笑い話になど到底昇華できるものでもないようだった。
――
ともあれ。
「ならば、旧友と飯を食うくらいの時間を取ってもよかろう。最も、今でもWROの特別顧問など忙しい身分を買って出る酔狂な奴に時間があればの話だが」
「旧友と過ごす時間以上に優先させるものなど何一つありませんよ。
――
いい白が手に入ったんです。久々の再会をゆっくり楽しもうじゃありませんか」
この二人は素を曝け出すなどということは基本的にやらない者同士だが、珍しくこのお互いの前では特に意図もなく素が出るようなのである。
昼も間近ののどやかな空気の中、今やすっきりとした表情で見合う二人を、間に挟まれた猫一匹が不思議そうに見比べていた。
* * *
さてここでリーブさんお手製、これぞ男の三分間クッキング。
本日はいい白が手に入りましたので、お魚のお料理にいたしましょうかね。
といっても相手はヴィンセントさんですからね、本来ならクラウドさんに喜んでもらえそうなアペリティフに合うちょっとした一品から始めて次に温野菜のサラダにスープ、そしてメインに食後のコーヒーと美しいコースを考えていましたがヴィンセントさんはそういうの好きじゃないですからねコースなんぞ気取って一品一品ちまちま持ってくるんじゃない出すならいっぺんに出せ時間の無駄だろうがってそういう野暮なお人ですからね、仕方ないですから予定を変更してワンプレート料理で本日はいきたいと思います。
今の時期脂の乗って美味しいお魚といえばハイこちら、鯖。海から離れたミッドガルでもこんな新鮮なお魚が手に入るんですよ嬉しいことですね今日はその新鮮な鯖を贅沢にサンドイッチにしちゃいましょう。それにちゃんとお野菜も摂っていただきたいですからねお野菜たっぷりのトマトソースを添えたいと思いますといっても時間をあまりかけるわけにはいきません何せ相手はヴィンセントさんですから本当ならじっくり時間をかけてトマトペーストを作っていきたいところですがそんなことしてたらもう寝ちゃいますあの人。そうなるとクラウドさんが起こさない限り起きませんし食べてもくれません。なので手早くささっと簡単トマトソースということでにんにく玉ねぎ人参セロリの皮を剥いたらこの野菜クラッシュ機へどーんと突っ込み一気に粉砕しましょうハイお見事木っ端微塵。それらをオリーブオイルをひいたフライパンで炒めますああ立ち上るにんにくの香りがいいですね。トマトだけはちょっと丁寧に皮を湯剥きしてざく切りにして、これもフライパンに突っ込みましょう。塩胡椒で味を整えて仕上げに白ワインを少し。これを暫く煮込んでいる間にサンドイッチの準備です。バケットはお水を少々ふりましてアルミホイルで包んでオーブンにセットしておきましょうね。さて本日主役の鯖ですがこれも卵絡めてパン粉つけてパリッと揚げてなんてことしてられません。何せ時間が。ああ口惜しい。なので粉だけでよろしい。塩胡椒ふって粉はたいてパセリ混ぜてオリーブオイルとバターを熱したフライパンに皮のほうから乗せていい焼目が付きましたらひっくり返して溶けた脂が身に染み込むようにここでねオイルとバターをお魚全体に満遍なくかけてあげるとよろしいですよこういう一手間をちょっとだけ丁寧にかけてあげている間にそういえばと思い出したりしますね昔にあったよしなしごと、これといって大きなことではないのだけれども何だか心に引っかかっているようなこと、クラウドさんもヴィンセントさんも普段は黙して語らずのお方ですからお二人がぽつりと発された何気ない言葉の一つ一つが何か別の意味を持っていたように思えてきたりなどする。心に思う言葉と口にする言葉が別物であることが当然のようなお二人が交わす言葉に一体どれほどの意味が込められているというのか。そんなことをつらつらと考えていましたら鯖がいい塩梅にこんがり焼き上がりましたそれではカットしたバケットにソースもお魚もたっぷり挟んでついでにピクルスなども添えましてハイ出来上がり。さあ冷めないうちにいただきましょう、とっておきの白を一緒に。旧友との再会を祝し、暫しの休憩を供するために。
「さあできましたよ、お待たせしました
……
おや? お二人とも楽しそうですね」
「あっ、リーブさん見てくださいこれ!」
皿を運んできたリーブの目に入ってきたものは、ダイニングテーブルにどかりと座るヴィンセントと(家主だから許されている)、その膝上にちょこなんと座らされているケット・シー。リーブを見てぱっと両手を上げたケットに、ヴィンセントが小さく動くな、と注意する。ヴィンセントの手には針と糸。ケットの背中が破れてしまっているのをちくちくと縫い合わせているところだった。すんませぇんと答えるケットの声はいかにも嬉し気で楽し気だ。耳も小さくぴこぴこと動いている。
「良かったですねえ、ケット。それにしても、中々器用な手先をしていらっしゃる」
「傷の縫合の応用だ。見た目なんぞ気にしていないからな、そこはご主人様に直してもらえ」
「うふふ、ええんです。ボクこれ今日の記念にずっと残しておくんです」
糸を爪でぷちんと切って、ケットの背をぽんと叩く。
ケットは嬉しそうにぴょこんと立ち上がってリーブに縫い痕を見て見てと見せに行った。
リーブは同じようにうふふと笑ってその縫い痕を嬉し気に撫ぜた。
「さ。では、乾杯しましょうか
――
変わらぬ友情に」
「それは嫌味か?
――
再会に」
グラスを小さく掲げて、一口で飲み干す。
そして早速大きい口を開けてバケットにかぶりつき、噛み千切り、一つ頷く。指で口を拭い、更に大きい口を開けてもう一口。
ヴィンセントは美味しいとも何とも言わないが、どうやらお気に召したようだとリーブは苦笑して、グラスに軽く口をつけた。
「調査にも長い間ご協力いただき、お二人には感謝しています。正直なところ、最初は観光旅行がてらお願いするくらいの軽い気持ちだったのですが、こうも長引くとは思ってもみませんでしてね」
「構わん。どうせ時間はある。それに調査という名目で各国を渡り歩くのも悪くはない。気になるのは、東側か」
「そうですねえ
……
ミッドガル崩壊後、ジュノンは近辺の都市を併合し連邦を名乗ってはいますが、アンダージュノンでは依然として独自議会を求める声は大きい。あの情勢では、現政権も長くはもたないでしょう。労働党に政権交代となれば議会設置も実現するかもしれませんね。そうなると、少々面倒な小競り合いが発生するかもしれない。こちらとしても、何か手を打っておくことは必要でしょうねえ」
「こちら、とはどの立場で言っている? 調査くらいは構わんが、面倒ごとはごめんだぞ」
「はは、そういうところ相変わらずですねえ。いい加減分かっていますよ、あなたの性格は。大体、私だって好き好んでやっているわけではないんですから、何せ元は一介の建築屋ですからね」
「一介の建築屋はWROの特別顧問なんぞ引き受けんし人形を使って喋ったりもしないだろうが」
「ただの成り行きですよ。それにこの子のことは人形とは呼ばないでください、ケットという名があるんですから。気軽にぶん投げたり落としたりしないように。分かりました?」
「それはすまん」
テーブルの上で専用に用意されたミルクと鯖をうまうまと食べていたケットが顔を上げてうんうんと頷いている。ヴィンセントも素直に詫びた。頭も下げずに、サンドイッチを食べながらではあったが。どうやら悪いとは思っていたらしい。
「あとですねえ
……
」
リーブが思い出したように目を薄く細め、眉間に手を当てながらグラスをくるりと揺らす。
「おやすみを言うタイミングをもうちょっと早めるべきですね、あなた方は。
……
いや待ちなさい物騒なものを再び取り出そうとするのはおやめなさい聞いてはいませんし見てもいませんから。当たり前でしょうが。ただそちらもお気をつけてと申し上げているんです」
「言われなくても分かっている。悪趣味な奴め」
「人の話を最後まで聞かないんですから全く
……
しかし、ケットが見たという昨日のクラウドさんの様子は、看過はできませんね」
リーブは穏やかな口調を崩さず、ヴィンセントに一体何があったのかと鋭い視線を投げかける。
ヴィンセントがちょうどサンドイッチを食べ終わったタイミングでそうするのだから、基本的には優しい男である。
ケットも耳をぴくんとさせる中、ヴィンセントは食べ終わった手を叩き、ワインで口を注いでからナプキンで口を拭い、無造作にナプキンをテーブルへと放る。その仕草は粗野ではあっても、下品ではない。一定以上の階級に属していないと身につきようのない品を何故かこの男は備えていて、しかしそれは彼の気質に反するようにも思えて、リーブは昔もそれを不思議な気持ちで眺めていたものだった。
「
――
子を持つというのは、どういう感覚だ?」
ヴィンセントが暫くあらぬ方向に向けていた目を戻してようやく答えた内容が、まさか自分に対して言われたものと最初は思わず、リーブも空を見つめながらトマトソースの煮込みが少し足りなかったんじゃないだろうか、などと考えていたところだった。
「
……
は? 今、何と?」
「ケットのことをこの子、と呼んだだろう。お前にとっては子どもと同じなのかと思って聞いたまでだ」
「ですからどうして? 子どものことを聞くんです?」
「クラウドが、あかちゃんできちゃう、と」
「ケットおやすみなさい!」
そのときリーブが咄嗟に行ったことはまず口に含んだ白ワインを吹き出すことではなくケットの耳をばっと塞いで強制睡眠に移行させることだったのはさすがとしか言いようがなく、これもリーブの優しさの表れなのかと考えると感慨深いことである。
ただし、ケットを眠らせてからヴィンセントの方を向いたリーブの顔にははっきりと憤怒の表情が表れていたが。
「あなた何を言おうとしています? そっちがいつも聞いたらただじゃ置かないと仰っておきながら一体何を?」
「すまん。私も混乱している。だからクラウドの言葉をそのまま伝えたまでだ」
「ははあ、ここまでぽんこつになったあなたを見るのは私も初めてですから何とかして差し上げたいと思うのは山々なんですけれども」
「最初は戯言かと思ったんだが
……
」
「違うんですか?」
「腹の中の形が違った」
こほん。
リーブが一つ、控えめに咳をする。ヴィンセントの表情は変わらずだ。それはそうだろう。彼は最初から笑い話にしているわけでもなければ、猥談に興じているのでもない。至って真面目に、事実のみを話しているのである。
彼が旧友と呼ぶ、今は人形として生き続けている男に対して。
なので、リーブも居住まいを正して、ヴィンセントに向かい合う。
「
……
一応確認のために最初に聞いておきますが、あなた本当は女性と浮気したなんて話ではないんでしょうね?」
居住まいを正した後のリーブの第一声を聞いたヴィンセントの表情がどういうものだったかというと、ドアを開けたらそこにいたのは宝条でしたという状況であったとしてもここまでの表情はしないんではないかというようなものであったので、リーブはすぐさま咳払いして、ワインで口を湿した。人形であっても一瞬心臓が止まるような思いをしたのはさて何年ぶりだっただろうか。
気を取り直すように、手を緩く組み合わせる。
「それにしても、JENOVA細胞には困ったものですね。これだけ時間が経っているというのにまたそのようなことが
……
ああ、疑いもしませんよ。以前も似たようなことが実際にありましたからね。最も、それらは今となれば笑い話で済むようなことでしたが」
「今思い出したところで笑い話ではないが
……
」
「ふふ、あなたにとってはそうでしょう。
――
吸いますか?」
そう言ってリーブは胸ポケットから小さな青緑の箱を取り出した。ヴィンセントの方へと傾け、今やレトロとなった紙巻煙草を差し出す。ここにもしクラウドがいたとしたら、こんな行動を取る必要はないのだが。
ヴィンセントは小さく頷き、遠慮なく一本を指に挟んで口に咥えた。リーブが差し出してくる火をつけて軽く吸い、肺に巡らせた煙をゆっくりと吐き出していく。吐き出された白い煙は音もなくすぅっと部屋の隅へと流れて、やがて消えていった。
今のリーブは同じように吸うことはしない。が、立ち上る紫煙を目にすると、頭のどこかがじんと痺れて弛緩していく感覚が蘇る、ような気がする。0と1の電気信号にそのようなグラデーションは存在しないのだろうが、膨大な記憶の片隅にあるはずの実体を伴った感覚を追体験するような気分でいることは、決して悪いものでもない。
「
――
以前に、考えていたことがあるんです」
ヴィンセントが目だけでこちらを向く。
その赤い目には少しの憂いが滲んでいる。
無意識なんだろうが、長い足を組み、普段より椅子の背にしどけなくもたれながら一人で煙をくゆらせている様は、どこか人間離れした妖艶さがあった。
「白い鯨
――
オメガのことです。あなた方が旅に出られてからというもの、ふとしたときに頭から離れなくなりましてね
――
伝承では星が終焉を迎えるときに現れ、全ての生命を終わりから始まりへ導くとあります。まあ、あくまでも伝承ですがね。実証はされていません。何せ実証されるときは星が終わるときなんですから、実証されようがない。一体誰が何の確証があってそんなことを伝えたんでしょう
……
それはともかく、あくまで伝承ではあるもののそんなものが目の前に実在する以上、オメガが伝承のとおりに終わりから始まりへと導く箱舟であったとして」
ヴィンセントは視線をリーブに向けたまま、煙草の灰をサンドイッチが乗っていた皿へと落とした。
そんなことして、もしここにクラウドさんがいたら物凄く怒られるのに、などということも思ったりする。
「ではなぜ、カオスが必要なんでしょう」
グラスを口に運ぼうとしたが、中身は殆ど空だったことに気付き、ボトルを手にしようとしてヴィンセントがさっと横から取った。リーブのグラスに注いでから、自分のグラスも一杯に満たして、また一口で空にする。
「オメガなんて人の想像を絶するような存在を星が作ったのであれば、星の終焉に導くのはオメガ単体で行えばいいことでしょう。わざわざカオスという対の存在を作って、役割分担をすることもない。そのような行動をするウェポンは他に観測されていません。今のところですが。オメガが全ての生命を刈り取り、運んで、始まりへと導く。そのほうがオーダーの仕組みとしてもシンプルです。何故カオスなんてものを入れて敢えて複雑にする必要があるんでしょう」
「考えてみたら、当たり前のことです。複雑でなければならないんですよ。星の終焉なんてとてつもない大事を一つのオーダーで済ませてしまったら、エラーが出たときに取り返しがつかない。わざとプロセスを複雑にして、互いの鍵が照合しなければ発動しない仕組みになっている」
「更に、あなたというイレギュラーまでが発生した。本来ならオメガの対として動くはずのカオスが変質して、カオス本来の役割を果たさなかった。そしてオメガは発動することもなく、空に浮かんで漂うだけとなった
……
しかし、カオスが変質したとするならば、その相互作用でオメガも変質したとは考えられないでしょうか
……
長い時を経て、カオスの役割を、オメガが果たす方向にスイッチが切り替わったのだとしたら」
ふにゃ、と柔らかい声がした。
テーブルの上、リーブの手のそばで寝ていた(眠らされた)ケットが目を覚ましたのである。
そのあどけない声にリーブは目尻を柔らかく緩ませると、小さな頭を何度も撫でた。ケットは撫でられるたびににゃあ、と笑った。
「ふふ、話が少し逸れましたね
――
ヴィンセント。一人だと、間違いますよ」
「
……
ん?」
「クラウドさんもです。あの旅でよく分かったはずでしょうに何を今更。さあ、ランチタイムは終わりました。あらボトルも飲み切ってますねあなたいつの間に全部飲んでたんですか。私、二口しか飲んでませんよ。そのために持ってきたわけですからいいっちゃいいんですけども」
「
……
そうか」
ヴィンセントは煙草を皿に押し付けると、静かに立ち上がった。
その表情から、彼が一体何を考えているのか読み取るのは中々に難しいことである。行く方向は勿論決まっているだろうが、そこからどうするのか、迷いがあるのかどうか。
ただ、もし彼が悩んでいるとしたら、原因は相変わらず、常に同じところにある。リーブはそのことをよく理解していた。
「ヴィンセント」
既に歩き出そうとしているのを呼び止めて、リーブも立ち上がった。
「私が『最期に』伝えたことを、覚えていますね?」
「
……
忘れるわけもない」
ふ、と笑う。
「それは良かった。では安心して送り出せます。行ってらっしゃい。そしてちゃんとここにお二人で帰ってくるんですよ。あなた方の家もこれから必要なものも、全て用意して差し上げましたからね。もうすぐ、冬至の祝祭がやってきます。今日のランチなんて目じゃない、腕によりをかけて一人では食べきれないローストターキーを準備しておきますよ。心配はしていませんが、ご無事をお祈りしています」
頷きのみを返して背を向けようとしたヴィンセントに対して、ケットが叫ぶ。
「あっ、ボクも行きます! 連れて行ってください、ボクもクラウドさんのこと心配なんですから!」
ぴょこんと立ち上がって駆け寄ろうとするのを、ヴィンセントの手が柔らかく押し留めた。
「お前はここで待っていろ。ご主人様と一緒にな」
「せやけど、」
「クラウドを連れて帰ってくる、ただそれだけのことだ。それまで、いい子で待っていろ」
そう言って、ケットの頭を撫でてから、ヴィンセントは部屋を後にした。
リーブもさて、後片付けもちゃっちゃとやってしまいましょうかね、と器用に皿を持ってキッチンへと姿を消した。
一人残されたケットは、クラウドが閉め、ヴィンセントが閉めたドアをずっと見つめていた。
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