呼吸が完全に寝息になったちいさいのを、俺は子供用布団の方に寝かせてやった。枕には申し訳程度に手ぬぐいを敷いておく。あと手首の組紐は、やっぱり、何度確認しても濡れてない。
それで俺が思い出したのは、ちいさいのがこの墓のの世界に飛ばされてきたときのことだ。見覚えのある背広の上着に包まれた、ちいさな体
――その背広の内ポケットの中、辛うじて判読可能だった名刺に『帝国血液銀行 水木』の文字を見て、俺と墓のはだいたいの事態を察したんだけど。
その名刺も水に濡れていたし、他全てが余すことなくすぶ濡れ、なのにちいさいのの手の中にあった煙草の箱だけは、元の形を維持していた。
古いデザインの煙草の箱は、以前はちいさいのが肌身離さずポケットに入れて持ち歩いていたけど、少し前に、ちいさいのの宝物入れであるところの木箱に収められた。その木箱は今、床の間の隅に置かれている。どうしてもそこに置きたいのだ、とちいさいのが主張した為だ。
そしてちいさいのは時々、その箱をじっと見ている。あの紺色を取りだして手に取ることはなく、ただじっと見つめている。何を思っているのか
――何となく推察できることはある。
僕の記憶が確かなら、木箱の置かれた位置は、部屋のちゃぶ台の下座側というちいさいのの定位置から見ると、『昔、水木さんが座っていた方向』に重なる。あくまでちいさいの視点から見たら、だけど。
……だから、俺はその箱について、ちいさいのに尋ねようとは思わなかった。
ちいさいのの、静かな寝息を聞きながら、俺の渡した組紐が濡れなかった理由を考える。水木さんの煙草の箱と同じく、これだけは持って行かれたくない、と願ったちいさいのが、無意識に霊力で守ったからだろう。
まだ濡れたままの髪を、指先で梳いてやる。
ちいさいのにはまだ、縋り付ける誰かが必要だ。
……今その位置に俺がいるのは、嫌でも分かる。ちっとも嫌ではないけど。
俺が、ちいさいのの父さんや水木さんの『代わり』になれるとは思えない。それでも、一緒にいてやることだけはできるはず。
……藁一筋の自負、という言葉が甦る。これも、元の世界で読んだ本にあった言葉だ。どの本だったかは忘れた。
ちいさいのの眠りが深そうなのを確認して、ひとまず立ち上がる。俺が着ていた黒いTシャツも、ちいさいのを世話するうちに随分濡れてしまったから、着替えておこう
――そうして部屋の箪笥をあけると、俺の服数枚の隣に、男物の背広の上着が収められているのが視界に入る。あのとき、ちいさいのを守るように包んでいた一枚。
つい、自分の服ではなく、そちらを取りだして広げてしまった。
僕の世界の水木さんが着ていたのと、まったく同じもの。
あの懐かしい匂いはしないけど、思い出すには充分だ。
丈もデザインも、肘の部分のヘタり方も、よく見ると袖口を補修してあるのも、その補修された部分の形まで、僕の記憶にあるのと全く同じ。
……水木さんが仕事から帰ってきて、嬉しくて飛びつこうとする僕に差し出された、温かな腕と掌。受け止めてくれた胸。その体を包んでいたのと全く同じ上着だけが今、ここにある。
「
……お義父さん」
自分にだけ聞こえる声で呟いて、僕は古い背広を少しだけ握りしめた。今の僕の手は、あの頃ほど小さくない。その気になれば、この布一枚を引き裂くことくらい、簡単にできてしまう。だから、傷めないように
――泣きわめいて我を忘れるようなことは、もう僕にはできないから。
声に出さないまま祈る。
どうか、
……どうか、水木さんの愛が、ちいさいのにも届きますように。
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波箱
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