氷紀
2024-10-19 16:22:13
8045文字
Public 迷い込んだ彼らの話 番外
 

空にはきっと同じ月

『迷いこんだ彼らの話』番外。ゲタくんとちいさいの。
高くんと沢くんが温泉に行っている間に起こったちょっとした事件。



 結論から言えば、墓のとちいさいのはカラスの伝言通りの場所にいた。ちいさいのは全身ずぶ濡れ、墓のはずぶ濡れに加えて泥だらけ、という惨状で。そしてその惨状を目にしたとき、俺は墓のがカラスに伝言を託した理由を理解した。
 ちいさいのが限界だったのだ。
 路地の壁に向かって座り込み、自分の手で両耳を押さえて、体をぎゅっと縮めて震えているちいさいのの姿は、俺がよく知ったものだ。ただ、耳を押さえる左手首に浮かぶ、何か縄で縛られたような赤い痕は――どうにも、穏やかじゃない。
「何があった?」
 思わず真顔で問いかける。墓のは何か一瞬たじろいだ様子を見せたが、やがて観念したように話し出した。

 ――今日の挨拶回りは、街外れの沼から川あたりに済む河童の一族のところだった。ちいさいのが『自分より大きな自然の水』は苦手だって事前に伝えていたから、河童たちは沼と川の側に上がってきてくれたという。さら小僧とは違って、このあたりに住む河童たちはとても気の良い奴らだから、挨拶自体はごく和やかに進んだのだそうだ。
 ただ帰り際、向こうにも子供の河童がいて、彼らは無邪気に『もっとあそぼう』と言って、ちいさいのの手を捕まえたらしい。そして周りの誰も止める間もなく、ちいさいのは川に引っ張り込まれてしまい――体内電気の危険性に思い至った墓のは、周りの河童たちに近づくなと叫んで、後を追って飛び込んだ。つまり、墓の今の風体は、泥がたっぷり堆積した川底近くまで行った結果の泥だらけ、というわけだ。

「すぐ助け出せたとこまでは良かったんですが……河童の子たちも謝ってくれましたけど、ちいさいのはそれどころじゃなくなっちまった」
「そうだろうネ……
 俺の声は半分うめき声になっていた。
 ちいさいのは、相当我慢したに違いない。水神の恐怖が心に甦った状態で、それでも街外れから寺の近くのここまで、歩いてきただけでも――でもとうとう限界がきて、寺まであと信号ひとつのところで、座り込んでしまったらしい。
「下手に抱き上げたら、僕が昏倒させられかねませんしねェ」
「そりゃナ。俺呼んだのは正解だヨ墓の」
 ちいさいのは、濡れた成人男性の体も多分ダメだ。俺以外は。……下手をすると、水そのものよりダメだろう。ちいさいのが、元の世界で最後に触れた『大人の男』が誰で、どういう状態だったのか考えれば。
 そしてちいさいのの体内電気は強烈だ。ウカツに浴びれば俺だって半日は気絶する。

 だから、俺はまずちいさいのの隣に膝をついた。そしてずぶ濡れのちいさな背中をぽんぽんと二つ叩いて、それから背骨のあたりを掌で包むようにしながら、二往復。
 それだけで、耳を塞ぐちいさいのの手が、ふっと緩んだ。ああ、やっぱり分かってくれた――これは、ちいさいのが俺にしがみついてくるたびに、繰り返してきた動きだ。元を正せば、水木さんが小さい頃の僕を包んでくれたときのやり方、だったんだけど。
 手の緩んだ耳元に向かって、やわらかい声で呼びかける。
「ちいさいの、ゲタ吉にいさんが迎えに来たヨ。聞こえる?」
……、」
 返事は、吐息が一つ。弾かれるように顔を上げたちいさいのの片目に、今にもあふれ出しそうな涙が盛り上がっていた。ちいさな唇が震える。……未だに、ちいさいのは俺と沢城以外に喋れない。二人きり、或いは三人きりだと確信できる場所以外では、ちいさいのの言葉は出てこないんだ。
 かわりに、手が伸びてくる。飛びついてくる動きに逆らわず、俺はちいさいのを抱き留めた。……ちいさいのの全身から、震えが伝わってくる。単に寒いっていうのもあるだろうけど、それ以上に、怖い、って感情が流れ込んでくる気がした。
「もう大丈夫、ちゃんと迎えに来たからナ」
 俺の肩に必死にしがみつきながら、ちいさいのは繰り返して頷いた。俺の背中の霊毛パーカーを、ぎゅう、と握る動きを感じる。
「よしよし、大丈夫。大丈夫だヨ……
 言葉でそう繰り返し、背中を撫でてやりつつ抱え上げ、ゆっくり立ち上がる。墓のの、ほっとしたため息が一つ、聞こえた。

 寺に戻ってきて、墓のが風呂に入っている間、俺は手ぬぐいでちいさいのの体を拭いてやっていた。ちいさいのと二人部屋の和室は、いつも通りの風景だけど、やっぱり静かだと感じる。今日は高山と沢城がいないから。
 着替えは取りあえず、いつもの寝間着の浴衣でいいだろう。学童服はあとで洗濯するとして、濡れた髪をもう少し、しっかり拭いてやりたい――その前に。
 浴衣の紐を結んでやりながら、俺はできるだけ静かに問いかける。
「なあ、この赤いの、どうしたんだ?」
 赤い痕を浮かべる細い手首には、前に僕が渡した組紐が巻かれたままだ。そして妙なことに気がついた、組紐だけが濡れてない。
「あ、の……んと、」
 ちいさいのがうつむいて口ごもる。しゃべれるようになったとはいえ、やっぱり、まだ話すのは苦手なんだ。でも、ちいさいのの頭の中にいろんなことが渦巻いているのは分かってるから、俺はちいさいのの言葉を黙って待ち続けた。痛々しい赤い痕を、そっと撫でながら。
……こわ、かった、の。かっぱ、さん、あそび……たかっ、た、だけ、でも」
「うん」
「みず、……こ、わくて、でんき、……だ、けど、そ、したら、かっぱ、さん……ころ、し、ちゃう。だ、から、……ゲタ吉にいさん、のお、まもり……こ、やって」
 ちいさいのが、俺の手をやんわりと解いた。
 そして左手首の組紐を、右手の人差し指で手首側から引っかけて、引っ張る。
「だめ、って。……そした、ら……とま、ったの」
「そっかァ」
 河童の子に水に引き込まれて、怖くてパニックを起こして体内電気を放ちかけたけど、お守りの組紐を腕に食い込ませて意識をそっちへ持っていき、集中することで暴発を防いだ。……一文にまとめればそういうことか。
 ちいさいのの組紐は、俺の髪とご先祖様の黒い霊毛をあわせて編んだものだ。ちいさいのを『悪いもの』から守るための簡単な術を込めてあるけど、霊力を制御するような力はない。それでも、物理的な痛みで気を逸らす役には立ったらしい。
 紐の痕は、まだ痛々しい色を浮かべている。きっと明日か明後日には消えているだろうけど、相当強く引いて食い込ませたのは一目で分かる。
……みん、な。だい、じょうぶ……だ、った?」
「ああ、河童たちも墓のも、何ともない。みんな無事サ……、」
 俺はたまらない気持ちでちいさいのを抱きしめた。くしゃりと撫でた茶色い髪はまだかなり濡れていて、でも構っていられない。
 怖かったろう。痛かったろう。……だけど、自分の力が下手をすれば周囲の誰かを殺傷することを理解していて、自分を傷つけてでもそれを防いだちいさいのの心は、出会った頃より確実に強くなってる。
……くるし、……かった。こわ、かった、……みず、つめた、い、から、だが、……やぁ」
 今になって恐怖がぶり返してきたのか、ちいさいのは俺にしがみついて泣き出してしまった。こうなるとしばらく動かないのは分かっているから、俺はいつものようにちいさいのを抱えて座る。ちいさな背中をぽんぽんと二つ、それから背骨を包んで二往復。あとはゆっくり――昔々、水木さんが僕にそうしてくれたのと同じ速度で、撫でてやる。
「そうだナ、怖かったよなァ。……それでも、頑張ったな」
 しゃくり上げるように泣き続けるちいさいのに、可能な限り柔らかな声で、呼びかける。
「怖いのに負けなかったのも、河童たちを傷つけなかったのも。……えらいぞ、ちいさいの」
 勝手に記憶が甦る。僕が今のちいさいのくらいだった頃、力の制御では苦労した。髪の毛針が暴発したり、瓶詰の瓶を粉砕したり、後に指鉄砲として運用することになる霊力を制御し損なって、ちゃぶ台を粉々にしたり。……今から思えば、水木さんはこっちの意味でも大変だったはずだ。育てる相手が人間の赤子だったら、しなくていい苦労の一つ。
 俺は前に、ちいさいのの体内電気の直撃をもらったことがあったけど、もし水木さんに同じことがあったら、人間のあのひとは消し炭になっていたんじゃないか? いやでも、水木さんは幽霊族の血をしたたかに浴びていたから、案外死にはしなかったかもしれないけど――どうだろう。幽霊族の成人でも半日は昏倒する代物だ。やっぱり危ないには違いない。
「もう大丈夫だからな。大丈夫……
 心に浮かぶ様々なことはそっと内に秘めて、俺はちいさいのの背中を撫で続ける。しゃくり上げる間隔が少しずつ遠くなっていき、かわりにちいさいのの体がぽかぽかとし始めて、あ、これは寝る体制だと把握する。
 まだ髪は濡れっぱなしだけど、マアいいか。起きたら改めて洗ってやればいいことだ。俺はちいさいのがすっかり眠ってしまうまで、ずっとちいさな体を抱きしめ続けていた。