氷紀
2024-10-19 16:22:13
8045文字
Public 迷い込んだ彼らの話 番外
 

空にはきっと同じ月

『迷いこんだ彼らの話』番外。ゲタくんとちいさいの。
高くんと沢くんが温泉に行っている間に起こったちょっとした事件。

 
 穏やかな昼下がり、誰もいない寺の縁側で、煙草をふかす。
 高山と沢城が不在で、更に墓のとちいさいのが挨拶回りに出かけてしまえば、誰もいなくなるのは当然だ。俺がこの寺で独りになるのは、本当に久しぶりだった。
 草だらけの庭と濁った池は相変わらず、ただ風だけが天気の割に涼しくて、ああ、もう秋なんだなと実感する。

 空を見上げれば、抜けるような青空と、細くて白い昼の月。

 季節の流れは元の世界と変わらない。あと、月と星の動きも。
 星の巡りが『同じ』範囲だからこそ、術で飛んだり飛ばされたりができるんですヨ、とは墓のの言葉だ。だとすると、高山や沢城の世界とも、この星の巡りは同じなんだろう。……もちろん、ちいさいのの世界とも。今頃、この寺に暮らす全員の『元の世界』の空に、同じ形が浮かんでいるんだろう。

 元の世界で読んだ本を思い出す。あれは確か、政府に逆らって投獄された作家の、手紙を集めた本だったっけ。……あの頃の、せめてもの息抜きが紙の本だった。僕は悪魔の兵器クレイモアじゃないと必死に言い聞かせるように、その時に手に入るものを読んでいた。えり好みしている余裕はなくて、タイトルまでは覚えていないし、中身の記憶ももうだいぶあいまい。
 でも、その作家が手紙の中で、月を愛していると書いていたのは覚えてる。牢獄の中の自分にも、北の故郷に残してきた母にも、同じ時間に同じように見えるのは、星と月くらいだから、と。

 ――あの世にも、同じ月はあるんだろうか。
 あらざるの地にはなかったけど。

 三本目の煙草が燃え尽きて、傍らの灰皿に焦げたフィルターを押しつける。
 この煙草も、元の世界にあったのと全く同じ味だ。かつて水木さんの手に、父さんの手に、そして今は僕の手に同じ香りがあるのは、僕にとっては大きな慰めだ。この墓のの世界では、僕の元の世界より、ずっと簡単に煙草が手に入る。……それが良いことなのか悪いことなのかは、何とも言い難いところだとは思う。幽霊族には特に何の影響もないけど、人間にとって煙草は毒だ。僕の元の世界では、子供の前で煙草なんて、って感じになっていた。そっちの方が健康的なのは間違いない。
 ……むしろ、そう考えたら余計に、僕は煙草が手放せない。
 甘くて苦い煙草の香りと、古い畳の匂いがほんの少し混ざって、思い出すのは水木さんと暮らした家。ちいさいのも、あと沢城も、きっと面影は感じてるだろう。匂いの記憶は、一番深く残るから。
 だから僕は、僕には効かない毒の煙で、何度も何度も、水木さんと父さんの記憶を甦らせては刻みつけてる。会いたい、恋しいと思う気持ちが煙に混ざって、いつか僕を殺す毒になってくれたらいいのに、と思っていたのは――ちいさいのに出会うまでの、ほんのいっときの記憶。

 四本目に火を付けて、独りで笑う。
 ちいさいのが来てから、僕の中の根本的な何かは、一気に塗りつぶされてしまった。放しちゃいけない、離れちゃいけない、その気持ちは今も続いてる。
 ただし、切迫感だけはだいぶ和らいだ。墓のの術式が正式にかかったのと、あとちいさいのに組紐を渡したお陰だろう。でも、ちいさいのに対して無条件に感じる『強烈な情』は、全く揺らぐ気配もない。
 同胞を守ろうとする幽霊族の本能かも、と最初に指摘したのは、意外なことに高山だ。高山の世界にはそういう妖怪がいるらしく、そこからの推測とのことだけど。
 墓のも、ない話じゃない、と頷いた。墓のもちいさいのにはやたら甘いから、まあ、何かしら心当たりがあったんだろう。
 何しろ俺たち全員、それぞれの世界における、幽霊族最後の一人なわけだ。だからちいさいのは、本来なら絶対に有り得ないはずの、『自分より年下の幽霊族』というわけで――それで、何か知らない感覚が開いてしまった可能性はある。それも、可能性でしかないけど。……父さんだったら、何か知っていたかもしれない。

 大きく息をつくと、昼下がりの空に紫煙が溶けていった。
 遠くから鳥の声が聞こえて、凪いだ時間が過ぎていく。
 静かだ。

 いろんなことがあったな、と思う。そしてこれからも、いろんなことがあるんだろうと思う。幽霊族の時間は長い、絶望に沈んでいようと思えば、いつまでだって沈んでいられる。あらざるの地へ逃げ込むことだってできる。……だけど、僕に注がれた水木さんと父さんの愛が、僕を生かした。百年以上生きてきた場所はめちゃくちゃになって、文字通り全てを失って、――それでも、僕の心がまだ誰かを愛せると教えてくれたのは、ちいさいのだ。

……父さん、水木さん」

 会いたい。もう一度、声が聞きたい。
 単に恋しいってだけじゃない。
 水木さんはあの頃、どういう気持ちで僕を抱き上げていたのか。父さんはどんな想いで僕を見守っていたのか。……それを聞いてみたかった。
 聞ける筈ないって分かっていても、どうしてもそう思ってしまう。

 ちいさいのと一緒にいてやりたい、その気持ちだけは確かだと言い切れる。だけど、僕と同じように何もかも失ったちいさいのに、どんな言葉や気持ちを渡してやったらいいのか、僕は毎日ずっと手探りだ。墓のも気を回してくれているから、そこはとてもありたい。でも、ちいさいのはもう、父さんと水木さんの愛を知ってしまっていた。……ちいさいのが失ったものの大きさは、これ以上ないほど分かる。代わりの何かで埋められるわけがない。
 だから僕は、ちいさいのを愛する手がかりが欲しくてしょうがなかった。父さんなら、水木さんなら、どうするだろう。どうしただろう。……僕は未だに、あの二人を不器用に真似ているだけだ。

 白い月に煙を吐いて、苦笑を深くする。
 どう足掻いたところで、なるようにしかならない。……分かってる。

 ぼんやり考えを巡らせるうちに、四本目が灰になりかかっていた。
 一度に五本は吸い過ぎな気がするから、さすがにこれくらいにしておこうか、と思ったところで――カァ、と一際高いカラスの声。
 俺に呼びかけてる、と気がついて視線を巡らせた。
 寺の敷地を囲う荒れた生け垣から、妖力をまとった黒い翼が飛んでくるのが見えた。煙草を灰皿でもみ消し、腕を伸ばして受け入れの意志を伝える。
 カラスは僕の腕に止まると、カァカァとふた声鳴いて――墓のの伝言だ、とは音の響きですぐに分かった。翻訳するとこうなる。
『迎えに来て欲しい。二丁目の信号の角。動けない』
 ――何かあったか。
 ただ、迎えに来て欲しい、なのが気になる。助けて欲しいとか、妖怪に襲われたとかじゃなくて、単に迎えの催促……
 しかしカラスに問いかけても無意味だろう。ただの伝言役でしかないからだ。
「わかった、確かに聞いたヨ。伝言ありがと」
 俺がそう言うと、カァ、と一声鳴いて黒い翼は去って行く。
 灰皿に火の気がないことを確認して、俺は縁側から立ち上がった。