続きを始める話

あらうけで載せていたものです
穂刈が記憶をなくしていて、再会してお互いの誕生日をそれぞれお祝いするころの話
穂刈がボーダーを去ったのが20歳、22歳で再会してます




3.

 寝苦しい夜に、一枚だけかけていた薄手のブランケットを引き剥がした。寝るまえに冷えていたはずの室内は、蒸し暑さに負けてすっかり生ぬるい。
 冷えた麦茶でも飲もうと冷蔵庫を開けて、コップに注いだ。渇いた喉に通る液体は心地良かったが、すぐに暑さによって体はだるさを覚える。仕方なく、エアコンをつけた。冷たい空気を真下で浴びて一息つく。
 蒸し暑さは長雨のせいもある。それに加えてあの落雷だ。窓が割れるかと思うほど轟音で鳴り響く雷は、三門では珍しかった。雲の合間をそっと見ると、もしかしたら稲妻が走るのが見えるかもと期待したが、今のところ目にしていない。
 もう一度麦茶を入れる。雷の光が部屋を照らす。注ぎ終えるころ、遠くで雷の落ちた音がした。風の流れも早いから、そろそろ遠ざかるだろう、と荒船は予測を立てる。
 いつもは本部の、窓も見えないような場所で作業をしているから、雨が降ってもわかりづらい。通りすがりの知り合いに、「今日は傘があった方がいいですよ」と声をかけられ、初めて傘の必要性がわかるくらいだ。特に朝見た天気予報が外れた日は厄介になる。傘の持ち合わせがないからだ。
(こんな嵐を目の当たりにするのは、いつぶりだろうな)
 こういう嵐の日は、気持ちを波立たせてしまう。

 ──今から六年まえ、二十歳になった荒船の誕生日の帰り。誕生日を祝ってやるからと影浦に言われていた。かげうらのお好み焼きがいい、と先に申し出ると「欲のないやつ」と言われはしたが、明後日の方を向いておいた。逆になにも言わずにいると、周りが勝手に盛り上がり、凝り出したら困ると思ったからだ。
 その日も今日のような嵐だった。傘を持っていなかった荒船は、ひどい風と雨で視界不良になり、何度か屋根の下で休憩をしつつ「かげうら」に向かった。そのときは当然横に穂刈がいて、
「これは濡れるな、傘があってもなくても」
 とぼやいた。現にまえを歩いている会社員が、傘をさしているのに風を受け止めきれず苦戦していた。
 かげうらに着くとまずはタオルを渡され、貸切の室内でずぶ濡れなのを冷やかされた。けれど、来ているメンバーも同じような様子だった。みんなで風邪を引いたら忍田さんに怒られる、と言いながら、なるべく暖を取って飲み物もビールをやめて、明日からの任務に備えつつそれなりに楽しんだ。荒船の初めてのビールはお預けとなったが、荒船自身は気にしなかった。
 嵐はやまずに雨を降らし続け、帰りは車、タクシー、公共交通機関、とそれぞれ別れた。穂刈と荒船はしばらく店内にいてサービスのデザートをつついていたが、さすがに夜も更けてきて出ることにした。
 かげうらの引き戸を開けると吹き込む風に驚いて、一歩下がると穂刈の肩に当たった。そういえば、あのとき穂刈は風呂上がりのような匂いをさせていた。お好み焼きの匂いに紛れて少ししかわからない程度だったけれど、荒船にはたしかに感じられた。わざわざ風呂に入って身だしなみを整えてきたのか、と思うと唖然とした。長年一緒にいる上に互いのだらしないところだって見せてきているのに、誕生日だからちゃんとして行こう、と考えた穂刈の考えが、荒船にはほんの少しだけほほえましかった。
(まあみんなも来る席だったしな)
 と言い聞かせても、やけにはっきり聞こえてくる自分の脈拍をごまかせなかった。
 そのころには、お互いにおそらくお互いを好きだったんじゃないか、と思っている。曖昧にしておきたいのは、穂刈に言葉で言われたわけではなく、自分からも穂刈に告白したのではないからだ。そしてこのあと家に帰る途中、影浦が貸してくれた傘の下でキスをした。お互いの気持ちなんて、なんの確認もしないまま。
 上唇が触れ合うと、今度は下唇を噛まれる。苦しい、と思った。意外と戯れのようなキスでも呼吸するのがままならないものだと、初めて知った。嵐混じりの外の空気が玄関でうるさい。荒船の家に着き、びしょ濡れの傘をたたみ切らないうちにまたキスをした。さっき食べたデザートのアイスの味がする。遠い空で雷が鳴り、空が揺れるようにうなった。
 悪い、と穂刈は謝ったが、体はなかなか離れなかった。舌まで絡んだような気がしたが、うすい下心もなしにそんなことをするだろうか。二人で乱れた呼吸のまま、じっとしていた。ようやく口を開いた荒船が、
「このあと、お前はどうしたいんだ」
 と聞いても、穂刈は黙ったままだった。

 穂刈に先を委ねたのは卑怯だった、とあとから反省する。とっくにどうにかなっているのは荒船だって同じなのに。このとき相手の手を引いて、続きをしてもいい、と言えたら良かったと今も後悔している。
 そうしたら穂刈は、記憶を消さずにいただろうか。
 ──荒船の上の階に住む誰かが、楽器を慣らしている。キスをしたときにも同じように聞こえた。

 ◇

 相手のことを好きになって、それが叶わないものだったり、あるいは関わっていたのに憎らしさに変わってしまって記憶を消したい、と思うのは、意外と多い話だと言う。本部長から聞かされたときは驚いて、まじまじと彼の顔を見てしまった。
「そういう場合、記憶を消したいんですけど、とか、簡単に進言してくるやつばかりだな。大抵はC級で、記憶の処理をソーシャルゲームの設定か、システムぐらいにしか捉えてない。入隊試験できちんと説明をするはずだが、そうは言っても人は人だ。もたげた好奇心を捨てることはできずに、安易に聞くんだろうな」
 だからそういう隊員には、厳しく諭すのだと言う。
 記憶封印措置は、ゲームでいう、リセットとは違う。やり直しをする代わりに脳への影響も懸念される。ボーダーで関わりがあったのなら、記憶を失えば周りと話はずれるし、自分だけがなにも知らない状況というのも作り出されることもある。
 なにより、ボーダー業務に支障をきたすのであれば、そんな感情はバッサリと切り捨てなくてはならないのだ。任務の完遂と命がかかっている現場で、くだらないことに機密を使っている暇はない。そうしている間に、同期はランクを上げて先輩たちに挑んでいるのだ。
 ボーダーへの志願者が著しく増えた時期に、特にそういった人間は増えたという。
「記憶が消えても、そのときの思いや恐怖すら完全に消えるのはどうかは怪しい。あくまでこちらは記憶を取り除くだけだからな」
 忍田は説明を終え、他に質問があるか? と問いかけてくる。荒船は弱く首を横に振った。
……いえ、ありがとうございます」
「後輩になにか聞かれたのか?」
 爽やかな忍田の横顔に、言葉を発するのが難しくなる。荒船はもう一度首を振る。今日はこれから業務が続き、今はまだ午前の休憩時間なだけだ。重い気持ちを無闇に吐露 とろして、仕事に支障をきたすわけにもいかない。

 帰りに、自動販売機で缶コーヒーを買った。普段はブラックばかりを好んで飲むが、今日はミルクが入っているのを飲みたい気分だった。本当は週末だし酒でもと思ったのだが、コンビニで手を伸ばしかけてやめる。酒は次の日目覚めが良くならないし、明日はせっかく天気がいいと天気予報で言っているから、早朝からランニングをしたかった。汗と一緒に、どうもここ最近自分にまとわりついている憂鬱さを取り払いたかった。
 記憶封印措置の話は、たとえ忍田じゃなくても、同じ話をしただろう。C級隊員に多いということも、好奇心ゆえに人は安易にその話題を出すのだということも。そして忍田は濁したが、上級隊員になって措置を頼む人間も例外なくいて、そういう場合完全に記憶を消したとしても、胸に宿していた感覚や感情までは完全に消し切るのが難しいということも。
 ──紛れもなく、穂刈のことだ。本人の名前を出さない忍田は、やさしかった。
 荒船が記憶のない穂刈と会っていることは、上層部の何人かはわかっている。けれど咎められはしない。穂刈はボーダーを離れるとき、封印する必要がないと判断されているにも関わらず、自ら記憶を処理してほしいと申し出た人間だ。たとえ荒船との接触で記憶が戻っても、彼なら心配はないと思われている。
 あくまで、ボーダーの業務遂行上は、だ。
(それにあぐらをかいてるようなもんだ)
 荒船は、缶を大きく傾けた。ミルクのまろやかさが、喉に絡む。昼間、まだ夏は余りある体力を使って、太陽をギラギラと輝かせていた。だから夜でもその名残で蒸し暑い。自分で買っておきながら、コーヒーにわずらわしい甘ったるさを感じてしまう。いつものようにブラックにしておけば良かったと後悔した。けれど、食道を通った液体はもう吐き出せないし、腹部を重たくもたれさせる。
 ああ、と荒船は胃もたれの正体に気づいた。
(そういや、昼飯食い損ねてたんだっけ)
 忍田と別れたあと、急に本部で慌ただしくなり、記憶封印措置についてあれこれと思い悩む時間すら取れなかった。そこはありがたかった。普段から重苦しく一つの事柄に囚われる性格ではない。ただ穂刈のことは、いつも片隅に必ずあって、たとえば夜に眠るとき、昼間の食事を取り終えて一息ついたとき、崩れるように湧き出してくる瞬間がある。
 だから昼食を忘れたのかもしれない。荒船は腹の虫が鳴り始めるのを、そう解釈した。
 金曜日の夜だ。明日は休日という会社員がATMのまえに列を作っている。コンビニで買い込む客もいれば、その隣にあるチェーンの居酒屋へ入る姿もある。数日まえの嵐と打って変わって、穏やかな夜だ。暑さだけは腰をすえてそこにあるが、冷たい酒の看板をまえに人々はひとときそれを忘れる。
 本部で共に働く仲間は、アフターファイブという言葉に興味がない。むしろ、酒での付き合いから相手のなにかを見出すような関係は通り越している。戦闘員としての経験上わかることだが、戦場はなによりのコミュニケーションの場だ。それがなければ生きていけない。生死に関わる状況の中、的確な指示も、有能な判断も、駆け抜ける脚力も必要になる。酒でそれらは解決できない。できないから自己鍛錬をし続ける。
(無駄、とまでは思わないが)
 思わないのは、酒の席が少なからず緊張をときほぐす、というのはわかっているからだ。相手の考えも読める。だからきっと、ある程度相手を察することも容易になる。
 その無駄を、無駄ではないと教えてくれたのは穂刈だった。
 酒の席とはいかないまでも、誰かとの食事の席を設けたり、通話をしたり、メッセージを送ったり、穂刈は細かい男だった。細かくて、でもそれがあったから半崎も、加賀美も、いち早く荒船隊に打ち解けられた。他の同い年の人間と話すときも、穂刈を通じて知り合うことも多かった。いつから荒船は、そういう細やかなものをしなくてもいいとふたたび思うようになったのか。きっと五年まえからだ。横にいた男がボーダーを去るために一歩足を踏み出したときから。
 荒船は忍田に質問をしたときより、もっと激しく首を振った。頭にこびりついたものをいっそ取り去ってしまいたかった。ぐらぐらと脳を揺らして、片隅に追いやっていたはずの、ほんのささやかだった過去の日常が今でも彩り豊かに蘇るのを防ぐ。防ぎたかった。防げなくて、荒船はため息をついた。
 ──ただ、ここで自分の思いに正直になって開き直ったからと言って、穂刈の記憶が蘇るわけではない。荒船がたとえ今も穂刈を思っているとしても、過去を覚えていない今の穂刈と同等に見ることは難しいかもしれない。
 穂刈が一つ、昔を思い出せば、こいつはそれを消した男なんだ、と自覚することになる。ボーダーでの思い出を、荒船のことを、消したくて消したんだ、と痛いほどわからせられることになる。
 缶をゴミ箱に捨てた。歩きながら、荒船は推測する。
 万が一記憶が蘇り、荒船を好きだったと思い出したら?
(もしも思い出したら)
 やっぱり、横にいるのはお前がいいよと言って、また遠ざかろうとする穂刈を捕まえておくことが果たしてできるのか。あのころよりもっと自分たちは大人になった。白とも黒ともつかないことを言って、逃げることもできる。
 一夜限りにしておくことだって、場合によっては。
(だから、続きをしてもいい、って言っちまうんだろうか、俺は)
 そこまで考えて、荒船は眼前に広がる明るい店を一軒一軒見つめた。熱っぽい視線を送り合う男女が、多分会社の歓送迎会かなにかの帰りだろう、ホテル街に消えていくのを偶然視界に入れてしまう。
 いや、きっと偶然ではなくて、あえて意識がそこに向いたのだ。人は意識しているものを自然と視界に入れやすい。



4.

 誕生日おめでとう、と伝えられるのは、今日が記念すべき十回目となった。伝えられる側は相変わらずボーダー職員の制服を着ていて、昨日アイロンをかけたばかりのシャツとスラックスで受け入れている。伝える側は今日はスーツではなくて、昨日買ったばかりだというカジュアルな服装をしていた。
「祝ってもらうのは五回目だ」
 と先に口に出した。荒船は酒のグラスを傾けながら、赤い顔でつぶやく。確認をするためだ。
「そうだな」
 と穂刈は笑っている。確認はできた。穂刈はまだ記憶を取り戻していない。
 荒船は張り詰めさせていた緊張の糸を緩める。今日も変わらず、穂刈と接することができると安堵した。記憶のあった年月を記憶がない年月が上回った。重ねていくのは、記憶のない穂刈との時間だけだ。膝の上の拳を握る。
 テーブルにあった食事が下げられ、新しい食事が運ばれる。格式ばった丁寧な料理を食べているわけでもない。ただ、個室のある居酒屋を選択しただけだ。けれど互いにいつも誕生日は服装に気を遣っている。二十二になって再会し、仲良くなって誕生日を迎え、その日から今までずっとそうだ。気を遣うのは服装までで、グラスに注がれるのはビールだし、安い料理で満足している。ワインやウイスキーの似合うころになってきたかもしれないのに、自分たちはこれでいい、となんとなく思っている。
「付き合いでもっといい酒飲むことあるだろ」
「あるが、どれも味がわかんねーよ、一緒に感じる」
「そうか?」
「荒船はあるのか、いい酒を飲むような機会が」
「ないな。それこそ、お前とくらいしか飲みにこない」
 うすく細めた視線の先に、穂刈の好きな鶏料理があった。「よそうか?」と聞くと、酒の入った気持ち良さそうな顔で「頼む」と言われる。糸唐辛子を乗せて穂刈の目のまえに運び、醤油と香味野菜の香りが鼻先をくすぐった。ビールが余計に美味くなりそうな香りにつられ、荒船もそのまま同じ料理を食べる。
 油ののった料理だが、穂刈は今日は食べると言う。日課の筋トレは健在のようで、
「その分休みの明日にちゃんと運動する」
 と話している。
(休み、なのか)
 そういう、小さな情報が荒船の頭を駆ける。駆けたまま走り去ってくれたらいいのに、しがみつくように脳幹にこびりついていた。
 明日荒船は、家で映画を見ようと思っていた。午前休だから溜めていた洗濯物をまとめて洗おうかと。見たことのある映画をBGMに、晴れる予報の天気をあてにして大きいものまで干してしまおうと。
 荒船の予定はもう埋まっている。だから穂刈が休みだからどうだというんだ、と自分の意識から情報を追い出そうとしていた。なのに。
「荒船は休みなのか、明日は」
 と穂刈が、グラスの縁を撫でながら聞いてきた。こちらを見る目は半分酔いで濡れている。穂刈は酔いすぎるとどうなってしまうんだろうか。いまだにそれは見たことがなかった。いっそ酔いつぶしてしまえばいいのではないだろうか。二日酔いと友達になって、きっと明日は思うように動けない。けれど荒船はそこまで酔うほどの酒を飲む勇気は持ち合わせていなかった。いなかったし、いつもの癖で二日酔いになるまえに己をセーブしてしまうだろう。節度のある生活を送りすぎて、すっかりそれに慣れてしまった日ごろの自分を恨んだ。
「明日は」
 そう言って酒を飲む。言い淀んでいるということがバレたくなかった。穂刈が荒船の言葉を待っている。濡れている目に特に意味はない。欲があるとか、そういうわけではない。荒船は穂刈の欲のある目を知っている。体験したことがあるからだ。嵐の夜に傘の下、玄関の中でキスをしかけてくる穂刈の姿は。
「休みだ」
 言い終わると、脈拍が早くなったように感じた。実際に手を当てて測ったわけではない。測りたくなかった。どうせ耳の裏あたりからゾワゾワと、脈の早さをわからせるような拍動を感じさせてくるだろう。今さら酔いで視界が揺れた。
「そしたらもう一軒行かないか、この間教えてもらったところがあるから」
 酔いが回るのが今日は早そうだ。荒船はうなずきながら、水を一気に飲み干した。

 走り抜ける光を、まぶたの裏で捉えた。光はすぐに遠ざかったが、また向こう側からやってきて、すぐに荒船の横を通り過ぎる。不思議な現象だな、と思い、まぶたをゆっくり開いてみる。
 荒船の体は、車に揺られていた。助手席に乗っているのは見覚えのある後頭部で、運転席には見知らぬ男性がいる。初老ぐらいの、穏やかな声の持ち主で、助手席の人間と笑い合っていた。すぐにここがタクシーの中だとわかる。自分は後部座席で横になっていたんだな、ということも。穂刈は気さくに運転手と話していて、「ここを左です」とも告げていた。どこへ向かっているのだろう、と記憶をたどり、ここが自宅の付近ではないかと思い当たった。
(どうして俺の家に)
 一瞬、光の帯に目がくらんだ。が、すぐに意識を持ち直す。
 うっすらと記憶がある。ここへ乗り込むとき、穂刈に住所を聞かれたような気がした。知ってるはずなのになんで聞くんだろう、と荒船は口ごもった。けれどすぐに思ったのだ──この穂刈は、俺の家を知らないんだ。
 もしかしたら、そんなような言葉を口に出してしまったかもしれない。けれど今、何食わぬ顔で話しているのを見ると、どうやら自分はそこまで失言せずに乗り込めたのではないだろうか。胸を撫で下ろし、街並みに漂うように体が浮いている感覚でいる。まだ当分酒は抜けなさそうだ。
 車のスピードはさほど早くない。住宅街で、しかもここは横断歩道も多い。帰り着くまでにまだ時間はかかるだろう。荒船は目を閉じた。
 ──そしてふたたび目を開けると、もう外の匂いを嗅いでいた。時間の経過を全く感じなかったが、どうやら眠ってしまっていたらしい。「ありがとうございました」と運転手に礼を述べる穂刈の声が、近くで聞こえる。次いで「荒船」と何度か自分を呼んでいた。
「疲れてたのに悪いな、二軒も付き合わせて」
 荒船の視線がまだおぼろげなことを確認しつつ、穂刈が口を開いた。バス停のベンチに降ろされたらしいことがわかる。自宅まではここから歩いてあと少しの距離だ。
「歩けるか?」
 と確認される。うすれた視界の中で、穂刈は荒船をどうにか立たせようとしていた。肩を貸そうか、抱えるか、悩んでいる姿を見て、荒船は居た堪れなくなり立ち上がる。
「悪い、もう平気だ」
 ベンチに手をついて体を起こすと、しゃがんで気を遣っていた穂刈も立ち、安心した顔を見せる。
「疲れはしてたが、二軒付き合ったのは別に仕方なくじゃない」
 それに、と荒船はつけ足した。
「俺の誕生日なんだ、考えてくれてたんだろ」
 仮に違うとしても、そう思いたかった。案の定、
「もちろん」
 と返す穂刈がいることは、想定済みだった。荒船の知る穂刈はそういうやつだ。
「だから嬉しくて酒が回ったんだ」
 自分でも驚くほど無防備に笑った。穂刈も同じように、高校生のころより少し節のある通った鼻筋にしわを寄せて笑った。そうして笑うと、細くなる目線の先に荒船を捉えているのだ。荒船の体は震えた。
「寒いか?」
「いや、なんだろうな、わからない」
 この暑さで汗が冷えるわけがないのに、わからない、と適当なごまかし方をした。穂刈は心配そうに見つめている。もう視線をよこさないでほしい。荒船は腰骨から背筋にかけてをなぞっていくような震えを、必死に押し留めようとした。
「珍しくたくさん飲んだから、参っただけだ。気にするな」
「でも」
「いいんだ、本当に」
 革靴を履いている足を一歩まえに進める。思ったよりも足取りはしっかりしていた。これなら家にも帰れる。荒船は一つ一つを丹念に確認した。足の状態、体の向き、家の方角、そして明かりの位置まで。
 それなのに、穂刈は、
「送る、なんとなく不安だ」
 と言って聞かなかった。

 家は鬱蒼とした森のように見えた。それは視界の端がかすんでしまっていたからだ。穂刈が「お邪魔します」と言って、靴を脱ぐ。一人暮らしにしては広い玄関だ。そして荒船はあまり靴を多く持たない。ランニング用のシューズと、普段使っている革靴何足かを除けば、スニーカーとサンダルくらいだ。それも棚にしまってある。穂刈の、荒船より少し大きい靴がそこに並んで置かれるととても目立った。
「吐きそうじゃないのか」
「いや、そこまでは」
「横になるか」
 穂刈が手際良く動いている。今の穂刈にとっては初めて来た家だろうに、大体の目星はつけたみたいに動いていた。その動きはまえの穂刈よりはもちろんぎこちなく、場所も間違うことの方が多い。なのに、二度同じ間違いをすることはない。もともと要領を得るのが早い人間だから、もうこの家の物の配置は把握してきただろう。
「冷蔵庫に、水があるから」
「わかった」
 ソファに横になって、水だけを望んだ。穂刈がすぐに引き返し、ミネラルウォーターを取る。ペットボトルのふたが開くのさえスローに見えた。そろそろ自分の意識は飛んでしまうかもしれない。
 不思議な光景だ。異様とも言える。記憶のない穂刈が今ここにいて、甲斐甲斐しく世話を焼いている。記憶のあるころと変わらないやさしさが目に滲み、あふれてしまいそうだった。あれはやっぱり、天気の悪い日で、雨に濡れた体を冷やさないように先に荒船だけをタオルで拭いてくれた。お前も自分のことをやれよと荒船が言うのに、「大丈夫だ、風邪を引かないから」と根拠のないことを言われた。おかしくて笑うけれど、結局そんなことあるわけがないんだから、荒船も同様に穂刈の頭を拭いてやった。自分とは違う髪の色と髪質で、タオル越しにそれが揺れているのを見つめながら手を動かした。
 ──ガタンと音がする。荒船は我に帰った。
 上の階の住人が帰宅した音だ。ドアを強めに閉めるくせがあるから、生活のサイクルがすっかりわかるようになってしまった。ただそれ以外は基本的に無害で、顔さえ知らない。迷惑だと思うことは一度もなかった。住人はときどき、深夜なのに楽器を弾くことがある。荒船以外の居住者から苦情が出たらしいが、気にもせず弾いているそうだ。
 穂刈にもその音はわかったようで、
「結構音がするんだな」
 とつぶやいていた。
 今の穂刈が知らなかったことが一つ一つ減るたび、過去の穂刈に近づいていく。けれどそれらは決して交わらない。同じ皮膚、同じ細胞、同じ脳を持っていて、全てが過去となにも変わらないのに、限りなく重なり合った形に近い平行線が、延々と荒船のまえに道を作っている。そこを一歩一歩踏みしめながら、ただ虚しいと思わないように歩く。
「悪い、本当に大丈夫だから」
 穂刈の帰り道を心配する。ずいぶん遅くなってしまった、終電はまだじゅうぶん間に合う時間帯のはず。荒船は身を起こして、窓を眺めた。カーテンを閉め損ねている窓ガラスは妙に外の景色をまだらに映している。不思議に思うと、見えるはずの街灯が水彩画のように滲んでいるのがわかった。雨が降っている。
 穂刈が「ちょっといいか」とテレビをつけた。
 夜、五分間だけのニュースを告げるキャスターが一息ついたように肩の力を抜いて、『続いて天気予報です』と言っている。南の空から台風が近づいていること、朝とは違った進路をたどってしまったこと、それはまもなく温帯低気圧に変わるが、少なからず三門付近には影響をもたらすということを述べている。表示されている低いヘクトパスカルは、嵐の前触れを予感させた。
「嵐だな、これから」
 そう言って穂刈が残念そうにため息をついた。荒船の顔は青ざめている。
 まもなく部屋の外は風の強く吹く音がした。荒れ始めた空に穂刈が一旦窓を開いてみたが、強風が一気に吹き込んで、カーテンが煽られる。外を歩く人はほとんどいない。荒船はソファで横になりながら、つけっぱなしのテレビをぼんやり眺めた。DVDを入れようか、とも思ったが、今の穂刈がなにを好きかはわからない。趣味は変わっていないと信じたいが、そこが微妙に食い違ったとき、きっと歪んだ顔をしてしまうだろう。
 青ざめた荒船を、
「本当に具合が悪くなってるんじゃないか?」
 と勘違いした穂刈がいた。
「そうじゃない」
 と首を振る。そう言わないと、誕生日だからと店を教えてくれたこと自体がまるで悪いことであったかのようになる。あれは本当に楽しかったから、と笑ってやると、ようやく穂刈は安堵していた。
「なにか買ってくるか、冷蔵庫に食べられそうなものが入ってなかったから」
「こんな雨なのにか」
「明日困るだろ、お前が」
 そのまま寝ちまいそうだし、と図星をついてくる。
 テレビは深夜番組に入ろうとしていた。言動のキツさで有名な芸人が笑いを取っている。深夜だから際どい発言や描写もお構いなしで垂れ流していた。人間の生々しさが目に飛び込んできて、荒船はつい感情的な気分になり、つられる。
「お前は、そのまま帰るのか?」
 コンビニあたりで買い物をして、そのまま荒船の家へ荷物を置き、また嵐の中に消えていく穂刈を想像する。
 ──あの日もそうだった。玄関で見送って、嵐の中を「頭冷やしてくる」って出ていった穂刈の背中が、風と雨のせいですぐに見えなくなって──それから、そのまま隊は解散した。穂刈もボーダーからいなくなった。嵐がなにもかもを奪ったと思いたかったが、それは違う。荒船は引き止めることをしなかった。穂刈は自分で決断をして出ていった。
 全部自分たちで選択した結果に現れたのがこの溝だ。だからその溝はもう埋まることはないと思っていたのに。
「ここにいてもいいなら」
 と穂刈が切り出した。荒船の瞳孔が大きく開く。
「今日、いてもいいか? ここに」
 もう一度、穂刈が言い直した。そしてソファの近くにしゃがみ、表情を変えないまま荒船の横たわった体を眺めたあと、また口を開く。
「そうした方がいい気がしたんだ、今日だけは」
 明日になれば帰るから。そう言って、穂刈はふたたび立ち上がり、他の部屋のカーテンを閉めて回った。まるで誰にも見られていないことを、荒船にわからせるようだと思った。風の音が少しだけ弱まり、耳にうるさくなくなる。余計に穂刈の足音を色濃く拾ってしまう。
……買い物は、行かなくていい。起きたらなんとかする」
 荒船はソファから体を起こした。横になっていようとなっていまいと、心臓の早さはどうやら変わらなさそうだ。酔いだけは、少し落ち着いてくれた。
「今バスタオル出すから……シャワー入るだろ」
 そう言いながら、やっちまったな、と荒船は半分ほど後悔した。もう半分は、鮮やかなまでの期待だ。色とりどりの花よりも明るい。意外と単純に、男の来訪を喜んでいて、二人のまえに平行線があるのだとしても、穂刈に記憶がないのだとしても、そこに新しく道を敷けばいい、とさえ思っていた。その道はいつか分かれて、別の方へ向かう。荒船はそれでもいいと思っている。荒船の周りはきっと複雑な表情を浮かべるけれど。
 穂刈がうなずいて、あとをついてくる。こざっぱりとして物の少ないユーティリティの説明をした。狭い室内で穂刈の体温は温かい。そこから逃げるように荒船は、
「ゆっくり入れよ」
 と伝えた。
 ドアを閉めると、しばらく物音がしたがすぐに浴室のドアが開いた音がして、雨とは違う規則正しい水音が流れる。
 ──ちょうど二つの水の音が交わるころ、上の階から音楽が聞こえてきた。
(こんな時間にやるのかよ)
 クラシックでも流れるものならまだ許せたかもしれない。映画のサントラあたりでも、大目に見れた。その二つのどちらでもなく、なんの音楽なのかはわからないがとにかくギターでそれを練習しているらしい。旋律はまだ曖昧だ。こんな夜遅くの時間にしか練習できていないのだから、仕方がない。
 リズムを取るために足を踏み鳴らしたり、歌を歌うわけではないから荒船は気にしないでいる。社会に出て、少なからずストレス発散をしなければやっていけないのだから、これぐらいならいいのではないかと思っている。他の住人はそうではないようだが、荒船に賛同を求められても良い返答はしてやれない。
「聞いたことがある、この曲」
 荒船のうしろで、声がした。貸したTシャツとスウェットを着た穂刈だった。まだドライヤーで乾かしていない頭で、長身の男は首をひねっている。荒船はあまり流行りには詳しくない。笑いながら問いかけた。
「有名な曲か?」
「いや、曲名は知らないが……聞いたことあるな、どっかで」
 そうかどこかで聞いたのか。荒船は気に留めず、次に自分がシャワーを使おうかとバスタオルを持ち上げる。しきりに首をかしげている穂刈の横を通り過ぎ、そしてハッと気づいて穂刈の横顔を見た。
 まだ穂刈は考え込んでいる。コンビニだったか、モールだろうか、そうつぶやく男はまだこの曲をどこで聞いていたのか気づいていない。
 そうだ、あのときも上の住人は、この曲を拙く練習していた。
 外は嵐だ。
 次々と引き金が外れていくような気がした。これ以上はまずいかもしれない。荒船の賢い頭の中を、ボーダーの規則が駆け巡るが、どこにも記憶封印措置をした後のことなんて書かれていない。そうなることが滅多にない事例だからだ。あったとして、もうボーダーにいないのであれば、そこに意味は付随しない。酒はもう抜けかけているのに、足元がひどくおぼつかない。
「荒船」
 呼び止められる。ふらついていた足が止まる。廊下は光が当たらない、薄暗い場所だ。ひんやりとさえしている。そこより明るみにいる穂刈の表情は、穏やかに見えた。自分はどうだろうか。穂刈の影になって、向こうからはこっちがうまく見えていないのではないだろうか。冷や汗がじっとり落ちていく。思い出さないでくれ、とさえ思ってしまう。このままの関係で時が流れ、きっといつかは離れる日がきて、そして平行線は開いていくのだと、それが荒船の考えていた新しい道だった。だというのに。
 ──雷が落ちる音がした。穂刈がいる明るい部屋でさえ、ピカッとまばゆい光に包まれたのがわかる。荒船の表情さえ真っ白く照らし出した。穂刈が「あ」と小さな声を出し、息を飲んだ。
(思い出した、んだろうな)
 いやに冷静に、荒船はとうとう感知した。鋭く目を光らせると、穂刈が飲んだままの息を詰まらせて声を発せずにいる。もう一度、雷が鳴り響いた。今度は遠くに落ちたんだろうが、相変わらず雲がそこかしこをギラギラと光らせていた。
 記憶が戻る感覚というのは、どういうものなんだろうか。痛みはあるのか、音はするのか。黙ったまま、互いを見ていた。
 そのうちに穂刈が話し出す。
……タクシーに乗るとき」
 穂刈の髪から拭き取れていない水滴が床に落ちた。丸い粒だったはずなのに、床にはまだらに模様を描いている。
「お前に住所を聞いたら言われたんだ。家の場所を、覚えてないんだな、と」
 荒船は目を逸らす。いや、もう少しまえから逸らしていた。床の上の水滴をわかっていた時点で、顔を伏せて穂刈を見ないようにしていた。
「なんのことか分からなかった、誰かと間違えてんじゃねーかとも思った……ずっと引っかかってたんだ、オレとくらいしか飲みに来ないのに? って」
 穂刈は運転手と、和やかに話していた。荒船に戸惑いを見せないようにうまくごまかしていたのか、それとも荒船自身が酔いでそこまでしっかり見ていなかったのか。
「住んでんのかと思った、誰かと。もしくは、そういうやつがいるんだと」
「いるわけ、ねぇだろ」
 言葉に詰まる。そういうやつ、という具体的な役割を持つ人間なんて、誰一人作ってこなかった。意外と自分は未練がましい男なんだと知ったのは、今年に入ってようやくだ。半崎や加賀美は知っていたのかもしれない。穂刈と、記憶をなくしている穂刈と、今でも繋がりを切れていないと言ったときから。こんなふうに一人に執着することが、意味がないことだとわかっていても、それでも特別な別の誰かを作れずにここまできた。
……そう考えたら、今日は帰りたくねーなと思って」
 どう言えばいいのかわからない、という顔をしている。今はまだはっきりとは思い出していないのかもしれない。けれどそれが鮮明になっていく様子なんて、見ていて恥ずかしいだけだ。
 過去の穂刈を取り戻すということは、嵐の中で背を向けあった二人に戻るということだ。互いに好意があったであろう二人が、言葉に出せずにただキスだけを交わして、もう一度、その嵐の夜のやり直しをさせられているような。タイムマシンのない世界で、過去には戻れないはずなのに、どうして自分たちにはやり直しの機会が与えられてしまったんだろう。
「帰らないで、どうする気だったんだ」
……ずっとまえから言いたいことがあるんだ、お前に」
 それは、記憶を消すまえからということだろうか。記憶を消したあとに、生活をしていてということだろうか。尋ねると、「記憶を消すまえから」と言われた。
「荒船が活躍するのを見た、遠征先で。もう守ることはない、支えることはなくなった、隊も解散するだろう。そう思った」
 どちらかといえばその感情は、寂しさというよりも達成感の方がかなり大きかった、と穂刈は話す。
「だから、ボーダーの外部で働くことを決めたとき──やっぱりお前のことだった、考えたのは」

 ──ボーダー外で働くのは、大学を出てからゆっくり考えることもできた。けれど穂刈はそうしないで、在学中にボーダーを抜けた。荒船が自分の隊長ではなくなって、横にいる役割を終えたと思ったからだ。狙撃手として他の隊から声もかけられていたし、新しい隊を作ることも考えて、思案を重ねた結果、 おもむいたのは上層部の会議室の一つだった。
 記憶封印措置に関しての説明を受けながら、さまざまなことを思っていたという。いつも横にいたいと思うのは、ボーダーにい続ける荒船にとって難しいことだとわかっていた。そしてそれは、組織を構成する上で必要がない。穂刈が隣にいて荒船の効率が上がるわけでも、今後の荒船に必要なものを補えるわけでもない。
 これは自分の力を過小評価しているわけでも、感傷的になっているわけでもなく、穂刈は単に──自身のトリオン器官の限界を察知していた。
 この先の年月、たとえボーダーにいたとしても、他のみんなのようにトリオンを構成できない。ボーダーを卒業していった先輩たちも、トリオン器官が理由に挙がることが多かった。穂刈もその一例に過ぎない。だから上層部は、穂刈がトリオン器官の問題以外で、本当はなにを思ってボーダーを退いたのかはほとんど知らないのだ。
 ……記憶をなくした穂刈はボーダーのことを、友人たちのことを、そして荒船のことを覚えていなかった。大学では幸い選択した学科が違ったから会う機会はなかった。卒業式を迎えても、穂刈は知らない友人たちに囲まれて写真を撮っていた。荒船は遠くで見ているだけだったし、他のボーダーのメンバーもそうした。そうするしかなかった。
「辛くないんか」
 と水上に聞かれた。影浦なんかはもっとひどい。
「貸した傘も返しにこねーでなにやってんだ」
 と文句を垂れていた。けれどその目の奥に、深く静かな理解と不理解を混ぜ合わせた感情をたたえていた。荒船には友人たちが、気を使ってくれているのがじゅうぶんわかっていた。
 きっと穂刈も、彼らならわかってくれると思ってこうしたんだろう。まえもって彼らにも説明はしたはずだ。荒船への好意をうまく隠しながら。

「ただ好きだからってだけだ、荒船の横にいたいのは。それはもうボーダーにいる目的と違ってくる。そういう男を横に置いておくやつじゃないだろ、お前は」
 そう、だ。そうなのだ。荒船は痛いほど自分に正直に思った。
 成し遂げるなにかがあるのなら、留まる意味はあるのだろう。けれどたった一つの依存した感情で向き合うのは、それはもうただの延命措置のようなものだ。無駄に命を引き延ばし、 ついえるものに水を注いでどうにか保つだけの。荒船も穂刈も、互いをそうはしたくなかった。
「だから、戻れなくなるから消したんだ、記憶を」
……戻れなくなる?」
「あのまま手を出してたら、きっとお前に依存して、周りの全部に嫉妬して、戻れなくなると思った、お前との対等な関係に」
 鼻筋を歪める穂刈の顔が、キスをした当時の表情と全く変わっていなかった。あのころの自分を思いとどめる大人びた考えと、その考えに反した青い執着心を詰め込んで、一生懸命に処理しようとしているような。荒船は腹の底が熱くなる。反抗する気持ちを溜め込んだままの、いたいけな少年を見ているような気分になった。けれどまだ手を伸ばさずに、じっと堪えて続きを待つ。
「記憶を消しても、うっすら残ってるんだ、オレには誰か、大事だと思ってた存在がいたんじゃないかと」
 穂刈が頭をかきむしるように、ぐしゃりと髪をつかんだ。
(こいつは、必死に思い出そうとしてたのかな)
 記憶をなくしてから出会ったのは偶然だったとしても、スーパーで会ったのも、そのあとに連絡を取るようになったのも、一度自ら手放したものをまた取り返したかったのだろうか。荒船なら、なにか知っているかもと思ったからなのか。荒船に、どこか面影を見たのか。
(そういえばさっきから、穂刈はいろいろと新鮮なことを言ってくる)
 伝えたいことをうまく声に出せなくてうなっている穂刈をよそに、荒船はこれまで言われた言葉を反芻する。
 好きだから。
 依存。
 嫉妬。
 大事だと思ってた存在。
 たぶんそれらは、あの当時でははっきりと確立した気持ちではなかったんだろう。おぼろげで、曖昧で、ぐらぐらと煮えてはいるのにいつまでもできない料理のように穂刈の中に存在した。記憶を消して蘇ることで、失ったものを外側から見ることで手に入れた客観視ではないか。とっさに記憶を消すという判断をした男の、体内でようやく炙り出された本能を、汚れているとわかりながら示したことは、誠意だろうな、と荒船は感じた。
 ただ。
……お前が記憶を消したこと」
 荒船は一息に言い尽くす。
「一生根に持ってやるからな」
 穂刈は目を見開いて、同時にまばたきをした。短い時間に数度、まつげが動く。まぶたがもう一度伏せられた瞬間、荒船は自らキスをしかけた。
 穂刈が肩に手を添える。荒船はまだ風呂に入っていないことに今さら気づいた。酒も飲んで、汗もかいた。昼間の仕事で汚れもしただろう。穂刈がキスする角度を変えて呼吸を取り戻すたび、恥ずかしさに顔が赤くなる。けれど穂刈だってきっと恥ずかしいだろう。情けないところも、惨めなところも晒している。いくら体を洗っても、そういう人間の裏側の醜い場所は吐き出してしまった以上ごまかせない。
「お前がいたら、って何度も思った」
「うん」
「俺だって後悔してる」
……悪い」
「誕生日を祝ったのは十回目だ、忘れんな、ばかやろう」
「ごめん、荒船」
 ごめん、悪かった、ずっと一人にした。穂刈が何度も口にして、荒船の与えるキスに噛み付くように呼応した。それを生意気だと荒船は思ったが、胸の隙間がみるみる内に埋まっていき、じんわりと染み込むように心臓が温かくなるのを感じたから、もうそれ以降穂刈を責めることはしなくなった。床に座り込んで、飽くまでキスを続ける合間、薄暗い廊下の冷たさがヒヤリと体を震わせた。シャワーに入らないと、きっと風邪を引く。けれど動きたくはない。
 穂刈の目尻に溜まった涙が、一筋だけ流れた。外の嵐はザアザアと窓に雨を叩きつけてくる。ひどい風だ。自分たちの投げ出した感情を洗うには、それぐらいの強さがなければだめかもしれない。
 そっちは寒いから、と廊下から、明かりの当たる部屋へ引きずられるように抱え込まれた。今さらなに言ってやがる、と荒船は吐き捨てて、
「ずっと寒かった」
 と息と息の間につぶやくと、また穂刈がごめんと小さくうめき、力いっぱい荒船を抱き寄せた。あのときの続きをしよう、と伝えたかったが、今はまだ喉が熱くて言えない。