エス
2024-10-18 14:21:04
18846文字
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東京卍會総長代理と愉快な仲間たち

グッバイフォーエバーチンポ。




 生命の危機に瀕することが、生きていてどれ程あるだろうか。そもそも、普通の人間、その数を数えようと思わない。何故なら、一度あれば十分だからである。その生命の危機を、一度どころでなく体験してきた男は、今正に再び生命の危機に瀕していた。ちょっと命軽すぎ問題。
「で、代理、何か言う事ある?」
 東京卍會総長代理、花垣武道。何故か地面に正座中である。どう見ても生命の危機と言うより、単なるお説教スタイルである。但し相手が悪かった。武道の前にいるのは、前科持ちの立派な悪党。六本木のカリスマこと、灰谷蘭改め、灰谷ナルシストイカレポンチである。別に本人が名乗ったわけでも何でもないが、広まってしまっていた。そう、今武道が直面している危機も、そこに由来している。
 正直武道には、覚えがなかった。
「すみません、灰谷蘭君。ちょっと何のことだか」
 これが惚けているだけなら、蘭とて即座にぶん殴っていただろう。しかし違うのだ。総長代理は、本気で言っているのである。だからこそ、質が悪かった。また、普通に灰谷蘭君と呼ばれた事に、半ば感動すら覚えていたのだ。ここ数日、誰も真面に呼んでくれなくなってしまったのだ。ナルシストイカレポンチ。実はこれは、いい方である。ナルポン。これもまだ許しはしないが、暴力で矛先を収める。一番のNGがある。チンポである。下手をしたら、灰谷チンポである。弟にも本気で泣き付かれる始末。蘭には弟がいる。同じく六本木のカリスマと呼ばれてきた、仲良く前科持ちの、数日前から灰谷チンポの弟と呼ばれるようになってしまった、灰谷竜胆である。その弟に、兄ちゃんの所為で、オレ、チンポの弟なんだぞ! 等と、一生に一度も聞かないであろう訴えをされたのだった。そもそも、この妙な渾名は蘭の所為ではないのである。別に自分から名乗ったわけでもなければ、チンポで悪さをしたわけでもないのだ。東卍に属する野郎どもの彼女を寝取りまくったわけでもない。チンポ無関係なのに、チンポ呼ばわりされているのだ。大体このチンポは、男性器の事ではない。イカレポンチのポンチを逆から読んだだけである。つまり、如何わしくはないのだ。ただ、分かっていても、呼ばれたくない。当然の帰結である。
 ナルシストイカレポンチは、大仰に溜息をついた。
 何故なら眼前で正座する中学生が、全く疚しいことはありませんと言った目を向けてくるからである。寧ろもっと申し訳なさそうにしろ。そう思って当然だった。
「オマエさあ、此間、オレの事なんつった?」
「えっ? 灰谷蘭君?」
「違ぇのよ。悪口言っただろ」
「言いましたっけ?」
 これである。自覚がゼロなのだ。蘭は思った。オレ、滅茶苦茶我慢したな、と。元々忍耐強い方でも何でもないのだ。だから、ちょっともう限界だった。
「アタッ!」
 一先ずぶん殴る。兎に角一度暴力を振るわないと、先に進む自信がなかったのである。大体肉体言語しか普段使わないので。でも物に頼らず拳を使うくらいには、相手の事を忘れていなかった。この男はこれで、総長代理なのである。立場が一応上なのだ。
「オマエね」
「はい」
「此間オレの事」
「はい」
「ナルシストイカレポンチっつったの」
「はあ」
「はあじゃねえんだわ」
「えっ、でも、そうですよね?」
「うんあのさ、事実かどうかはこの際どうでもいいんだけど、お陰でそれが浸透しちまって」
「でも元々皆さん、蘭君がナルシストイカレポンチだって知ってますよね?」
「マジテメェぶっ殺すぞ」
「ひっ」
 ナルシストイカレポンチの忍耐力は元々低いのだ。つまり、限界に達するのが早かった。急に殺人鬼の視線を浴びせられ、暴走族のナンバーツーが怯えている。蘭は思った。ここで始末するのは容易い。だが、その後自分も死ぬ。絶対に死ぬ。避けられない死がそこにある。何と言っても、敵地である。東京卍會、トップの周辺ほぼほぼ全部、総長代理の味方である。蘭は沸点も低いし忍耐力もないが、冷静さも一応持ち合わせていた。
 つまり、諦めたのだった。
 人の噂も七十五日だと言う。大体、飽き性の人間ばかりである。直ぐに鎮静化するだろう。そう、自分を宥めたのだ。急に風船が萎むようにやる気をなくした男を見て、武道がきょとんと目を丸くした。
「あの、蘭君」
「もういいわ」
「えっ、でもあの、呼ばれたくないんですよね?」
「えっ」
 今の今まで何のことやら、と、他人事の空気を醸し出していたくせに、突然本題に気付いた男に蘭は驚いたのだ。
「えっと、すみません、オレ、悪気はなくて」
 そう、武道に悪気なんてものは一切なかったのだ。悪意が一切ない、ナチュラルな悪口だったわけである。謝罪の言葉を口にした武道を、訝し気に蘭は見た。
「その、オレ、皆に頼んできます」
「呼ぶなって?」
「はい」
「なんで?」
 蘭は警戒した。こういう、人の良さそうな言葉は信じない質だった。何か求めるものがあるに決まっていると、そう、踏んだのだ。物事何だって対価が必要である。一見人畜無害そうなこの男、もしかすると六本木のカリスマを脅すつもりだろうか。それはそれで、面白い。お手並み拝見と言わんばかりに、蘭は口角を上げたのだ。
「だって蘭君、困ってるんですよね?」
「えっ」
 続きの言葉は出てこなかった。一応蘭は、待ったのだ。蘭君、困ってるんですよね、の、続きである。何とかして欲しければ、と、交換条件が出てくると思っていたのだ。だが、なかった。総長代理は、本当に心底単純に、蘭が困っているから力になりたいと申し出ているのだ。蘭は呆気に取られてしまった。こんな人間が、不良をやっている事自体、間違っているように思えた。少し、感動すら覚えてしまったのだ。
 東京卍會総長代理、花垣武道。
 その名前を脳内で反芻した。成程、と、何処か納得すら覚えながら。人の上に立つような器ではないと思っていたが、なかなかどうして、面白い。
 この時灰谷蘭は、正に灰谷ナルシストイカレポンチだった。完全に失念していた。そもそも、こんなけったいな渾名を付けられる羽目になった元凶が、花垣武道である。感じ入る所でも何でもなかったのだ。当然だと、受け入れる所である。
 勝手な思い込みで勝手にナルシストイカレポンチが感動を覚えていたころ、武道は早速動き出した。何故なら灰谷蘭君が困っているからである。困っている人がいれば助ける、人として当然の事である。尤も原因を作ったのは花垣武道本人である。つまり、単に責任を取っているだけだった。それでいて、一番話を聞いてくれそうな人は誰かと考えたのだ。個性のポップコーンみたいな集まりなので、人を選ぶのは重要なポイントである。直ぐ弾けるのだ。
 都合よく視界に入ったのは、柴大寿と彼が手懐けた犬猫だった。単純に、大きな人間は目につきやすいのである。
「アッ、大寿君、丁度いい処に!」
「断る」
 最早既定路線と言わんばかり、間髪入れずこれである。ただ断ったからと言って、武道が聞き入れるかと言えば別問題なのだ。
「お願いがあるんですけど」
「絶対面倒事だろ」
「アッ、ココ君とイヌピー君にもあるんです」
 急に矛先が逸れたものだから、全員が嫌な予感に身構えた。特に喧嘩が強いわけでも何でもないのに、警戒される男である。言動がちょっとアレなので。訝しむような視線に気付くことなく、武道が息を吸った。
「単刀直入に言います。灰谷蘭君の事を、灰谷ナルシストイカレポンチって呼ぶのをやめてあげてくれませんか!」
 大声での懇願に、目の前の三人ではなく離れたところから咳払いや笑いを堪える呻き声が聞こえた。一発目でもう公開処刑の様相だった。悪気はないのだ。配慮もないが。大声の後突如として齎された一瞬の静寂の後、大寿が言った。
「呼んでねえ」
「えっ」
 武道は気付いていないが、完全に人選を間違えたのだった。何故なら柴大寿である。態々灰谷ナルシストイカレポンチ、等と呼びかけるような人間ではなかったのだ。そもそも先ず、呼びかけない。灰谷ナルシストイカレポンチと接する機会がなかったのである。想定外の事態に、代理は黙り込んだ。浸透した、と、言っていたくらいだから、東京卍會に属する人間全員が呼んでいると思っていたのだ。しかし、武道自身、呼んでいないのである。つまり、それ程広まってはいないのかもしれない。花垣武道は、楽観的だった。その上、事の重大さもちっとも理解していなかったのだ。所詮他人事である。
「えっと、じゃあ、ココ君とイヌピー君は?」
「呼んでねえよ」
「オレも」
「そっかあ」
 じゃあいっか。二人の返答を聞き、勝手に安堵したのだった。結論が秒。
「大体、何で代理はそんな事頼んでんだ?」
「蘭君、困ってるみたいで」
「発端テメェだろ」
「そうみたいなんですよね。だからこう、責任もって沈静化を図ろうと……
 徐々に語尾が小さくなった。困っている隊員を助けんが為、意気揚々と飛び出したものの、いきなり解決してしまったのである。尤もそう思い込んでいるだけで、実際には何一つとして解決などしていなかったのだが。少なくとも、大寿と九井には分かっていた。代理は、灰谷蘭の事を、灰谷ナルシストイカレポンチと呼ばないでくれと頼んだのである。だが実際にそのように呼びかける人間はほぼいなかった。精々、三途春千夜くらいである。だったら他の人間は何と呼んでいるか。ナルポン、もしくは、チンポである。しかも圧倒的に、灰谷チンポ勢が優勢だったのだ。
 微妙な沈黙が降りる。
 柴大寿も九井一も、花垣武道への悪感情はなかった。しかも一応、上の立場の人間である。確実に自業自得の状況とは言え、説明してやるべきかどうか思案していた。チンポの事を説明してやるべきかどうか、である。そもそも、チンポとか言いたくない。灰谷チンポについて語る自分を想像したら死にたくなった。そうして、する必要はないと言う結論に至ったわけである。もうアイツはチンポでいいよ。
「他の呼び名なら良いのか?」
 内心で灰谷チンポについて考えていた二人を差し置いて、あんまり理解していない乾が問うた。そもそも、理解以前に興味がなかった。灰谷蘭がなんと呼ばれようとどうでもよかったのだ。呼ぶ必要性も無かった。東京卍會、意外と横の繋がりが希薄である。
「ナルシストイカレポンチ以外でって事ですか」
「長いだろ」
「まあ確かに」
 そこからナルポンとチンポが生まれたわけだが、二人の頭にはない事実だった。平然と灰谷蘭のニックネームについて話し出す二人を、九井が酷く嫌な予感を抱え眺めている。乾が傷のない整った顔で思案して見せれば、酷く絵になった。だが、見惚れる余裕などなかったのだ。
「イカチンはどうだ」
 なんでチンなんだよ!!
 即座に爆弾が降ってきたからである。九井がその場に蹲った。ナルシストイカレポンチだから、イカは分かる。分からないのは、チンである。ナルポン、と、略した佐野万次郎は真面だったのだな、と、図らずも総長を称える始末。
「イカチン」
 武道が復唱した。普通に言ってんじゃねえよ。内心で九井がツッコむ。内心なので伝わらない。イカチン。自分でも呟いてみた。但し脳内で、である。声に出したくない日本語だった。そもそも、日本語だろうか。たとえば日本語であると考えたなら、烏賊臭いチンポの略である。口に出した時点で人として大事なものを失う事は確定である。九井は不良として道を踏み外しているが、精神的には真っ当の部類だと認識していた。だから無しである。イカチンはなし。いや別に、灰谷蘭が呼ばれる分にはどうでもいいのだが。
「アッ、じゃあ、もしココ君なら、ココチンて事ですか」
「殺すぞ」
 突然巻き込まれたので咄嗟に殺害を宣言する羽目になったのだった。誰がココチンだ。心のチンポみたいな略称は止めろ。だがそのような事言おうものなら、九井の方が異常者になってしまう。何せ花垣武道に深い意図はないのである。もう一人、乾は二人のやり取りを見て、ココチンて言うと、此処にチンポありますよの略みてぇだな、等と思っていた。此方は漸くチンに気付いたのだった。気付いたから何だと言う話である。
「じゃあ皆さんナルシストイカレポンチって呼んでないみたいですし、イカチンはどうかって蘭君に聞いてきます!」
「待て!!」
 咄嗟に大声を出したのは、柴大寿だった。これに三人は驚いたが、九井だけは胸を撫で下ろしてもいた。流石に本人に、イカチンはどうですかはない。マズいどころの騒ぎではない。九井でもやっちゃう自信がある。因みに、殺すと書いて、やるである。
「オレらが呼んでねえだけで、他は分からねえだろ」
「アッ、そうか! じゃあオレ、他の人にも聞いてきますね!!」
 花垣武道が単純で助かった。そうして走り去る様を見て、大寿と九井は深く息を吐いたのだった。乾だけが首を傾げていた。
「オレは、どっちに手を貸したんだろうな」
 大寿が呟く。イカチンを馬鹿正直に尋ね殺されずに済んだ花垣武道か、それとも、イカチンを直に耳にせずに済んだ灰谷蘭の精神か。返して欲しい所であるが、貸しにはならねえんだろうな、と、諦めの境地で再度溜息を吐いたのだった。
 漆番隊から離れた武道が次に目にしたのは、参番隊だった。よし、突撃しよう。あっさり決めて、意気揚々と向かって行ったのだ。
「おう、どうした」
 力強く近付いてくる姿を見て、林田が声をかけた。隣には林もいる。二人の前で立ち止ると、漆番隊の時と同じよう、直球で申し出たのだ。
「あの、御二人にお願いがあるんです。灰谷蘭君の事、灰谷ナルシストイカレポンチって呼ばないであげて欲しいんです!」
 それだけ本気だと言う事だろうが、一々声を張り上げるせいで、偶々耳にした周囲が一々被弾する羽目になった。しかし直に頼まれた二人は、きょとんと目を丸くしたのだ。早い話が、何を言われているのか分からない顔であった。
「いや、呼んでねえけど」
「えっ」
「なあ?」
「おう」
 まさかの、此方も外れ。いや、この場合当たりなのだろうか。武道は分からなくなった。もしかして、灰谷蘭が勝手に思い込んでいるだけで、誰も呼んでいないのでは? そのような事を思い始める始末。因みに半分当たりである。ナルシストイカレポンチ、と、フルで呼んでいる人間がほぼいないだけである。
 だが漸く勘が働いたのか、それとも単なる偶然か、武道は、ならいいです、と、去らずに続けたのである。
「じゃあ、何て呼んでるんですか?」
「チンポ」
「えっ」
「だから、アイツ、チンポなんだろ?」
 林田春樹、何を隠そう、チンポの生みの親である。因みに、武道も聞いていたはずなのだ。ただ記憶になかった。あの時武道の頭を占めていたのは、不良は可愛くない自分など以ての外。これである。灰谷蘭がチンポかどうかなど、どうだって良かったのだ。しかし今なら分かる。流石にチンポはない。花垣武道の判断力だって、正常に働く時があるのだ。
「ナルシストイカレポンチじゃなく?」
 ただ一応、念は押した。
「チンポだろ」
 チンポだった。聞き間違いなく、チンポだった。武道は困った。こうも堂々と口にしているということは、下ネタではないのだ。そう、これは、ナルシストイカレポンチのポンチを反対から呼んだだけで、それ以上でも以下でもないのだ。でもチンポである。武道は困った。そうして、ナルシストイカレポンチより、チンポを嫌がるべきでは? と、内心で灰谷蘭に疑問を呈したのだ。勿論蘭は、チンポも含めて異議を申し立てていたのだが、残念ながら通じていなかったわけである。仕方がない。相手が悪い。花垣武道である。
 黙り込んだ武道に救いの手を差し伸べたのは、林だった。
「だからちげーんだって、パーちん。チンポじゃなくて、ナルシストイカレチンポだろ」
「ちんぽじゃん!?」
 とうとう大声で武道はツッコんでしまった。そう、結局チンポだったのだ。総長代理の大声に、二人は揃って目を丸くした。そうして一拍の後、言ったのだ。
「チンポだな」
 チンポだった。どう足掻いてもチンポだった。
「でも皆呼んでるぜ?」
「えっ」
 衝撃の事実が発覚した瞬間だった。因みにそう思っているのは花垣武道だけであり、東京卍會で知らない人間はいない呼び名だった。武道は混乱した。そして漸く気付いたのだ。もしや、ナルシストイカレポンチではなく、皆チンポと呼んでいるのでは? 大正解である。図らずもやっとのことで正解を叩き出したのだった。
 困惑と混乱で黙り込んだ武道に林田が言う。
「やっぱチンポはまずいか」
 完全に今更であるが、とんでもない正論を口にしたのだった。その通り。チンポはまずい。人前で堂々と呼ぶような渾名ではない。まずつけるなという話であるが。
「でも、チンはいいよな?」
「えっ、いいっすか?」
「だって、パーちんだぞ」
「あっ」
 林田春樹、渾名はパー、もしくは、パーちんである。突然チンが親しみやすく思えてしまった。まさかこんなにも身近にチンの持ち主がいるとは。
「アイツ、灰谷だろ。じゃあ、灰チンでいいんじゃね?」
「おお……
 武道は感動を覚えてしまった。物凄く自然に感じたからである。灰チン。いいじゃん。因みに呼び名しか考えていないので違和感に気づいていなかった。灰チンと呼ばれるのが、他の誰でもない六本木のカリスマ灰谷蘭であることを失念していたのだ。どう考えても、そういう親しみやすさゼロの男である。気安く灰チンなどと呼んだが最後、命の保証はない。
「しかも、パーちんと似てるし、いいんじゃね? パー灰コンビになれっかもな」
 もしここに第三者がいれば、なれるはずがないと即答しただろう。林田春樹と灰谷蘭。思いつく共通点、ゼロである。
「えっ、でも、ペーやん君はそれでいいんですか?」
「別にパーちんが誰とコンビ組んでもよ、一番のダチはオレだろ」
 カッケー。平然と言い切った林を見て、武道は憧れにも似た気持ちを抱いたのだ。いつか誰かに言ってみたい。誰とコンビ組んでも、一番のダチはオレだろ。ただ武道にとって、一番のダチが誰か、と、いう問題があった。下手な名前を出すと、内輪揉めの一言で終わらない殺戮が始まる危険性があったのだ。終わっていた。
 余談だがこの後、本当に林田は灰谷蘭に向かって、灰チンと呼びかける暴挙に出た。
「お、灰チン」
「えっ、誰」
「オマエ」
「灰谷蘭だけど」
「だから、灰チンだろ」
「どういうこと」
「オレ、パーだし」
「頭が?」
「ちん仲間だろ」
「チン仲間!?」
 恐らく普段の灰谷蘭であれば問答無用でぶち殺していたに違いないのだが、林田春樹の友好的な空気に逆に殺されたのだった。悪意が微塵もなかった。怖いくらいに。花垣武道といい、この男といい、一体東京卍會とは何なのか。善良な不良全員死んで欲しい。心から思ったのである。不良のくせに光属性の意味が全く分からなかった。勿論チン仲間の意味はもっと分かっていない。
 一方、参番隊から離れた武道は悩んでいた。
 ナルシストイカレポンチなる呼び名を撲滅しようとしたところ、恐らく誰も呼んでいないことに気づいたのである。だが現に灰谷蘭は困っているわけで、助けると決めた以上何とかしなければいけなかった。そして、もう一つ困っていることがあった。そう、チンポである。本当に誰もが灰谷蘭のことをチンポ呼ばわりしていると言うならば、それもそれで問題だと気づいたのだった。寧ろ蘭からすればそちらが本題だったのだが。随分と遠回りをしたが、代理が理解したことは喜ばしいと言えた。
 結局武道は、悩んだ挙句、いつもの場所に向かったのである。
「マイキー君!」
 困った時の東京卍會総長、佐野万次郎である。
「おう、どうした」
 暴走族のトップらしからぬ温厚な様子で、鯛焼きを齧りながら答えた。
「灰谷蘭君のこと、ちんぽって呼んでるって本当ですか!」
 この瞬間佐野万次郎は、たい焼きを吐き出しかけたのだ。危ない。突然前世からの友人の口から、チンポなる言葉が飛び出して来たものだから驚いたのだ。
「落ち着けタケミっち」
「割と落ち着いてます」
「オレは呼んでない」
「あっ、そうなんですね」
 まず否定した。そう、佐野万次郎は、ナルポンと呼んでいるのだ。尤も、灰谷蘭に話しかけることがほぼないので、口にしたことは数えるほどしかないのだが。一先ず武道は安堵した。組織のトップが使っていない呼び名だと分かったのだ。つまり、心配するほど広がっていないに違いない。勿論現実には、佐野万次郎が使っていないだけで、浸透しきっていた。最早灰谷蘭を見たら、頭にチンポが浮かぶくらいには。勿論灰谷ナルシストイカレポンチとて、ただ黙って受け入れたわけではない。呼ばれる度に殺してやろうと、攻撃をし掛けはしたのだ。ただ、灰谷蘭に向かってチンポと呼びかける命知らずは、腕っぷしに自信しかない脳筋なので、例え蘭が殺そうと向かっていったとしても、おう、やるのかチンポ、等と逆に煽ってくる始末である。人生悪い事しかしていないとこういう目に遭う見本である。
「可哀想なちんぽはいなかったんですね……
 しみじみと武道が間違った呟きをし、耳にした万次郎が訝し気に眉を顰めた。
「ちょっともっかい言ってみ」
「えっ? 可哀想なちんぽはいなかったんですね?」
「チンポだよ」
「ちんぽ?」
「やっぱ違くね?」
「えっ、何が?」
「だから、オレのチンポと違くね?」
「えっ、オレのちんぽ、マイキー君のちんぽと違うんすか!?」
 偶々周囲にいた人間全員被弾した。何が悲しくて、総長と総長代理がチンポを連呼する様に遭遇しなければいけないのか。前世何か悪いことしたかな、等と思うものの、悪い事をしているのは確実に今世である。しかも言い合っている二人は完全に周囲など見えていなかった。二人は顔を突き合わせ、更に佐野万次郎が真面目腐った顔で言う。
「チンポ」
「ちんぽ」
 チンポって言えば、ちんぽって言う。これはこだまでしょうか。いいえチンポです。
「オイ、チンポチンポうるせぇぞ」
 此処で漸く第三者が絶対に聞かないであろうツッコミを入れる為に近付いてきたのだ。これに胸を撫で下ろしたのは周囲である。もうチンポはお腹いっぱいである。チンポが腹いっぱいとはいかに。最早下の下のネタである。
「違ぇんだよ場地。タケミっちのチンポがさ、何かおかしいんだよ」
 万次郎は真顔でとんでもない事を場地圭介に言ったのだった。寧ろギョッとしたのは、話しかけられた場地ではなく、隣で偶々聞いた松野である。
「タケミチのチンポおかしいんか?」
 しかも普通に場地が武道に向かって問うたものだから、目を瞠ったのだった。いや、どういう事?
「いやおかしくないですよ。マイキー君が適当な事言うんすよ」
「おかしいって。聞いてみろよ」
「ちんぽ。おかしいですか?」
「一緒じゃね?」
「ホラ、オレと場地君のちんぽは一緒ですよ」
「違うって。寧ろオレと場地のチンポが一緒だわ」
 松野は混乱している。右からも左からもチンポが聞こえてくるのだ。悪夢のような空間だった。しかも全員が平然としているのだ。いや、チンポだぞ? おかしくね? ある意味松野千冬は真っ当だった。何故なら灰谷蘭の話をしているとは気付いていないのだ。そもそも場地も気付いていないが、此方は一々下ネタ如きで大騒ぎするような器の小さい男ではなかったのである。何故急にチンポの話をしているのか。問うに問えず、松野は考えた。出る筈のない答えを求めて。だが、考えようとしても耳にチンポが飛び込んでくる所為で、とうとう脳内でチンポが増殖し始めた。さながらバイオチンポ。増えていくチンポは止まらない。大体チンポが違うって何だよ。チンポはチンポだろ。チンポはチンポでもチンポじゃないチンポってなーんだ。答え、チンポ。
「チンポじゃねえか!」
 思わず松野は声に出してしまった。もう我慢できなかった。松野千冬のとんでもない発言に辺りが静まり返っている。自分より上の立場の人間、それも三人から視線を送られ松野は死を覚悟した。死因、チンポ。
「だから、ちんぽだろ?」
 だが生き延びたのだ。松野千冬の親友、総長代理花垣武道が平然と肯定したからである。松野は思った。親友がイカれてて助かる事ってあるんだな。武道はナルシストではないが、十分イカレポンチではあった。つまり蘭に向かって言った言葉は、半ば自己紹介だったのだ。
 もう一人、松野千冬の発言を受け、冷静になった男がいる。佐野万次郎だ。流石に公衆の面前で、例え嫌らしい意図はないにせよ、チンポの連呼はマズイ。この事実に気付くことが出来るだけ、武道より視野が広かった。腐っても総長である。そして漸く決意した。
「なあ千冬。タケミっちのチンポ、駄目だよな」
「えっ、何がっすか」
「オレのちんぽが駄目って言い方マジで止めて欲しいんですけど」
「ちょっと、チンポに、お、付けてみろ」
「おちんぽ」
「な? 駄目だろ?」
「えっ、アッハイ?」
「おチンポ?」
「場地は黙ってろ」
「ハァ!? オレがチンポにおを付けて何が悪いんだよ!」
「需要がねえんだよ!」
 果たして需要とは。既に話は違う方へとシフトし始めていた。この時点で灰谷ナルシストイカレポンチの事は次元の彼方へと旅立っていた。このまま戻って来なければ、灰谷ナルシストイカレポンチにとってのハッピーエンドが訪れるわけである。但し灰谷チンポは別。問題は一つずつ解決しなければいけないのだ。恐らく死んだ方が早い。
 チンポにおを付ける事を良しとしない佐野万次郎を見て、そもそもおを付けなくても駄目だろと松野千冬は思っていた。お、以前にチンポが駄目なわけである。正論。だが佐野万次郎の言い分は違う。花垣武道の言うちんぽは、他の人間が言うチンポよりちょっとだけ性的に聞こえるし、何ならお等付けようものなら、人によってはそれこそ本当のチンポが大変な事になる。勝手な想像である。大体此処で言うチンポは、イカレポンチのポンチの部分を逆から読んだだけであって、本当のチンポに用はないのだ。いや、あってはならないのである。
 これは、まずい。
 今更ながら勝手に危機感を覚えた総長は、やおら立ち上がると急いで手にしていた鯛焼きを口に放り込んで咀嚼して飲み込んだ。そうして、周囲を睥睨して言ったのだ。
「これより東京卍會は、チンポを禁ずる!!」
 まさかの、チンポ禁止令が出たのだった。総長の顔は、真剣である。はっきり言って、抗争のお知らせみたいなノリで出るような宣言では絶対になかったし、聞いた面々は、呆気に取られていたし、知らぬところで灰谷蘭の寿命が勝手に伸びたのだった。こうして、チンポは終わりを告げたのである。
 うっかりこの宣言を近くで聞いてしまった男は、自分の隊に戻るなり、己の部下に言った。
「オレは今日、一生分のチンポを聞いた」
「一生分のチンポを!?」
 偶々このやり取りを近くで聞いてしまった、望月莞爾が死んだ。義弟の発言に今更ながら頭痛を覚えているのか捌番隊隊長は酷く渋い顔で、一体どの部分に驚いているのか副隊長は目を見開いている。
「しかも、今日から東卍は、チンポ禁止だそうだ」
「チンポが禁止に!?」
 二度死んだ。凄く何もかも全部が分からなかった。いや、分かった。東京卍會で、チンポが禁止になったのだ。いや、分からない。薄れゆく意識の中で望月は成仏するかの如く消えていくチンポの影を見たのだ。グッバイフォーエバーチンポ。