シノハラ
2024-10-17 18:49:39
27597文字
Public アルカヴェ
 

Homesickness Syndrome

去年の10月のアルカヴェの本を再録しました 2024年5月以降では逆立ちしても書けない話に仕上がっており、一年醸造することにより予期せぬ味わいが出ました 去年の10月時点の情報を懐かしみながらお読みいただけると幸いです


我が家にて(無配の後日談)

 追加の合鍵を作ろうと思いながら、ずっと伸ばし伸ばしにしている。少し前までは玄関に二つ鍵があったのだが、今は一つだけなのでアルハイゼンが無くしてしまったら一巻の終わりである。
 とはいえ、元先輩かつ元同居人かつ現片思い相手であるカーヴェがもう一つの鍵を持っているので、完全に入れないというわけではない。ただ彼の新居はそこそこの距離があるし、仕事の関係で何日も家を開けるのも珍しくもないのだ。安全を期すのであれば、合鍵を作ってどこかに置いておいた方がいいのは分かっていた。
 今日は平日の末日で、鍵屋に寄るなら丁度いい。けれど結局足は鍵屋には向かず、代わりに閉店間際の菓子屋にアルハイゼンは立ち寄った。アルハイゼンもカーヴェも好きな菓子を選び、二人分を箱に入れてもらう。
 今日はアルハイゼンがカーヴェに鍵を渡してから初めての週末を目前にした日である。彼が来るとしたら、きっと今日だろう。そうでなければしばらくは顔を見せない。なんとなくそんな確信を持ちつつ、アルハイゼンは再び自宅への道を歩み始める。
 カーヴェはアルハイゼンが持っている菓子の箱を見たら、やはり寂しかったのではないかと笑うだろうか。ふさわしい返事でも用意しておこうかと考えて、アルハイゼンは結局思考を放棄してしまう。
 笑ってくれても構わないと思ってしまったのだ。アルハイゼンがカーヴェに抱いている思いがひとかけらでも穏やかな形で伝わって、彼が笑って受け入れてくれるならこれ以上のことなどない。以前はこんなふうに思ったこともなかったのに、彼と暮らしていく中でアルハイゼンは随分と欲深くなってしまった。それがいい事なのかどうかは、今のアルハイゼンには判断が付かないでいるのだけれど。
 果たして、家には明かりが点いていた。アルハイゼンの消し忘れの可能性も全くないとは言い切れないが、玄関も、その奥の部屋の明かりも点けたままで出かけてしまうなんて事は早々ない。自然とペースが上がりかけた足を窘めて、傍から見て少々の早歩き程度で収まる速度に収まるよう意識する。
 暖色の明かりに照らされた扉には錠が下りていなかった。自身の鍵を腰の鞄から取り出さないまま戸を開ければ、夕食の香りが鼻先に漂ってくる。少し前まではいつもの事で、今では何ものにも代えがたいと評価するしかない。
 カーヴェの料理は美味しい。もちろん、料理人と比較すれば平々凡々であるものの、家庭で腹と精神を満たすには十分の腕前だ。
 匂いからはラインナップがアルハイゼンに気を使ったものか、はたまた自身の我を通したものかは判断が付かない。ただ、なんとなくどちらの要素も含まれているのではないかと思う。カーヴェはこの家でアルハイゼンの不満を押さえつけながら、自分の好きな料理を作る技術も身に着けていたはずだった。
 本来は空であるはずの鍵置きには以前と同じライオンのキーホルダーと共に束ねられた鍵がある。鞄に入れていた鍵をようやく取り出して隣に並べると、居間から足音が聞こえてきた。ほんの少しも待てないらしい彼の表情を思い浮かべる前に、直々に答えが与えられる。
「おかえり」
「ただいま」
 家主の帰りを出迎えたカーヴェがアルハイゼンの挨拶を受けた瞬間、あ、と声を上げた。何かと問う前に、カーヴェがすくすくと幸福を擽ぐるように笑う。
「多分、僕も同じ菓子を買ってきた」
 カーヴェに指さされた紙袋には流れる筆跡で店名が書かれていて、どこで買ってきたのか一目瞭然だった。きっとカーヴェも同じ紙袋を手に、この家に帰ってきたのだろう。
 この店で君も僕も好きな菓子って一緒だろ、とのカーヴェの指摘は決して間違いではない。アルハイゼンがこの店を使う時は必ずこの菓子だけを買い求めていたし、カーヴェは複数の組み合わせの中に偶数個混ぜ込んでいたはずだった。
「一応日持ちもするし何とでもなるか。さあ、とりあえず夕食にしよう。君も落ち着いたら手伝ってくれ」
 いつもの――とはいえ、しばらくアルハイゼンが聞けていなかった調子でカーヴェが告げ、踵を返して軽い足取りで彼は台所に姿を消した。玄関で一人取り残されたアルハイゼンは、指先にほんの少しだけ重みを伝えてくる菓子と同じ箱が居間か台所に置かれているのを想像する。ただそれだけの事がアルハイゼンの胸を緩く焼いて、そのむず痒さにゆるりと口角を上げてしまった。