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シノハラ
2024-10-17 18:49:39
27597文字
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アルカヴェ
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Homesickness Syndrome
去年の10月のアルカヴェの本を再録しました 2024年5月以降では逆立ちしても書けない話に仕上がっており、一年醸造することにより予期せぬ味わいが出ました 去年の10月時点の情報を懐かしみながらお読みいただけると幸いです
1
2
「身売りでもしたのか?」
「するわけないだろ!」
家をもらった。帰宅早々同居人であるアルハイゼンに意気揚々と告げたところ、怪訝そうに眉を潜められた。降って湧くにはあまりに大きい案件なのはカーヴェにも異論はなく、アルハイゼンが訝しむのも仕方がなくはある。とはいえ、自身が選ぶはずもない手段をわざわざアルハイゼンが選んだように思えて、カーヴェは思わず声を荒げて反論した。
「
……
いや、身売りじゃない。とは思う」
続けて文句を言おうとしたところ一抹の不安が生じてしまい、カーヴェは勢いを落として再度主張を繰り返した。ある程度反応は予想していたが、アルハイゼンは如実にカーヴェの変化に疑わしいと言わんがばかリの表情を作って、無言のままにカーヴェの主張の続きを促してくる。
「サングマハベイ様からの報酬に含まれていたんだよ。彼女のお得意様からの条件がちょっと厳しい仕事を受ける代わりに、ちょうど良さそうな家があるからそれを渡すと仰って。もちろん絵に描いた餅じゃないぞ。その仕事も無事終わって、契約の手続きも進んでいてもうすぐ終わる。今更彼女が商談を反故にすることはない」
紙面に綴られた契約内容の隙を軽く突いて商売相手を悩ませることはあっても、彼女が継続して仕事をする相手に致命的な不義理を働くことはそうそうない。一時の利益に気を取られて、先々の果実をないがしろにはしない。サングマハベイはそういう視点を持てる商売人だった。
「内見もさせてもらっているし、周囲の環境や治安も問題ない。中心地からは少し離れているけど、一人で暮らすには充分の一軒家だ。断る手はないよ」
集合住宅でないのが一番の決め手だったのだ。アルハイゼンがしばしば文句を言ってくるように、模型の制作はそれなりの騒音がついて回る。カーヴェと暮らすのであればある程度の時間までは許容して欲しいところだが、まさか同居人でもない相手にそんな要求ができるはずもない。となれば、庭がありそれなりに隣から距離がある一軒家であることは外せない要件だったのだ。
「サングマハベイの飼い犬になると言っているように聞こえるが」
「いちいち嫌な言い方をするな君は
……
」
「たしかに君が最近根を詰めていたのは知っている。とはいえ、多少の無茶でもらえるにしては過剰な報酬では? 家一つ分の価値を理解しているのは俺よりも君の方だろうから、見解を聞きたいところだが」
裏があって然るべきだと、アルハイゼンは少々機嫌が悪そうに指摘する。たしかに彼が言うように、彼女なりの思惑はあるのだろう。カーヴェに自分から不動産を与えることで、自身にその家が本来持つ以上の利益がもたらされることをサングマハベイは当然期待している。
なぜなら彼女は商売人で、カーヴェと彼女はビジネスにおいてのみ繋がりを持つからだ。当然ながらそこに百パーセントの善意とか、厚意というものは存在しない。
たとえば、仲介した取引先から獲得する恩義。サングマハベイの手引きがなければ開始時期の調整をするはずの案件が、彼女の口聞きによってカーヴェが条件をあっさりと飲んだ。元々期限を動かしたくなかった相手からすれば、相当ありがたかったはずである。
たとえば、カーヴェとの関係の強化。カーヴェがもっとも頭を悩ませている事象を解決することで、サングマハベイ経由の仕事を優先させる意図。彼女のことだから他にもあれこれ画策しているだろうが、これ以上は門外漢のカーヴェには測りかねる次第である。
「たしかにそう言われてもおかしくはない状況ではあるけど、そもそも彼女が持ってくる仕事は僕の性に合うんだよ。同じ規模の仕事が同じタイミングで来たら迷わず彼女の方を選ぶくらいには彼女の案件は良い」
サングマハベイは芸術に金をかける人間だ。他国ではともかく、スメールでは数少ない希少な人種と称して支障はないだろう。
カーヴェからすれば奇跡的な存在ではあるものの、玉に瑕と言うべきか、彼女が芸術性を尊ぶ理由はカーヴェが美を追求する理由とは異なる。いつか彼女にカーヴェの表す美そのものの価値を知らしめてやりたいと思わないと言えば嘘になるが、現状でも彼女は充分カーヴェの価値を正確に理解していると考えて良いだろう。
だからこそ、サングマハベイはカーヴェにアルカサルザライパレスを作らせたし、カーヴェの意見を押し通した結果生まれた無駄な出費以外には金の糸目をつけなかった。その末に落成したアルカサルザライパレスは彼女の仕事に有利に働くだけではなく、カーヴェがあまり意識していなかった効果をもたらした。すなわち、カーヴェ向けの新たな顧客の創出である。
カーヴェの仕事に魅了されたか、サングマハベイと同様の見方で価値を見出した彼女の取引先が彼女を介して仕事を依頼するようになったのだ。彼らは彼女の家を見てカーヴェの仕事を求めている手前、相応の拘りがあるようで、要望にカーヴェが頭を悩ませることになるのも珍しくはない。
ただ、サングマハベイがカーヴェからの返済を考慮してうまく調整をしているのか、往々にして金払いがよいのだ。よく言えば骨があって資材調達の制限が少なく、確実なリターンもある。悪くないどころか、カーヴェにとって非常に質の良い案件と言ってしまって差し支えなかった。
「元々彼女が僕のパトロンめいた立場にあるのは否定しないよ。僕があの家をもらうことで、更に関係が強まることも。それを身売りだとか飼い犬とか言うなら否定はできないが、僕だって利益があると判断しているから飼われるんだ。決して一方的なものじゃない」
カーヴェだってアルハイゼンが瞬時に思いついたことを全く考慮せず、サングマハベイの誘いに飛びついたわけではないのだ。何日もかけて結論づけた内容をつらつらと開示して、カーヴェはアルハイゼンの反応を窺う。
彼はソファで足を組んで読書をしていた姿勢を崩さず、ぱたんと本を片手で閉じてカーヴェの意見を精査しているらしい。場違いにも、彼が栞を挟むかページ数を把握していたのかが気になった。
「
……
君が理解しているのであればそれでいい」
「それはどうも。と言うより君の許可がなくても出ていくけどさ」
むしろ、引き留められる意味が分からない。彼はいつも口論が長引いて不毛さが増し、やり取りが億劫になれば出ていくといいとカーヴェに言い放った。カーヴェにできるはずもないと分かっていて、幾度となくカーヴェの口を封じていたのだ。たとえ、カーヴェが勢い飛び出して数日帰らなくとも気にする男ではなかろうに、何を今更人の判断が妥当かなんて推し量ろうとしているのか。
そんな苛立ち紛れの宣言に、アルハイゼンはただ一言分かったと口にした。その一言で、自分達の関係はようやく奇妙な関係を脱することができる。カーヴェはずっとそう考えていた。
そのいつかはかつて一度カーヴェの鼻先までやってきたが、結局自ら手放してしまった。もう一度同じ選択を迫られたとしても、カーヴェは同じ答えを出すだろう。サーチェンの思想はカーヴェには受け入れ難いものだったが、彼の遺産は決して個人の利益のために使われて良いものではないのは間違いない。だからと言って、手に入れ損ねた不動産に対して後悔がないはずがなかったのだけれど。
その瞬間は遠のいてしまったものの、いつか必ずカーヴェの手中に収まる日が来るのは分かっていた。けれど、それがいつになるかなんてカーヴェにはさっぱり分からない。ずっとずっと、そう思っていたのだ。
「ああ、えっと」
そのいつか、はあっさりと到来して、抜け落ちた空白を埋めるようにカーヴェは意味のない音を吐き出した。ええと、何か話さないと。
「ツケはちゃんと払うから安心してほしい」
「うん」
今度は憎まれ口もない。きっと、アルハイゼンはカーヴェがこの家を出ることを本当に了承したのだろう。
自分が住むときに購入した家具の中でも極々個人的な
―
たとえば寝具辺りを移動させるための日取りの確認や、カーヴェが住居を移すタイミングのすり合わせをする間にアルハイゼンはほとんどカーヴェの話に口を挟まなかった。
アルハイゼンからの注文はたった二つだけである。業者を入れるなら平日の昼間の間に済ませること。それと、カーヴェが住んだのがきっかけになって増やした家具や雑貨で、二人が共用しているものは置いて行くこと。もちろん、購入費はアルハイゼン持ちとなる。
それからいくつかの約束をして、カーヴェは無事家を出る算段をつけられた。事務手続きを進める傍らで、もう自分の物として扱って良いと言われている新居に足を運んではレイアウトを考える。すぐにカーヴェが思った通りの内装にはできないだろうが、懐の様子を見て少しずつ買い足していけばよいだろう。必要経費をも浪費と取りかねない男はもうどこにもいなくなるのだから。
* * * *
家がアルハイゼンだけの物に戻る日の午後、玄関に立ったカーヴェの荷物は思いの外多かった。もちろん、家具や生活必需品は業者が彼の新居に移動させてくれている。今、彼の身の回りにあるのは彼の右腕に等しいメラックと、機密性の高い書類、ここ数日分の衣服、それにどちらが買ったか区別しきれなかったこまごまとした雑貨がそれなりに。雑貨については結局等分することにして、カーヴェはなるべく持ち歩きやすい品を中心に選んだ。
カーヴェは書類以外をメラックに任せて、残りは砂漠に行くときに使う大きなリュックに詰めて背負う事にしたらしい。それこそメラックに任せるべきではないかと思ったが、もしもがあったときにメラックの責任のようになるのが嫌だと彼は主張した。
玄関で中空を見上げながら指折り数えて忘れ事はないかと念入りに確認しているところを見るに、カーヴェは簡単にはこの家の敷居を再び跨ぐつもりがないらしい。当然と言えば当然なのだが、その様子を見るとしんと心臓が痛むのを感じた。
メラックが浮かべる荷物を覗いているカーヴェを見ながら、アルハイゼンは腕を組んで廊下の柱に身を預ける。アルハイゼンが動いたのに気がついたのか、彼の掲げる信念よりもずっと落ち着いた色合いの眼がアルハイゼンに向けられた。
「アルハイゼン、ずっと言いそびれていたんだけど」
居心地が悪そうに視線を外されるのが気に食わなくて喉を鳴らして相槌を打つと、カーヴェが意を決したらしくアルハイゼンに視線を戻す。聴覚と視覚ではっきりと認められる程に肩を使って大きく息をして、カーヴェは一度ゆっくりと目を瞑った。再び開いた眼差しはアルハイゼンの記憶の中にしかいない人と等しく緩んでいる。
「今までありがとう。本当に助かったんだ。あの時君が来てくれなきゃ、一体どうなっていたかって今でも思う。悔しいけど君は僕の恩人だ」
最後だと思っての事なのかカーヴェから大盤振る舞いの謝意を注がれて、アルハイゼンは一瞬息を詰めてしまう。以前、たった一言礼を言うためにあれほど労力を掛けていたとは思えないくらいに滑らかで、月並みかもしれないが言葉を尽くそうとする感謝をどう受け取るのが最適かも分からない。
「あとこれは、こういう時だからちょっと気持ちが盛り上がってるんだろうけど」
それからほんの少しだけ声の調子を弱めて、カーヴェはアルハイゼンに今の自分は普通ではないのだと弁明する。長らく望まぬ居候の身分に甘んじていた成人がようやく自身の家を持って、経済的な自立の一歩を踏み出す日なのだ。そんなこと、わざわざカーヴェに主張されなくとも理解している。
「ハグしても?」
「ハグ?」
「ああ、君を抱きしめたい。もちろん、君が嫌じゃなければだけど」
今のカーヴェは普通でなく、全てを話半分くらいで捉えておくべきである。そう理解しているつもりだったが、それでも大分予想外の申し出だった。聞き間違いではあるまいかと思わず復唱の形で問い返すと拒否感を示したと思われたのか、カーヴェが俄かに緊張した面持ちになり条件をつけてくる。
彼との身体的接触を厭うのであれば、もしかしたらアルハイゼンはカーヴェを家に上げていなかったかもしれない。ただ、彼との触れ合いを厭わないと認めるのは少々勇気のいる行為であるのは間違いなかった。
アルハイゼンがカーヴェに好意だか厚意だかを晒すのが恐ろしいと表現すると、正確さを欠いてしまうだろう。アルハイゼンが真に恐れているのは、アルハイゼンが持つ感情をカーヴェが重荷と捉えるだろう点である。
比較的良好な関係にある他者の厚意すらうまく受け止められない彼が、どうしてアルハイゼンを受け入れられるだろうか。彼が他者の厚意に気づかないとか、恋愛感情に嫌悪感を覚えるだけであればさほど問題もなかったのだ。しかし現実は真逆にできていて、カーヴェは他者の善意をしっかりと認識し、そこに含まれている感情の種類の識別もできてしまう。
その上で、カーヴェは自身に向けられる愛情を受け入れられない。かつて学院にいた頃に、どうしようもないのだと萎れながらカーヴェはアルハイゼンに自身の欠陥を告白した。自分は誰かと付き合って愛される覚悟がないのだと。きっと理由を聞けば君だって僕が気にすることではないと言うだろうけど、だからといって自分が心の底から納得できるわけではない。
だから誰の気持ちにも応えられない。それがその人を傷つけると分かっているのに。
あの頃のカーヴェに一体何があって、第三者の後輩に気持ちを吐露したのか、アルハイゼンは今も知らないままだ。けれど、その時の彼が自身を責め、古傷になり切らない傷を痛めながら誰かを拒絶したのは想像に難くなかった。
アルハイゼンはその一人になりたいとは思えない。
「
……
だめか」
「
……
いや、構わない」
明らかにしょげた声を耳にしてから、アルハイゼンはようやく覚悟を決める。カーヴェのわがままを聞き入れるだけだと聞こえるように、ただあまりに渋々と言った調子にならないように気をつけながら、組んでいた腕を解いて軽く腕を差し出す。
どうやらアルハイゼンの努力は実を結んだようで、カーヴェはぱっと表情を明るくして慌てて鞄を床に下した。自分から言い出した癖に今更緊張したのか、カーヴェは自身の手のひらを見ながら二、三指を曲げ伸ばしする。イメージトレーニングには絶対に役に立たないはずの動きをしばらく続けて、カーヴェは意を決したようにアルハイゼンを視界に収めた。
大股で距離を詰めて来たせいか、寄り添うというよりはぶつかりにきたと表現する方が相応しい様子でカーヴェはアルハイゼンに接触した。軽い衝撃があってからカーヴェがアルハイゼンの背中に腕を回してぐっと引き寄せる。遅れて背にかかった力に懐かしさを覚えずにはいられなかった。
彼がアルハイゼンを抱き締めていたのは学生時代でも、アルハイゼンの背が急に伸びる直前までだったと思う。それまでの自分はカーヴェにとっていつまでも小さくて可愛らしい後輩だったらしく、就学前の子供を可愛がるような触れ方をすることがあった。
ある日突然骨がしんしんと痛むと思ったら急に背が伸び、予定よりも早く制服を買い替える羽目になった。それだけで済めばよかったが、体のサイズ感を掴めずにあちこちぶつけて、そこここに青痣を作った記憶がある。アルハイゼンが不便をしているうちに、カーヴェも自分の後輩が子供というには背丈がありすぎると気がついたようだった。
それ以降もカーヴェはアルハイゼンを後輩として可愛がりはしたが、猫かわいがりと言えるような扱いは鳴りを潜めた。遅すぎはしたが、正しい判断ではある。
昔のようなアルハイゼンを覆おうとする抱き締め方はもうできないが、それでも充分伝わってくる彼の体温と存在感に口元が緩むのが分かった。日頃から一緒にいるせいかほとんど気にならなくなっていた香水の匂いを久々に意識して、鼻孔から脳の深いところまでじんと痺れる。そのまま僅かにでも唇の合わせを緩めてしまえば最後、口を滑らせてしまいそうでアルハイゼンは唇に力を入れた。
カーヴェに合わせて彼の腰辺りに手を回すと、反応があるとは思ってもいなかったらしいカーヴェの肩が微かに弾んだ。純粋に驚いただけらしく、アルハイゼンに謝意を証明するように腕の力が少しだけ強まるのが愛おしくてならない。
愛している。だから自分の隣がカーヴェにとって帰る場所であって欲しい、なんて。決して彼に伝えるわけにはいかなくて、アルハイゼンはカーヴェに見えないのをいいことに強く眉間に力を込める。
彼の生い立ちとアルハイゼンの感情を度外視しても、カーヴェは本来ここにいるべきではないと分かっている。自身の理想を体現しようと自分の身どころか資産まで犠牲にしたカーヴェにとって、その終着点であったアルハイゼンとの生活は彼の尊厳の欠落を表していると言ってもいい。
手放すべきだ。そうすることで、カーヴェが一歩でも先に進めるのであれば。自身の愛情の表現などよりも、彼のあるべき姿を優先するべきだと欲望の近くに寄り添う理性は強く訴えている。
「体に気をつけて」
「
……
おどろいた。君もそういうことを言えるんだな」
今までと比べればずっと遠くに行ってしまう彼の身を案じると、目を丸めたカーヴェがまじまじとアルハイゼンを見つめてからふっと表情を緩めて笑った。そのどこか擽ったそうな表情に、アルハイゼンは今にも注いでしまいたくなる思いを強くする。
たとえば、一年ほど前の自分達であれば、もう会う事もないのだからと気持ちを告げてしまっていたかもしれない。その頃のアルハイゼンとカーヴェの関係は完全に二人の間だけで閉じていて、彼の自立と共にふつりと途絶えるべきものだった。
ここ一年で自分達を取り巻く環境は大きく変化してしまっている。いや、正確性を期すのであれば、アルハイゼンが変えてしまったと表現するべきなのだろう。その結果、アルハイゼンとカーヴェには共有の友人が複数できた。そんな状況でアルハイゼンの思いには応えれないとカーヴェが答えて、それをもって一生のお別れとしようなんて綺麗な幕引きはもはや叶わない。あの一件で得た人脈はどれも悪くはないものの、この一点においてだけは非常に厄介な代物だと言えるだろう。
「うん、そうだな。気をつけるよ」
目を伏せてカーヴェが一つ頷くと、するりと背中に回った腕が離れていく。それに合わせてカーヴェの脇腹に当てていた腕を外せば、カーヴェは半歩ほど足を引いてアルハイゼンと距離を作った。
「君も気をつけて」
アルハイゼンの二の腕を軽く叩いてにっと笑って見せたカーヴェの姿ばかりがアルハイゼンの脳裏に焼き付いている。それからたしか二、三、雑談めいたやり取りをして、カーヴェはこの家を後にした。
それが日曜夕方の出来事である。これが最後だから、と家を出る前にカーヴェが用意してくれた夕飯はやたらと豪華だった。客でももてなすつもりだったのかと問いたくなる料理は、食べやすさとの両立は測れていない。一応、全く考えられていないわけではないので、文句を言う程の物ではなかったのだが。
普段の夕食よりも大分量が多く、言外に彼が残りは朝食に回せと言っているのが伝わってくる。彼が残していった意思の通りにアルハイゼンは一部をより分けて、足の速そうなものを優先して胃に収めた。
食べやすければそれでいい。カーヴェが家事を担当して料理をする事になった時に、アルハイゼンは真っ先にカーヴェへ注文を付けた。特別苦手な味でもない限り、それ以上の要求をした記憶は特にない。それでもカーヴェはアルハイゼンから感想を引き出そうと画策したり、食べる様子を観察したりしてアルハイゼンの食の好みを調べていたらしい。
その集大成である夕食は作りたてでなくても、手放しで褒められるべき味付けだった。どれを翌朝に回すかもある程度目星をつけていたらしく、冷やしても食べられる物もある。
翌朝は普段よりも少しだけ早めに目覚め、普段よりいくらかぼんやりとした頭で朝の準備を終わらせた。挨拶や朝食時のお互いの予定の共有のため、起きて早々口を動かしていたのが思いの外効いていたらしい。
これだけの労力を掛けた食事を出した時は必ず、カーヴェはアルハイゼンにフィードバックを求めてきた。褒めそやせと言うつもりではないらしいので、いつも忌憚のない意見を返しては喜色を浮かべたり難しい顔になったりする彼を眺めていた記憶がある。ほとんど習慣化していたらしく、アルハイゼンは昨夜から行き場のない感想を思い浮かべては形になり切る前に散らす羽目になっていた。
カーヴェがこの家から出ていったと実感するまで、なかなかに時間がかかりそうだった。仕事柄、彼がしばらく家を開けるのはそう珍しい事でもない。クライアントに会いに行くため、現場の環境を調査するため、工事の現場が遠いのでその近隣で寝泊りするため。カーヴェがしばらく帰らない理由なんてものはそれこそいくらでもあったせいで、今までとあまり変わらないように感じてしまう。
もちろん、半分に減った食器や歯ブラシを見て彼の不在を意識する瞬間はあった。けれど欠落を覚えるのは一瞬だけで、次の瞬間には判然としない状態に戻ってしまう。予定より少し遅れて帰宅した時のように、疲労に塗れた声と共に居間に彼が転がり込んできてもおかしくないような、そんな感覚をずっと持て余していた。
一週間の仕事を片付けた夕方に、アルハイゼンは帰宅する前に外食をしたついでに酒もいくらか飲んだ。酔いが回って読書に支障が起きない程度で切り上げて、アルハイゼンは帰途に就く。日が落ちて暗くなった室内の明かりをつけて、水を飲んでから居間の隅に置いたままだった本を手にしてソファに向かう。
それから二人掛けのソファに腰かけて、自分があえて端を選んで座ったのに気がついた。ここが研究所として使われていた名残りで、居間には客人でも呼ばない限り埋めようがない数のソファがある。だからアルハイゼンは本来ならソファの座る位置になど、わざわざ気を遣う必要はどこにもなかったのだ。それなのになぜか自分の横を選ぶことのあるカーヴェのため、いつしか一人分の余裕を作るように座るようになっていた。
すでに開いていた本を閉じ、アルハイゼンは小さく息を吐く。押し出した空気に微かに声が混じり、久々にこの家で発声した格好になった。
家の鍵を選び取って外出しなければならない事。決まった時間に風呂に入るようにする事。自分が食べるよりも少し多めに菓子を買って帰る事。彼のために自分の隣を空けておくこと。すべて、カーヴェと暮らし始めてから必要になった習慣だった。
たぶん、アルハイゼンが気づいていないだけでこんなことはいくらでもあるのだろう。カーヴェと暮らすために少しずつ変容した自身を思い知らされて、そうしてようやく彼の喪失を知る。アルハイゼンが抱える愛情を彼が知らないでいるように、この寂寞たる思いを知ることもないのだろう。
* * * *
セノがカーヴェの新居の様子を見に来てくれたのは、まだ室内が整いきっていない頃の事だった。職業柄というより生来の美意識の問題でこんなところに友人を通すのは業腹ではあったが、偶然時間ができたのだと尋ねてくれた彼を追い払うわけにもいかない。
まだ全然だから、と含めおきながら居間に通すと、セノがざっと内部を見渡してから視線の終着点をカーヴェに定めて緩く首を傾げて見せた。どこが、と微かに語尾を上げながら問われて、色んなところが、と返事をする。彼が他のスメール人と同様に室内の有り様に強い関心がないのは百も承知で、カーヴェが他人に見せられる水準に達していないと判断してしまうのだから仕方ない。
ちゃんと違いを見せるからその時はまた招待させてほしいと願い出れば、区別できないかもしれないと言いながらもセノは二つ返事で了承してくれた。その後セノの手土産の菓子を食べるのもそこそこに七聖召喚に興じる事になったので、区別も何も彼は内装を覚えずに帰ったかもしれない。どちらかと言うとそちらの方がカーヴェにとっても好都合である。是非とも全部、綺麗さっぱり忘れてくれ。
旅人とパイモンが家に来たのはそれから一ヶ月程後の事である。彼らの仕事に付き合ったお礼も兼ねているらしい昼食をいただいていた時に、急に新居の話を持ち出されてカーヴェは首を傾げた。この子達は定住しておらず、自分達から二人に連絡をするのは難しいため情報共有を後回しにした上、今日伝えるのをすっかり忘れていたとまさに今思い出したところだったのだが。
不思議に思いながらも認めるカーヴェを見て、旅人はセノから聞いたのだと教えてくれた。なるほど、どうやら別件で会う機会があったらしい。カーヴェが許容するように、セノも旅人であれば伝えて良いと判断したに違いない。
ただ、やはり日程が微妙だった。セノが来た頃よりかはずっとましとはいえ、提案された日は注文した家具がまとめて届く日で客を招ける状態ではない。そう率直に理由を伝えて渋ると、パイモンが手伝おうと旅人の横でぴょこんと跳ねた。
そんな小さな手で太刀打ちできる荷物じゃないぞ、と笑えば自分は応援役だと主張する。どうやらそもそも自分を働かせるつもりらしいと旅人は苦笑したものの、どうやらそこそこ乗り気であるらしい。結局彼ら、というよりも旅人に甘える形になったのだが、決め手は例の壺の中身である。
あの子がどのような経験を積んできたのか、カーヴェにはあずかり知らぬ部分の方がずっと多い。けれど、多種多様
――
ひょっとしたらカーヴェですら知り得ないような建築に旅人が触れて来たのは間違いなかった。それらを吸収してきた旅人には建築の分野において、それなりの哲学が存在する。
その知識と感性を参考にしながら家具の位置を調整するのは、なかなかどうして楽しかった。パイモンは途中で飽きてしまって、家具と一緒に届いたソファの上でクッションに埋もれて寝入ってしまったのだけど。
「あれ、あの二人にも先を越されちゃってたんだ」
最近はフォンテーヌにいるって聞いたような気がするけどいつの間に、と円を描くようにティーカップを傾けながらティナリが不思議そうに口にする。旅人曰く、スメールにはそれなりの頻度で戻っているらしい。
ただ、スメールからフォンテーヌに抜けようとすると砂漠の横断を余儀なくされるため、わざわざスメールシティにまで足を伸ばさずに砂漠の地域で用事を済ませる事の方が多いのだとか。雨林の方に用事があったとしても大体の用はスメールシティで済んでしまうはずで、そこから更にガンダルヴァー村まで行こうとは思わないだろう。
砂漠で良く会う人物として旅人が名を上げた名前で、カーヴェにとって一番馴染みがあるのはラフマンだった。何の因果かサーチェンの遺産をそのまま寄付する運びになった際に、彼の活動にまとまった額が割り当てられたのがきっかけである。彼の活動がアルハイゼンのお墨付きであり、ラフマン自身がスメールに革新をもたらした騒動に関わった人物の一人でもあったのが決め手だったらしい。
アルハイゼンがわざわざ保証人じみた事をしているのだから、ラフマンが不正に関わるような人物でないのは確実だった。そんな彼に興味を持って、カーヴェはラフマンに会いに行ったのだ。
父の最後の日々は砂漠にあり、きっと砂漠の復興を望んでいたのだろう。それを子供の世代を中心に実現を模索している人物にカーヴェが興味を抱いたのも、そう不思議な話ではあるまい。
ラフマンは自分には学がないと言った。自らが信じる神ですら、知らない事ばかりなのだと。だから事業についてはセタレに尋ねた方が確実で正確だと、ラフマンは元々教令院の学者であった協力者の名を上げた。
そうしてカーヴェを追い払うのかと思いきや、砂漠における建築の話をしてほしいとラフマンは乞うた。突然の事で何の準備もない上、釈迦に説法の部分も多かろうと悩んだがカーヴェは結局彼の依頼を引き受けた。
対話形式で行い、理由ははっきりしていないが習慣になっている事などを吸い上げ、砂漠の建造物の利点と欠点を整理する。そこから改善点や付き合い方に繋げる方法を取り、それなりに好評を得られたように思う。幅広い年代が集まってくれたため、世代間の知識の伝播にも一役買えたのが何よりの収穫だった。
強い視線を受けながら喋る最中に、カーヴェと砂漠の民は同じなのだと今更ながらに強く意識した。彼らは知識を求めている。それはスメールの民として、最も根源的な希求だった。
旅人もそれを知っているのか、砂漠でよく他の国の話をするらしい。いつか、砂漠の星空の下で毛布にくるまりながら彼らと旅人の話を聞けると良いとカーヴェは思っている。
「砂漠にいればそこそこ捕まえられそうなんだけど」
「いや、厳しいなそれ
……
」
以前砂漠で倒れかかった時に味わった砂熱の温度を思い出したのか、ティナリの耳がしゅんと萎れる。カーヴェも大概太陽の光と熱に弱いが、どうもティナリは輪をかけて弱いらしい。アアル村で体調を崩した彼が耳と尻尾を外せばもう少しましになるのかも、なんて本人にしか許されなさそうな感想を漏らしていたのをカーヴェは思い出す。
かつての火照り散らすようにティナリがカップの中身を飲み干したので、ティーポットに残っていた紅茶を足してやる。ティナリが礼を言いながらティーポットを視線で追って、それから居間をぐるっと見渡した。なんとなく彼の視線に合わせて室内を見てから、最後にお互いに視線を合わせる。
「アルハイゼンの家ではやっぱり遠慮があったんだね」
あの辺りとか、向こうの家にいたら選ばなかったんじゃない、とティナリがいくつか家具や雑貨を指差した。たしかに彼の指摘する通り、アルハイゼンの家には馴染まない代物ばかりである。
「遠慮というか、元があったから好きにやろうと思うと総とっかえになりかねなかったんだよ。さすがにそれはちょっと」
自由にできる金銭が手元にあったとしても、おそらくカーヴェはそこまではしなかっただろう。アルハイゼンに内装への強い拘りはなかろうが、元々あるものを全てなくしてしまうよりもそこにあるものをベースにして育てていく方がずっといい。新しさは無からは生じ得ないというのがカーヴェの持論である。
カーヴェの主張に納得したのか分からないが、ふうん、とティナリが相槌を打った。肯定も否定もしないまま彼は席を立ち雑貨の類を見てから、まだ収納の余地のある本棚をまじまじと見つめる。
「当然だけど本棚の感じも結構違うね。この辺りとか面白そう」
「持って帰る?」
「くれるの?」
ぱっと顔を上げたティナリを見て、そんなつもりではなかったとは言えなくて思わず押し黙ってしまう。ティナリが手に取ったのは偶然古本屋で見つけた本で、図書館でもなかなかお目にかかれない代物だ。
だからティナリが読みたいのであれば貸しても構わないと思ったのだが、言い方が大分よろしくなかった。期待させてしまった手前、撤回するのも残酷に思えて、カーヴェは上げてしまいそうになった呻きを何とか飲み込んだ。
「
……
ふふ、冗談だよ。ありがとう。ちゃんと返しに来るね」
相槌が一拍遅れてしまったからだろう。ティナリが小さく笑って本を手にすると、机の端においてから菓子を摘まむ。気を遣わせてしまったと罪悪感を抱いて謝罪しながらも、得体のしれない安堵感があった。自分でも識別し切れないものの、おそらくこれは希少価値のある本が手元に残るためのものではない。
紅茶を飲み切ってから、残った菓子の甘さに合う酒を追加して少々飲んだ。話題はコレイやセノの近況についてが主だったので、もしかしたら今二人は今頃くしゃみの一つくらいしているかもしれない。草神が表舞台に戻ってからは死域も随分と落ち着いて、ティナリとコレイは以前は後回しになりがちだった仕事に専念出来ているらしい。余裕ができているのであれば何よりだ。
「
――
さて、君の元気な顔も見れたし、そろそろお暇しようかな」
時針が数字を跨ぐ時の音をきっかけに、ティナリがぴるぴると耳を震わせながら伸びをする。いつの間にやら、夕食時が近づいているらしい。
「泊っていっても良かったのに」
元々戻る時間も聞いていたので何かの予定が入っているのは承知していたものの、なんとなくこの後一人で夕食を食べるのも眠るのも嫌だった。随分なわがままを言っている自覚はあるものの、カーヴェだって言う相手くらい選ぶ。たとえば場の空気を読みたがるコレイがこの場にいれば、カーヴェは決して口にしなかっただろう。けれどここに彼女はいないし、幸いティナリは所謂NOが言えるタイプである。
「やだよ、宿代がもったいない」
駄目かあ、とばっさりとティナリに切り捨てられてから溜息交じりにぼやくと、駄目だよ、と追撃を食らう。そっかあ。そうだよ、まったくもう。
「なんだ、アルハイゼンの家が恋しいんじゃないかい?」
「まさか。子供じゃないんだからさ」
からかうような口調に眉を潜めてつっけんどんに答えても、ティナリは意外そうにはしなかった。ある程度先の会話を考えながら、彼はカーヴェに問いかけているらしい。
「そう? 誰かとしばらく暮らしていたんだから、それがなくなったら大人だって寂しいと思うけど」
「うっ
……
そう言われると否定しづらいな」
緩く首を傾げながら重ねて問われて、構えていたはずなのにうまい返事が浮かばなかった。たしかに彼の言う通り、四六時中一緒にいる人がいなくなったら人恋しく感じて当然なのかもしれない。ティナリの横にある本の表紙を見て、彼が本を返しに来ると言った時に安堵したのは、友人がまたこの家を訪ねる確約が得られたからだと気がついた。
寂しい。たしかにそうなのかもしれない。誰かと夕食を取らないのも、誰の寝入りも見送らずに一日を終えるのも、まだ動ききらない頭で誰かと朝の挨拶ができないのも。少し前まではどれをとっても当然の事だったのに、今やそのすべてをカーヴェは失っているとも言える。
「無理して出ていく必要なんてなかったんじゃない?」
まだ少し酒の残ったコップに視線を落として、伏し目がちになりながらティナリがカーヴェに問いかける。彼がカーヴェと視線を合わせなかったのは、回答が必須ではないと言外に告げているからなのかもしれない。
「無理はしてないよ。それに、よしんば無理をしていたとしても、出ていくべきだったと思ってる。だってあそこにいたら、いつまで経っても僕はアルハイゼンと対等になれない」
居候と家主。度々問答や口論を強制終了させる時にアルハイゼンが持ち出した関係性である。彼がそれを持ち出すのは結局着地点がないような不毛な題材を扱っている時がほとんどではあったが、そのたびにカーヴェは自身の立場を強く意識させられた。
その瞬間、カーヴェは彼との間にどうしようもない壁を感じて立ち竦んでしまうのだ。破綻して瓦礫と化してそこここに転がるそれとは異なる何かが自分達の関係を硬直させているように思えて、酷く息苦しく感じてしまう。生活の不便よりも、カーヴェはそれがずっとずっと苦しかった。
「
……
なるほど。それはそうかもね」
たっぷり一呼吸分時間を置いてから、ティナリがカーヴェの答えに同意した。難しいね、なんてちょっと苦笑してコップを傾けたところを見るに、この話を切り上げるつもりらしい。
「で、泊っていかないかい?」
「ひょっとして、もう大分酔ってる?」
「いいや。寂しく見えてるみたいだから良心に訴えられたらいけるかなと思って」
ならばと話を戻してみると、げんなりとした表情で尋ねられる。気は多少大きくなっているかもしれないが、我を失うほどではない。
「もう、駄目だよ今日は。一人で来たわけじゃないんだ」
ティナリは元々仕事でスメールシティに来て、その中でわざわざ時間を作ってカーヴェを訪ねてくれたのだ。同行者がいてもさして不思議な事でもないが。
「コレイ? 連れてこれば良かったじゃないか」
「ううん。君の知らない部下の子。若くて、スメールシティのこともよく知らないから、あんまりほっておけないよ。わかった?」
段々、子供に対して言い含めるような物言いになるティナリを見ながら、村の子供に対しても同じように話しかけているのではないかと思えてくる。であれば、今の自分はティナリにとって年端も行かない子供とさほど変わらないらしい。
「うーん、わかんないかも」
子供の発音を意識して少々舌足らずに答えると、ティナリがああもう、と普段より高い声を上げる。本格的に怒られそうなので、そろそろ終わりにした方が良さそうだ。
「酔った君ってほんとにめんどくさいね! アルハイゼンっていつもこんなのの面倒見てたの?」
「いや、僕が寝るまで放っておかれてる。ああでも、吐きそうな時だけはトイレに放り込んでくれるかな?」
いつもの調子に戻ったカーヴェのあんまりな答えを聞いて、苛立ちの溜まった袋にぷすんと穴が開いたようにティナリがふふ、と笑った。まあ知ってるけど、とくふくふ笑いながら続けるのは、彼が実際にその場面を見たことがあるからだろう。全く心当たりはないが、酔った時の自分の記憶ほどあてにならないものはない。
「それじゃあ帰るよ。ほんとに帰るから。じゃあねあんまり飲み過ぎないようにね」
「ああ、じゃあね」
いい加減話が収まったと判断したのだろう。ティナリが背を屈めて小さな鞄を取ると、少し強引にカーヴェから借りた本を詰めて立ち上がる。さすがにあんまり部下を放置させるわけにもいかないので彼に倣って腰を上げると、玄関に向かおうとするティナリを先導した。
玄関の扉を開けて外に出て小さな庭を通り、公道の手前までティナリに付き添う。彼が特別というわけではなく、セノと旅人達もそうやって見送った。
「またね。今度来た時に返しに来るから」
「ああ、楽しみにしてる」
自分の家の敷地との境界線で足を止めると、ティナリが斜め掛けにした鞄を軽く叩いてカーヴェが貸した本の存在を示す。今からその日が楽しみにしながら手を振ると、ティナリも同じように手を振ってカーヴェに背を向けた。
その背中を見ているうちにティナリが振り返って、カーヴェが自身を見ているのに気がついて苦笑する。今度はひらひらと追い返すように手を泳がされて、少し唇を尖らせながらカーヴェは家に引っ込んだ。
後ろ手に鍵を締めて、カーヴェは居間に一人で戻る。先ほどまでティナリがいた気配はそこここに残っていて、それらを自分で取り除いていく必要があると思うと心が重くなる。
新居の内装を整えるまでは事務面で考えることもあり、なんとなく慌しい日々を送っていたのだ。その忙しさに気を取られて、今までは客人を帰しても平気だったのだろう。
この住居は時間と手間をかけただけあって、隅々までカーヴェの意思が反映されたどこに出しても恥ずかしくない我が家に仕上がった。趣味趣向の問題はもちろんあるが、真っ向からカーヴェの仕事を批判できる者はそういないだろう。
それなのに、どうしようもなく空虚にも感じてしまう。すべてがあって、何もない。決定的に不足していて、どうにも埋めようがない欠落があると強く感じてしまう。
厭わしい癖に懐かしい。そう、カーヴェは思ってしまった。この空白こそが、カーヴェにとっての自宅そのものであったではないか。何を今更、と呆れる自分がいる一方で、しばらく忘れてしまっていた感覚であるのも間違いない。その空間を埋めようとしてか、カーヴェはアルハイゼンと暮らしていた日々を思い返してしまう。
今も昔も彼は寡黙であり、カーヴェの暮らしぶりに小言は呈された一方で、過剰に介入して来ることはほとんどなかった。ただ彼は寝起きと寝る前に律儀にカーヴェに挨拶をした。それから朝食と夕食、タイミングが合えば昼食も食卓を共にするように努力していたように思う。
ただそれだけだった。そう、言ってしまうことだってできたはずだった。けれど、ただそれだけがこの欠落を埋め得たのだとカーヴェはついに知ってしまったのだ。
* * * *
思いの外依頼主との打ち合わせが長引いた。有体に言えばごねられた訳だが、ごね方が全くの素人のそれではなく、カーヴェの意欲を絶妙に擽ったのはありがたい。彼の意見を取り入れた案が用意できれば、よりよい設計に繋がるはずである。
その代償として日はすでに暮れていて、今から帰って夕食を作るつもりにはなれなかった。スメールシティの中心地にいるのだから、しばらく寄れていなかった酒場に行けば良いだろうと候補を絞り込みながらカーヴェは夜の街を歩く。
一つの店に狙いを定めすぎると、満員だった時の傷が深い。平日の折り返しの日であればともかく、週末の前日となると断られる覚悟もしなくてはならないだろう。行きたいけれど必須ではない程度の店。意外に難しい選択に迫られながら、カーヴェは人出の多い通りを歩く。
「
――
あ」
候補を三つに絞り込んだところで、視界の隅に覚えのある色が街灯の光を弾いた。その光に気を取られて足を止めると、後ろを歩いていた通行人が迷惑そうにカーヴェを避けて通り過ぎていく。それから振りむくまでの間で、カーヴェとすれ違ったその人はそれなりの位置にまで進んでしまっていた。平均よりも身長が高く、体を鍛えているせいか彼は早足ではないが一歩の距離が長くて進むのが早い。
「アルハイゼン!」
それなりの声量で呼びかけてみたものの、彼の足は止まらなかった。無視されているのかと思ったが、すぐに彼の耳にあるヘッドホンの存在を思い出す。おそらく本当に聞こえていないだけなのだろう。いや、聞こえていないというのは不正確で、聞こえないようにしていると表現するのが適当か。
「ちょっと
……
こら! 街中で遮音を使うな! 危ないだろう!」
通行人を追い越しながら彼を呼ぶが、アルハイゼンがカーヴェの声に気づく様子はない。追いつくのは難しくはないものの、彼が気づく前に腕を掴もうものなら勢いよく振り払われてしまうかもしれない。それだけならまだしも、振り向きざまに殴られてしまうような事があれば堪らない。
「メラック、アルハイゼンの前に」
微かな光を灯しながら状況を窺っていたらしいメラックが、カーヴェの指示を受けてふわりとアルハイゼンの前に出る。それからちかりと瞬いて無事メラックはアルハイゼンの気を引いたらしく、彼の指先がヘッドホンに触れた。
「アルハイゼン!」
もう一度声を大にして呼びかけると、ようやくアルハイゼンが立ち止まった。それに合わせてカーヴェも足を止めるが、周りにいた通行人はある程度自分達の動きを予測していたようで、カーヴェにぶつかりそうになる者はありがたいことにいない。
「まったく、なんで呼び止めるだけでこんな一苦労しないといけないんだ」
「カーヴェ」
そうじゃなくとも危ないと今度は彼に聞こえるように毒づくものの、アルハイゼンはカーヴェの文句なんて全く気にする様子はない。彼はそういう男だと分かってはいても、新鮮に苛立ってしまう自分がいた。
「息災だったか?」
「
――
ああ、うん」
苦情を重ねようとした瞬間、予想だにしない問いかけがあって完全に毒気を抜かれてしまった。体調を崩したわけでもなし、回答に誤りはないだろう。そうか、とアルハイゼンは頷いたものの、カーヴェの生活の仔細は求めていないように見えた。
一仕事を終えたメラックがカーヴェの元に戻ってきたので一撫でしてやってから取っ手を掴むと、アルハイゼンが再び歩き出す。この通りは職場と彼の家の道中にはないので、仕事を終えた後に外で用事があったのかもしれない。まあ、彼の用事と言っても本屋巡りか外食くらいだろうが。
「今日は仕事の打ち合わせでこっちに来ていて。君は?」
「本を買い足した帰りだ」
なるほど、すでに予定は達成済みだったらしい。視線を落とすと、たしかに彼は片手に紙袋を携えていた。撚った紙紐はアルハイゼンの指に食い込んでいて、そこそこの重量がありそうだ。おそらく週末の時間の大半を注ぎ込んで、じっくりと消化していくつもりだろう。
「じゃあ真っ直ぐ帰っちゃうか」
思ったよりもずっと残念そうな声を出してしまって、自分でも少々驚いてしまう。アルハイゼンもカーヴェの声音に籠った感情を読み取ったのか、ちらりとカーヴェに視線を寄越した。
「少し飲んで帰ってもいい」
「
……
正気か?」
彼の人生の意味にも等しい知識が詰まっているであろう本を前にして、まさか彼がカーヴェに譲歩するとは思わなかった。退勤後すぐに本屋に行って、時間が時間になってしまったので外で夕食を済ませてもいいと思ったのかもしれない。ただ、カーヴェがそれについてくるのであれば少しとはいえ、タイムロスになるのは間違いない。
「嘘にしても俺は一向に構わないが」
「ああ、いや、行こう。せっかくだし」
ふるふると頭を振って、カーヴェは先ほどの問いかけを打ち消した。店はすでに決まっているのか、アルハイゼンは迷いなく進もうとするのでカーヴェもそのままついていくことにする。
「最近どう?」
「本棚を買い足した」
「いい加減な置き方をしてないだろうな」
彼の家に住むことになってから、カーヴェはあちこちの家具を移動させた。はじめはカーヴェの説明をほとんど聞き流していたように見えたアルハイゼンも、位置を微調整した家具の使い勝手の差には気がついたらしい。それからは家具の選定や配置はある程度カーヴェに任せていたが、彼にカーヴェの持つノウハウを与えられたかというと微妙なところである。
「君はどうなんだ」
「話を逸らすなよ」
「君に不満がない配置が一人でできるのであれば、俺は君の同業になっている」
自分の家の内装に心底関心がないらしく、アルハイゼンがカーヴェに水を向けてくる。自分の近況よりも新しい本棚の行方の方が俄然カーヴェの興味を引いて話を戻そうとするが、煩わしそうにアルハイゼンがちくりとカーヴェを刺した。
「そりゃあそうだろうけどさ
……
僕の方はようやく落ち着いてきたところだよ。内装も大体したいことはできたし。というか、気になるなら来ればいいじゃないか」
「住所も知らないのにどうやって?」
えっ、と思わず声を上げると、来るなということかと、と白々しい調子でアルハイゼンが付け足してきた。来ないと思っていたので無意識のうちに伝える候補から除外していたというのが実際のところだが、非難めいた主張をされても仕方ない。
「ああ、ええと。その
……
良かったら来るかい? 本棚とか、一応見せられるようにはなってるから。夕飯は持ち帰りにしてさ。君の家とは真反対だから帰りが遠くなってしまうけど」
新居の住所を簡単に伝えると、アルハイゼンが黙り込む。ここからは半刻と少しくらいの場所ではあるが、そこからアルハイゼンの家までとなるとほどほどに遠い。夜が深まれば帰宅の足の選択肢も限られるので、帰宅が余計に面倒になるのは想像に難くなかった。
「君の本棚の中身にそれだけの価値があるのを期待しよう」
「
……
やっぱりこの辺りで飲んで解散しようか」
自分から誘ったものの、本棚の品揃えがアルハイゼンの評価に堪え得る状態に仕上げられているか不安になってきた。アルハイゼンとカーヴェは専門が違うこともあって、読む本の傾向は異なっている。故にいくら彼が乱読家とはいえ、目新しい本が一切ないとは言わないが。
「却下だ。君はもう少し自分の発言に責任を持て」
「う
……
分かったよ」
及び腰になって辞退しようとしたのを彼の仕事ぶりを思わせる調子で切り捨てられて、カーヴェは少々情けない声を漏らしてしまう。アルハイゼンが気に入らなかったとしても、久々に彼の文句だか皮肉だかを聞くだけだ。そう、自身に言い聞かせてカーヴェはこれからの予定を受け入れることにする。
持ち帰りも受け付けている酒場でいくつかのつまみと主菜、それに家にあるだけでは足りないかもしれないので追加の酒を購入する。瓶と食べ物に分けられた袋の内、重たい瓶の方を選んでアルハイゼンには食べ物が詰まった袋を寄こした。私物とは言え、すでにそれなりの重さの紙袋を持っているのだから妥当な配分だろう。
カーヴェの家に着くまで、ほとんど自分ばかりが喋っていたように思う。最近の仕事の事や、新しい家の良いところやいただけない側面について。最近の気候がどうだの、共通の友人がどうだの。その全てにアルハイゼンは好きな時に口を挟み、大抵の事は相槌で済ませた。
家に着いてからも、その構図はあまり変わらない。アルハイゼンはほとんど内装を気にかけず、ひとまずは見つけた本棚の中身よりも食事を優先するつもりらしかった。カーヴェがあれこれ喋る最中に時折相槌を挟みながら、アルハイゼンはどんどん杯を重ねていく。酒に強い彼でなければ、家に帰るのを諦めたと判断してしまう勢いである。
飲食に集中しすぎなきらいはあったが、買ってきた本に手を出さないのだから及第点だろう。本への期待度が高くなりすぎると、アルハイゼンは度々カーヴェが用意した夕飯を食べながら本を読もうとした。気持ちは分からなくもないが、料理をした人物の前でやることではないとそんな日は荒れに荒れたものだった。
「おっと、もう空か。まだ飲むかい?」
アルハイゼンがグラスに瓶を傾けたと思えば、そのままひっくり返して中身を全てグラスに移動させてしまう。遅れた一滴がグラスの水面を弾いたのを最後に瓶の中身は空っぽになってしまったが、グラスの水位は随分と低い。
「丸々一本空けるつもりはないから、いくらか君にも飲んでもらうことになるが」
「うーん、招待した側がそこまで酔っ払うのもな
……
」
仕事の状況を思えば泥酔したって構わなかったのだが、客を置き去りにして酔っ払うのはさすがに格好が付かない。アルハイゼン相手に今更気にすることかとも思ったが、最初くらいはちゃんとしていても良いだろう。
「お酒はこれくらいにしてお茶にしようか。お菓子は食べられそう?」
「うん」
机の上の食べ物はほとんどなくなっていて、残っているつまみもお茶請けにはなりそうにない。椅子を引いて立ち上がりアルハイゼンの腹具合を訊きながら、カーヴェも自身の胃袋に相談する。幸い、クッキーを数枚であれば問題ないらしい。
湯を沸かしながら茶葉とクッキーの用意をし、ぐらぐらと湯が沸くまでしばらく待つ。この家で誰かのために何かをする時間は仕事を除けば皆無と言ってもいい。ティナリが来た時以来の感覚に、カーヴェはそっと目を細めた。
多分カーヴェは、ティナリの指摘を認めなければならないのだろう。しばらくの間二人で暮らしていたのだから、一人の生活に戻れば寂しくなるのは当然だった。たとえ、カーヴェにとってアルハイゼンと暮らした日々の方がずっと特殊で、特別なものであったとしても。
湯を注いだポットの代わりに酒瓶を数本持っていけば酔い潰れてしまうような男であれば良かったのに、と思わないではいられなかった。そうすれば、明日の朝は彼と朝食を共にできただろう。アルハイゼンのアルコールの許容量を考えれば、これっぽっちも現実的な話ではないのだけれど。
カップから湯を捨てて、代わりに茶葉を滲ませたそれを注いでから、カーヴェは盆を持ち上げる。そう長くもない廊下を抜けて居間に帰ると、机の席にアルハイゼンの姿はなかった。紅茶を零さないように気を付けて盆を机に置いてから、カーヴェは居間に設置している本棚に目を向ける。
予想通りアルハイゼンは本棚を検分していて、カーヴェのアルコールで少々鈍った脳に俄かに緊張が走った。足音を立てないように注意しながら彼の背後に近寄って、脇からアルハイゼンの視線の先を探る。カーヴェの緊張など気にも留めず、アルハイゼンは一つ一つ背表紙のタイトルを検めているようだった。
「あ」
それほど時間をおかず、アルハイゼンがとある本の背表紙に指をひっかけた。人差し指の力だけで引き出された本の装丁を見て、カーヴェは思わず微かな声を上げてしまう。
アルハイゼンと話がしたい。その本を読み終えた瞬間、カーヴェはたしかにそう願った。
彼の家でアルハイゼンが居間に置きっぱなしにする本は、カーヴェに読んでもらいたいという彼なりのサインである。より彼の要望を詳らかにするならば、その本の知識を前提にして、カーヴェとの議論を求めている。何度かそんなやりとりをして以来、カーヴェからもアルハイゼンに本を渡して意見交換を求めることもあった。
一つの本を二人の間に置いてあれこれ引用しながら、身になる議論から不毛極まりない話題までいくらでも話す。普段は休みの前日でも恐ろしいほど早く就寝するアルハイゼンも、その時ばかりは時間を気にする様子はなかった。
そういう生活が酷く恋しい。忘れていたどころか、今まで知り得なかった家庭の有り様をカーヴェはアルハイゼンに教え込まれてしまった。気を使う必要のない誰かと暮らす家が一体どういうものなのか、カーヴェは彼と暮らすまでほとんど知らなかった。共にいる必要のない者達がわざわざ同じ空間を共有して暮らす事が、個人にどれだけの影響を及ぼすのか。なんてことも、これっぽっちも考えては来なかった。
「君が家にいないとさびしい」
カーヴェが上げた声を気にしてか視線を向けたアルハイゼンを見てしまっては、堪えようがなかった。自分にとっての家が何を示すのか、今はっきりと理解する。アルハイゼンだ。彼がいる場所こそ、カーヴェにとっての家になってしまっている。
「君は望んで俺の家を出たんだろう」
「うん、君の言う通りだ。ごめん、どうしたらよかったんだろ」
アルハイゼンの声に少々の困惑が滲んでいるのが分かる。呆れていながらも、カーヴェがどうしたいのか測りかねているらしい。そんなもの、カーヴェ自身にも分かっていないのだけれど。
つん、と鼻が痛くなるのはさすがに酒が影響していると思いたい。彼の家を間借りしているままでは一生彼と対等になれないと分かっているのに、カーヴェは彼の住む家を求めている。堂々巡りで、八方塞がりだ。どの手段をとっても、カーヴェが求める完璧な未来はどこにもない。
しばらくの沈黙の後、アルハイゼンが小さく息を吐いた。カーヴェを拒否する響きを感じるそれに身を強張らせて、手厳しい批判を受け入れる準備をする。
「
……
帰ってきたらいい。普段はここで暮らして、君が帰りたいと思う時に。俺はいつもあそこにいる」
想像もしない言葉が鼓膜を震わせて、カーヴェは慌てていつの間にか俯いていた頭を上げた。たまには出歩けって言ってるだろ。そう、混乱した思考から出力された言葉をアルハイゼンは減らず口だと罵ったが、さすがにカーヴェも同意するしかない。
アルハイゼンが自身の腰回りに触れて、いつも身に着けている小さな鞄から光を弾く金属を取り出した。そっと摘まんだそれをかざされて、カーヴェは慌てて手を差し出す。
ぽとりと手に落とされたのは、見覚えのある鍵だった。愛用したキーホルダーこそ着いていないが、以前自分が使っていた鍵に違いなかった。
「なんでこんな物
……
もしかして嵌められたのか僕?」
アルハイゼンがこんなに都合よく鍵を二本持ち歩いているとはさすがに思えなかった。鍵置き場を共有してしまっていた時は適当に二本引っ掴んで出ていく悪癖を良く披露してくれていたが、一人で暮らしていればそもそも二本を同じ場所に置く必要もない。
となれば、そもそもアルハイゼンが鍵をカーヴェに渡す必要性を感じていたと考えるのが自然だろう。そう結論付けて、次の思索に移ろうとしたカーヴェをアルハイゼンの溜息が遮った。先ほどはカーヴェの思い違いだったようだが、今回は確実に苛立ちが混じっている。
「ティナリから聞いた」
「何を⁉」
どこまで、と続けようとしたが、駄々を捏ねるカーヴェの話をするティナリの呆れた様子を想像するのはあまりに簡単だった。聞きたいのか、と質問で返してくるアルハイゼンの返答が全てと言ってもいい。かかか、と頬に熱が集まるのが分かって、カーヴェは思わずアルハイゼンから視線を外した。
「今度時間四人で飲もうと言っていたから、その時に渡せればいいと思っていたんだが随分と早くなったな」
「ええと、つまりこれはティナリの勧めってこと?」
だとしたら、受け取れないかもしれないと心のひんやりとした部分が告げていた。ティナリに求められてアルハイゼンが仕方なしにしているのなら、結局カーヴェの足は遠のかざるを得ないだろう。
彼が本心から納得してのことでなければ、結局は彼の負担になってしまうだけだ。自分の理想ばかりを優先して相手の義務感や厚意を磨り減らすなんて、たとえアルハイゼン相手だったとしても
――
いや、生活を共にしたアルハイゼンだからこそ受け入れ難い。
彼との日々は完璧では決してなかったけれど、悪くないことだって少なくはなかった。カーヴェがそう思うように、できれば彼もそう感じていて欲しいと思う。その日々すらも汚してしまうように感じて、カーヴェは鍵を手のひらで持て余してしまう。
「いや、対処法についてはこれといった指示を受けてはいない。俺がこうすればいいと考えただけだ」
「でも、良いのかい? 自分にはもう家があって、君の住居に行く権利も理由もないように思える」
「家主が構わないと言っているのに、君は何に遠慮している? 俺の心中を勝手に慮って悪く捉えようとするのは君の悪い癖だ」
カーヴェが自宅を訪ねてくることより、今ここでぐずっているカーヴェの方が面倒くさくて堪らないとでも言いたげなアルハイゼンの声音にどこか安堵する自分がいる。アルハイゼンはカーヴェが自立するための家を必要としながらも、自身の家を恋しく思っていると理解しているのだろう。
そうして手っ取り早い解法として、カーヴェが里帰りよろしく自身の家を訪ねる事を受け入れようとしてくれている。誰かの意向を気にするような男ではないと、少し遅れてカーヴェは彼の気質を思い出す余裕ができた。
「事前に連絡せずに突然行くと思う」
「うん」
「君がいなくても居座るだろうし」
「構わないよ」
「もしかしたら泊まることもあるかもしれない」
「好きにしたらいい」
カーヴェの悪化していく宣言を聞いても、アルハイゼンの返答は澱まなかった。彼の許容がくすぐったくて、緩みそうになる口元に力を入れる。
「回りくどい確認作業は止めよう。俺はあの家が君の家のままであってもいいと思っている」
定期的に出ていけば良いとカーヴェに浴びせかけた男の言葉とは思えなかった。カーヴェがどこにも行けないと高を括った発言だったのか、それとも他意があったのか今のカーヴェには分からない。
少々憎らしく思えて指摘をすれば、その方がずっと健全だとアルハイゼンが告げた。それはカーヴェだって同意するところで、ろくに言い返せなかったのが悔しい。
けれどもし、もし彼がカーヴェはどこにも行かなくて良いと、ずっと思っていたのだとしたら。新居を手に入れたと宣言した時に、彼が渋るような問いを重ねたのをカーヴェは思い出す。
「
――
もしかして、君も寂しくなった?」
「
……
どうだろうな」
カーヴェの問いかけの後、ようやく僅かな沈黙が生まれた。続いたアルハイゼンの声音は少しだけ拗ねた響きが混ざっているように思えて、カーヴェは今度こそ我慢できずに口角を上げてしまう。
寂しいと彼は言っているのだ。誰も必要とせず、一人で生きていけると万人から思われているはずの男が、まさかカーヴェにいてほしいと求めるなんて。いつの間にかカーヴェの生活にアルハイゼンが入り込んで来ていたように、アルハイゼンにとってもカーヴェがいることが日常になっていたのだろうか。
もしも。もし、そうだったとしたら。
「ありがとう。嬉しいよ」
手のひらに乗ったままだった鍵を強く握り締めて、自身の胸元に引き寄せる。放っておけばすぐに冷えてしまうはずのそれは、まだアルハイゼンとカーヴェの体温で温められたままだった。ふわふわした自身の声よりも小さな相槌が満足そうに響くのは、カーヴェの精神状態のせいだろうか。
目的を達成して満足したのか、アルハイゼンは席に戻って紅茶の入ったカップに口をつける。それから半刻もしないうちにアルハイゼンは暇をカーヴェに告げたが、カーヴェは彼を引き留めようとは思わなかった。
今までの来客にしたように敷地の境界線まで彼を送り出して、今度は姿が見えなくなるまで背中を見守る。街灯の明かりの向こうに彼が消えてしまうまで、アルハイゼンがカーヴェを振り返ることはなかった。
踵を返して家に戻ると、机には空になった食器や酒瓶が残っている。少し前の自分であれば交歓の形跡に寂しさを感じてしまっていただろうが、今は穏やかな気持ちだけが心を温めて冷える様子はない。ティーポットを持ち上げるとまだ紅茶が残っていたので、片付けるためにカーヴェは先ほどまで座っていた席に再び腰を下した。
ぬるくなって味が落ちた紅茶を飲みながら、カーヴェは机の上で鈍い銀色の光を放つ鍵に視線を落とす。その輝きに緩み切っていたはずの精神が更に溶けだすのを感じて、もう大丈夫だと声にはしないままに唱えた。
指先で軽く鍵を突いて、カーヴェは解けるように緩む息を吐く。自分達があの家で過ごした日々を、カーヴェはようやく穏やかに思い出す。アルハイゼンと過ごした時間は腹が立つことも多かったし、喧嘩だってそれこそ数え切れないくらいにした。
でも、ただそれだけではなかった。あの家はカーヴェの妥協と挫折を体現していて、理想とはほど遠い姿をしているはずである。それでも、カーヴェが抱く理想の片鱗を見せる瞬間がたしかにあの空間にはあって、アルハイゼンがそこにいたのだ。
偶然なのかも、必然なのかも分からない。もしかしたら、アルハイゼンでなくても良かったのかもしれない。そこに彼以外の誰かがいても、ひょっとしたら同じことだった可能性はカーヴェには否定できなかった。
それでも、いつもそこにいたのはアルハイゼンだった。静まり返った図書館、誰もいなくなった研究所、夜も深まる酒場に、住居となったかつての学びの場。それを運命と呼ぶ者がいれば、たまたまだと笑う者もいるだろう。当事者のカーヴェからすれば、もはやどちらであったとしても構いはしないのだが。
かけがえのない場所であり、もはや手放せない人なのだと思う。その二つが常にカーヴェに開かれている。そう思うだけで、カーヴェはもう寂しいとはこれっぽっちも思わなかった。
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