しくるの納戸
2024-10-06 11:36:04
11927文字
Public 影日
 

プロポーズならあの世でしてよ

影日/海外移籍後
甘くない朝チュンと出来てないプロポーズの話。

※最終回ネタバレ
※全年齢ですが性描写を匂わせる表現があります。

 ふ、と意識が浮上する。
 アラームの音はしなかったけど、たぶん、朝の四時。
 どんなに寝るのが遅くなっても、普段使わない筋肉を酷使してヘロヘロになっても、翌日の起床アラームの設定を忘れていようとも勝手に定刻で目を覚ます身体は、積み重ねの成果が現れているようで、少し誇らしくなる。侑さんに言わせれば「筋肉」だっけ。
 けれど流石に眠気は払いきれなくて、俺は大きくあくびを漏らしながら肌触りの良いシーツから上体を起こした。
 目を擦る。
 ぼやけていた視界が少し鮮明になって、薄暗い室内の様子が少しだけはっきりした。ベッドも壁際のクローゼットも壁自体にも絵柄がなく、暗闇の中だと白と黒の二色しか存在しないように思わせるほど色数を抑えた部屋。無機質に見えるそれらにもそれなりのこだわりがあるんだろうけど、俺の趣味とは違った。
 馴染みのない部屋、馴染みのないベッド。
 部屋に充満するにおいと、隣ですこやかに寝こけている人間だけは深く知っていた。
……こいつ、よく熟睡できんな)
 もう一度のあくびと、一回の伸びと。それでも飛ばしきれない眠気は睡眠の質が悪かった証拠だ。えっちした人と同じ枕で朝を迎えるっていうのは確かにロマンではあったけれども、ちょっといい夢も見れたけれども、夢を見るくらいに睡眠を浅くしちゃうなら二度はいいかなって思う。
 そう。
 えっちをしたのだ。
 隣の男と。
 ……影山と。
 
 
 
 そもそものきっかけは、意外にも影山からの「ローマ来れるか」という唐突かつ漠然としたメッセージだった。三ヶ月前の話。
 こいつは昔から言葉がいろんな意味で乱暴すぎる。呆れながら詳細を聞いてみると、どうやらありがたいことに、影山のチームメイトに『ニンジャショーヨー』のファンがいたらしい。先のオリンピックで俺と影山が高校時代からの相棒だと知って「ぜひ会わせてくれよ」と影山に言ったのだと。だからローマまで会いに来れるか、って。ちょっと便所付き合え、みたいに。
 俺が思うに、たぶんその人はコミュニケーションの入口として、今度試合したときに紹介してくれよ、くらいの軽い気持ちで伝えたのだと思うが、かなしいかな相手がボケ殺し山飛雄くんだった。先輩でもあるその人の頼みをど真面目に受け取って、その場で俺にメッセージを送りつけてきたのである。
 馬鹿だなぁと思ったけど俺もちょっとイタリアには行ってみたかったから、三ヶ月後ならいいよと返して、昨日がその日だった。
 影山と一緒に空港まで迎えに来てくれたその人は菅原さんを思い出すようなチャーミングな人で、ポジションもなんとセッターだった。サインのお礼を聞かれたから「トスください」とねだったら、流石影山の元相棒だ、と笑われたのが不思議で良く覚えている。
 俺が常にトスに飢えているのは中学からだから、影山はあんまし関係ないと思うんだけど。
 でもあげてもらったトスはめちゃくちゃ上手かった。行きつけだと言うお店で夕飯をご馳走になった後(影山もちゃっかりご馳走になってた)、それを影山に伝えればこの人のヤバい試合があるから見に来いと誘われ、それで影山の家に行くことになったのだ。
 いや、その試合がヤバかった。
 コートのどこからでもキレイに上がるセットアップもだけど、相手の強烈なスパイクに対し足で受け止めつつトスして速攻を決めたプレーには思わず叫んでしまった。隣では何度もこの試合を見ていた筈の影山も叫んでいた。影山はこんな人とポジションを争ってるんだと思うとドキドキして身体が熱くなって、試合が終わっても暫く興奮が治らないまま影山を見たら——影山もおんなじ顔でおれを、見て、いた。
 あ。
 思わず声が漏れたその時、そいつも目を見開いていて、口の中で声が揃ったんだなって分かる。
 喰わなきゃ。
 次に思ったことも多分一緒で、最初に唇に噛み付いたのは確か俺だった。
 影山の口の中を舐めたら数時間前に食べたアーリオオーリオのニンニク味がして、クセェよ、と笑ったら俺の口にも舌が入れられてオメーもだよと臭い唾液を啜られた。
 首に歯を立てたのは影山が先。店の匂いを吸い込んだ綿シャツの裾に手を差し入れたのは俺の方が早かったけど、襟から頭を抜けさすのに手間取ってる間に俺のハーフパンツのウエストゴムへ手が差し込まれて下着ごと剥ぎ取られた。自分でも意味わかんないくらい興奮してるそこに今日も完璧な指先が触れてびっくりするくらい器用に擦られたらシャツを脱がすどころではなくなって、競うように俺も影山のパンツのバックルを外した。その間も少しずつ俺を押し倒すように体重が掛けられていて、当然のように抱かれる流れに腹立ったのを覚えている。
 影山と俺じゃ鍛えるべき筋肉も目指すウェイトも違くて、俺は飛ぶから必要以上に身体を重くできないし、その筋肉も下肢と体幹が最優先だ(腕も当然鍛えてるけどな!?)。逆に影山はサーブを武器にしているから背から腕にかけて相当鍛えあげているらしく、二人とも腰を下ろしたまま、上半身の力のみで競ったらどうしたってこっちの分が悪くなる。でもこのまま床に押し倒されて勝ち誇った顔をされるのは我慢できない。だったら、どうせ結果が同じならせめても、と俺は首元でたわんだままの間抜けなシャツを引き寄せて耳に吹き込んだ。こういうもんは早い者勝ちである。
 ——抱かせてやるから、ベッド行こうぜ。
 途端聞こえた舌打ちに勝ち誇る暇もそこそこに、重いんだよと文句をつけられながら担ぎ上げられたらあとは勢いと意地のチャンバラ合戦。お尻にでかいチンコ突っ込んで揺さぶられて乗っかって貪り食われて喰い散らかして、まともなキスも会話もないまま、身体を噛み跡と指形のアザだらけに二人でぐちゃぐちゃになった。
 気持ちは良かった。すごく。
 気持ちは良かったけど身体の方は、二人して出すべきものを出した時点でクタクタだった。トレーニングとか試合とかとはまた違う疲労感が事後の俺にのしかかって、汚したシーツ諸々を取り替えたりしたらもうベッドに倒れ込んだまま動けなくなって、気がついたら朝。四時。今だ。
 
 
 
「なあ、おい、ちょっと起きて」
 俺は、昨夜に思いを巡らしてる間もグースコ快眠中だった影山の肩を揺すった。
 赤ちゃんみたいにあどけなかった寝顔から眉のシワが寄っていって、起きている時の表情に近づく。
 俺の起床は四時がルーティンだけれど、こいつのはもう少し遅いみたいで、確か五時半だった。だから中途半端な時間に起こすのは申し訳ないと思ったけれど、コッチも睡眠の質が落ちているのでおあいこです。
 やがて焦点の合わない瞳が開いて、俺を見つけた瞬間止まる。けれどそれも一瞬で、すぐに
「んだよ」
 と非常に素っ気ない返事が寄越された。
 繰り返すけど、えっちした翌朝だ。
 お前、相手が俺でよかったな。
「朝飯作るけど、お前のも一緒だとまずい?」
 誘ったのは向こうとはいえ、宿を借りたお礼だ。影山くんがひれ伏して俺にレシピを乞いたくなるスペシャル朝ご飯を作ってしんぜよう。
 わざわざ尋ねたのは、こいつが俺と違って栄養管理もトレーナーに任せているからだった。ジムで毎食用意されている可能性もあった。今回はキユーだったけど。
「いや、食ったもの報告すりゃ問題ない」
「オッケー」
 俺の返事を聞くや否や、影山は再びうつらと目を閉じた。おやすみ三秒。高校ん時から全然変わらない。
 冷たいフローリングに足を落として、ベッドから抜け出す。服は昨日のをちゃんと着ていた。靴下だけが昨晩の俺たちみたいにもつれあって床に転がっている。俺が意識を失うときは確かマッパだったから、影山が着せてくれたってことだ。
 似合わねーの、笑いをこぼしながら真っ直ぐキッチンへ。
 家の規模に合わせてか、影山には勿体ないくらいでっかいキッチンのシンクには、俺が持ち込んだスーパーの袋と、調味料の瓶がいくつかとプロテインの大袋(プレーン味とかよく飲めるな。俺はチョコレート味が好き)、それとミキサーが並んでいる。
 トレーナーに栄養の面倒を見てもらってると聞いたから、てっきり全く自炊しないのかと思ってたんまり買い込んでしまったけど、冷蔵庫の中に卵が並んでいたり使いかけのウインナーがあったから、ある程度自分で用意しているのかもしれない。包丁は無かったけど。フルーツナイフを買っておいてよかった。
 アボカドとパパイヤとケール、それからバナナとオレンジをナイフで適当に切りながらミキサーに落とす。そこに拝借した牛乳を注いでスイッチを押せば、みるみるうちに鮮やかな緑の飲み物の出来上がり。
 ビタミーナというこの飲み物は、ブラジルで最初に市場のおばちゃんに教えてもらったものだ。向こうでは定番の飲み物で、簡単な上にビタミンも摂れるから朝ご飯に重宝している。
 折角だし卵も借りちゃおう。影山は温玉が好きっつってたけど、今日はじっくりと火を通したオムレツを。
 見よ、このコゲひとつ無い焼き上がり。
 長い自炊生活のうちに、俺はオムレツ技術も上達したのである。
 それから大事な肉分はウインナーを焼いて、残すところの主食、パンは向こうではずっと同じものを食べてるけどスーパーに無かったから、チャパタっていう形は似てるものを買ってきた。
 それらを全部皿に盛り付けて、寝室へ駆け足。
「影山ぁ! メシ出来た!」
……朝からダバダバ走んな」
 部屋を覗き込んだ時にはすでにベッドの淵に腰掛けるようにして起き上がっていた影山が、いつもの二割増顔で俺を睨む。その手に持っていた目覚まし時計はまだ五時前を指していて、ゴメン。でもお前の起床時間待ってたらメシ冷めちゃう。
「早く来いって」
 手招きすると影山は命令すんなボゲ、としかめ面のまま立ち上がる。俺の後ろをついてくる足取りは眠気その他もろもろで億劫そうだったけど、食卓に並ぶ皿を見るとぱちりと表情を変えた。
「コレお前が作ったのか」
「そーですよ。褒め称えていいぜ」
 なんなら跪いて俺にレシピを乞うてもいいんですよ、と口にした途端、拳が風を切る音を立てて飛んできた。それを屈んで華麗に避ける。すぐさま二発目を迎え撃つ準備をしたけど、影山は二発目は出さずさっさと席に座った。次の攻撃するつもりはないが、待つつもりもないらしい。次に見れば、スプーンを持ったまま手を合わせるところだった。
「いただきます」
 ああ見えてちゃんとこういうの言うんだよな、こいつ。
 手を合わせて、目を伏して影山は静かに言葉を放つ。"穏や影山"とはまた違うけどこういう静かな時だけは、周りから「顔が良い」と褒めそやされるのも分らなくもないと思う。だからこそ腹立つんだけど。その人たちに、学生時代の白目剥いて寝る顔見せてやりてぇもん。
 昨日の夜は、その静かな顔が俺の手や口や動きのせいで時々乱れる度に胸がすっとした。俺が得意げになると悔しそうに目を竦めるのも気分良かった。
「食わねえの?」
 突然耳に入ってきた声に肩が跳ねる。
 いつの間にか、ぼーっと影山の顔を見ていたみたいだ。
「食べます! つーか俺が作ったの、自分のみたいに言うな!」
「知らねえ」
 その間にもこいつは次々に残りを減らしていて、俺も慌ててオムレツを頬張った。
 直後、おののく。
「いただきま……うま!?」
 しっかり火を通しても消えぬこのふわふわ食感。
 砂糖の分量も好みドンピシャ。
 もしかしなくても俺史上最高傑作を生み出してしまった。
「な、オムレツうまくね?」
…………んめぇ」
 この驚きをつい共有したくなってしまって、無心でスプーンを動かしてる影山を覗き込むと、影山は口を尖らせて釈然としない顔で答える。昔、俺のレシーブとか上手くいった時に「見てねえ」って言う時と同じ顔。でも今回は正直だった。ご飯にはウソつけねぇの。
 そうだろ、と俺は笑って、影山はそれには何も返さなかった。
 それからは無言。
 だだっ広いダイニングに食器の鳴る音だけが響いている。
 俺と影山は会話の弾む間柄じゃないし、ご飯中の影山はいつにも増して喋らないから当然だった。時々、影山がコップをすすって喉を鳴らす音も届く。
「日向」
 影山が俺の名前を呼んだのは、こいつがオムレツとパンを食べ尽くして、ビタミーナの最後の一口を、ゴキュ、と喉に流し込んだ後のことだった。
 なに、と俺が返すと、影山は自分から話を振ったクセに言いづらそうにして、口を何度も開け閉めする。
 こんな歯切れの悪い影山、珍しくてヘンだな。
 高一の時に、先輩に言いたいことを飲みこもうとしてそれで一悶着起こったこともあったけど、その時のとはもうちょっと違う感じ。
 俺に文句があるって言うより、純粋に言いづらそうな……後ろめたい? 困ってる?
 あ、もしかして本当に俺にレシピ教えろって言ってくるのかな。
 呑気にもそう考えていた俺は、やっとこさ覚悟を決めたらしい影山の言葉に、口をあんぐりと開ける羽目になった。
「セ、…………セキニン取る」
 は。
「なんの?」
「なんのって、シただろうがセックス!」
「そりゃしたけどセキニンって、」
 待てよ。
 混乱する俺の脳に、不意に思考の道が開かれる。
 セックスしたからセキニン取るって、この場合の責任って、つまり。
「俺とえっちしたから、結婚しようってこと?」
 影山は不服そうに頷いた。目線は俺の、完食まであと少しの皿の上をうろうろしていて、仮にもプロポーズ申し出てる奴の態度じゃないだろ。
……やだ」
「あぁ!?」
 俺の口から、長いため息がひとつ。
 ウインナーの最後の一本を咀嚼してから続けた。
「俺妊娠しないし、えっちしたのも合意じゃん。取るべき責任ってどこにあんだよ」
……それもそうか」
「そもそも影山くんは、俺と結婚したいですか?」
 影山は顎の下に手をやり、沈黙すること五秒間。
「今は別に、したくはねぇな」
「うん俺も」
 だったら話は終わりだ。
「責任は要らないけど、お前も気持ち良かったんならまたシようぜ」
 オムライスも食べ切って、きれいになった皿の前で言えば、影山は心なしか頬を緩めた。
「おー……悪くなかった、楽しかった」
「ん」
 それなら良かった……けど。
 えっちの感想で「楽しかった」ってなんだよ。
 
 
 
「お前飛行機は」
「十一時にロビー」
 居間のシンプルな壁掛け時計は、午前八時を指している。
 空港まで送ってやる、と珍しい親切心を見せた影山に、やったーと両手を挙げて支度を始める。もともと貴重品と簡易的な宿泊セットぐらいしかないからそれも数秒で終わった。
 洗面所ついでに置いてあったハンドクリームも借りる。チューブを押して出てきた乳白色のペーストを手の甲に薄く伸ばすと、ベタつかずにスーッと肌に吸い込まれていった。高一の時には既に手のケアに力を入れていただけあって、ここら辺の拘りは流石だ。無香料の中に柔らかく薬剤のにおいが残る。影山っぽい匂い。別に手なんて嗅ぐ機会ないのに何でこの印象なんだろ、と抱いた疑問はすぐに解決した。
 昨日、この匂いのする手で全身を探り回られたからだ。
 ベロを食われるとき、尻の穴をチンコの形に広げられる感覚に耐えてるとき、あの両手で顔を包まれていたからだ。
 嫌いじゃない匂いだった。手放すのが惜しくなるくらいには。
 伸びもいいし、俺もこっちに変えようかなと鞄の中の安物クリームのことを思う。
「なー影山、コレどこで買った?」
「あ?」
 昨日のと殆ど変わらない服に着替えたらしい影山が、左手にキーケースを下げながら洗面所を覗き込む。それから俺の手に握られた白いチューブを見ると、ふいと踵を翻した。
 無視されたのではないのは知ってる。
 知ってるけど、暫くして戻って来た手にチューブを握って戻ってきて、それを俺に投げて寄越したのには流石に驚いた。片手で受け取ったチューブはなんと新品らしく、キャップを覆うビニールフィルムが照明を弾いてつやりと輝いている。
 くれんの? と視線に込めて影山を見れば、まとめ買いしてっから一個ぐらい別にいい、と返された。
「メシの礼にしとけ」
「メシは宿の礼なんだけど。まあ、くれんなら貰う」
「おう。その……うまかった、から」
 おお、珍しく素直な称賛じゃないですか。
「チップ弾んでくれたの?」
「そんな感じだ」
 じゃあありがたく。
 ショルダーバッグに今もらったハンドクリームを詰めて、借りた使いかけは棚に戻して洗面所から出る。扉の前で俺の支度が終わるのを待っていたらしい影山は、俺が横を通り過ぎるタイミングで、ぼそりと呟いた。
「お前、俺のにおい好きだよな」
 瞬間。
 足が止まる。
 俺の頭から爪先まで、引き潮みたいに血の気がさぁっと引いて。
 ——それから一気に、心臓の底が沸騰した。
 血液がグツグツ茹でられる。研磨のいたとこ、音駒高校の合言葉みたいにそれが流れる。熱を運ぶ。脳みそへ。首から上が熱い。熱いのに、熱いくらい脳へと血が上ってきているのに。血液に火をくべてるせいか酸素が足りない。これだけドクドク心臓は送り出しているのに脳に行くまでに全部使われてるから全然届かない。足りない。酸素が足りないから、平然と誤魔化すための思考も上手く回らない。
……な、ななななんで、気のせいでは、」
 回らないのは思考だけじゃないらしい。おぼつかない呂律で自分でも出来てないと分かるはぐらかしで、影山が見逃してくれるはずも無い。コイツは鈍感だけど、それは試合と俺以外にだ。
 案の定、影山は気のせいなワケねぇだろ、と前置きをして、俺を証拠でぶっ刺した。
「昨日あんだけ手に顔すり寄せられたら誰でも分かる」
「し、てな、」
 少なくとも俺の記憶では、無い。
 無い。無いハズ。
 無いって言え。
「してただろうが。しょっちゅう耳の後ろ嗅いできやがったし」
 あ、トドメ。
「アレ無意識か?」
………………ソウデスネ」
 そんなことしてたの俺。
 ヤバい、全然覚えてない。
 俺に突きつける影山が平然としているのが、居た堪れなさを加速させる。
 せめてコイツのハッタリであって欲しいけれど、悲しいことにコイツが嘘つくのド下手くそということを、俺は誰より知っている。
 火照る顔が影山に晒されているのが耐えきれなくて、反射的に両手で顔を覆った。そしたらふわりと、影山のにおい。違う。今は俺の、俺のつけているハンドクリームの匂い。
 逃げ場がない。
 耐え切れず、廊下にずるずるしゃがみ込む。まだ出発には余裕があるけど、そう遅くないうちに立ち上がらなければいけなくて、つーか俺これから影山の車乗るけど耐えられんのかな。
 身体の内側にこもる恥を少しでも逃したくて、手の隙間からウーウーうめく。暫くそうしていると、やがて、目の前の陰が身じろいだ気配がした。布ずれの音が聴こえる。
 においが、近い。目の前にしゃがみ込まれたのだと見えなくても分かる。
「日向」
 名前を呼ばれるのは、起きてからは二回目だった。けれど今度は、迷いの無い。
——また来い」
 真っ直ぐに向けられる視線が、顔を覆う手を貫いて俺に突き刺さっている。
 長く息を吐いて、整えて。
 それから俺は口を開けた。
……やだ」
「あぁ!?」
「今度はお前が俺ん家来るの」
「お前、俺の匂い好きんなんじゃねぇの」
……だから言ってんだって」
「は?」
 こういうのは、早いもん勝ち。
 恥を飲み込んで、顔から手を外す。
 久しぶりに光を取り込んだ視界の中で、影山がワケ分かんねぇとでも言うように顔を顰めているのが見えた。
 その頬を俺の両手で包む。
 耳元で囁くのはもうやった、二度同じ手は芸がないからさ。
 今度は正面から言うよ。
「俺のベッドをお前の匂いにして、って言ってる」
 影山の目が、夜空を煮詰めたような瞳が、大きく見開かれる。
 手のひらが熱をもっていく。
 してやったり、と気分良く眺めていたら、驚き顔がみるみるうちに険しく曇っていった。
 俺の顔も影山の手で包まれて、昨夜の景色がフラッシュバックする。
 ……やっぱコレが影山のにおいだな。
 今は俺の手だって同じハンドクリームの筈なのに、実際ホンモノを嗅ぐと全然ちげえじゃんって、なるのなんでだろう。
 なんて、余計なことを考えて気を散らしている間に、影山の顔がぐんと近くまで迫って来ていて反射的に目を瞑った。
 ふ、と微かに笑ったような吐息が空気を揺らして、それから下唇に、柔らかく歯が立てられる。
 一回、少し置いて二回目。
……やっぱセキニン取る」
 低い、ボリュームを落とした声が唇をくすぐって、歯が離れた。
「なんのだよ、」
 俺はそう返しながら、うっすらと目を開ける。宇宙みたいな瞳はまだ至近距離で俺を見ていた。目元が微かに弧を描いている。その真ん中に俺が映っている。
 ひどい顔で惚けた、俺が映っている。
「テメーをそんなんにしたセキニン」
…………そんなん、って言うな」
「『そんなん』になってる自覚あんだろうが」
…………
 頬を押さえられていた手を離され、代わりに腹部をシャツの上からぐ、と圧された。
 ヘソの下。シャツの内側のその位置には、影山が付けた歯型がまだうっすらと残っていて、その内側はぽっかりと空いている。
 空けられたのだ。影山のかたちに。
 それを意識するだけで口からやけに熱っぽい息が飛び出して、影山がほらな、と呆れた顔をした。
 また形成逆転かよ。
 腹立つ。
「クッソ、」
 腹の底から悪態をつく。
 だって腹立つ。
 否定出来ないのが何より腹立つ。
 
……俺、起きてから自分でも結構『フツー』に出来てたと思うんだよ。
 
 一回弾みでえっちしたぐらいでさ、別に俺たちの関係何にも変わんないし。
 たまーに、お互いの波長が合ったらまたシて、それで満足できるつもりでいたんだよ。
 なあ、途中まではちゃんと出来てただろ。
 お前が余計なこと言わなきゃ、奥に仕舞い込んでられたハズだろ。
 恋人とか結婚相手が出来たらまあ仕方ないなって、俺以外にお前についていける貴重な人だぞ大事にしろよって、笑って祝えるくらいの……多分、それは今でも出来ると思うけど。
 けど。
 ……こんな全部喰いたくなるとか、知らない。
 ご飯一口食べて、初めて飢えてたことに気がついたみたいな。
 空っぽにされたお腹を埋めたくて口の中から次に次によだれが溢れて、熱いままぜんぶ食い尽くして飲み込みたくて。そんで、他の誰にも食べさせなくて背中に隠したくなる。昔、おやつを夏に取られないようにこっそり自分の机の引き出しに隠したみたいに。
 心はいいけど体はダメって普通逆だろ。
 でも、影山が甘くてやわらかい「好き」を向けるのは俺じゃなくても別にいいけど、その手は駄目だ。その手はセットアップと俺の為に整えてくれてなきゃいやだ。その熱も駄目。それ向けんの試合か俺を喰う時だけにして。四方八方にお腹空かせる匂いさせんな。
 俺にお前じゃなきゃ埋まんない穴開けといて、別の人なんて抱くなよ。
 お前もこんなんにな、んっ……ぅんんん!?」
 ——喋ってる途中で! ベロを食うな!
 お前本当空気読まないな絶対このタイミングじゃないだろ、って理性は言いたがっているのに、肝心の俺のベロは文句を言うでもなく影山のベロに応えて唾液をすすることに夢中になっていて、自分でも呆れる。
 ああクソ、お腹空く。
 影山が俺の口の中をご馳走探すみたいにくまなく舐めとりながら、触れてる腹を圧を掛けながら摩っているのもいただけない。
 ご丁寧に、俺が逃げらんないように後頭部に反対側の手まで回して。
「っむ、ふ、ぅんん……っ、は、ぁ、あ……お前……っ!」
 やっと解放されたところで影山をギッと睨む。が、影山はそれ以上に凶悪な形相で俺を睨んでいた。
……このボゲが」
「ボゲはお前じゃない!? いきなり何すんだよ!」
「テメーが変なこと言うからだろうが!」
 ダン、と壁に腕が叩きつけられる。
 さっきまで俺の腹に熱を灯していた手が、壁材の奥の鉄骨を揺らした。
 あまりの剣幕に俺が言葉を噤んだのを見て、今度は静かに喋り始める。
「日向、お前バカなんだから面倒臭い言い方すんな」
 お前にバカとか言われなくないんですけど、というツッコミは今は黙っておこう。俺は影山くんより空気が読めるので。
「関係は変えたくない。でも他のヤツとセックスすんな。言いたいのはこの二つか?」
「ま、間違ってない、です、けど」
 実際そうやって言葉にされると身勝手感すげぇよ。
 居た堪れなさに身体が五センチ縮んだ心地だ。視線が泳ぎ始める俺に、影山は少しだけ、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「大体お前、自分だけみたいに思ってんじゃねーぞ」
……は、」
「だから、そんなんにしたセキニンは取るって言ってんだ」
 ——お前がそんな物欲しそうな顔するのはトスと俺だけでいい。
 なんて、なあ、お前それ真顔で言っていい台詞じゃねえよ。
 相手が俺じゃ無かったら失笑モンだからな。
 でも俺なので、悔しいことに百点満点ハナマル大正解、超ドストライクの口説き文句なのである。
…………っあー……も、ズリぃよお前……
「は? ズルはしてねえ」
 ボケ殺し山飛雄くんのマジレスを拾う気力も無い。ズルズルと脱力して、俺は影山の肩にぺしょりと額を垂らした。
 影山のにおいがする。
……おなかすいた」
「お前飛行機は」
「お土産急いで買えば一回分くらい平気! たぶん」
 肩に頭をくっつけたまま、目だけで影山を見上げる。お前マジかと目元をひくつかせる顔があった。
「誰が運転すると思ってんだよ」
「でも、セキニン取ってくれるんだろ?」
 安全運転よろしくな。
 笑顔を向ければ、影山は跳ね返ってきた自分の言葉に、うぬん、と口を尖らせた。
 よし、今度は、おれの勝ち。