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榊
2024-10-01 18:05:13
10492文字
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スミイサ
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方舟
支部にあげてるスミイサ③ 複座軸 コパイサ感覚異常もの
最後のページにオマージュした映画の名前出してます
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ぼちゃん、と。例えるならそれは、鎮まり切った水面に石が投げ込まれ、無粋な水音と波紋を立てるような感覚。無明の海を揺蕩っていたイサミの意識は、少しずつ浮上していった。ここはひどく寒い。海の中はくらく、つめたく、さみしい。それでも浮上したくないともイサミは思う。水面から差す日差しが眩しくてたまらないのだ。深海は寒いけれど、暗くて心地よかった。ぎらぎらと形を変える光の編み模様は普段なら美しいと思えたはずなのに、今のイサミには不快でたまらない。ざらつく波の音、貝殻が砂浜を転がる摩擦が鼓膜を刺すようだ。
一定間隔で打つ、太鼓のような音が聞こえる。低く落ち着いた周期で奏られるそれは、不愉快であるような落ち着くような、妙な心地だ。いよいよ水面が近くなる。水面から顔が出る直前、イサミはふと、そういえばどうやって息をしていたんだったかと考えた。
イサミの目の前で、空間が裂ける。絨毛を生やした闇が、イサミの視界をこじ開ける。目を覚ましたのだと理解した瞬間──イサミの喉は引き攣れて、掠れた喘鳴を溢した。動作の仕方を忘れた声帯はうまく動いてくれず、しかしそれはイサミにとっては幸運だったと言える。もし意図した通りに悲鳴が出ていたら、イサミは自分自身の喉を不快のままに掻き毟っただろう。
見える、聞こえる。何もかもが。設備が輪郭を溶かす薄暗がりの中ではあり得ないほどの精度で、イサミは全てを読み取っていた。じっとりと濡れた自分の肌、胸から下を覆うシーツの皺の一本一本、思わず握りしめた指先で皮膚組織が軋む音さえ、イサミには届いている。脳内に流れ込むとてつもない情報量に呆然するうち、緊張と恐怖がイサミの身体を侵食する。
「イサミ、目を覚ましたのか。気分は
……
良くなさそうだな」
寝かされたイサミに覆い被さるよう顔を覗き込んだ、金髪の男が言う。男が体を傾け、はらと崩れた金糸の一本一本が、イサミの視界にはスローモーションのように捉えられた。抑えた──吐息が多いから、抑えようとしているのはイサミにもわかった──声が、それでもびりびりイサミの耳に響いてくる。
「──ッひ、ァ」
それよりイサミが恐怖したのは、目の前の光景だ。男の体表に、──血管が、筋組織が、骨格が、内臓が、見えるのだ。堅牢な胸郭の真ん中で、どくりどくりと脈動する心臓が、イサミの視線を奪う。
一度瞬きすれば、それは揺らいで薄らいだ。幻視だ。男の心臓の音が、血液が血管を流れる音が、あるいは筋組織の隆起が作り出す微細な皮膚の陰影が、骨格の凹凸が、そのような幻視を作り出したのだ。
恐怖からイサミの呼吸は荒くなり、心臓が早鐘を打つ。どくどくどく、自分の心臓の音すら五月蝿くて、イサミにはどうやっても不快を止められない。思わず跳ね起きた体を男が抱き止めて、ややあってから躊躇いがちにその背を撫でた。
「イサミ、落ち着いて、俺がわかるか?」
男が穏やかにイサミに語りかける。イサミの定まらない視線はついにその、不安に潤む蒼い瞳を捉え、目の前の男をやっと認識した。
「す、みす、スミスっ
……
!」
喉の奥にひっかかったままの声が子音三つをなんとか吐き出し、それを聞いてスミスは安堵に眉を下げる。
「そうだ。イサミ、大丈夫。何も怖くない」
スミスの手が、耳ごと覆ってイサミの顔を包み込む。すっかり荒れた皮膚の硬さも、高い体温も、イサミが慣れ親しんだものだ。イサミを翻弄していた聴覚情報が少しだけ、膜を張ったように滲んでいく。
はくはくと何も紡げないまま唇を開閉させるイサミを見て、スミスは口を開いた。
「嫌なものが見えるなら、目は閉じてしまおう。出来るか?」
イサミは混乱したまま、言われた通りに目を閉じた。ぼんやりと赤い視界からの情報はまだゼロになったとはいえないが、皮膚の下まで見透かすような幻視はなりを潜めてくれる。
「ああ、そうだ。それじゃあ、ゆっくり息を吐いて」
イサミが震える息を吐き出すと、スミスの声が一層甘やかになった。
「そう、上手だ。全部吐けたな? 今度は吸って」
吐いて、吸って。呼吸の整わないイサミに手本を見せるように、スミスも呼吸を合わせてくれているのがイサミにはわかった。
スミスの声に合わせて肺を動かすのを続けていると、やがてイサミは平素の呼吸を取り戻した。肌にはじっとりと汗が滲み、顔色も幾分か悪かったが、目を覚ました当初よりは随分良い状態だと言えるだろう。
「イサミ、落ち着いたか?」
スミスが小声で問う。スミスの腕の中で、イサミはふるりと小さく首を振った。理由もわからぬまま、体一つで海に放り投げられたような、途方もない焦燥と不快がイサミを取り巻いていた。実際それは比喩ではなく、イサミには本当にそう感じられたのだ。五月蝿く、冷たく、怖い。体は不随意に揺れ続け、上も下も区別がつかない。空母はとっくに降りたはずなのに、遠くの波の音がイサミの耳には届く。複雑に組み合わさりすぎて言葉までは明瞭に聞き取れない人々の話し声、整備場から響く高い金属音、苦痛と恐怖に呻く仲間の悲鳴。どこまでが現実でどこからが幻聴かもわからないままで、イサミはむずがるように眉を寄せた。濡れて崩れたイサミの前髪がスミスの胸元をくすぐり、スミスはイサミを抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
「イサミ、何が一番怖い? 俺に教えてくれる?」
沈黙を厭わないと告げるように、スミスの親指が優しくイサミの涙に滲む目尻を撫でる。
「うるさい、こわい、せかいが、広すぎる」
ほとんど息だけの声を、イサミは喘ぐように吐き出した。
「波、が」
それだけ言って、俯く。伏せたまつ毛からぽたりと、涙の雫が垂れ落ちた。
「俺の声は? 嫌じゃない?」
耳を塞がれていても、スミスのその声ははっきりと鼓膜に届いた。イサミはこくこくと必死で頷く。スミスの声は不快ではなかった。体温も感触も、イサミを安心させてくれた。そろそろ無くなりそうだから大事に使っているのだといつか言っていたコロンの甘ったるい香りも、スミスからするのだったら悪くないとずっと思っていた。
「Great! それじゃあ、俺の声だけに集中してくれ」
スミスは吐息だけで、器用に明るい声を作ってみせる。
「波の音が聞こえるのか? 今イサミは海にいる?」
イサミは、こくりと頷いた。錯乱したイサミの脳味噌は、海原の情景を映し出し続けている。イサミはただ一人荒れた海に放り出されて藻搔いているのだ。雷鳴が轟くそこは眩しくて五月蝿くて、到底ひとりではいられないのに。
「そりゃ大変だ。溺れちまったら困るもんなぁ」
塞がれた耳から、ごうと血管の鳴る音がイサミには聞こえた。イサミは必死で、スミスの声に意識を集中させる。間延びした喋り方はいつもと違ったけれど、変わらぬ明るい声は少しだけイサミを穏やかな気持ちにさせた。
「ここにマリーンがいるぜ、頼ってみる気は?」
イサミはまた、頷く。
オーケー、と柔らかくスミスが微笑んで、小さな空気の揺れがイサミの鼓膜に伝わった。
「ずっと泳いでいるのはきついな。舟に乗ろう。小さい舟だ。俺たち二人乗ったら膝がくっついちまうような舟」
「ふね
……
」
「そうだ、見えるか?」
ぽん、と音を立てて、イサミの孤独の海に小さな舟が現れる。木でできた簡素な舟に、いつも通りバカみたいなTシャツを着たスミスが乗っていて、波間に揉まれるイサミに手を差し出した。夢中でその手を掴むとふっと浮遊感がして、気がつけばイサミは舟の上に座っている。
「
……
いま、乗ってる。お前が乗せてくれた」
「Sounds good! オールは俺が持つぜ。疲れただろ?」
「
……
ん」
水底からたくさんの音が伝わってくる。目を閉じているはずなのに、ギラギラと海面を灼く日差しが眩しい気がする。スミスと体が触れているところだけが温かく、その温度でようやく自分の位置を理解できる。
「世界が広すぎるなら、小さくすればいい。イサミはこの舟の中のことだけ考えていて」
「舟の、中」
「そう。だから、イサミと、俺のことだけ」
でも、とイサミは反駁した。
「おれは、外をみてないと」
「Hmm?」
イサミの役割は、それだったはずなのだ。外を。中のことは気にせず、外の様子を気にかけていないといけない。イサミはそのためにスミスと一緒に乗っている。それなのにどうしてスミスが同意しないのか、イサミには理解できなかった。
「俺は、おまえの後ろで、外を」
「後ろ? 違うぜイサミ。俺たちは向き合って座ってるんだ」
そうだろ、と囁きながら、スミスは指先でイサミの後頭部をあやすようになぞる。
「信じられないんだったら、目を開けてみるかい? きっと俺しか映らないよ」
イサミの瞼がぴくりと引き攣る。目を開けるのは怖かった。目覚めた瞬間に、世界はイサミにとって恐ろしいものに変貌してしまったから。
それでも、スミスの声はイサミの脳に染みていく。包み込まれた頬と耳殻だけが暖かいのは、スミスが体温を分けてくれているからだ。スミスのことを恐れる必要はないのだと、イサミはとっくに理解している。そうでなければ、ふたり一機となって戦うなどあり得ない。目を開ければ、スミスがいる。スミスしかいない。スミスが言うのなら、きっとそうなのだ。太陽を照り返すブロンドと、凪いだ海のような蒼。目を閉じていても思い描くことのできる容貌が穏やかに微笑んで、イサミが目を開けるのをきっと待っている。
沈黙の後に、イサミは小さく頷いた。イサミが顔を上げると、スミスが息を吐いたのが気配でわかる。宥めるようにイサミの肌を撫でる指先に促されて、イサミは恐る恐る瞼を開いた。
「イサミ」
──一瞬。ほんの一瞬だけ、あの恐ろしい幻視が現れる。それでも、イサミに触れる肌の温かさが、イサミを呼ぶ声の柔らかさが、イサミの知るルイス・スミスをたしかに形作った。
「スミス」
薄暗がりの中に、ルイス・スミスがいた。スミスのいう通り、他には何もイサミの視界に映らなかった。
「な、言っただろ」
スミスはイサミと目を合わせて、そう笑う。
美しく澄んだ蒼い瞳が、金の睫毛に縁取られてきゅうと細まるのが見えた。瞳孔の輪郭までイサミには捉えられる。それは、そのことに限っては、そう悪くないことのように思えた。
凪いだ海。イサミが放り出された荒海は、いつのまにか蒼く穏やかな海に変わっている。
「落ち着いた?」
イサミの表情を見て、スミスはもう一度そう問うた。
「
……
ああ、悪かった」
「No problem! お前がこんなときに頼ってくれなかったら、そっちの方がへこむぜ」
「
……
お人好しめ」
「今のは日本語? どういう意味?」
「教えてやんねぇ」
「そんな、ひどいぞイサミ」
ぽつりぽつり、イサミの過敏になった聴覚を気遣うように、スミスは平時よりも抑えた声で、それでも普段通りの会話をしてくれた。ほとんど吐息の触れ合うような距離で、確かにこの瞬間、イサミの世界にはスミスしかいなかった。
「
……
今のイサミの状態について、説明は必要?」
少しだけ困ったような声が、イサミに降ってくる。
「
……
いいや。大体、わかる」
「
……
そっか」
イサミが自覚している今のイサミの状態は、スミスには知らされてないはずのことだった。それでもスミスはきっと事態を正しく理解しているのだろうと思えた。どのような手を使ったかイサミは知らないが、そのことに驚きはない。
「黙ってて、悪かったな」
「どうして謝る? お前のせいじゃない」
「俺のせいじゃなくても、お前はきっと知りたかっただろうから」
「
……
そうだな、他でもないイサミのことだ。本当を言えば、こうなるまえに知っていたかったよ。でも、俺が説得したからって降りるようなタマじゃないだろ?」
「お前が降りれば、降りるかもな」
「はは、じゃあやっぱりあり得ない」
オルトスに乗る乗らないは、スミスやイサミが決められることではない。事態はとっくにふたりの頭の上を通り越して、世界全体の行く末に影響している。たとえスミスとイサミがどれほど嫌がっても、他にオルトスに乗れるものがおらず、オルトス以外に対抗の目がある機体がないのなら、ふたりに拒否権は無いも同然だ。
それでも、もし選べたとしても、イサミはスミスが乗る限りこの機体を降りないだろうと思った。それはどうしようもなく本心だった。いまのイサミにとっての世界はイサミを腕の中にすっかり囲ってしまったこの男で、この男を生かしたいのなら、世界を守りたいのなら、自分が乗るのが一番だとイサミはわかっているからだ。
そうしてきっとそれは、スミスも同じなのだ。博愛のヒーローのような顔をして、少し前から視線に滲むイサミへの執着を隠さなくなったこの男は、イサミの前の操縦席を誰にも譲る気はないのだろう。
スミスの方から抱きとめてきたのだと自分に言い訳して、イサミはスミスの背に腕を回した。心臓の音が聞こえる。手のひらからも拍動を感じた。少しだけ速さの違うふたりの心臓が、今は確かにふたつとも脈を刻んでいる。
ふたりきりの方舟で、どこまでも。身を休めるべき陸地はもはやないとしても、ふたりの安らげる場所は最早そこ以外にはあり得なかった。
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