破壊
2024-09-25 18:28:14
4995文字
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アポストラーチェ:補足



実に筆まめであったようで、アポストラーチェ自らが綴った記録は現存するだけでも五冊が見つかっている。読み解けるものからは彼の身の上や心情、激しい苦悩や僅かな喜びといった当時の自身の在り方についてが窺い知れる。


 ——『母上はぼくが傷つく事を酷く恐れていらっしゃる。肌に一本の蚯蚓脹れが出来る事すら気にかかるようだ。(別日・中略)誤って足を踏み外した。ほんの数センチ。僅かな段差であったが、それは瞬きの間であったが。地面に足が着くまでの浮遊感を今でも覚えている。あのとき確かにぼくは母上の言う恐怖を思い知ったのだ。』
 ——『死というものをよく考える。そのたびにあの浮遊感が記憶から身体へ蘇る。鼓動が早まり、息苦しくなる。とても恐ろしい。』

 ——『先日十三の歳を迎えた日、父から与えられたものは若い貴族の寡婦であった。如何様にもしてよいと言われ、女は大人しく僕の後に傅いた。彼女は姉のような親しさで隣に在り、何かをしきりに話していた。父は子の成し方を学べと言いたかったのだろう。(中略)彼女は手を合わせ、頭を下げていた。声は皺枯れ、何を言っていたか覚えてはいない。僕は状況を整理する為に今ここに記している。僕は彼女を殺したらしい。』
 ——『母上は誰よりいっとう冷静であった。』
 ——『彼女は遺書を残していたようだ。僕の部屋の、僕の机に置かれている。あの日に綴ったのだろう、文字は少し乱れている。僕はこれを火にくべる事にする。彼女の尊厳が踏みにじられぬよう祈っている。』

 ——『何を食べても満たされない心地だ。母上はナイフを握る事さえ許さなかった。僕が人殺しだからだろう。』

 ——『兄上が申すには、僕は生れ落ちたとき一度呼吸が止まっていたらしい。背を叩けば口から大量の血を吐いたという。おおよそ子供のはらに収まる以上のものを。それはなんとも異様で悍ましい光景だったようだが、皆はむしろ悪魔であってくれと願ったそうだ。それまで続いた天災に神ではなく悪魔へ願うほどだったと。(中略)兄上が僕に剣と馬を習わせるよう父上に話をしてくれる。母上はきっとお倒れになるだろうな。』


アポストラーチェが初めて人を殺めたのはわずか十三の歳だった。
彼の記した書によると、アポストラーチェという人物は神経質なほどに自身の身を案じる母親に囲われ、部屋で本を読み、学び、窓から外を眺めるだけの幼少期を過ごしていたという。また時折うわ言のような文章も存在し、健全な精神を培えるような環境にはなかったとされる。アポストラーチェの疾患にはこの事の影響が少なくはないようで、記録が進むにつれ彼の心の崩壊が読み取れる。


 ——『ミハイ家の令嬢が離れへ訪れた。先日話したとおり僕に会いに来たという。オティリア嬢は僕の手を取り、傅いて。彼女の善意は有難い。僕にも何かを返す事が出来ればよいのだが。(中略)彼女の手は暖かく、石膏のような僕の身を何度も往復していた。皮膚の下に流れるそれを感じる。脈々と波打つものの尊さを。あれが欲しい。』
 ——『オティリア嬢は善い娘で、献身を尽くしてくれる。彼女の傍は心地が好い。』
 ——『彼女達から熱が消えるとき皆一様にして僕が永く生きる事を望む。死にゆく身体で死は恐ろしくないとも言う。僕は彼女達に報いれるだろうか。何も成せぬ欠陥の身で、僕は彼女達のように強く在れるのだろうか。生れ落ちたのが悪魔であったならどれほどよかっただろう。』

 ——『彼らと話すのは面白い。最近では態といかさまを使った遊戯が人気らしい。見破れば勝ちなのだそうだ。混ぜてもらったが難しい。イロディオンは結果を知っていたかのように笑い、これは人を騙す訓練だと言った。嘘を吐くのもマナーだと。」

 ——『ふとしたとき、酷く落ち込む自分を見る。そうして次に死を想う。部屋の壁に背をつけても、死がそっと影を伸ばし足を引こうとしている気がする。あの浮遊感を思い出す。思い出すと足が竦む。耐えがたい気持ちで誰かの生を強請ってしまう。僕の生はあの血と共に零れ落ちてしまったのだ。(別日・中略)ああ、僕は病気なのだ。』


青年期に入ると人と会う機会が増えたようで、意外にも交友関係は広かったようだ。その影響か、僅か数年で十五名ほどに手をかけていた事がわかっている。外で出会い連れ帰った人物もいれば、被害者の方から男の元へ訪れる事もあったようだ。いずれもアポストラーチェ本人はこのとき既に人を殺すという事に躊躇いがなく、それは初めの年、十三の時点で窺い知れる。
彼を取り巻く環境は良いものに変わったところもある。例えば上記で現れた『イロディオン』という人物はアポストラーチェの記録の中に多々登場し、そのたび彼に様々な世界を見せ、自身の友人を紹介して招いてくれていたという。またイロディオンは男の精神衰弱を見抜いており、共に寄り添い、その犯行を手伝っていたのではないかと推察されている。なんにせよイロディオンという男はアポストラーチェ・ルプの深い友人であった。


 ——『果たすべき事がある、というのはいい。その間は全てを忘れられる。母上からとある書が届いた。母上の字だ。僕にはこれを読む勇気が無い。』
 ——『書は書かれていたとおり灰にして地に埋めた。母上はまことに僕を愛しておられる。彼女だけが唯一僕を人として扱っていたように思う。あのイロディオンさえ偶に見る瞳は僕ではない誰かを映している。崇拝のようなものだろう。僕は僕の在り方を漸く理解したのだ。』

 ——『彼女らの血を浴びると生きた心地がする。暖かく、優しいものだ。飲めば僕が帰って来たようで、僕はこうして生まれてきたのだ。外に出てしまったものを返してもらうのに、なんの咎があるだろう。彼女達の為にも僕は生きねばならない。』


アポストラーチェがついに最後の女性を殺害したのは、当時の王アンドレイアスが指示を出し王城に呼び出した2日前の事だ。アポストラーチェ・ルプは三十八の歳を迎えていた。その間に手をかけた被害者の数は五十八にも及ぶ。アンドレイアスは彼とふたりになると、そっと抱き寄せ謝罪をしたという。毒を飲む前日に記されたであろう男の記録を以て、この書を終える。


 ――『安寧がもたらされる。解放されると聞くと、肩の荷が下りたような気がする。死ぬ事は恐ろしい。だが、皆が見守っている。僕が恐ろしくないよう、苦しまぬようにと香を焚くのだという。僕の亡きあとは身体をここで預かるそうだ。陛下はこの身に手を伸ばし、お抱きになった。顔に指を這わせ、たいへんすまなかったと。そうおっしゃられた。陛下の瞳は黄金に輝き、僕をお映しになる。この身は明朝解き放たれる。僕はきっと神の元へはゆけぬだろうが、それでもよい。もう疲れたのだ。あの日生れ落ちたときからきっと、僕には何かが欠けていた。あの吐いた血はきっと僕だったのだ。あそこで息をひきとらねばならなかったのだと。そう思う。願わくば僕の周りの人々が死するその直前まで幸福であるよう。僕は祈っている。』