氷紀
2024-08-18 23:56:19
8649文字
Public とある息子たちの話
 

その両腕にかかえるものは?

ゲ謎派生パラレルワールドの〓×6期の👹 『とある~』シリーズの続き。
どれだけ力があったとしても、全てを守れるわけじゃない。



 それ以上何も言わないまま、人通りの多い道を抜けて、アパートへ続く路地へ入ろうとしたときのことだった。夕闇が濃くなり、街灯の灯った二車線道路の歩道を歩く僕たちの後ろから、何か小さな足音が駆けてくるのが聞こえる。四つ足、犬だと音で聞き分けた瞬間、僕の脇をすりぬける中型犬の姿。金色の毛並みだった。
 そのあとを追って響く、ずりずりと引きずるような音は、首輪に繋がったリードがアスファルトの地面に引きずられる音だった。そして僕たちの遥か後ろから、まってー、という子供の声が聞こえてくる。男の子だ。
「離しちゃったんですかね……?」
「みたいだナ」
 僕たちがつぶやく間にも、真っ直ぐ犬は駆けていく――その先、道路の向こうから走ってくるトラックのライトの向きがおかしい、とだけ僕は知覚した。
 僕が知覚したのとほぼ同時に、そのひとが買い物袋を放り出す。
「危ない!」
 鋭い叫びが聞こえたのは、数百分の一秒後だ。一瞬で離れる背中、金色の犬へ飛びついて、抱え込んで、その鼻先を突っ込んでくるトラックが掠めた。
 僕も反射的に飛び出しかけたけど、強いめまいに阻まれた。辛うじて、そのひとが放った買い物袋を拾い上げる。

 そして、一拍後。
 高いブレーキ音がいくつも響くのに続いて、地震に似た大きな揺れが、路地全体を貫いた。
 ぱん、と金属が弾けて、ひしゃげる音。ガラスの砕ける音。
 心臓がどくりと、嫌な音を立てた。

「あ、」
 ほんの一瞬のこと、だった。
 悲鳴や怒号、ざわめき。道路の上に次々と車が詰まっていくのをよそに、そのひとは、金色の犬を抱えて戻ってきた。
 犬を追ってきた子供が、ようやく追いついてきたけれど――周囲の様子に、あっけにとられているようだった。犬はきょとんとしている。
「なァ、この犬っころ、お前のか?」
「え、あ、うん……
「紐放しちゃだめだぞ。あと、日が沈む前に、早く帰るんだナ」
 そのひとは犬を下ろして、その子供にリードを握らせる。……その動きに、緊張感類は全くうかがえない。男の子は、周囲の状況とそのひとを何度か見比べて、ありがとう、とだけ呟くと、一目散に駆けだした。今度は犬を引きずるようにして。その子供の顔は、僕には最後まで見えなかった。
「なァんか変な勘違いされたっぽいナ……
 僕はそのひとの、ぼやくような言葉に応えようとしたけど、声が出なかった。遠くからサイレンが聞こえる。警察と、救急車。電柱と街灯を巻き込んで横転しているトラック、それに塞がれている周囲の車。跳ね上がった鼓動が、戻らない。
……、おい、お前」
 そのひとは僕の隣に、膝をついて――何か言っているのは聞こえたけど、自分の呼吸の音と周囲の喧噪に掻き消されて、聞こえない。鼓動がうるさい。冷や汗が吹き出している。体が、足が、動かない。拾った買い物袋を握る手が、完全に固まりきって痺れてる。何で。
 また、そのひとが何か言うのを、視界に映った唇だけで知る。大丈夫、と反射的に言いかけて、――言えなかった。代わりに違う音がこぼれる。
「たす、」
 けて、と続ける前に、僕の足元から地面が消失した。抱え上げられたと感じて、辛うじて動いてくれた左腕で、半ば本能的にそのひとの体にしがみついて目を閉じる。
 ――そこから少し、記憶が飛んだ。

 気がつけば、日はとっぷりと暮れていた。そして僕はどこかのベンチの隅に座らされたけれど――心臓が跳ね続けている。息が上手くできなくて、声が出ない。自分の体に何が起こっているのか分からなくて、酷い恐怖感が襲ってくる。知らない、こんなのは。
 そのひとの声がする。酷い耳鳴りの向こう、辛うじて聞き取った。
「僕の声、聞こえるか?」
 声が出ないから、ぎこちない動きで頷いた。息を吸っているのに吸っている気がしない。吐けば視界がぐらついて、視野がどんどん狭くなっていく。思考とは全然関係のないところで渦巻く恐怖感が、ますます体を強ばらせている気がする。
「ぁ、う、」
「喋らなくていい、大丈夫、大丈夫だから……
 買い物袋二つを握って固まったままの僕の手を、そのひとの白い指がゆっくりと解いていく。程なくして、ぱさりと軽い音を立てて買い物袋が離れた。
 見えたのはそこまでで、視界が灰色に塗りつぶされていく。
……僕に息を合わせることだけ、考えて」
 そう言われても、自分の鼓動と耳鳴りに阻まれて、息の音が聞こえない。どうしていいか途方に暮れていると、さっき解かれた僕の手が、そっと持ち上げられる感触があった。――柔らかな温度、そのひとの首元だ。息をするときの骨の動きと、肌の下を通るそのひとの鼓動が、手のひらと指先から伝わってきた。離れないように、そのひとの手が上から押さえてくれる。
 鼓動の二つで吸いきって、二つ止める。次の四つで吐く。苦しいけど大丈夫、だいじょうぶ――体を引き寄せられる。僕と同じ肌の匂いに、甘くて苦い煙草の香りが混ざっているのを感じたら、体の強張りが抜け落ちた。
 耳鳴りが止んで、息が聞こえるようになって、視界が少しずつ元に戻って――心臓の鼓動がいつも通りに戻るまでは、たっぷり二十分くらいはかかっただろうか。
 視線で周囲をうかがえば、今座っている場所が、前にも来た公園の東屋だということが分かる。そのひとが連れてきてくれたんだろう。
……落ち着いたか?」
「はい、その……ありがとう、ございます……でも、今のは一体」
 僕の手を解放しながら、そのひとは少しだけ困ったように笑った。
「トラックが突っ込んで来たとき、反射的に体を戦う方へ切り替えようして、切り替え損なった……みたいなやつだと思う。お前の体が、まだ完全には治ってない、ってことだナ」
 そのひとの白い指先が、僕の髪をそっと梳いて離れる。最初の頃よりは少し縮んだけど、まだ背中を守るくらいには長い髪だ。
「ただ、見てただけ……なのに」
「お前の頭は、僕と同じくらいのタイミングで、飛び出そうとしただろ。でも体は、まだ戦えないって分かってて、留まったンだ。頭の判断と体の判断が正反対に食い違ったところに、トラックの突っ込んでくるすごい音がして……あの音、銃声に似てたし」
 暗闇の中、語りかけてくれる声は本当に優しいのに、僕の体は勝手にびくりと跳ね上がった。頭と胸を撃たれた衝撃は、もう、だいぶ遠くなったと思ったのに――『死』に直結する音の記憶は、まだ僕の中に焼き付いてるってことだ。
「それだけで、こんな」
「怖かったんだヨ」
 そのひとは、僕の言葉をやんわりと遮ってそういった。
 黄と黒の、縞模様のパーカーをまとった腕が伸びてくる。肩を抱き寄せる力に逆らわず、体を預けた。
「お前は、怖かったんだヨ。……僕にだけは、怖くなかったフリなんか、しなくていいんだ」
「うん……、」
 そうだ。さっきのトラックも、銃に撃たれたあのときも。
 他の誰かに言われたんだったら、僕は反発して聞こうともしなかったに違いない。でもそのひとが言うなら――もしかしたらあり得たかもしれない『僕自身』が言う言葉は、すっと染み込んできた。
「怖いのと戦おうとして、血を巡らせる。でも言えないから、息が詰まる。見たくなくて視界を閉ざす。聞きたくないから耳をふさぐ。……全部、自分を守るのには大事なことだけど、方向が食い違うと体がおかしくなるんだヨ。……でも、サ」
 僕の頭の上に、柔らかな感触が一つ触れて、離れる。
 複雑な声音でそのひとは笑った。
「あそこで、たすけて、って……言ってくれたの、嬉しかったなァ」
……どう、して?」
「僕がずっと、言えないでいたことだから」
 記憶が甦る。
 どうして僕にここまでしてくれるのかと問いかけて、もうずっと自分で自分を抱いているようなもの、と答えてもらったのも、この場所だ。僕は返事をする代わりに、そのひとの体に額を押しつけた。
 他に誰もいない夜の中、柔らかな風が過ぎていく。