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君とワルツを 4

幼いヒースクリフと触れ合う囚人たち。
メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。


 
 
 あれから一向に雨脚が弱まることはなく、運転席に座るカロンは車体を洗うような降水に眉をひそめている。イサン曰く、霧雨の多いT社の巣では珍しい空模様であるようだ。ヴェルギリウスの一声で緩やかに停車したバスは長い間雨止みを待ち続けていた。最も困惑するだろうと思われたヒースクリフは存外冷静で、メフィストフェレスが停車したことについて言及することはなかった。
 ダンテは昨日振りに自分の座席へと腰掛け、シンクレアとロージャの記録に目を落としていた。膨らんだ肺から憂鬱交じりの溜息が吐き出される。無意識のうちに右手の指が額を触れた。
 ワザリング・ハイツの事件について、囚人たちが少しずつ認識のズレや記憶の矛盾に気付き始めている。記録を読み進めるうち、ダンテはほつれた縫い目を指でなぞられるような感覚に苛まれた。皆が記憶していないだけで、残酷な結論は既に誂えられている。あとはそれが暴かれていく過程と結果を眺めるだけのように思えた。
 ダンテが頭を抱える理由は他にもあった。ヒースクリフが繰り返し口にするキャシーという名前の少女はこの世界のどこにも存在していない。故に、ヒースクリフが暴力に耐え続ける理由も屋敷へ固執する必要も無くなったはずだった。無論、それは囚人ヒースクリフも例外ではない。
 だがここにいる彼はキャサリンとの存在しない思い出を記憶している。それはつまりダンテが立てていた仮説のうち二つが外れたことを意味していた。つまるところ彼は過去から迷い込んできたヒースクリフではなく、ダンテが昨夜言葉を交わしたヒースクリフその人で間違いなかった。
 しかし単純な肉体的退行と結論付けようとすれば、ロージャと良秀が手当てしたという真新しい傷や痣の存在が矛盾を生む。ダンテは再び肩を落とし、時計の針を震わせた。
 その一方で、ヒースクリフはメフィストフェレスの中をうろついたり囚人の背中を追いかけたりと、生まれ持った好奇心が徐々に顔を出し始めているようだ。それは会話するなどして暇を潰していた囚人たちの助けになっているらしく、皆一様にヒースクリフの好きなようにさせており、それに対して誰も嫌な顔はしなかった。彼の態度が軟化したのに比例して、囚人たちも徐々に小さなヒースクリフに順応していったらしい。どこか遠慮がちだったウーティスはヒースクリフの口からスープのお礼を伝えられたようで、困ったように咳払うと気恥ずかしそうに彼の頭を乱暴に撫でていた。
 良秀の隣に座って吸いかけの煙草に手を伸ばしたこともあったが、それを目撃したイシュメールによって叱られていた。だがそれを横目に、ふざけた良秀が吸い口を彼の唇へ持って行く素振りを見せた。あっとイシュメールが声を上げたが、勿論はじめから吸わせるつもりなど無かったのだろう、良秀はヒースクリフの目の前で意地悪く火をもみ消すと「大人になったら教えてやる」と言って笑っていた。

 ただ一人、グレゴールだけは小さなヒースクリフから一貫して距離を取り、常に一歩引いた場所から彼を見ていた。それが全くの無関心から来る態度でないことを知っていたダンテは、用箋鋏を椅子に伏せてグレゴールの元へと歩いていく。
〈いいの?〉
 グレゴールは肘をついてダンテを見上げたが、何が? と言いたげな顔で首を傾げる。ヒースクリフはムルソーの太腿に跨り、彼が読む夕刊の新聞に目を通している最中だった。耳を傾ければヒースクリフが知らない単語を訊ねムルソーがそれに答える、あるいはヒースクリフが単語を読み上げ発音の正誤をムルソーが判定する、といったやり取りが繰り返されている。
〈君だけあまり近くに寄らないから〉
「ま、呼ばれることもなかったからな」
「もーグレッグったら」
 彼の言葉に反応したのはロージャだった。彼女は呆れたふうに肩をすくめると無遠慮にグレゴールの頬をつつく。やめろって、とグレゴールは目を細めたが、彼女の手が振り払われることはなかった。
「それにしたって遠慮しすぎだと思うけど。ああやって抱っこしてあげたり、よしよししてあげたりしたくないの?」
「馬鹿、お前。腕が触れちまったらどうすんだよ」
「大丈夫よ、ちゃんと見ててあげるから。ね?」
 するとロージャはグレゴールの制止を無視してヒースクリフを呼び寄せる。
 彼は新聞に満足したようで、ムルソーの膝から降りたその足でロージャの元へ歩いて行った。
〈新聞はどうだった?〉
「面白くなかった。けど、少しだけ言葉を覚えた」
 ロージャは用箋鋏を除けてダンテの席へ腰かけると、壁を背にして座り直し、その膝上にヒースクリフを乗せた。彼女たちの右隣には左手で首元を掻くグレゴールがいる。
「あー……その、具合はどうだ」
 アドリブにめっぽう弱いグレゴールは少しの間目を泳がせたが、当たり障りのない話題を選び、こちらをじっと見つめるヒースクリフへ声をかけた。
「? うん。平気」
「そ、そうか」
 彼らの会話を最も近い場所で観察し、かつ面白がっているのはロージャだ。彼女が「ちょっと、硬すぎない?」と茶々を入れるとグレゴールは堪らず凄んだが、それすら彼女には愉快に映るらしい。
「オレ、なんかしたか?」
「ううん。このおじちゃんがちょっとシャイなだけ。気を悪くしないで」
 ロージャはそう言ってヒースクリフの頭を撫でる。グレゴールが訂正を求めたが、ヒースクリフのふーんという返事で彼の申し立ては流れていったようだ。
「怒らせてたわけじゃないなら、別になんでもいい」
「そ……そうだな。悪い」
 しどろもどろに応対するグレゴールの背後で、シンクレアが固唾を飲んで見守っている。ダンテもまた少しずついたたまれなくなり、どう助け舟を出そうかと思案し始めていた。
 しかしそれよりも先に声を上げたのはロージャだった。
「ねえ、ヒース。キャサリンってどんな子なの?」
 ロージャはヒースクリフの顔を覗き込んで言う。その名前を耳にした途端ヒースクリフの目が丸くなり、口元が僅かに萎む。ダンテは己の背に走る緊張を表に出さぬよう口を閉ざすと決めた。
「キャシーは……
 ヒースクリフが口を開く。しかしその後の言葉を選びあぐねている様子で、口をもごもごと動かして沈黙を生み出していた。
 ロージャとグレゴールが顔を見合わせる。二人が何かを察したらしいことにダンテが気が付けたのは、間違いなく強烈なデジャブによるものだろう。ヒースクリフは微かに両頬を赤く染めて、再び口を開いた。
「見た目はアンタみたいなふわふわの髪で……お、お姫様……みたいな子」
 予想だにしなかった語彙が飛び出したことでロージャは目を丸くさせ、感嘆を漏らしている。グレゴールは思わず、といった様子で「おお……」と声を上げていた。
「お姫様みたいにかわいいのか?」
……うん。けど、よく笑ったりよく怒ったりする」
「ふ~ん、気分屋さんなんだ」
 ロージャの問いかけにヒースクリフが頷く。へえ、とグレゴールは口元を緩ませた。どこか沈んでいた周囲の雰囲気が暖まるを感じたダンテだったが、それに反してヒースクリフの表情が陰りを見せていた。
〈どうかしたの?〉
 ダンテが声をかけると、ヒースクリフは首を横に振って俯く。
「今のキャシーは鬼ごっこで遊んだりしないし、飯も行儀よく食べてる。……バトラーたちが言うんだ。キャシーはどんどん相応しくなってるって」
 でも、と言葉を続けようとしたヒースクリフだったが、途端に唇の両端が引き結ばれる。代わりに席を立つと、ロージャの背中越しに覗く窓の向こうをじっと見つめた。相変わらず雨は降りしきっており、もはや外の様子が分からないほどに白んでいる。寂しくなっちゃった? とロージャが尋ねたが、ヒースクリフはまたしても首を横に振った。
……ダンテ。あと数秒で、囚人たちの予定された業務時間に到達します」
 ふと、ファウストから終業時間を伝える声がかかり、ダンテはいつものように頷く。
〈分かった。囚人の業務終了を承認します〉
 ダンテの合図を皮切りに囚人の多くは席を立つと、それぞれ車両の奥へと個室へと足を進める。大半の囚人はそれぞれの個室へ向かうが、一部の者はキッチンへ、あるいは浴室へ赴くらしい。しかしヒースクリフの様子が気掛かりだったようで、ロージャを初めとする何名かの囚人は私用を済ませてから再び座席へ戻ると告げた。

 そうして構内はダンテ、ヒースクリフ、それからグレゴールの三名だけが滞在する空間となった。窓枠が軋む音が響く。どうやら雨だけでなく強風すら吹き始めているらしい。どうしたものかとダンテが外を眺めていると、突然グレゴールが大声を上げた。
「うわっ、こら! 危ないだろ!」
 驚いたダンテが振り向くと、何を思ったのか、ヒースクリフがグレゴールの膝の上へよじ登ろうとしていた。強く叱られたのが気に入らないのか、ヒースクリフは睨みを効かせたまま口を尖らせる。
「何が危ないんだよ」
「腕だよ、腕」
 グレゴールは溜息をつくと渋々といったように右腕を持ち上げてヒースクリフの眼前へ向けた。しかしヒースクリフは怯むどころか少しも譲るつもりがないらしく、眉間に皺を寄せて立ち尽くしている。グレゴールとダンテは顔を見合わせたが、お互いに彼の意図が分からないのだと悟るとグレゴールは白旗を振って席から立ち上がった。
「はぁ……分かった、怒鳴って悪かったよ。ほらおいで」
 グレゴールは三人掛けの椅子へ座り直すと、左膝を数回叩いてヒースクリフを呼んだ。彼は険しい顔のままグレゴールの方へと歩み寄る。グレゴールはヒースクリフが傍に寄ったタイミングで抱き上げてやると、ムルソーやロージャがしたように彼の背中をこちら側へ向けようとした。
 だが、膝の上に座らせたヒースクリフはグレゴールの肩に顔をうずめたまま動かない。それどころかグレゴールの服にしがみついていることから、彼がこの体勢のまま座ることを望んでいるらしいことが分かった。なるほどなあ、とグレゴールが笑う。
「よしよし。我慢してたんだな、お前」
 そう言ってグレゴールはヒースクリフの後頭部へ左手を添えて優しく撫で始める。次第に彼の小さな肩が震え出し、微かに嗚咽する声が聞こえてきた。
 ダンテは着ていたコートを脱いでヒースクリフにかけてやる。しばらくの間二人はコートに覆われたヒースクリフを囲み、彼が落ち着くまでの時間をゆっくり過ごした。
……キャシー」
 ふと、ヒースクリフが涙声で彼女の名前を呼ぶ。堪えきれなくなった感情を吐露するように、またぽつりと呟いた。
「会いたい、キャシーに会いたい」
……そうだね〉
 ダンテはヒースクリフの肩に手を添えて言葉を返す。グレゴールはその後も口を開くことなく彼の後頭部を撫で続けていたが、ヒースクリフの呼吸がゆったりとしたものに変化したことに気が付いて声をかけた。
「眠くなってきたか?」
 ヒースクリフはコートの下で頷いたようで、グレゴールはそうかと返事をするとダンテへ寝具はあるかと尋ねた。すぐに準備できると答えて、ダンテは席を立つ。すると、ヒースクリフがコートから顔を出して問いかけた。
……アンタは寝ないのか?」
 その言葉にグレゴールが優しい笑みを浮かべると、ヒースクリフの肩へコートを掛け直して答える。
「ああ。不寝番だからな」
「ふしんばん?」
「寝ずの番ってやつだ。昨晩はお前さんに代わってもらったからな」
 そう言ってグレゴールはヒースクリフの髪を梳くように撫で始めた。心当たりが無いらしいヒースクリフは目を丸くさせて聞き返す。
「オレが?」
「あー、いんや。なんでもねえよ」
 グレゴールがうやむやに返事をする様子を見て、ダンテは小さく笑みをこぼす。それからヒースクリフが使う寝具を見繕うため、メフィストフェレスの裏口へと入っていった。