ユコ
2024-07-07 18:36:40
21153文字
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no liar, no game

お題:嘘つき
攻めることしか知らないギャンブラーが不意に見せる弱みにはまっていく教授の話。
君が求めるなら僕はいつまででも待とうと決めた。








2:夢と死──彼は僕の虚栄を見透かし、僕は彼の深淵を知った。




「ポーンをHの8へ」
「ビジョップをEの6」
「じゃあ、ルークをCの5へ」

 見覚えのある部屋だった。
 気づくとレイシオは見覚えのある大学の個人研究室にいた。その研究室に置かれた休憩用の小さなテーブルを挟んで、いつものチェスをしている。自分対自分の思考ゲーム──そのはずだった。

「君も後の線というものを多少は覚えたようだな」

 自分の口からそんな言葉が出たことにレイシオはぎょっと驚く。
 何故こんなことを? アホバカマヌケどもとのゲームなどするつもりもない自分は、チェスをするなら自分一人と決めている。こんな相手を労うような言葉をゲーム中に口に出すことなど到底あり得なかった。
 自分の意思とは違う言葉を発した驚きで、レイシオは盤面から目を外し顔を上げる。
 そこにはコインのように手元でチェスの駒を遊ばせる、いつもの見かけばかりの派手な格好ではない出会った時と同じ落ち着いたスーツを身に纏った、軽薄なビジネスパートナーの男が困った顔で小さく笑っていた。

「そう? 僕はさっさとこのキングで君の喉元へ仕掛けにいきたいのを必死で我慢してる」
「そんな阿呆な手を打ったら、即返り討ちだな」
「そう。それがわかってるから、つまらない脆弱なポーンを動かすしかできないんだ」

 アベンチュリンが子供のように唇を尖らせた。

「ねえ、教授。早くこの退屈な盤面を動かしてくれよ。2システム時間後には、夕食の店を予約してるんだよ」
「それは僕との?」
「当たり前だろ。前に君が話していた故郷の料理──アクアパッツァっていうんだっけ? それを食べてみたくてレストランを探した。結構予約、大変だったんだ」

 絶対気にいると思うよ、とアベンチュリンはあどけない好意の塊のような笑顔を浮かべる。
 あまりにも裏も表もない笑顔に、レイシオの背筋がぞっと寒気を覚えた。
 ──これは調和エナの夢だ。
 アベンチュリンはこんな風に屈託な笑顔を自分に向けることはないし、彼とチェスなどすることもない。あの鳥のような小さな頭にチェスのルールなど入らないだろうし──そもそも、リスクもリターンもないゲームを、彼が興じるとは思えなかった。
 君は僕のことを好きにはならない。
 そう告げた彼の言葉がレイシオの脳裏に蘇る。

……忌々しい」

 つまり、これはレイシオの望む深層心理の夢だ。
 そう確信する自分の思考とは真逆にレイシオの手は駒を黙って動かしている。友好的なゲームの間に出てくる台詞とは思えない己の吐き捨てた台詞も、目の前のアベンチュリンには届かない。調和と秩序の取れた夢で、レイシオの嗅ぎとった不穏など不要だと言わんばかりに、なかったことにされているのだ。アベンチュリンは機嫌が良さそうに鼻歌混じりに盤面の駒を見つめている。戦略的に、この盤面をどう動かそうと考えている理知的な目だ。
 あまりにも普通だった。
 自分の前に座る男は、素直で、駒を無駄に動かそうとしない理性があり、待つことができる。レイシオの求める人間的規範が伴った男だ。
 ここにはあの纏わりつくような視線で自分を見つめ、絡め取ろうとする極彩色の瞳の力は何もない。
 けれど、それでもレイシオにとってはあの不愉快な瞳の方がずっと恋しかった。
 ──悪夢だと思った。
 早く、こんなくだらない夢は終わってくれ。
 操られたように、ビジョップの駒を前に淡々と繰り出しながら、そう心の底からレイシオは叫ぶ。
 こんな愚かしいほど均衡が取れた夢の中で、愚の骨頂のような己の欲望に気づきたくなどなかった。自分は夢の中まで凡人だと思い知る。
 


          *



「──報告だ。アベンチュリンはこのくだらない夢境の真理を暴くために、虚無へと足を踏み入れた。およそ3システム時間後には、おそらく青穹列車の面々がこのピノコニーの悪夢を払うだろう。カンパニーは表舞台には一切立たずに、穏健に君達が望む果実を収穫する」

 現実のホテル・リバリーは恐ろしいほど静まり返っている。
 星核の影響で夢境の侵食が始まったこの現実のホテルに留まろうとする客などいないからだ。そんな不気味なホテルの一室に、目覚めたレイシオは一人留まっていた。目の前の悪趣味な貝殻の形をした夢境に入るためのドリームプールの水には、まるで水死体のように顔を真っ白にした男が浮かんでいる。この部屋に訪れ、この男の計略を愚かだと言った時にすでにこの結末までは予想していたが、この姿を見下ろす自分までは明確に想像できていなかった。死体のように成り果てた男の体を面倒を見るまで、仕事の範疇には入っていない。
 レイシオは溜息混じりにその冷えた男の脈を確認し、冷静に端末で現場の報告を告げていた。その結果を受けた相手がレイシオに謝辞を告げる。

『報告をありがとう、教授。それで、アベンチュリンの様子は?』

 端末の向こうで女の優雅な声が響く。
 十の石心の一人──ジェイドの声だ。レイシオの最後の仕事の役目はこの夢境から恐らく帰る手段が暫くなくなる男のために、状況を十の石心に報告することにあった。仕事は報告をしなければ完了しない。だからあの吐き気がするような調和エナの夢からレイシオは目覚めた。
 ジェイドの問いに、レイシオは淡々と答える。

「微弱だが脈はある。恐らく、意識が虚無と死の境界を行ったり来たりしているのだろう。彼の幸運が機能し、無事命だけは戻ってきても、虚無まで踏み入った彼がこの先使い物になるかどうかは僕は知らん」

 海の底まで届くほどの深い溜息をついても、もうこの男にはその息も届かない。それが彼の払った代価だ。──生きろ、とレイシオが処方箋で告げた真意を、この今にも死にかけている男が理解できるとは到底思えなかった。
 レイシオは口早にジェイドに指示を口にする。
 
「彼が夢から覚めた時にすぐに入院できるように、ピノコニーへ混沌医師の手配を推奨する。第一真理大学の病院に僕の名前を出せばすぐにでもVIP用の個室を用意できるだろう」
『ありがとう、教授。医師はすぐにでも手配するし、あなたの名前も使わせてもらうわ。あなたの指導は宇宙で一番厳しいと評判だけれど……、ぼうやにあなたは優しいわね』
 
 この心細い夢境でさぞかし心強いパートナーだったでしょうね。
 歌うようにそう囁いたジェイドに、レイシオは小さく舌を打った。

「君たちは一体何を考えている?」
『あら。本件のプロジェクトの意図はあなたがピノコニーに入る前に共有したはずよ』
……君たちが彼の仕事に賭けたのはあの基石を見ても明らかだ。僕もだから協力した。けれど、本件の彼の動きは人間として逸脱している。目的のために自らの死を迷わず選ぶなど、彼は異常だ。一体、君たちはこの男をどうしたいんだ。博識学会がカンパニーと結んだ契約だから僕は彼の望みを叶えたが、僕にはこのやり方がカンパニーがピノコニーを掌握するための優秀な一手だったとは到底思えない」
『あら。うちのぼうやは随分とあなたに買われているのね』

 くすくすと鈴が鳴るような美しい笑いがレイシオの耳に響く。
 何もかもが不快だった。
 端末を握りしめる自分の手が、知らずのうちに汗を滲ませている。そんなレイシオの苛立ちを見抜くように、端末越しの女はゆっくりとレイシオに語りかけた。

『教授、私たちはあなたの純情を弄んでいるわけではないのよ。あなたの怒りは人として誠実な怒り。けれど、ぼうや──いえ私たち、十の石心には人の常識や誠実では埋められない、心に開いた穴があるの。だから、私たちは琥珀の王に全てを捧げた。あなたは知恵の神ヌースに全てを捧げることができなかったから、そこにいる。もうすでに始まりの『点』ポイントが違うのよ。私たちは利益でしか交われない』
「言われなくてもそんなことはわかっている。君は僕を怒らせたいのか?」
『いいえ。これは、こちらの想像以上の誠実な仕事を私たちに提供してくれた教授への助言よ』

 こうして対峙すると、ジェイドとアベンチュリンはよく似ている。
 優しい笑みと声で、蛇のように人の心に絡まり付き、裏側の見えないコインのような一方的な対話しか寄越してこない。アベンチュリンという男を前にして感じた不愉快さは、ジェイドという女の教育の賜物であることを今になって思い知る。
 航路で人を惑わせるセイレーンが実存するなら、このような声で歌うに違いない。理知的な美しい貸金屋は、だれもが聞き惚れる魅惑的な声でレイシオに最後に忠告を残した。

『あなたみたいな誠実で対価のためには払うべき代償をわかっている男は、彼の深淵を覗くだけに留めることをお勧めするわ。だって、あなたは私の顧客にはならないだろうから』

 あなたの中途半端な触れ合いは、ぼうやの埋まらない穴を広げるだけよ。
 そうレディ・ヒスイはレイシオの耳元で優しく囁いたのだった。