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君とワルツを 3

幼いヒースクリフをケアする囚人たち。
メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。

 
 
 メフィストフェレスの裏口へと続く扉を開け囚人を先導したのはやはりファウストだった。彼女は一番近くにあった扉に手をかけると、ヒースクリフを抱えたムルソーを扉の奥へと押し込める。
 背中越しにドンキホーテの声が聞こえダンテは振り返ったが、彼女は良秀によって引き止められておりこちら側へやってくることはなかった。囚人たちの不安げな表情を尻目に、ダンテもまた彼に続くように扉の中へと駆け込んだ。
 扉の向こうは休憩室のような造りになっていたらしい。数刻振りに視界に入る色のある光景に微かな眩暈を覚え、ダンテは立ち止まる。
 初めに白い簡易ベッドが二床と、それを仕切るためのカーテンが目を引いた。それからダンテは鼻腔を掠める薬品の匂いに気が付く。どうやらここは医務室としての役割も兼ね備えているようだ。
「ムルソーさん、彼をこちらへ」
 ファウストはヒースクリフをベッドへ座らせると、キッチンから持ち出したらしいペットボトル入りの飲料を手に取って封を切る。蓋の空いたペットボトルにストローを刺し、飲めますか? とヒースクリフに持たせた。
「脱水症状の懸念があります。経口摂取が可能であればこのまま様子を見るつもりですが――
 そう言いかけて、ファウストはヒースクリフの様子を伺う。ムルソーもまた彼の手元を見下ろすようにして見守っていた。ヒースクリフは逡巡した様子を見せたが、すぐにストローの先にそっと口先を付ける。彼の咽頭が上下に動くのを数回確認して、ムルソーは口を開いた。
「嚥下機能に問題は見受けられない」
「そのようですね」
 ファウストはこくりと頷き、その透き通るような白髪を揺らす。どうやらファウストの想定より事態は悪くならなかったらしい。ペットボトルの中身は時間をかけて、だが一定のペースで減っていく。どれくらい減るのだろうかとダンテが考えたところで、「飲みすぎてはいけませんよ」とファウストがヒースクリフからペットボトルを回収した。
〈いいの? 取り上げちゃって〉
「一度に多量の水分を摂取することで、かえって悪心を引き起こす可能性があります」
〈そう……
 ダンテは実感の湧かぬままファウストの言う儘に頷いた。彼女は何か言葉を付け加えようとしたようだが、益が無いと分かりきっているためか口を噤んだらしい。代わりに、ムルソーが支えている青白い顔をした子供の名前を呼んだ。
「ヒースクリフさん、最後に食事したのはいつですか?」
 ファウストの問いかけに対しヒースクリフは視線を泳がせる。その後彼が首を横に振ると、ファウストは小さく溜息をこぼした。
……そうですか」
 ムルソーに体を預けていたヒースクリフだったが、いよいよ力が入らなくなったらしい。彼の上体がずる、とムルソーのいる方へ沈み込む。
「ファウストの見解として、彼に求められるのは迅速な体力の回復です。軽食を用意しましょう。ダンテ、彼に一定のペースで水分を与えてください」
……うん〉
 ファウストはムルソーに何らかの指示を出し、彼女らしからぬ足音を立てながら休憩室から出ていった。ムルソーもまたダンテへ軽く会釈すると、ファウストの後を追って部屋の外へ歩いていく。
 ダンテはムルソーの背中を見送ると、ベッドに横たわるヒースクリフへと視線を移した。ヒースクリフは薄く開かれた唇から浅い呼吸を繰り返している。
〈ヒースクリフ、具合はどう?〉
 ベッドの脇に跪いたダンテが声をかけると、ヒースクリフの視線は声の主を探して彷徨う。そうして彼の視界がダンテの炎を捉えると、紫色の瞳を僅かに細めて小さく首を横に振った。眩暈が酷いのか時折目をぎゅっと瞑っている。ダンテは一脚のスツールを見つけると引きずるようにベッドの脇へ移動させ、背もたれのないそれにそっと腰かけた。
 ヒースクリフの額には汗が滲み、目にかかるほど長い前髪が肌に貼り付いていた。だがそれに相反して血の気の失った顔は青白く、寒さに耐える子犬のように震えていた。
 寒くはないかとダンテが問うと、ヒースクリフはわからないと答えた。しかしヒースクリフの奥歯がカタカタと震える音が聞こえたため、ダンテはヒースクリフの傍に腰かけると、折りたたまれていたシーツを広げて肩までかけてやる。不調に喘ぐ小さな体と今朝巻かれたばかりの包帯が痛々しく映り、ダンテの心臓は杭を打ち込まれたように痛みを訴えていた。
 二人きりの空間に、ヒースクリフが浅く呼吸する音だけが鳴り続けている。時折唾液をのみ込む仕草を見せ、水中から顔を出す魚のように息をつくと再び弱々しい呼吸へと戻るのだった。
 その繰り返しをダンテはしばらくの間観察していた。包帯の下、額に貼り付いた前髪を剥がそうとダンテは手を伸ばす。ヒースクリフの瞳が影に覆われたその瞬間、彼の表情がひきつけを起こしたように強張った。
「っ、あ」
……ヒースクリフ?〉
 異変に気が付いたダンテは伸ばしていた手を退ける。ダンテの掌の下でヒースクリフは目を見開き、凍り付いたように天井の一点を凝視していた。ダンテの呼びかけや退けた掌にすら反応を示さない。微かに震える紫の瞳は、もはやダンテの姿など映してはいなかった。
 見えないものに怯え出すヒースクリフに戸惑いを露わにするダンテだったが、ふと、彼の口から息の音がしないことに気が付く。これまで狼狽えることのないよう努めていたダンテであったが、焦燥に駆られるまま立ち上がりヒースクリフの体を揺すった。スツールが横転し床に叩きつけられる音が鳴り響く。だが、ダンテはお構いなしに彼の名前を繰り返し叫び続けた。
〈ヒースクリフ! 息をしてくれ、ヒースクリフ!〉
 すると彼の肩が大きく跳ね、喉元から鋭く息を吸い込む音が鳴る。ヒースクリフは過度に取り込んだ空気を押し出すように咳き込み、数度荒い呼吸を重ねた。
「げほっ! っが、はぁっ、はぁっ!」
 彼は息を荒立てながら這いつくばり、ダンテの腕をシーツ諸共力任せに振り払う。そのまま立ち上がろうと肘をついたが、バランスを崩しベッドから身を乗り出してしまう。まずいとダンテがヒースクリフの体を支えたが、それすらヒースクリフを錯乱させる材料となり、彼はダンテの手から逃れようと身を捩りながらかぶりを振った。
「もう嫌だ……っ、放せ……放せよお……!」
〈ヒースクリフ、落ち着いて! 息を……
 ダンテが何度も彼を揺すり呼びかけ続けると、見開かれた両目は徐々に焦点が合っていく。ヒースクリフは白いシーツの色と時計頭の上で燃える炎を知覚すると、顔を顰め、両手で頭を抱えて体を丸め込んだ。
「う、ぐ……ッ、うう……!」
〈よしよし……大丈夫。大丈夫だから……
 汗に濡れた髪がヒースクリフの掌の中でぐしゃりと握り込まれる。ダンテはヒースクリフの肩に手を回し、震えているそれを何度も摩った。
 まもなく廊下から何名かの足音が聞こえたかと思えば、すぐに勢いよくドアが開け放たれる。そこにいたのはウーティスとイサン、そしてシンクレアであった。
「管理人様、一体何が――
 ドアノブに手をかけたウーティスが叫ぶように問うてきたが、ベッドの上で蹲るヒースクリフと彼を宥めるダンテを見てぴたりと足を止める。
「ダンテ。些か穏やかであらぬ物音がすれど……
 イサンはウーティスの背中から顔を覗かせて言った。同じく心配そうな様子でこちらを伺うのはシンクレアだったが、よく見ると彼は器の乗ったトレーを両手で持っている。ちょうどその時、遅れてファウストとムルソーがかけ戻ってきた。
 釈明を求める囚人たちを前にダンテは口籠る。その傍らでヒースクリフは横向きに倒れ込み唇を引き結ぶと、自身の肩を両手できつく抱いた。

 まもなく息が整い始めたところでヒースクリフは目を伏せる。それから固い拘束が解かれたように四肢を投げ出すと、ぐったりと項垂れた。
〈ごめん、ヒースクリフ。驚かせてしまったね〉
 ヒースクリフはダンテの言葉に対して首を横に振る。そうして何かを言いかけたが、酸欠によるものか疲労のせいか言葉がうまく出てこなかったらしい。ダンテは今度こそ彼の額に貼り付いた前髪に触れ、指でそっと梳く。そのままその小さな頭を撫でると瞬時に彼の首筋が強張ったが、髪に触れる回数を重ねるごとにその緊張は解きほぐれていった。
 ダンテはヒースクリフが再び規則正しく呼吸していることに安堵する。だがそれ以上に、彼の目に浮かんだ恐怖の色が喉を締め付ける感覚に苛まれていた。
「ヒースクリフさん、起き上がれますか?」
 ファウストは彼の容態が安定してきたと判断したのだろう。そう問いかけると、ヒースクリフは小さく頷いてゆっくりと半身を起こした。
「みず……
〈ああ、うん。ここにあるよ〉
 そう言ってペットボトルを差し出せばヒースクリフは両手でそれを掴み、先ほどと同じように口を付ける。その傍ら、シンクレアが手にしていたトレーをサイドテーブルに置いていた。
〈それは皆が用意してくれたの?〉
 ダンテが問いかけると、シンクレアが首を横に振る。
「いえ。作ったのはウーティスさんで、僕はお手伝いをしただけです」
〈じゃあ、イサンも?〉
「私は何も。ただヒースクリフ君のことがおぼつかなく、跡をつけしばかりなり」
「あとで良秀さんに怒られますよ……
 シンクレアは困り眉のままイサンを窘める。イサンは暫く目を伏せたのち、致し方なしとだけ呟いた。
 ダンテがトレーの中を覗き込むと、そこにはカトラリーと器に入った湯気の立つスープがあった。鶏肉と刻んだ野菜が煮込まれている。色鮮やかなそれはダンテも目を見張るものがあった。
 僕たちはこれで、とシンクレアが退出しようとしたとき、沈黙していたウーティスが突如彼の腕をがしりと掴んだ。
「おい、小僧。まさか管理人様の御手を煩わせる気か?」
「えっ」
 彼女に捕まったシンクレアは目を丸くさせている。そんな彼の様子を見て、ウーティスは大きく溜息をついた。
「みなまで言わせるな。貴様が食わせてやれ」
「でも、それはウーティスさんが……
 シンクレアがそう言いかけたところで、ウーティスの鋭い目つきが一層厳しいものへ変化する。有無を言わさずといった態度のウーティスに早々に屈したシンクレアは僅かに口先をまごつかせた後、小さく頷いた。
「うう……分かりましたよ」
 ウーティスは彼の返答に満足したようで、目を伏せて早々に休憩室を後にした。彼女に続いてファウストとムルソーがこの場を去る。残った囚人はシンクレアとイサンただ二人だけとなった。
〈君は残ることにしたんだね、イサン〉
 ダンテは新たに持ち出したスツールに腰かけるイサンに声をかける。うむ、と短い返事が聞こえたが、彼はそれ以上を語ることはなかった。
「えっと、その……ヒースクリフさん。お腹……空いていますよね?」
 シンクレアはベッドの上に座る子供へたどたどしく話しかける。その緊張がヒースクリフにも伝わったらしい。彼もまたぎこちなく頷いていたが、どこか身構えた様子だ。
〈シンクレア、大丈夫?〉
「うっ……すみません。子供と接する機会が少なくて……
「別に、一人で食えるから」
 そう言って項垂れるシンクレアをよそに、ヒースクリフはサイドテーブルから器とスプーンを手に取る。それからスプーンの柄を握り込むと、器からスープを掬い取って口に含んだ。その一口を皮切りに、ヒースクリフは絶え間なくスープ入りのさじを口へ運んでいく。
 彼は食事の最中スプーンを持つ手で目元を擦ったり、時折鼻をすすったりしていた。だが、それに言及する者はこの空間に居合わせていない。ちゃんと噛んでねというダンテの忠告が入るまで、スプーンと食器がぶつかる音はコンスタントに鳴り続けた。
 食物が喉を通ったことで安堵したのか、スープの味が良かったのか。器の中身をすべて平らげたヒースクリフは見違えるほどに回復していた。何を思ったのか、イサンはヒースクリフの隣に座って彼の頭を撫で始める。
「お味は如何かな」
 ヒースクリフは既に赤くなっている目元を擦ってこくりと頷く。
……うまかった」
「よかった。おかわりもありますよ」
「た……食べる」
 シンクレアはにこりと微笑んで、ヒースクリフから差し出された器を貰い受けると休憩室を後にする。
 それからしばらくの間イサンによって頭を撫で続けられ、ヒースクリフはすっかり落ち着きを取り戻していた。
……ここに来るまで」
 ふと、空いた両手に視線を落とすヒースクリフが口を開く。
「屋敷の物置に閉じ込められてたんだ。多分……二日か三日くらい前から」
 イサンの漏らした小さな驚嘆を聞きヒースクリフは一度彼の方へ視線を向けたが、それはすぐに自分の手元へ戻っていった。彼の独白が始まると、ダンテもまた椅子から離れてベッドの上に腰かける。
「暗くて寒くて、静かで……静かなのはよかった。けど屋敷には、気まぐれにオレを殴りつけるやつがいて」
 シーツの上で彼の掌が固く握られたかと思えば、ヒースクリフの眉間に皺が寄った。
「別に珍しいことじゃない。いつもなら黙っていれば過ぎていった。けど物置の中じゃ、殴られるのも鞭打ちも終わらないから……我慢しても、ずっと……
 ヒースクリフの声が次第に上擦っていく。だがその先の言葉が紡がれることはなく、ヒースクリフは自身の唇を強く噛み締めた。イサンはヒースクリフの頭から手を離すと、彼の拳にその掌を重ねる。そのまま握られた指をひとつずつ解いていくと、彼の掌には己の爪の跡が滲んでいた。
……いかで邸宅に戻らばやと思へる?」
 イサンがヒースクリフの掌に視線を落としたまま尋ねる。暗く沈んだヒースクリフの表情を眺めていたダンテであったが、イサンの言葉をきっかけに彼の瞳が見開かれ、切なく揺れ動いた瞬間をとらえていた。
……キャシーが呼んでるから」
 カチ、と時計の針が軋む。ヒースクリフの唇がその名前をなぞったと気付いた途端、ダンテは思わず息を呑んだ。
「キャシー?」
 イサンがヒースクリフの言葉を反芻する。ダンテは己の背後で、あの邸宅の冷たい風が通り過ぎていくのを感じた。