渡された資料と話を理解し、顔を上げて硝子の方を見た。
「
…彼には、過去のこと聞いたりした?」
「それはさすがにできていない。カウンセリングは専門じゃないし、信頼関係がないと聞き出せないことだろう
…それに、彼が何かを覚えているかどうか
…」
憶えていても地獄か
…。
おそらく発端である発狂の原因、人とコミュニケーションがとれなくなるほどのショック
…簡単には触れられない。
それ以外の部分でもそうだ。
解離性障害という性質上、無理に聞き出せば
…安定化しているであろう彼の状態が悪化でもすれば、一体どうなるか
…。
頭を悩ませていると
…硝子はその問題を脇に置いて、別の事柄に着目した意見を話し出す。
「私の見解としては、この視力の低下は彼の術式によるものの可能性がある」
「発狂は呪霊
…呪い関連によって引き起こされ、それに誘発されて無意識にでも術式を扱えるようになったのだとしたら
…」
「呪いから逃れるために、適応した」
見えるということは呪術師の証のようなもので、呪霊にそれを悟られないようにするには目線を隠すか、無視。
逃れるには
…一般人のように、そもそも見えなくなるしかない。
呪いを見えなくするために、視界を塞いでいく。
…視界をすべてなくさなかったのは、それでは生きていくのが難しくなるからだ。
適応とは、環境に合わせ生きやすくなるための力。
周りに呪いが見えない人間しかいないのなら、それに合わせるのも道理だろう。
視力を矯正するだけのレンズでは、その目に呪いは映らない
…いや。それこそ見えないように、視力と同時に呪力も縛っていったのか。
「
…でもさ、聴力は落ちてないよね?それだと、呪霊の声は聞こえるままだよ」
しかも相当良い。
人との区別は一応ついているようだが、聞こえるのもストレスになっていたはずだ。
「落ちた状態で、常人レベルだったんじゃないか?身体が変化した際に、視力同様回復した可能性がある」
それはあり得る話だった。が、どこか納得がいかない。
彼の反応からして、昔からずっと良かったかのような振る舞いだと思う。
…呪いが見えないよう視力を大幅に失う選択を無意識に行うのに、聴力に関しては縛っていないとしたら。
彼
…彼女にとって、聞くことは失えなかったか。あるいは必要としていた
…?
また考えに行き詰まりが見えて、僕はこめかみに手をやった。
とりあえず、それについては現状で考察を保留にする。
「視力と聴力が戻ったのはいいんだけどさ。なんで呪力ゼロになるまで縛ってるんだと思う?一般人に紛れ込むのなら、ゼロじゃなくても良くない?」
それを聞いた硝子は、考えるように口元へ手をやった。
「確かにそうだな、呪力ゼロは逆に目立つ
…いや、待て。まず蠱毒の影響下にない彼を観測できていない」
蠱毒の影響下にない状態
…つまり、彼がまだ彼女だったころの状態。
そのときに呪力がどのくらいあったのかまでは、誰も窺い知ることはできない。
「
…呪力ゼロになったのは蠱毒の所為、呪いに成りかけだからってこと?」
「もっと言うなら、その蠱毒の気配や影響を抑え込んだ結果なんじゃないか?」
彼が呪法や術式を使うときは、呪力と共に呪いの気配が溢れる。それはつまり、彼の呪力は呪霊としての性質も含んでいる可能性の示唆。
そんな中途半端な気配を垂れ流していれば
…おそらく、呪術師だけでなく呪霊からも目をつけられるだろう。
蠱毒は呪いだが、呪物としても成り立つ代物だ。
…呪詛師や呪霊はもちろん、場合によっては呪術師にとっても垂涎もの。
気配を漏らすより、ゼロのほうがよっぽど目立たず安全じゃあるのか。
そういったことを含めると
…本当は呪力の縛りも、ここまで強いものではなかった可能性があると、硝子は言いたいのだろう。
「仮説だが、辻褄は合う。狙われる自覚があるかはともかく
…蠱毒の影響を受けて危機を感じ、それを抑え込む形で適応した。そう考えるのが自然だろう」
「存在を無理矢理作り変えられそうになれば、そうもなると私は思うがな。それに、蠱毒の方に適応するより、今まで通りでいることを選んだともとれる」
適応しようと思えば、呪いに成ることだってできたはずだ。
だが彼は、それを抑え込もうとしている
…その片鱗を思い出す。
呪法を使ったあと、彼は意識があるのかないのか怪しい状態に陥っていた。
しかし彼が、まるで自分に暗示をかけるように呟くと、そこから一気に存在が安定した。
僕が彼にした質問とその答え
…彼が己であることを強調していたことに、理解が及ぶ。
呪いではなく、呪霊でもなく
…。彼は、俺は俺だ、と答えた。
そんな彼が重要視しているのは、
「自分で在ること
…」
きっと、今までの在り方を優先した。
彼は人格の一つ。しかし、彼自身が人であることは変わらない。
その意識が、彼が呪いに堕ちるのを防いだのか。
無意識下で、そちらのほうが生存率が高いとみたのかもしれないが
…そうだとしても、彼は人間でいることを選んだのだ。
無意識
…?
僕はいつの間にか机から脚を下ろして、じっと考え込んでいた。
呪いから逃れるために、視力と聴力、そして呪力を縛る。
呪いに成らないため、さらに呪力を縛り、自己に暗示をかける。
…これらのことを、知識もなしに行えるのだろうか?
「
…本当に無意識で術式を使ってたのかな」
僕の言葉を聞いた硝子は、何を言ってるんだと言わんばかりの表情をした。
「お前が言い出したんだろ。それに、周りには呪術師もいない環境で、どうやって学ぶんだ?」
彼はもともと、呪術についての知識を一切持っていなかった。
持っていたのは、一般的なレベルのオカルト知識のみ。
呪いや呪力に関しても、全くの無知であった。
それにだ。
師匠となる存在がいたのなら、わざわざ非呪術師に紛れ込むような変化を自らに課す必要はない。
…周りに、同じ視界を持つ人間がいたのなら
…。
手に持った資料を眺めながら、ポツリと呟いた。
それが聞こえなかったらしい硝子は、感心するように言った。
「しかし、彼の母親も剛胆だな。身長が10cm縮んだうえに性別も変わっていたのに、それを受け入れられるとはね」
…書類上の報告だけでは、彼女はそう見えもするか。
僕はそう考えながら、気丈に振舞ってみせていた女性を思い出す。
「戸惑ってはいたみたいだよ。
…それを彼の前で出さなかっただけで」
彼の母親の行動は、最初見たときは咄嗟で動いたみたいだけど
…。彼からそのことを肯定する言葉が返ってきたから、信じられた
…というか、信じざるを得なかっただけ。
それに見た目が母子で似てて、幼くなったくらいじゃ違和感もあまりなかったのかもしれない。
…そして、彼に対する罪悪感。それがあるから、母親は何事もないかのように受け入れてみせた。
硝子の方を向いて、誰にも報告しないでいたことを話し出す。
「僕さ、彼の家に行ったときに、母親から話を聞いたんだけど
…」
僕は見ていた資料と照らし合わせて、そのとき話したことを思い出していた。
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