草木も眠る丑三つ時。全てのものが眠る寂寥とした夜。乾ききった一階廊下に響き渡る水気を含み湿った不気味な足音がエレベーターホールへ歩を進めていく。
重い足取りに合わせびちゃびちゃと濡れた足跡が続き、上から降りてくるエレベーターを待つ足元の水たまりが大きくなっていった。程なくして到着したエレベーターが口を開け待っていたモノを飲み込み最上階に運ぶ。
2階、3階と通り過ぎ高度が上がった景色がエレベーターの扉にはめ込まれた窓ガラス越しに眺め、扉が開くなり湿り気を帯びた足音をさせ4階エレベーターホールに降り立った。
一歩、また一歩。突き当りの部屋に近付くにつれ通り過ぎた部屋の前の廊下照明が掠れた断末魔を上げフッと息絶える。
蛍光灯のピピンッと跳ねる音が泥を踏み締める音に塗り替えられ暗闇の侵略を許してしまう。エレベーターホール、401号室、402号室、403号室と共同廊下の灯りが蝋燭を一本一本吹き消すかのように次々に消えていく。
暗闇を引き連れ酷く緩慢な動きで歩み続け、ようやく目的の部屋に付いた途端、雫をぽたぽた廊下に垂らすモノが噤んでいた口を開いた。
「螟ァ螳カ繧オ繧�」
濡れ鼠になっている身体とは真逆の渇き切った声音。殆ど空気の排出音に近しい声が404号室の部屋主を呼ぶ。
仄暗い期待に満ちた少年の想いは奇しくも愛おしい人間の鼓膜を震わせる事に成功した。
決して浅くない眠りから覚めた東雲の頭は未だに薄靄が掛かっていた。
寝ぼけまなこを擦り大口を開け欠伸をした東雲はベッド横で敷布団を敷き眠り続けているツヅミを起こさぬようベッドから抜け出した。後ろ手で寝室の扉を静かに閉め、大きく聞こえ始めたドアチャイム重奏に顔を顰める。
安眠妨害。近所迷惑。もしくは不気味や恐怖心といった思考や感情そのものを持たない東雲はチャイムに紛れ聞こえる声に耳を傾ける。聞き覚えのある変声期前の少年の声。
正式に入居したマンション住人の呼び声は何処か熱も色もない機会音声染みた無機質さを漂わせている。
「開けテ開ケてアケテアケテアケテアケテ、アケアケケケケ」
東雲以外の者であれば、その異質さや違和感に最大限の警戒心を抱いていたであろう。
しかし、東雲は何の疑問も抱かずフローリングの廊下を裸足で歩き玄関口に向かう。
「ハヤクはやク縺ッ繧�¥」
ぺたぺた歩く足音が扉を一枚隔てた廊下に佇んでいるモノに聞こえているとは到底思えない。
そんな普通ではない状況でさえ東雲は気にも留めずに急かす相手に促され三和土に下り玄関の鍵を開錠した。
ドアの取っ手を掴み静かに開けた先、404号室前の照明だけ不自然に生き残った中、頭の天辺から爪先まで泥濘を被った雰囲気を纏うカミキリが恍惚な表情を浮かべ東雲を澱み切った大きな目に映し込む。
「カミキリさん?」
変わらず東雲は、真夜中の訪問客を訝しげる素振りすらせず出迎えた。その醜悪で穢れ切った姿を目の当たりにしても尚、恐慌状態に陥らず淡々と接する光景にカミキリが目を眇め手招く。
「…いで」
「え? なんて?」
カミキリの言葉が聞き取れず、東雲は耳に手を添えカミキリに顔を寄せた。
聞こえなかったからもう一度。東雲が紡ごうとした要望の言葉は自棄に澄み切った少年の言葉にかき消された。
「僕の愛おしいヒト」
刹那、幼い男の腕が屈み近くなった細い東雲の首に巻き付き抱き寄せる。身構える隙など与えない、東雲ごと自室に飛んだカミキリはくったり糸が切れ倒れ込む東雲を恭しく抱きかかえ寝室へと運んだ。
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