アラームの無愛想な音で目が覚めた。春本番になったといっても朝は冷える。布団の中でもう一度うつらうつらしようとするのをスヌーズ機能は許してくれず、しぶしぶ布団から這い出した。
仕事の早い両親が出かけた後のキッチンで、レンジで温めた牛乳を飲むとようやく少しずつ目が覚めてくる。
窓の外にはもう眩しい光があふれていた。庭の地面はいつの間にか緑色に変わって、隣の家の木から白い花びらがこぼれている。せめて二日前に晴れろよ、とガラスの向こうを睨みつけた。八つ当たりだ。分かってる。
一昨日は中学校の卒業式だった。人生の区切りを祝うみたいな青い空や満開の桜を期待したのに、天気は雨。今年は早いだろうと言われていた桜の花も一つも咲いてない。
それでも普段は着崩している制服を一人残らずぴったり整えて、胸にリボンをつけたクラスメイト達の表情はみんなキラキラしていた。柔道でスポーツ推薦が決まっただいち。海外へ留学するらしいつねや。高校受験なんてゲーム会社へ就職するための準備でしかないとかなんとか言って、ちゃっかり進学校に合格したオダ。逆に偏差値はそんなでもないけど美術部に有名な先生がいるらしい高校へ行くつとむ。みんな卒業後の進路への希望にあふれて見える。
今までは小学校からほとんど顔触れの変わらなかったみんなも、これからはそれぞれの道を歩いて行くんだろうなとどこか他人事みたいに思った。
珍しくみんなより遅れて神杉が教室へ入ってきた。来る途中で他のクラスや下級生の女の子達が〝入り待ち〟しているのを見たから、きっと揉みくちゃにされていたんだろう。卒業式が始まる前にボタンをむしられなくて良かったね、とからかってやると、弱ったみたいに眉を下げて、それから部屋の中を見回した。
「市井さんがまだ来てないね」
「ひめちゃん?女子トイレで髪型や服をチェックしてるんじゃないかな」
「みゆもさっきトイレ行ったけど見なかったみゅん、他の階のトイレまで行ったのかなぁ〜」
それを聞いて、俺にもやっと思い当たるところがあった。神杉が話したそうに寄って来たみゆちゃんを引き受けながら目で合図をくれる。男の俺から見ても本当にイケメンなんだよな。心の中でありがとうを言って教室を飛び出した。体育館へ移動する時刻までもう10分もない。
飛び下りるみたいにして階段を降り、校舎の一号棟を突っ切って二号棟と繋がる渡り廊下へ出た。渡り廊下の脇にある桜の木の下で告白したカップルは結ばれる。そんなジンクスを一年のときから聞いていた。
ひめちゃんはやっぱりそこにいた。雨だから木の下じゃなくて渡り廊下の屋根のある場所だったけど、まだ固いつぼみばかり付けた木に背中を向けて、まっすぐに前を向いて立っている。雨の日なのに服に皺一つ、髪に乱れの一本もない、いつも通りの完璧な姿で。同じくらいに一途な目はきっと誰かを待っていた。
「ひめちゃん──」
そう言ったきり、俺は先を続けられなくなってしまった。1秒でも早く駆け寄りたいのに、さっきまで人生一番のスピードを出せていた足は地面に縫いつけられたみたいに動かない。言いたい言葉が喉まで出かかっているのに、舌が固まってしまったみたいに口の中に貼り付いてる。全力疾走から急停止したせいで、心臓が破れそうに苦しくて鉄くさい匂いがした。
ひめちゃんの待っている相手が自分だったらいいなんて、胸の中で膨らんでいたはずの期待がぺちゃんこに萎んでいくのが分かる。
(市井ちゃん、芸能活動ができる高校へ行くんだって)
(やっぱりねー、そこらへんのアイドルよりも可愛いもんね)
(きっと人気者になっちゃうよ、今のうちにサインもらっとこうかな)
いつかの休み時間に聞いた噂話を思い出した。ひめちゃんは可愛いだけじゃない。しっかり者で頑張り屋だ。本当は勉強あんまり得意じゃないはずなのに、努力して自分のやりたい事ができる学校に合格した。
他のみんなもそれぞれ苦手なことを克服したり、得意なことを伸ばしたりして進む道を決めていくのに、俺は全てを注ぎ込むつもりで応募した動画コンクールに落ちて。どうしても行きたいと思っていた高校にも滑って。この卒業式が終わったら俺、高校浪人だよ。そんな奴学校中探しても他にいない。
できるはずない。ひめちゃんに告白なんて。俺なんかが告白していいはずない。冷たい雨粒が落ちてくる空の色みたいに、心の中が灰色に塗りつぶされていく。
ひめちゃんが顔を上げた。声をかけてからの一瞬で色んなことを考え過ぎたせいで何十分も経ったみたいに感じた。
何十分……そういえば、体育館への移動……。
「もうじき集まらなきゃいけない時間だよ!」
俺はへらっと笑いながら言った。息や心臓と一緒に頭の中までめちゃくちゃになった感じだった。
ひめちゃんは驚いたような顔をしてから「そう」と呟いて、毅然とした態度で俺の脇をすり抜けて行ってしまおうとした。さっきと違って、今度はあっという間だった。
「ま、待って……ごめん!!」
なんでかそれがとても辛くて、俺はひめちゃんの後ろ姿に縋るように叫んだ。さっきから感じているうしろめたさから何とかして逃れたかった。
「ごめん…来たのが俺で。神杉じゃなくて……」
振り向いたひめちゃんの顔に失望が浮かんだ。それに、何かすごく怒っているみたいに見えた。
気づくとひめちゃんはもう渡り廊下に居なかった。花の咲かない木の幹は濡れて黒々としていた。
言えなかった。好きだって。
言えるはずなかった。
ずっとずっと前から、言いたかったひとこと。
とうとう、言えなかったひとこと。
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