つなみ正登/ぱるこ
2024-06-15 08:01:30
17589文字
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きみ呼ばう星 前編(途中まで



 そんな経緯があったのは、思えばもう一年以上も前のことだった。
 あっという間やなあ、と三門に来てから二度目の秋と受験シーズンを迎えようとしている今、改めて水上はしみじみと思う。
「そろそろ行かねーと真木ちゃんにドヤされるわ」
 すっかり色が深くなった、街路樹のアオギリを窓から眺めていた水上は、そんな当真の声に視線を教室へと戻した。
「だったらお開きにしようか。だいたいノルマは片付いた……片付いてないね、当真《トーマ》くん」
 まだ空欄のほうが目立つ問題集をみとがめて、王子はそそくさと立ち上がった狙撃手一位の男の長身を見上げる。
「任務が終わったら、合同訓練があるから荒船にでも頼むわ」
「おめーが一番次のテストでヤベーんだろーが」
「カゲもそんなにひとのこと言えないと思うけどな」
「黙れゾエ」
「オレは分からないところがありそうだったら、今に聞くことにするよ」
「羨ましいな、支部には来馬先輩もいるからな」
「太一にかかりきりになるよ、来馬先輩は」
 穂刈につられたのか倒置法で答えた村上も鞄にノートや筆記具を納めると椅子を引き、彼や当真に倣うように三年B組の教室に自主補習で集まっていたボーダー隊員たちはそれぞれ帰宅の途につくべく片づけを始めた。
 寄せた机を元の場所へと直しながら、北添が思い出したように口を開く。
「そう言えばさ、水上くんって落語好きなんだっけ」
「おん。なんで?」
「いや、この前のうちのクラスの」
 と彼らがたむろしていたあたりから少し離れた席を指さし、
「石川ちゃんって子がさ、そんなこと聞いてきたの」
「ほーん。その子、落研か何かなん?」
「ないぞ、三門一高《うち》に落研なんか」
「なんやろ」
「さあ」と北添は肩をすくめる。
「まー一席打って欲しいいうんなら、やれんことないけど。……男の遊びといいますのは、色んな遊びがぎょうさんありますが、昔はたいがいがこのお茶屋遊びと決まっておりまして、その時分のお茶屋へ行きますと、花代を勘定しますのに線香を使てまして、線香一本消えるのが一晩、二本が二晩、こういう風に言うて時間を計算した言うそうですが、『おい、定吉、こっちおいで』『へえ若旦那』」
「やれるんだ……
「ヤバい、今夜寝たら覚えそう」
「あとで全部聞かせてやろか」
「試験前には勘弁してくれ」
 やや悲痛な声の村上にくつくつと笑いながら水上は細く開けてあった窓を閉めていると、王子がカーテンのゆるんだタッセルを留め直しながら囁いた。
「今日は行ってもいい日?」
「かまへん」
「分かった。ドラッグストア、寄る?」
「まだあるやろ」
「そう」
「なーに、ひそひそ話してるんだ、優等生たち」
「悪だくみや」
 しれっと答える水上の横顔を眺めながら、あながち間違いじゃないなあ、と王子はそんな風に水上の耳に届くようにだけ呟いた。


 去年の今頃はB級中位で競っていた王子隊も生駒隊も、今では双方上位ランカー常連の強豪と言われる部隊に育っていた。A級に指がかかるというあたりで、いささかの想定外の事態――A級上位部隊の降格――が起きて、未だオリジナルのエンブレムを戴くという立場には手は届いていないのだが。
 ともあれ、すっかり定跡になってしもたな、というのが、もう数えるのもバカバカしくなった程度には、己のアパートに馴れた様子で上がり込んだ王子を前にした水上の感慨であった。
「じゃ、始めようか」
 試験に備えての勉強が一段落すると、夏はローテーブル、冬はコタツになっている座卓にあったテキストやノートを片付けて、目の前にいる人形のように整った綺麗な顔の少年は、空いたスペースにふわりとやや厚手の布を広げた。布には九×九の升目が書かれている。いわゆる布盤だ。
 その、幼い頃からずっと向かい合ってきた戦場を目の当たりにすると、自然、水上の背が僅かだが伸びる。その様子を見て、王子はどうしてか目元を嬉しそうにほころばせて、布盤と同柄の巾着からプラスチックの駒を取り出すと、水上が駒山の中から王将を見つけて一番手前の中央に置くのを待ってから、彼もすっかり馴れた様子で玉将を摘まんで自陣の同じ位置に置いた。
「四枚落ちでええか? それともそろそろ香車落すんひとつだけにする?」
「うん、そうだね……三枚落ちで挑戦してみたいかな」
「水上、了解」
 そう答えて、水上は一旦並べ切った盤上から、己の飛車と角と左の香車を取り去った。
 ルールは知っていたけれど、駒の並べ方までは知らなかった王子は最初はチェスの流儀でポーンにあたる歩から盤に置いていたけれど、いつからか水上を真似て王将から置くようになっていた。
 どう置いてもかまへんのやで、と一度水上は言った――実際、プロの棋戦であっても特にルールはなく、お師匠さんに聞いた話だと、昭和の中頃まで江戸時代に家元が定着させた並べ方は忘れられてたという――が、戦いに入る前の儀式みたいで格好いいじゃないか、と子供みたいな理由を王子は主張して現在に至る、というわけだ。
「ところで、さっきのって何?」
「さっきのて?」
「ゾエくんに教室でしてた噺」
「ああ、あれな。『たちきれ線香』や」
 たちきれ線香、と王子は、どこかしらあどけない口調で繰り返す。
「どんな話なんだい。触りで花街の仕来りと若旦那と丁稚が出て来てたってことは、きっとその若旦那が遊び人なんだろうけど、花街での滑稽噺とか?」
 頭のその少しだけの部分でだいたいのアウトラインは察したらしい王子の聡さに、水上はほろりと相好を崩した。
「興味あるんかいな」
「うん」
 目をきらきらさせて王子は頷く。好奇心の強い奴やなあ、といっそ感心する。
「確か文枝のCDになら収録されとったはずやから……持ってきとったかな。あとで見つけとくわ」
「きみがやってくれないのかい」
「俺のヘボい噺でなんか聞くより、ちゃあんとした噺家で聞いたほうが間違いあらへんし」
「えー、きみの語りで聞きたいのに」
「ええから、始めるで」
「はぁい」
 不承不承王子は頷いて膝を改めた。
 翌日や当日に隊の任務もしくは私用がない金曜には、高校で授業が終わったその足で王子が水上のアパートへとふらりと遊びに来るようになり、その次のスケジュールが空いた金曜には、水上が王子の家を訪問する。最近ではすっかり王子の両親も、遠方からわざわざボーダーに入隊してきた水上の身の上をたいそう感心して、来訪を楽しみにしているようで、手作りの春巻や関西風のうどんなどを夜食に用意したりしてくれて恐縮しきりだった。
 そして高校三年となったふたりは、額を突き合せて勉強して、その日のノルマを終えたら、王子の家にいる時はチェスを、水上の部屋にいる時は将棋を一局指して、そして少しばかりの悪い遊び《・・・・》をして、泊まることもあれば、その日のうちに自宅に帰ることもある。そのあたりは曖昧でなりゆき任せだ。
 だが、もうすぐそんな日々も終わる。形ばかりの受験を終えて、次の季節にはたぶん自分たちは同じキャンパスにいることだろう。今のところ自分も彼もボーダーをやめる予定はない。自隊の隊長の生駒や、王子にとってはかつての隊長の弓場たち先人のように、新たな大学生活に飛び込みながら防衛と鍛錬の忙しない日々を送ることになる。そうしたら、この緩やかなルーティンはどうなるのだろうか、と思わなくもない。
 大学生になったら一人暮らしをしようと思ってるんだ。
 初めて王子の部屋に行った時、そう彼は言って、そうしたらこの子も連れて行こうかと思うんだ、と窓辺の鮮やかな緑色の小さな葉がみっしりと繁った観葉植物を見やった。アジアンタムという名前だと教えて貰って、自室に戻った時に何となく気になって調べてみたら、結構育てるのが難しいと知り、こんな方面でも王子は器用で細やかでらしいなあと思ったのは覚えている。そして、この可愛らしく豊かな植物は、運命の人を引き寄せてくれる力を持っている、とも。
 今よりも少しだけおとなの立場になった王子は、この緑が招くかもしれない、今はまだどこかで出会いを待っている可愛い子と今はこうして水上と過ごしている分の時間を送るようになるのだろうか。そんなことをちらりと思った。
 お幸せに、や。
 近くて遠い未来に、水上は心の中でそんな言葉を投げかけてみる。
「お願いします」
 仰々しいとは思われるかもしれないが、テーブルをはさんで対峙したふたりは莫迦丁寧に頭を下げる。
 まずは7六歩で角道を空けるか、2六歩で飛車先の歩を伸ばすか。平手だったなら、の話だが。
 将棋とはこちらになってから、慣れない生活と忙しない隊員としての日々もあって何となく離れていたけれど、色々あった末に王子とこうなってから、また以前よりも熱心に駒を手にするようになった。
 不思議なものだとは思う。
 自分はここでやっていける人間ではないとさまざまなものに見切りをつけ、年齢制限が来る前に師匠に奨励会を退会します、と頭を下げ、そしてやっと次男が将棋にうつつを抜かすことを喜ぶ父親の望むままに地元の進学校に入学したあの頃は、もう二度と携わることはないとまで思い込んでいたのだから。それが、期待してくれた人たちを裏切った償いとばかりに。
 そこそこの努力にそれなりの、しかし世間の基準からすれば十分な成果。それが駒を手放した水上に与えられたものだった。けれど、勝ち負けに追い立てられることのない日常は、思ってもいなかったほどにつまらなかった。
 そして、ボーダーのスカウトに、まあまあなトリオンを生かす道を提示され、そこを新たな盤上にしてみようかと思ったのは、この街で生きる人々には申し訳ないことかもしれないが、退屈しのぎだったのかもしれない。その分役には立ってみせる、という気概はあったにせよ。
 挫折からそういう形で目を逸らしていたことに気が付いたのは、こうして王子と指すようになってからだ。当たり前だが、彼我を駒と見なしたとしても、ランク戦とは別の高揚がそこにはあった。懐かしく、馴れた、それでいてもう遊戯にしか過ぎないけれど、確かに水上の人生の一部がそこにある盤上。
 あれもこれも自分を形作るひとつ、と割り切ってしまえるようになれたと思うと、王子には感謝しかない。
 駒も盤も処分こそしてないものの、実家に置いてきてしまったのだったけれど、いつの間にやら王子の家に、布の将棋盤と駒が一揃い用意されていた。持ち歩きに便利だからね、と水上の家にお泊りに来る時には王子は必ずそれを携えてくる。そういう気楽さも心地良かった。
「みずかみんぐってオールラウンダーだよね」
「ん、何言うてんねん。オールラウンダー寄りなんはどっちかというとブレードも弾も使う自分やん」
「ああ、違うって。居飛車も振り飛車も使うでしょって話」
「ああ、そっち」
「そう、そっち」
 そんな会話を交わしながら、王子は定跡通り、角道を空けて3四歩と指す。水上が歩を摘まんで2六歩と飛車先を突けば、次は4四歩と盤面は進むものだ。もっとも序盤なのにすでに飛車も角も欠けて風通しのいい自陣で、進捗著しい王子の攻勢を受けるにはそうもいかない。
 そろそろ、彼にもこんな安物ではない駒を触れさせてやりたい、と思う程度には。
(退会駒、なァ……
 漫画が映画かそのあたりで見たのかもしれないが、王子は肝心なことは知らないのだろう、と水上は布の上に置かれた三十七枚の駒を眺め下ろした。
「まあ、ええわ」
 その日など来させてたまるものか。あの、盤の上でのたうち回るほどに悩んで、あがいた日々にかえても。
「何?」
「ひとり言」
「ふうん」
(さっさと9筋堅めたろ)
 すかすかの端を狙って飛び出した王子の角を見やりながら、水上は銀将に手を伸ばした。


 そしてこれも定跡だ、と一局指し終えて、駒をしまった巾着の口を閉じた自らの手のひらに重ねられた王子の手を見下ろしながら、水上は軽く息をつく。
 それが嘆息なのか、それとも期待に浮かされたものなのかも、まだ判然としていない。おかしなことに。
……みずかみんぐ」
 その吐息をすくい取るように、王子の唇が水上の唇に触れてくる。唇が緊張で乾燥するから対局の時にリップクリームを塗る名人もいたが、そんなもので保湿しなくてもつやつやふっくらとした王子の唇は女の子のものみたいで重ねるだけで気持ち良かった。残念ながら水上は、女の子としたことなどなかったが。
 さて、王子はどうなんだろう、と思ったが、キスしてる最中にそんなことをその相手に聞く以上の野暮はあるまい。
 ん、と可愛らしい声を出した王子の上唇に軽く噛みついてやると、彼もやり返すように、水上の下唇に歯をあてがった。痛みと気持ちよさの境界線ぎりぎりの、絶妙な力加減は、まるで唇の弾力を味わうみたいだった。
 くっつけるくらいのキスしかできなかった水上に、悪戯するみたいに舌をしのばせてきたり、吐息を絡めたり、深みに誘ってきたのは王子からで、その癖最初に口づけた時には「誰ともしたことなんてないよ」なんて言い張っていた。ほんのりと目じりを朱く染めて。だったとしたら、王子の「研究」はそんな方面まで及んでいるのかと思うと呆れそうにはなった。
 そう、最初のキス。
 こういう言い方をすると言い訳じみているが、誘ってきたのは王子からだった。


 王子からねだられる形で対局して、結果手加減なしに存分に腕をふるった結果は、圧倒的ではあった。
『さすが、一度はプロを目指して、とっかかりまで行っただけのことはあるね。……ありがとう、みずかみんぐ』
 半分以上残った水上のピースを見て、さすがに口惜しさを声ににじませて、改めて王子は握手を求めてきた。
 おとなげなかったか、といささか気を咎めた水上ではあったが、数日後ラウンジで姿を見かけるなり歩み寄ってきた王子は高らかに『時間はあるかい、みずかみんぐ! 今度こそ将棋で手合わせしてくれたまえよ』とかけらも懲りてない様子で声をかけてきた。
 タフで怖じず、挫けず、したたかで、なるほど防衛隊員というのはこういう人種なのかと感心した。
 そして、それから本部で顔を合わせてお互い時間が取れそうだったら申し合わせたわけでもないのに、『どう? 一局』と声をかけ、或いは声をかけられ、生駒隊の作戦室で将棋か、王子隊の作戦室でチェスを指す。お互いの隊員をギャラリーに、ああだこうだと俄か大盤解説をBGMに指すなんて、まだ無邪気に近所の将棋道場に通っていた時以来で懐かしく、愉しい時間で、いつしか水上は王子に感謝に似た感情を抱くようになったのは当然のことだろう。
 作戦室の隅っこにしばらく出番もないままに放置されていた将棋盤で、持ち時間にも差をつけた今よりはるかにハンデをつけた手合い割でよもやま話をアテにしながら指すこと何度目かのことだ。
 その時、たまたま作戦室にふたり以外の姿はなく、隠岐がモテるという与太話から、王子が『みずかみんぐだってモテるでしょ』などと言ったのだ。『クラスの子に、きみに彼女いるかって聞かれたよ、この前』とも。
 いやいやいやモテとるんやったらあんたもでしょうが、というツッコミは取り合えず脇に置いて。
『物好きがおるなあ』と言ってみる。
 正直悪い気はしなかったが、だったら王子経由ではなく直接お伺いしたいところだった。何しろこちとら幾ら将棋が得意であってもモテ要素になど決してならない苦くてしょっぱい秋刀魚のワタみたいな小中学校時代を経て来たのだ。研修会にも奨励会にも女子はいたが、あいつらは基本的に猛獣だ。だいたい、好きな芸能人は? と聞かれたら五代目桂文枝と答えるような男子に女子からの慈悲などまずない。
『そう?』と王子は小首を傾げて、金を斜め上にひょいと動かす。『ぼくは良い趣味だと思うけどなあ』
『褒めてもなんも出んで?』
 駒台代わりのコースターの上の歩を取って、6三に指す。
 すると、王子が小さく「あ」と言った。
 え、と水上が盤上へと視線を落とすと同時に。
……みずかみんぐ、二歩』
 王子の指摘通り、幾つかの駒を挟んだその先、6七に成っていない歩が鎮座ましましていて。同じ筋に歩を指してはいけない、という初歩的な反則をやらかしたことに気づいた。
『ぎゃー』
 盤外戦術にやられた、とぴしゃりと額を叩きながらぼやくと、そんなんしてないよ、王子は不満そうに唇を可愛らしく尖らせた。
『あ、悪い』
『悪いと思うなら、そうだ』
 何か思いついた顔で王子は膝で水上ににじり寄る。こころなしか嫌な予感がして水上の腰が引ける。
『みずかみんぐ、キスしたことある?』
『あるかい。モテたことなんかあらへん言うとるやん』
『奇遇だね。ぼくもね、実はまだなんだ』
『嘘言いなや』
 こんな人形みたいな顔した綺麗目男子を、女子が放っておくわけがあるものか。
『嘘つきはみずかみんぐの十八番でしょ。ぼくはそういう戦術は不得手なんだよね。嘘じゃないよ』
『せやったら何』
『キスしない?』
『はあ?』
『だって楽しいと思わないかい』
 ブロッコリーに大量のはてなマークを浮かべている状態の水上に、賢さが丁寧な造りのお顔にも反映されている王子は、心から楽しそうに告げる。
『きみのこと好きな子がいるってことは、みずかみんぐが告られたりするかもしれなくて、きみは意外と人が良いからうっかり付き合い始めっちゃったりする可能性なくない? だからその前にきみのファーストキスを横取りするのって楽しそうだなって』
 なんやねん、その理屈。
 それと、「意外と」で悪かったな。
 人の、ファーストキスと交際の機会をポイントみたいにかっさらって何が楽しいのだ。王子こそ理屈にすらなっていない欲張りではないか。
 それでも、むにむにと悪戯めいた笑いを堪えきれていない風情の唇が可愛いとは思ったのだ。
 あの一瞬の気の迷いこそ、敗着だった気がする。
 ええか、キスくらい、などと思ってしまった。皮膚の一部と一部がくっつくだけのことで、その温度とか感触とかがどんなものなのか知るのもおもろいやん、などとも。
『ホンマに、王子もしたことあらへん?』
『ないよ』
『せやったら、これは『平手』やな』
 せっかくキスするのにその言い方、と小鳥が囀るみたいに笑いをこぼす王子の肩を掴んで顔を近づける。長い睫毛がくっつきそうだ、と思ったあたりで王子がちょっとだけ視線を揺らしてから瞼を伏せた。かすかに唇が動いたような気がしたけれど、しかしすぐに笑みを含んだように柔らかく軽く閉じられ。
 その唇に触れる刹那、ちょっとかさついた自分の唇が申し訳ない、などと場違いな感想を抱きながら水上は、同い年の男子相手に作戦室なんて即物的な場所で、記念すべきはずの初めてのキスをすませてしまったのだった。
 王将さまが見てる。
 などとふざけた言い回しを頭の片隅に過らせられたのは、今にして思えばまだ余裕があったのだろう。
 顔を離した時に、色白の王子の頬やまなじりがうっすらと赤く染まっていて、ファーストキスを横取りしたいなどと抜かした彼も、本当に「まだ」だったのかと改めて思ったりはしたのだが。そして水上が触れた己の唇を、まるでその感触を辿るようにそっと伝わせた指先の意図は分からないままで。
 不完全燃焼だからもう一局どう? と王子は水上の失態である歩の駒を自陣に戻しながら提案する。
『時間ええなら構へんけど』
『明日は任務入ってないよ。生駒隊《そっち》は?』
『こっちは午後から会場の警備だから空いとる』
 順位戦でもあるまいし、今から指し始めて深夜になることもあるまい。それに、一人暮らしの気安さで水上は何時に帰ろうが問題はない。王子は知らんが。
 じゃ指し直し、と言いかけた王子は、そうだ、と再び何か思いついたように声を上げた。
『始めて指した時みたいに目隠しでやってよ。それで、ぼくが勝ったらみずかみんぐからキスしてよ』
『今したやん!』
『それはそれ、これはこれ。さっきのはお詫びだよ。今度のはご褒美』
『褒美になるんかいな。……俺が勝ったら?』
『幾らぼくがそこそこ指せるようになってきたからって、目隠ししようが駒落とそうがきみがまず勝つに決まってるじゃないか。……分かったよ。晩御飯奢る』
 詰るようなジト目に王子は降参とばかりに両手を上げて妥協した。
『中華がええなあ』
『美味しい台湾料理屋知ってるよ。ちょっと本部《ここ》からは歩くけど』
『頭冷やすにはちょうどええわ』
 その時はどっちが勝ったのかは覚えていないが、鼻歌を歌いそうな風情の王子と並んで、わざわざ警戒区域を抜けるルートで飯屋まで歩いて行ったのは覚えている。防衛任務中の諏訪隊と途中で出くわして、笹森に『何処行くんですか』と声をかけられて言うに事欠いて『ご飯デート』などと王子が返したのも。
 尚、王子お薦めの店は、小籠包もおこわも牛肉麺もごっつ旨かったです。
 というのはさて置いて。
 くっつけるだけのキスがどっちからそう仕向けたのはもう覚
えてないが、べろちゅうになったあたりでこのまま作戦室で続けるのは不味い、と我に返った。イコさんあたりに見られたらきっとあの人のことだ、悪意はなくても大騒ぎして、世間的に頓死する、と深い交歓で濡れた王子の唇を見やりながら、すーっと冷や汗が水上の背中を伝い落ちた。
 という経緯を経ての、互いの部屋での逢瀬もとい対局だ。しかし場所がよりプライベートになったからなのか、いつの間にか勝敗に関係なくキスをするようになり、そのうち子犬がじゃれるように抱き着いたり、床に転がったり、首筋に噛みついたりしているうちに、いつしか服をはだけてさせて直接肌の熱を追い、要の部分にたどりつき、快楽を互いに灯し合い、ふたりで吐き出すような行為に耽るようになるまでは、そうたいしてかからなかった。冬に合わせた唇は、春には肌に置かれ、引き寄せた手が互いの要に触れる頃には夏がやってきた。
 解せぬ、と思ったにしても手遅れ過ぎた。他人の体と情熱を分かち合う心地好さは水上の、そして王子のような人間にとっても、溺れるほどではなくてもやんわりと捉われてしまう程度に抗いがたいものがあったのだろう。
 だから、こんな好奇心から始まっただけの不埒な関係がだらだらと継続しているのだ。
 けれど、そろそろ「形作り」は必要なのではないかと、人生のひとつの関を控えて、お互いの為に思いもしているのだ。いるのだが。


「やっぱり、そろそろ終わりそうだったじゃないか」
 そんなことを言いながらバスタオルを敷いた上に膝をついた王子から、その手にしていたピンクのボトルを受け取る。
 掌に垂らしたローションは一瞬だけ冷たさを伝えたけれど、すぐに体温によって温まり、何度も交わしたキスによって既に芯が生まれて、頭をもたげていたペニスに丁寧に伸ばしていく。それを待ちかねたように、王子もすっかり天を仰いだ自らのものに手を添えて、しとどに濡れそぼった水上のものと重ねて握りこんだ。
 感触と視覚で既に覚えてしまった王子の欲の形に、水上は自嘲するように口唇を緩めた。
 ゆるゆると王子の手が動き出し、ぬちぬちと湿った音が重なったふたりの体の狭間から奏でられる。揺れる腰と、忙しい呼気。ときおり王子は淋し気な子犬のように鼻を鳴らす。
 ベッドの隅にころりと横たわったローションの瓶の中身は先の王子の言葉通りもう殆ど空になってしまっていて、それが繰り返された行為の数を雄弁に証明していた。
「ン、ん、く……ぁん」
 綺麗に整えられた桜貝みたいな可愛らしい爪が飾られた王子の指と、握りこまれた重たい色をしたふたつの昂ぶりのコントラストも、その綺麗な手をにじんで垂れたふたりの先走りの雫が濡らしているさまも、いつ眺めてもどこかしら倒錯的だった。
 ふたりだけが知ってるいけない遊び、と言えば、牧歌的ですらあるのに。
……ん、ふ、ぅ、く、んっ」
 伏せがちの王子の瞳は、長い睫毛がかぶさっていることもあって果たして己の所業を見つめているのかいないのかも分からない。乱れてこぼれる吐息や、頬や首筋の赤らみだけが王子も心地良さに浮かされていることだけは伝えてくる。
 二柱を咎める、なめらかなようでいて、歪でもある王子の所作。しかしそれがあえて律動を外しているのをもう水上は知っていた。次はこう刺激される、という予想を逸らされ、想定の外からくわえられる愛撫はより快楽をかき立ててくる。
 もどかしさとじれったさ、「詰めろ」から逃れるように、いつまでも吐精の手前で楽しんでいたいなどという気持と、しかし体は遂情を求めてもがき始めていて、頭の奥のほうがじんとしびれてくる。
「おーじ」
 名を呼ばれて、のろのろと王子が顔を上げる。その王子の頬に手を寄せて、唇を強く吸う。引き寄せられた舌をたっぷりとねぶってやると、王子が苦しそうに軽くその柳眉をひそめながらも口を緩く開いたまま、水上を見つめる。くつろげたままの王子の口の中の粘膜が何度となく交わした貪り合う口づけのせいだろう、赤くただれたように熟していた。
 聡明な王子がこんな場以外では絶対に見せない――水上の網膜だけが知っている淫蕩な風情。
(蔵っちもこんな王子知らへんのやろな)
 王子にとっての蔵内は、つまりは生駒にとっての水上のような存在であって、立場は入れ替わっているが、今自分たちが所属している場所の長と、その片腕という関係だ。
 腹心であろうとも、知らない、知らせていないものがあるのは、ちょっとだけの罪悪感とろくでもない優越感がなくもない。けれど、この関係が、B級トップチームとしてしのぎを削る隊のメンバーとしての立場に影を落とすことはないことだけは保証できる。口には出していないけれど、それはふたりの間の暗黙の了解になっている。
 むしろこうなってから、より厳しく激しく、ふたりはかりそめの身と空間で容赦なく斬りあい、殺し合っている。盤上のように。
 万が一この関係が外に漏れたとしても、絶対に誹られてたまるものかという、水上なりの矜持、というよりは意地がそうさせていた。たぶんそれは王子も似たような心持ではないだろうか。そうだったらいい。そうだと、いい。
 はだけた王子のシャツから、汗ばんだ肌でそこだけほの朱く色づいた一対の蕾が垣間見える。王子にだけ自慰を任せたままで、留守になっていた手をそこへと伸ばす。肉の柔らかさに強張りをまとった、つつましやかな乳首を指先で摘まむと、王子はいやいやする子供みたいに首を振った。こね回し、圧し潰し、再び形を整えるように指の腹で挟んでやると、王子の口がだらしなく開いて形にならない声を綴った。
 視覚と聴覚と、そしてそんな態になっても自らと水上のペニスをなぶる手をやめない触感とで、解放を待ち侘びている水上の屹立が一際疼く。根際から熱の塊がせり上がってくるようだった。
 自らの体の一部なのに、そこだけまるで火がついたように熱く感じる。
「もう辛抱できんやろ。ええで」
 むきだしになった敏感な肉の芽を、ぬるつきをまとった指の腹で無遠慮にこすってやる。ひゅ、と王子が小さく息を呑んで、「や」と悲鳴のように細い声を上げて、握る手の力を僅かに強くさせる。
「イヤちゃうやろ?」
「そ、ういう、の『いけず』って言う、んじゃ、ないの?」
「どうやろな」
 涙のように顎まで伝い落ちる王子の汗を、舌先ですくい取る。
 急く呼吸とむせるようなふたりの体臭と熱はもう治まることもなく。行くところまで行くしか逃すすべはない。
「王子、もっと強く握って」
 王子の手の上に自らの手を添えて、耳元で囁く。
 うん、と顔に似合わず曲者の王子には珍しく、妙に殊勝な様子で頷いて、掌の中で脈打つふたりの性器をうっとりとしたまなざしで見下ろす。
 水上は王子の手にかぶせるように、自らの片手も重ね上下させる。
「気持、い、い」
 水上も声にしないだけで、自然と腰が揺れるのが止められない。
 牡の本能なのか、まだ他人の身体の内奥《なか》と交わることを肉体としては知らないのに、目の前の肢体を大きく突き上げたい、突き上げて、泣かせて、しがみついてもらいたい。そんなことを熱に浮かされた頭で切望した。
 彼がどんな顔で受け入れるのか、その時はどんな嬌声《こえ》を上げるのか。切なく、自分の下で身悶えるのだろうか。
 或は、自分ではなく、知らない場所知らない誰かと。
 その可能性だってあるのだ。
 この一瞬はちっとも永遠じゃない。
 何もかもがあかん、と水上は王子の手を乗り越えて、一際強く扱き上げた。突き上げるものに抗うこともなく、疾く、激しく。
「みずか……んん、ぅっ」
 ぴくぴくと脈打ったふたりの若さは、ついに。
「う……っ」
 小さく呻いた王子は、悟った水上が覆った手のひらに情欲の終を放った。続いて、水上も弛緩した掌の輪に導かれるように吐精する。
 すき、とかすれた悲鳴みたいに喉を鳴らした王子が言ったような気がしたけれど、それはきっと気のせいだ。
 感情なんて伴っていたら、とてもではないけれどこんなこと続けてなんていられない。遊戯の果ての残滓の火照りを解消する為だけの、ただの相互自慰にしか過ぎない。
 甘ったるい気持から始まる繋がりなんて、もっと持久戦みたいに、序盤からゆっくり進むものだから。
 けれど、腹の底のほうからこみ上げる何かが水上の腕を、くったりと力なくもたれかかった王子の背中へと巡らせ、支えるように抱き寄せた。
 にじんだ汗が、王子の伏せられた長い睫毛にたまって、まるで涙みたいににじんでいた。巡る熱に赤く染まったまなじりに、遂情の余韻にせわしく息を弾ませるその唇に、自分の唇をなだめるように当てがったのは、たぶん、放ってもまだ尚ふたりの間にたゆたった熱のせいに違いない。
 たくさん出たね、と水上の肩口に額を置いたまま王子は囁いた。実際のところ吐精の量の多寡がどんなものかは知らないが、彼が言ってるのならそうなのだろう。
「ランク戦あったし、しばらく会わへんかったからな」
「ひとりで済ませたりしなかったの?」
「まあ、それなりに」
 カノジョでも出来てええことしとるとか聞かんのかい、ワレ。
 他人の手の気持よさを知ってしまうと、自分ひとりでのフィーバーにいささかの物足りなさを感じるようになったことは絶対に言うまい、と水上は自らの胸に誓う。
「ねえ、みずかみんぐ」
「なんや?」
 水上が引き寄せたティッシュボックスから数枚抜き取って、二人分の体液で濡らした掌を拭いながら、王子は尋ねる。
「ひとりで抜かなくて済むように、もっと会う?」
「何アホなこと言うとんや」
「アホなことかな」
 ぼくは構わないけどな、と王子はその形のいい鼻先を、すん、と軽く鳴らしながら囁いた。。
「これくらいがええ」
 きっと勘違いしてしまいそうになってまうから、という言葉の続きは唇だけで綴る。
「そっか」
 残念、と王子は裸の肩をすくめた。
 残念なのか、と水上はオウム返しで応じると、うん、と王子は頷いた。
「きみとこうするのは気持ちいいもの。きみは違うの?」
……ようなかったら続けてへんわな」
「だったらさ、ここまでじゃなくてもっと先まで行ってみたいと思ったことない?」
 先、ねえ、と水上は王子の言葉の意味を咀嚼しながらも、飲み込まないようにしつつ答える。
 未知の領域まで進むことを臆さない冒険家のようなキラキラした目を見ていると、目が眩みそうになりそうだった。
「ちょっとおっかないかな」
「おっかない?」
 挿入るにせよ、挿入れるにせよ、繋がるという行為は何かを飛び越えてしまうような気がして。
「戻れんくなりそう」
「大丈夫だよ、きみなら」
「そうかあ?」
「香車だって成ったら下がれるんだし」
「何やその理屈」
 くくく、と水上は喉で笑う。
「せやったらチェス派の王子の引き時は?」
「当ててみなよ」
 ぺろり、と王子は唇のはざまから小さく舌先だけを覗かせた。
 悪い顔やなあ。
 美人やねんけど。
 その小憎らしい舌先を指で、くい、と引っ張ってやると少しだけ王子はその綺麗な顔をしかめさせた。
 そんな面をしても見ごたえがあるのだからまったく困ったものだった。誰が困るのかは知らないが。
「次のランク戦、カゲくんのところもB級に降りてきたし、楽しみだね」
「じぶんのそういうところ、ほんまえらいわ」
 二宮隊に続いてA級中位部隊の降格など、上を望む自分たちにとっては厄介以外のものでもなかろうに。
「強い相手と当たるのは望むところだよ」
 舌を摘まんだ水上の指先に痛みを覚える程度に強く歯を立てて、彼は挑発するように囁いた。
「知っとる」
 水上の答えに、王子は猫科の禽獣が狙いを定めたかのように、目を細め、歯をあてがった指をうっとりとしゃぶるように舐めてみせた。淫蕩さと剣呑さのはざまでたゆたうにも似て。
 そして、きっとこの顔も水上しか知らない王子の表情《かお》だった。
 それを優越と感じさせる心情が、どこに由来するのかに、未だ目隠ししたまま。