つなみ正登/ぱるこ
2024-06-15 08:01:30
17589文字
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きみ呼ばう星 前編(途中まで


「ぼくが勝ったら、みずかみんぐが奨励会時代に使ってた何かをひとつ欲しいな」


 王子などという苗字に実に相応しい、ノーブルで整った顔にそんなことを言われて、水上は一瞬だけ見惚れそうになる。
 つややかなブロンズ色の、はらりと一筋だけこぼれた前髪までオシャレやな、と今期すでに数戦ぶつかった最中には気づかなかったことまで、対照的なもっさりとした赤毛の男は気が付かされた。
 個人ランク戦のフロアで生駒隊の面子と、太刀川対弓場というトップランカー同士の対戦《ゴールデンカード》を大モニターで眺めている最中だった。
「弓場さんが太刀川さんの旋空を牽制するには、やっぱりののさんのオペが必要だと思わないかい?」
 そんな風に話しかけてからの、きみって奨励会員だったんでしょ? という何の脈絡もない問いかけだった。
「あー、王子《オージ》クンだっけ。なんやねん、その呼び名は」
「ぼくがつけたあだ名だよ。気にいってくれると嬉しいな」
 水上が所属する生駒隊より1シーズンだけ先に結成された隊の隊長は、悪びれもせずしれっと答えた。
「それと、くん、付けはいらないよ。王子で。ぼくもみずかみんぐって呼ぶから」
……
 同じ高校の同級生ではあるが、クラスは別でひとつ離れているせいで合同授業はなく、水上自身もまだこちらに来てから半年ほどでこの生活に馴れていないこともあって、顔や簡単なプロフィールこそ知っているものの、ランク戦の場以外での付き合いはまだほぼなかった。
「こういう奴で悪かったな」
 その傍らに立つ蔵内のほうが、同じポジションなだけあってまだしも交流があるくらいだった。
「あー、せやったら、王子、ようそないなコト知っとんな」
 やっぱりそうだったんだ、と、王子は掌を軽く打ち合わせた。
「ぼくの父の知り合いに、将棋が好きな人がいてね。広報サイトで見て、奨励会員にこんな名前の子がいたって言ってたんだ。きみが指すっていうのはクラウチから聞いてたからさ。もしかして、と思って」
「ほー」
 父の知り合いとやらがどういう人物かは知らないが、史上五人目の中学生プロ棋士の誕生や永世七冠の国民栄誉賞の受賞もあって今でこそ将棋は世間ではそれなりの話題になっているが、プロ棋士養成機関でもある奨励会――正確には新進棋士奨励会に所属しているひよこにまで目配せしているというのは意外だった。棋戦の記録係などで映ることもある三段とかならともかく。よほどのマニアなのかもしれないが。
 だが、ましてそれを聞かされたとはいえ、そんなに付き合いはまだない王子がとなると尚更だった。
 いぶかしい気分が顔に出たのだろう、王子は水上が口を開く前に続けた。
「ぼくはずっとチェスをやってきたんだ。きみも分かるだろうけど、システムが似てるから少しだけなら将棋も指せる。だから一度強い人と指してみたくて、前からみずかみんぐに一戦申し込もうと思ってたんだよね」
「ええけど、高いでこいつ」とひょい、とずっと興味深そうに経緯を眺めていた生駒が横からくちばしをはさむ。
「いやいや何言うてんの。はいはい、あっち行ってカゲとでも遊んできてもらってくださいね~」
 自らの隊長を個人戦ブースに邪険にも押しやって、水上は改めて王子に向き直ると、彼はどうやら本気のようだった。
 少女めいた愛らしさすら備えたおもざしの、しかし長い睫毛に縁取られた碧眼は、しかし青白い焔のように峻烈な気配を漂わせていた。
 かつて弓場隊で隊長である弓場と共に最前線でライバルと果敢に切り結び、今では自隊を率いてB級を駆け上がった新進気鋭の部隊の隊長の――自尊を携えた強者のまなざしだった。
 ぞくり、と水上は震えた。
 強いものと闘いたいという、幼い頃から盤の上で戦う日常を送ってきた水上の本能が腹の底から刺激される。
 けれど、それでも水上の冷えた理性は、まがりなりにもプロ予備軍だった自分と、どんなに冴えた頭脳と戦局を見渡す目を持っていたとしても彼とが互角の勝負へと持ち込めるはずもないことを予測していた。
 もっとも、本当に水上が奨励会上がりだということを知っているのだとしたら、王子とて承知のことだろう。
……ええで」
 水上が答えると、「本当?」と王子は心中はどうあれ、ぱっと無邪気に微笑んでみせた。
(曲者《クセモン》やなあ)
 そんなことすら水上は思う。いっそ好意すら持てそうなほどだった。そういう奴はごまんと見てきて、その中でずっと揉まれてきた水上にとっては。
 己の才能と努力を疑わない傲慢で、そして健気で、果敢な魂。
 もしかしたら、自らが折れることなど、考えもしていないかもしれない。だとしたら、なんて羨ましく、疎ましい。
「せやけど、俺、マジでこっち」と指先で駒をつまむ仕草をして「は強いで。そっちかて最初からろくに分がない勝負はつまらんやろ」
「そう? だったらあんなことにはならないと思うけど?」
 王子はちら、と顎でモニターを指し示す。弓場を退けた太刀川に、今度は自隊の南沢が対戦を申し込んでいた。攻撃手ランク一位の弧月の男は、気安くそれを受け入れたようだった。
「あのアホ、今、自分が八千点《マスタークラス》までもうちょいなん分かっとるんかいな。こないだかて米屋にジャレついて、結構削られてたやろ」
 奨励会時代、弱い奴と当たると鈍るからイヤだ、と言っていた奴を思い出すが、そんなことすら及ばないほどの強さというものはある。それで鈍るとしたら自分の研ぎ方が甘いからやろ、と太刀川などを見ていると、水上みたいな男ですらそう思う。
「彼にとってはポイントとかランキングなんて些細なことなんだろうね」
「やろな。そういう奴は強うなる。ま、お調子者の性格はどーもならんが」
「で、お調子者じゃないみずかみんぐは、つまらない勝負は気が進まないってわけ?」
「分かっとる勝負は確かに面白うないわな」
「言ってくれる」
 ふふ、と王子は優雅に笑みを浮かべる。
 こてんぱんにされたらその顔がどうなるか見たい、と水上は思ってしまった。
「ええ言うたやろ。俺が言うたんはそっちの問題や。俺はかまへんけど、そやな、ハンデくれたる」
「ハンデ?」
「こっちが目隠しで指す」
「え?」
「目隠しで百手くらいならアマかてやれる」
 とは言っても全国大会トップクラスではあるが。
「それから将棋やのうて、王子隊長の得意なチェスで。そっちに駒を落す手合い割はあらへんから、せやな、持ち時間に差ァつけよか。さすがに対局時計は用意でけへんやろから、フィッシャーモードはなしで。ラピッドやブリッツ言うたっけ」
「詳しいね。……ブリッツが十分以下の持ち時間だよ」
「俺は五分でええ。王子は大会とかでようある持ち時間のままで。それくらいならええ勝負になるんちゃうかな」
 生駒隊参謀の声音も表情も常のようにとらえどころのないものだったが、そこに挑発の意は確かにあって、それに気づかない彼でもないだろう。
 だが王子は水上の申し出に一度は軽く目を見開いたものの、ありがたいねと応じると、かんばせを彩った笑みを一際鮮やかに花開かせた。
「だったら、もしぼくが勝ったら、みずかみんぐが奨励会時代に使ってた何かをひとつ欲しいな」
 ちょっとばかりの驚きを呑み込んで、水上はのんびりした口調で返す。
「ほーん。真剣は初めてやなあ」
「真剣? え、真剣に指してくれる気がなかったの?」
 不満そうに尖らせた王子の、男のくせに愛らしい唇に、誤解が生じていることに気づいた水上はひらひらと掌を泳がせた。
「ちゃうちゃう。真剣言うのは賭け将棋のことや。真剣師言う言葉もあるねんで。まあ大体は銭賭けるんやけど。一応表向きには連盟に所属しとる棋士はそういうことせんことになってるけどな」
「ふうん、一応、ね」
「ま、対局終わった後の飯とかコーヒーくらいなら遊びで賭けたりはしてるかもしれへんけど。俺はしたことないな。中学生やったし」
 手にしていたドリンクカップを振りつつ水上は、
「ハンデつけた以上、手抜きなんてせえへん。全力で潰す気でやる」
 指導ではなく、対決の場に赴く者と場へのそれが最低限の礼節だ。
「全力で」
「ああ。免状でもはじめてあつらえた扇子でも何でもくれたるわ。――どうせもう使うところなんてあらへんから。なんかリクエストある?」
 だったら、と王子は少しだけためらってから、しかしきっぱりと口を開いた。
……退会駒」
 蒼い焔を揺らめかせていた王子の目が、それこそランク戦で隙を見せた相手にスコーピオンを向ける瞬間みたいに、ひときわ鋭い光を閃かせた。
「え?」
「奨励会を辞める時に、初段以上の会員は駒を一揃い贈られるって聞いたことがある。それを強請るのはさすがに強欲かな。関西奨励会俊英の呼び名も高い御勅使八段門下水上初段?」
「俊英だったかどーかは知らんが、もうそいつはこの世におらんな。ここにいるんわ、ボーダー所属B級生駒隊射手水上敏志や。……どっちみち負ける気はないからな。かまへんけど」
「だったら約束」
 と王子はにっこり笑って、右手の小指を突き出した。
「あと、王子隊長はやめてよ。王子でいいよ、みずかみんぐ」
 指切りげんまんて。小学生か。ホント調子狂うわ、と思いながら、水上は律儀にその王子の小指に自分の小指を絡めてやった。
 はじめて生身で触れた王子の手は、少しだけひやりとしていたけど、トリオン体では持ちえないほのかな体温を帯びていた。


 そして水上は審判代わりに蔵内まで巻き込み、宣言通り、ステイルメイトにも持ち込ませず、王子のキングを詰ませて終わらせた。
 だから、王子と指すのはそれきりだと思っていた。