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君とワルツを 1
小さなヒースクリフとの邂逅。しばらく続きます。
メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。
1
2
色のないT社の巣では、夜と朝の境界すら曖昧だ。
天上で瞬く星々は工場から絶えず吐き出されるスモッグで覆い隠されている。この巣に留まること数週間。代わり映えのしない空の色に退屈し始めているダンテは、いつしか無自覚に習慣と化していた何気ない天体観測にすら意味を見いだせずにいた。
そんな味気ない夜空を、ヒースクリフは最後列の席に座って見上げている。分厚い雲の層を窓越しに眺めて、何も見えねえな、と呟いた。
有り体な感想だがまったくその通りだとも思う。誰に向けて言ったわけではないと知りながら、ダンテは同調する言葉を返した。
ここに長く留まる者はいつしか空を見上げることすら忘れてしまい、ここで生まれ育つ子供は星と星を結んだかつての賢人を知らぬまま老いていくのだろう。何より煙に邪魔されないような、都合の良い高台が見当たらない。例えば、せめてあの丘の上から覗くのであれば
――
否。それができるのであれば、きっとあの荒野はワザリング・ハイツの名を冠することなどなかった。
ヒースクリフは頬杖をついてダンテの座る椅子へ視線を送る。目が合ったと思った途端にその視線は外れ、再び窓の向こうにある景色に奪われてしまった。
「それが当たり前だと思ってたんだ。この巣を出るまでは」
ヒースクリフは明後日の方を向きながら、またぽつりと呟く。窓に映りこむ彼の表情は乏しく、街を覆う煙によって暗い影が落とされていた。だがその瞳はここにはない何かを探し求めているようだった。まるでポラリスを見失った旅人のように。
きっと彼の心は未だワザリング・ハイツの淑女に囚われたままなのだ。そしてその人を世界から切り離したのは、他でもないダンテ自身だ。だが、その苦味は未だ記憶に新しい。
今やヒースクリフの孤独を知るのは管理人であるダンテただ一人となってしまった。星の標を見失った旅人に、果たして出口は与えられるのだろうか。ダンテは未だ、ヒースクリフの孤独への寄り添い方を間違えることに怯えたままだ。
「もう寝るのか」
ダンテは組んでいた腕を解いて徐に立ち上がった。その物音で、今度こそヒースクリフはダンテの方へ向き直る。彼の瞳に、煌々と揺らめく炎が反射した。
〈寂しくない?〉
「餓鬼じゃあるまいし。とっとと寝ちまえ」
ヒースクリフはぶっきらぼうに言い放った。それもそうだね、とダンテは小さく微笑む。
〈そうするよ。悪いけど後は任せてもいい?〉
「ああ。
……
ちゃんと見張ってるからよ」
〈分かってる〉
頼りにしているよ。そう付け加えて、ダンテは自分の部屋へ戻っていった。
夜風がメフィストフェレスの輪郭をなぞるように吹き抜ける。今日の不寝番が体を冷やさないといいけれど。
君とワルツを
身支度を整えて自室を出たダンテが最初に出会ったのはグレゴールだった。
グレゴールは自室のドアの前で大きく背伸びをし、それからダンテを見つけるとへらりとはにかんで見せた。
「よお、旦那。今起きたところか?」
〈そんなところ〉
ダンテは曖昧に返事をして頷く。その間に目の前に立つ囚人の身だしなみ、肌、表情や目元など、点と点をなぞるようにして観察する。昨夜はきちんと眠れたらしい。彼の精神状態は良好だとダンテは結論付けた。
「昨日の不寝番はヒースクリフだったな。早く寝かせてやらねえと」
不眠の彼を労わってか、あるいは睡眠不足の八つ当たりを避けるためか。恐らくそのどちらともが彼の言葉の意図するものだろう。その証拠にグレゴールの口元はシニカルな弧を描いている。ダンテはふふ、と笑みをこぼすと、グレゴールに続いて皆が集まる座席の方へと歩き始める。
ドアを開けてみると、予想通り既に何人かの囚人が集合していた。
ふと、ダンテの先を歩いていたグレゴールが彼らを見て訝しげに「何かあったのか」と言う。どういうわけか囚人たちは皆一様に立ち上がり、それぞれ何か話し込んでいる様子だった。
「
……
ヒースクリフさんが行方不明なんです」
グレゴールに返答したのはイシュメールだ。彼女は溜め息交じりにそう言うと、昨日までヒースクリフが座っていた席に目を落とす。すると、当然そこにあるはずのヒースクリフの姿が見当たらなかった。
イシュメールが言うには、自分の部屋に戻っているわけでもないらしい。浴室やキッチンにいる様子もなかった。
よもや奇襲に巻き込まれて命を落としてはいないだろうかと、ダンテはPDAを取り出す。しかし目立つ異常は見つからない。ただ幸いなことに、ヒースクリフの生存だけは確認することができた。
囚人の誰かが役割を放棄したのだろうかとぼやく。だがそれは推測というより憶測に近く、またそれに同調する素振りを見せた囚人はいなかった。彼が無責任に役割を放棄する人間でないことは他の囚人も、そして誰よりダンテ自身もよく理解していた。ましてや昨晩のそれは自ら志願した役目であるから尚更だ。
いよいよ騒ぎになりだしたところでバスの乗車口がひとりでに開く。
この場の誰もがヒースクリフの姿を思い浮かべたが、バスに乗り込んできたのは案内人であるヴェルギリウスだった。
「ヴェル? どうしたの、こんな朝早くに」
先ほどキッチンから戻ったばかりのロージャが思わず、といった様子でヴェルギリウスへ声をかける。
「
……
外が騒がしいと思ったら、こんなものが転がっていたんでね」
ヴェルギリウスは眉間の皺をいっそう深くさせ、大きく溜息を吐いた。それは怒りや苛立ちとは違う感情から出たものだったようで、彼の視線は自身の足元へ落ちる。そこにはヴェルギリウスの左腕を控えめに掴む子供の手があった。囚人たちは座席の裏にいる何者かの正体を確かめようと徐々に集まり始める。
あ、と声を溢したのはシンクレアだっただろうか。ヴェルギリウスの脚に隠れるようにしてこちらを伺う子供には、囚人たちのよく知るヒースクリフの面影があった。
さらに驚くことに、子供は額から血を流している。それは止めどなく流れ出ているように見えたが、子供は他人事とでも言うように痛がる様子を見せない。ただ自分の姿を覗き込みさまざまな反応を見せる大人たちを、微動だにしないまっすぐな瞳で見つめ返していた。
「ファウストさん」
「ええ。救急箱はこちらに」
ファウストは何かを予期していたのか、あるいはそう振る舞っているだけなのか、囚人たちの間ではあまり重宝されることのない救急箱を手に取っている。そしてヴェルギリウスのいる乗車口へ向かっていった。そうして子供のそばにしゃがみ込み「触りますね」とだけ告げると、子供の額へ処置を施し始めた。
〈ヒースクリフ、なのか?〉
ダンテは真偽を確かめるべく、恐る恐るその子供へ声をかけた。だが子供は全くと言っていいほど反応を示さない。ただファウストに手当されながら、ダンテの頭で燃え上がるそれを凝視していた。
「
……
」
〈
……
弱ったな。私の言葉は伝わっていないみたい〉
そう言ってダンテは自分の背後にいる囚人たちへ視線を向ける。それはダンテにとってのヘルプサインであった。
「馬鹿にすんな。言葉くらい分かる」
しかしその声に応えたのは、ダンテを凝視していた子供だった。驚いて振り返ったダンテを、子供は苛立ちを募らせた様子で睨みつけている。
〈ご、ごめん
……
そういうつもりじゃ
……
〉
「ヒースクリフ」
子供を制止したのはヴェルギリウスだ。子供はヴェルギリウスに呼ばれるとはっと目を見開いて、その赤い瞳を見上げる。
「約束の代わりに、バスの中では大人しくする。そう切り出したのはあなたのはずだが」
「
……
」
子供はばつが悪くなったのか俯きがちになり、ヴェルギリウスへぽつりと謝罪を述べる。その間も手際よく子供の手当をしていたファウストだったが、彼の頭に包帯を巻き終えると「できましたよ」と言って徐に立ち上がった。
理解の追い付かないダンテたちへ向け、ヴェルギリウスは一呼吸置いて話し始める。
「彼は
……
間違いなく囚人ヒースクリフだ。ダンテの言葉を解したことで確信に至った。だが、私が確認したときには既にこの姿だった。どんな事象によるものかは定かでない」
そこで、と。ヴェルギリウスは言葉を続けた。
「人員不足による損失を回避するべく、彼が元の姿に戻るまで活動を縮小し最低限の業務のみ遂行すること。いち早く事態を解決させ通常の業務形態へと戻すこと。
……
質問は?」
ヴェルギリウスに呼応して挙手したのはウーティスだ。彼女は咳払い、次のように問いかけた。
「囚人が一人欠けただけで人員不足に陥るとは考えにくい。活動を縮小させる必要はないだろう」
ダンテは一理ある、と考えた。囚人たちは今日までの道のりで練度を上げており、以前と比べて互いの連携も取りやすくなっている。そういった囚人たちへ寄せる信頼という面においては、ウーティスの主張も納得できるだろう。
しかし、ヴェルギリウスは次のように返答する。
「
……
それに関しては、もうひとつ理由がある。ダンテの時計を回すという行為がどのような影響を与えるか未知数だからだ。リスクを回避するために死者を出させないという目的も含まれている。ご理解頂けたか」
ウーティスは彼の回答に満足していない様子だったが、己を納得させる材料足りえると判断したのか、それ以上進言することはなかった。
「あ、あの
……
」
続けて手を挙げたのはシンクレアだ。彼は恐る恐るといったふうにヴェルギリウスへ尋ねる。
「さっき、ヒースクリフさんと話していた『約束』というのは
……
?」
約束。その言葉を聞いた途端ヒースクリフはシンクレアに興味を示したようで、彼の方へ視線を向けた。そしてヴェルギリウスが何かを言うより先に話し始める。
「オレが、この人に頼んだんだ。連れて行ってほしい場所があるって」
そう言うと子供は視線を自分の足元へ落とし、拳を固く握り込む。それから右手の指を解き、バスの外側
――
雲に隠れた景色を指さして言った。
「ワザリング・ハイツ。その正門まで」
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