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真那
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カルジナ
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夜半の初恋
コミュ障改善の一環としてコンビニでアルバイトをしていたカルナと、そんなコンビニに訪れる引きこもりジナコの出会いとその後のお話(現パロ)。
一部Pixivに掲載済みの部分もありますが、まとめたほうが読みやすいと思ったのでこちらですべてまとめています。
1
2
3
中夜の酩酊
――
とろり、どろり。
はっきりと引かれていたはずの境界線が、しかしくらくらと目眩がするほどの強烈な熱によって、ゆるやかに溶けていく。
甘い蜜となって蕩けたものは、胸の内で蟠って、また新たに不思議な熱を持って全身を支配するのだ。そしてそれは何か、意固地になって押し込めていたものを動かすための燃料となり、火をつけ、あらぬところをいたずらに稼働させ始める。
つまりこれは、自分がこの戦を越えて向こう側に足を踏み入れるとか、相手に決して越えさせないとか、すでにそういう次元の話ではなくなってしまっているのだ。
だって、全部、全部溶けて、わからなくなってしまった。すっかり曖昧になってしまった線は、もはや元々どこに引かれていたのかすら定かではない。自分の立ち位置がどこだったのか、相手が何処まで自らの意思でこちらの側へ来ていたのか、もうさっぱりだ。もしかしたら、相手もよくわからなくなっているかもしれない。
酔って、溺れて、息ができなくなって。
実際のところ、もう諦めて白旗を上げるくらいしか、自分にできることはなかったのだろう。
本当はそんなこと、もうとっくの昔に、気付いていたはずなのに。
++++++
カルナとアシュヴァッターマンが通う大学からほど近く、大通りから少し外れた場所に、ひっそりと身を潜めるようにそのバーは存在していた。
レンガ造りのその建物は、建てられてから重ねられた年月がそう少なくないことを見る者に伝えてくる、レトロ感が漂う佇まいをしている。しかし店主が日頃から丁寧に手入れをしているお陰か、古めかしい雰囲気こそあるものの寂れているような雰囲気はまったく感じられなかった。
そしてその先にある、小洒落たベルがかけられた木製の分厚い扉を開けば、おそらく大抵の人は広がる光景に思わずあっと声を上げることだろう。構造こそよくある普通のバーと同じようなものであるが、店主の趣味が内装に対して大いに反映された結果、少々変わった雰囲気となっているからだ。
本来はなんてことのない普通の構造をしているはずのその店内には、主に東南アジア系のものであろう意匠を施された装飾品、独特なタッチで描かれた奇妙な絵画などが壁のあちこちに飾り付けられている。そんな空間の中をうっすらと漂うのは、すっと鼻の奥を抜けていくような爽やかさを持ちながらも、どこかいたずらに腹の底を静かにくすぐっていくような不思議な香の香り。それらの異国情緒漂うものたちが醸し出す雰囲気も手伝って、何処か別の世界へ足を踏み入れてしまったのかと一瞬感じてしまうほどだ。
そんな変わった店内の様子がなんとも物珍しく、扉をくぐった瞬間から、カルナも思わず辺りをきょろきょろと見回してしまっていた。単純にこういった場所に足を運ぶのが初めてで、少し落ち着かない気持ちにさせられていたというのもあったのだが。
そしてそんなバーの中において、負けず劣らず変わった雰囲気を纏っていたのが、アシュヴァッターマンと旧知の中であるというこのバーの店長だった。
濃い化粧を施したその人物は、しかし不思議と見る者に対して野暮ったさのようなものを感じさせることはなく、むしろ異国情緒漂う変わった雰囲気のバーによく溶け込んでいるように思えた。一方、すらりと伸びた長い手足には均等に美しく筋肉が付いているのが服の上からでもわかるほどで、その挙動はまるで踊っているかのように常に軽やかである。尚且つ、武芸を嗜んでいるカルナから見ても驚くほど隙がなく精錬されているときた。
この店の主は一体何者なのだろう。アシュヴァッターマンからは旧知の仲であると事前に聞いていたが、それだけである。カルナはこの不思議な空間にも慣れた様子で立っている隣のアシュヴァッターマンにちらりと視線を寄越したが、彼は曖昧に笑ってみせるのみだった。
しかしカルナのそんな疑念は、彼(彼女?)から飛んできた明るい声によってあっという間に吹き飛ばされてしまった。
「んまーっ! アシュヴァッターマンってば、こーんなカワイイ子が友達にいたのに教えてくれなかったなんて! まったくもう、もっと早く紹介しなさいよね!」
アシュヴァッターマンと共にバーへ足を踏み入れたのち、いらっしゃいと軽やかな声をかけながらカウンターから出てきた店主は、カルナを見るなりそんな歓声にも近い声を上げてとんできたのである。伸びてきた両手でぐりぐりと頬をこね回されながら、カルナはただただそのインパクトの強さや勢いの良さにぽかんとするしかない。
「あなたがカルナね? よろしく! それにしても、こんなカワイイ子がこのアタシをご指名で恋のお悩み相談がしたいだなんて。俄然わくわくしてきちゃうわ~」
「オレは、その」
「ええ、いいのよ。わかってるわ。だからこそアタシも、あなたの話が聞きたいって喜んで返事したんだから。
……
それにしても、嫉妬しちゃうほどいいお肌してるわね~アナタ」
しばしの間、妙な種類の鋭さを感じさせる目でカルナを見つめていた店主は、やがてカルナから手を話してにこりと微笑んだ。かすかに猛禽類を思わせる笑みを向けられ、何故か瞬間的にきゅっと背筋が伸びる心地がする。何もかも見透かされているような気分になってしまうのは、恐らく気のせいではないはずだった。
とりあえず座ってちょうだい、と店の主はバーカウンターに備え付けられている椅子を二人に勧めてくれた。アシュヴァッターマンが慣れ親しんだ様子で腰を下ろすのを見て、カルナも慌てて後に続く。カウンターに合わせて作られていると思われるこれまた洒落たデザインの、カルナからすれば少し不自然なくらいに高い椅子は、しかし座ってみると意外と悪くない座り心地をしていた。何もかも初めてで、どういう顔で座っていたらいいのかわからないという若干の居心地の悪さはあるが。
「とりあえず俺にはいつものをくれや。えーと、カルナは
……
よくわかんねーから、何かよさげがあれば出してやってくれるか?」
「もちろんよ。カルナちゃんはお酒とか大丈夫な子かしら?」
「む、そうだな
……
弱くはない、と思うが」
「オッケーよ~♡」
バーの店主
――
ペペロンチーノという名前らしい
――
は、二人に向かって軽快に片目を瞑ってみせると、せっせっとカルナたちに出すカクテルの準備をし始める。
さて、何故カルナとアシュヴァッターマンが、今こうしてこのバーへ足を運んでいるのか。
その理由を紐解くには、今から数時間前、カルナとアシュヴァッターマンが通う大学の食堂で、二人が邂逅するところまで遡ることとなる。
++++++
「オレはいよいよおかしいのかも知れない
……
」
「オメーがおかしな奴なのは今に始まったことじゃねーから心配すんな。昔ッから大概愉快な奴だよ、オメーは」
今日も今日とて、食堂の冷たい机の上に突っ伏す友人に、アシュヴァッターマンは零れかけたため息を飲み込むのに苦労していた。
何だろう、昔から変わった男だと思って付き合ってはいるものの、最近は特にこんなことばかり起こっているような。
アシュヴァッターマンの目の前で沈んでいるこの男は、つい最近、好いた女との関係を進められない、そもそもそう望んでいいのかすらわからないと非常に消極的な考えでもって悩んでいた。彼女を何よりも大切に思っているからこそ、彼女が望むことしかしたくない。けれど自分は、本当は彼女のそばに在りたい。そんな信念や理性、欲望の狭間で葛藤していたのである。
しかしその後一体何がどうなったのか、彼は彼女の家に自由に遊びに来て良いという許可を得ることに成功したらしい。しかも他でもない、彼女本人の口から直接だという。そんな話をカルナから唐突にされたアシュヴァッターマンは、驚きのあまりうっかり椅子から落ちそうになったものである。
何にせよ、めでたく彼女からの許可を得てからというもの、カルナはバイトのない休日などに、手土産持参で彼女の家へ訪れていた。彼女のやっているゲームの相手をしたり、他愛のない雑談を交わしたり、ともにテーブルを囲んで食事を摂ったり。つまり、特別に何かをしているというわけではないが、カルナは彼女とともに穏やかな時間を過ごせているということらしかった。
彼女の家に遊びに行くのだと言って、とても楽しそうに、そして照れくさそうにしているカルナの姿を見たアシュヴァッターマンは、彼をからかいつつも心のどこかでは安堵していたのだ。のんびりとではあるが、二人は徐々に距離を縮めている。だからカルナの隣にその女が自分の意思でもって寄り添ってくれるようになる日も、きっと遠くないはずだ、と。そしてそれはきっと、アシュヴァッターマンがいつからか仄かにカルナに対して望んでいたことでもあった。
カルナは昔から、自分以外の誰かを助けるために、自分の命すら躊躇いなく差し出してしまいそうな男だった。誰もが一瞬、無意識に己が身を案じて躊躇ってしまいそうな一歩を、けれど彼は迷いも何もなく踏み込んでしまう。
そんな彼に、何が何でもこの世界に踏みとどまらねばならない、手放すことはできないと思わせてくれる拠り所があればいいのにと、アシュヴァッターマンはずっと前から密かに思っていたのだ。その致命的な一歩を躊躇わせてくれる楔があればと。
そして今、カルナはそんな大切に思えるものをもうすぐ手に入れようとしている。だからこの先のことも、きっとうまくいくだろう。
――
と、いつかのように再び大学に併設された食堂の机で突っ伏しているカルナを目撃するまでは、間違いなくそう思っていたはずなのだけれど。
「で? 今度は一体なんだっつーんだよ」
「オレはきっと最低な男なのだ
……
」
「いや知らねーよ!」
こちらは理由や原因を聞いているのに、その全てをすっ飛ばしてカルナの見解だけ述べられても、事情を全て把握していないアシュヴァッターマンからすれば一体何のこっちゃというところである。カルナの言葉足らずはいつものことだが、ここまで何もかもがごっそり欠けていると、アシュヴァッターマンとしてももう助け船の出しようがなかった。はて、どうしたものか。
「ったく、俺は恋愛相談には向いてねーっつってんだろうが」
「話しかけてきたのは貴様のほうだが?」
「
……
まあ、そりゃあな。けどな、俺だってそんなに薄情者じゃねーっていうか、その」
不意に沸き上がりかけた怒号をまた苦労しいしい腹の底へと飲み込んで、代わりに先ほど飲み下したはずのため息を吐きながら、アシュヴァッターマンはそう答えておいた。
カルナの指摘は至極真っ当だ。あまりにも真っ当すぎて、一瞬胃の底がひゅっと冷えるほどである。彼のこういう言動はいつものことではあるものの、少しは手心というものを覚えて欲しいものだ。
とにかく彼の言うとおり、授業終わりに昼食を摂ろうと訪れた食堂で、またしてもしみったれた空気を背負いながら座っていた彼に声をかけたのは、間違いなく自分のほうである。だから面と向かってはっきりとそう言われてしまうと、アシュヴァッターマンとしても黙ることしかできない。
「あークソッ! そんなこまけーこたぁいいんだよ! そもそも、オメーがそんな覇気のねえツラ晒してっからわりーんだろうが!」
「ああ、貴様の言うとおりだ、アシュヴァッターマンよ。悪いのはオレだ」
「
……
いや、ホントどうしちまったんだよ、お前」
前回もなかなかに困り果てている様子ではあったが、今回もまた心底困惑しているのに加えて、理由は不明だが自分のことを激しく責めているようにも見えた。この数日の間に、カルナと彼女との間に何かあったのだろうか。
もしかしたらまた失礼な言葉を吐いて、ひどい喧嘩でもしてしまったのかもしれない。そして生来の言葉足らずがさらに災いを呼び、仲直りをしようと思って話をすればするほど相手を怒らせてしまう、といった悪いループに入り込んで抜け出せなくなってしまっているとか。
「オメー自身が悪いと思ってんだったら、その点に関して素直に謝ればいいだけなんじゃねーの? 知らねーけど」
「喧嘩ではない。ジナコとの関係は至って良好だ。少なくとも、オレからすればそう思う。今までどおりそばにいることを許されているし、彼女との間に致命的な決裂が発生したということはない」
つまり相変わらずカルナは足繁くその『ジナコ』の家に通い、彼女はあれこれ言いつつも、最終的にはまんざらでもない感じで受け入れてくれていると。
今までアシュヴァッターマンがカルナから聞いていたのとほぼ変わらない状況のままである気がするのだが、一体何が起きているというのだろうか。
「何も悪いことねえじゃねーか。一体何だってんだよ」
「オレが自ら勝手に悩みの種を生んで勝手に頭を抱えて無様な姿を晒しているだけに過ぎん。故に、確かに悪いのはオレなのだろうが、それでもオレはこの気持ちをただ持て余すことしかできないのだ。己を律する修行が足りないのだろうよ。
……
答えはいくらでも待つと、他でもない己の口で、彼女に伝えたのに」
「お、おお?」
カルナは訥々と語ってくれはするものの、相変わらずいまいち要領を得ない回答である。本人が本気で混乱しているらしいことはよくよくわかったが、アシュヴァッターマンからすれば話の核心がいっこうに見えないので具体的に口の出しようがなかった。
つまるところ、アシュヴァッターマンからすれば完全にお手上げと言わざるを得ない状況というわけである。
こうなれば、いよいよ以前から検討していた『その手の話に造詣の深い第三者に助言を仰ぐ』という方法をとるしかあるまい。そして幸いにも今のアシュヴァッターマンには、そこそこ心強いと思われる宛てがあった。
「ったく、しょうがねーな。アイツんとこに話しに行ってみっか」
「? あいつ、とは」
「前に俺が言ったろ。恋愛相談は、その手の話題長けた奴にするべきだって」
アシュヴァッターマンは片手でスマートフォンを操作し目的の相手の連絡先を探しながら、もう片方の手でカルナの白い頭をわしわしとかき回すのだった。
++++++
さて、そんなわけで。
アシュヴァッターマンが紹介してくれたのが、このバーを経営しているペペロンチーノというわけだった。
何でもこのバーにはペペロンチーノに対して、恋愛相談を初めとするさまざまな人生相談をしたいという目的で足を運ぶ者が多いのだとか。彼の飄々としつつも親しみを感じさせる人柄のおかげで話がしやすいことと、持ちかけた話に対する助言がなかなか的を射ていて、思わず唸ってしまうようなことも少なくないこと。訪れる人々からそんな評判を得るペペロンチーノのバーは、知る人ぞ知る駆け込み寺となっているのだそうだ。
確かに初対面であるカルナから見ても、他者に対して強烈な印象を与える奇抜な見た目とは裏腹に、不思議と拒否感の類いが感じられなかった。懐にするりと入ってきそうなのに、不思議と嫌悪感を抱かないというか。なんとも奇妙な人間である。
「さぁて。カルナちゃんは今、いったい何をそんなに困ってるのかしら?」
できあがったカクテルが注がれたグラスをそれぞれの前に出しながら、ペペロンチーノが早速そう切り出してきた。そのままグラスを手に取って口を付けようとしていたカルナは、そのままピシリと凍り付いたように固まってしまう。グラスの中で、オレンジ色の若干とろりとした液体が揺れた。
このペペロンチーノという人間を前にすると、何となく話がしやすいと感じていることは間違いない。けれどそういった状態とはまた別のところで、自分のこんな些細な悩みで彼を煩わせるのは如何なものかと思ってしまうのだ。
「
……
オレとジナコの話は、どれくらい聞いている?」
「そうねぇ。だいたいのことは聞いてると思うわ。アタシからすればそれなりにうまくいってるように思うんだけど、でもあなたにとってはそうじゃない。何か不安に思ってることがあるのよね?」
「
……
不安、と言っていいのかは、オレとて定かではないのだが」
グラスを両手で包むように持ちながら、微かに揺れる中の境界面をじっと見つめる。鏡ではないので己の姿を写すことはないが、もしそうだったとしたら、きっと自分でもがっかりするようなひどく情けない顔が映り込んでいたに違いない。
こんなことを誰かに話すのはやはりほんの少し気が引ける。気が引けるというか、少し恐ろしくもあった。自らの中にある醜悪な部分を、ほかでもない己自身で晒せということに他ならないからだ。
けれどここは今、カルナの中にあるこの悶々としたものを消化するために用意された場である。力になろうと言ってくれる人たちの心遣いを無碍にすることはしたくない。店内で流れる軽やかなBGMとは全く反対の重苦しい心地で、カルナはぽつりぽつりと言葉を紡いでいった。
「オレは
……
オレの中に湧き上がる邪な感情を、どう処理していいのかわからんのだ。ジナコがオレの存在を許せば許すほど、オレは彼女に対して身に余るほどの欲を覚えてしまう。オレはそんな浅ましい自分自身が許せない」
たとえばジナコが玄関先でカルナを出迎えてくれるとき、別にあんたを待っていたわけじゃないんだと、口先だけの虚言で本音を包み隠しながらそわそわしている様子を見る度に、そのままそのふくよかな体を引き寄せて腕の中に閉じ込め、力いっぱい抱きしめてしまいたくなる。
ゲームの相手をさせられているとき、不意に彼女の細い肩が自分の体に触れたりすると、うっかりそのまま腕を回して引き寄せてしまいそうなる。
テーブルを挟んで向かい合いながら食事をしているとき、美味いと呟きながらとろけそうなほど顔を緩ませている彼女の柔らかそうな唇に、噛みついてしまいたくなる。
そんな己の中で次々と生み出される凶暴極まりない衝動たちを、最近のカルナはすっかり持て余していた。
今はなんとか制御できているが、果たしていつその縛り上げている鎖が限界を迎えて引きちぎれてしまうのか。そこはもうカルナ自身にもわからない。カルナの内から突き上げてくる衝動には波があって、最近はうっかり事前にきつく縛り上げておくのを忘れ、伸ばしかけた手に後から気付いてハッと息を呑み、慌てて引っ込めることも少なくないという始末である。
もし己の手でジナコを傷つけるようなことがあったら、カルナはきっと絶対に自分を許せないだろう。そもそも、こんな厄介な危険を孕んでいるにもかかわらずジナコのそばにいること自体、すでに許されざることに違いなかった。
けれどカルナはようやく手に入れたこの居場所を、どうしたって手放せそうにないのである。自分のこの先の人生からジナコがいなくなるなんて、考えたくもなかった。
いっそのこと、彼女の中に消えない傷を深く刻み込んでしまえば、一生離れずに済むのではないか。
そんな恐ろしい考えすら一瞬頭をもたげて、カルナは自分の欲深さにひっそりと絶望したのだ。己がここまで傲慢かつ身勝手な生き物だとは知らなかったし、知りたくなかった。そうは思っても、ジナコを求める気持ちは薄れるどころか、日に日に強くなっていく一方で、カルナとしてはもうどうしようもできないところまできてしまっている。
ちなみに恐ろしいことを考えてしまったその日、カルナは真っ直ぐ家に帰り、頭から冷水のシャワーを浴びるなどして必死に頭を冷やそうと努力したのだ。けれどやはりというか何というか、下腹のあたりでぐつぐつと煮えたぎる衝動を、完全に消しきる事はできなくて。
ちなみにこの話の顛末には、一時間以上悶々としながら冷水を浴び続けていたせいでカルナは風邪を引いてしまい、翌日バイトへ出勤したそばから店長に「帰れ」と速攻追い返されてしまったというオチがつく。何とも情けないことだ。その日からしばらくジナコに会いに行けなかったし、本当に踏んだり蹴ったりだ。ほぼ全て己のせいではあるあたりがまた情けない。
そもそも自分は、ジナコ自身が答えを見付けるまでいくらでも待つと、他でもない己の口で告げたはずなのだ。彼女が欲しいという気持ちと、彼女の望むままに在りたいという気持ちに、自分なりに折り合いをつけてそう口にしたはずなのだ。
だというのに、邪な自分の欲望に振り回されて、ぐらぐら揺れて、自分の口から出た言葉すら裏切りかねない事態に陥っている。こんな、自分から持ちかけた約束すら守れないような情けない男を、果たしてジナコはどう思うのだろうか。
「
……
なるほど、そういうことね」
カルナの話を一通り聞き終えたペペロンチーノは、得心がいったというようにうんうんと何度も頷いていた。同じくじっと話を聞いていたアシュヴァッターマンは、グラスを持ったままぽかんとしている。彼はしばし中空に視線を彷徨わせ、カルナを見て、それから眉尻を僅かに下げて妙に困ったような顔をしている。
「カルナよぉ。お前、そんなもんは
――
」
「アシュヴァッターマン」
呆れたように眉をひそめながらおもむろに口を開いたアシュヴァッターマンを、しかしペペロンチーノはその一言で制した。何か言いかけていたアシュヴァッターマンは、しかしそのまま口をつぐみ、代わりに自分の目の前のグラスに口をつけてあおっている。
「そうねえ。カルナちゃんは、『愛は真心、恋は下心』って言葉を知ってる?」
顎に人差し指の先を当て、しばし考え込む仕草を見せていたペペロンチーノは、やがてそんなふうに切り出してきた。
「? いや、聞いたことがない」
「漢字の構成から連想される、一種の言葉遊びみたいなものなんだけどね。ほら、『愛』って漢字は真ん中に『心』の字が入ってて、『恋』っていう漢字は一番下に『心』があるでしょう?」
そう言いながら、ペペロンチーノはカウンターの下からペンとメモ帳を取り出し、さらさらと二つの文字を白い紙の上に綴っていった。達筆な文字で書かれた漢字を見てみれば、確かにこの二つはペペロンチーノが言ったとおりの構造をしている。
「つまりオレが彼女に抱いているこの浅ましい感情は、身勝手に彼女を恋い慕うオレの下心から生まれたものだと、貴様はそう言うのか?」
「んもう、そんな怖い顔しないでちょうだいな。そもそも相手が欲しい、触れ合いたいって思うのは、恋をしている者なら誰でも抱く感情だとアタシは思うわ。でもあなたがその気持ちを押さえている蓋、その子のことを大事にしたいっていう気持ちだって、紛れもない本物。そうでしょう?」
「当然だ」
「ふふっ、そうでしょうね。
……
でもあなた、本当にその子のことが好きなのねえ」
きっぱりと言い放ったカルナに、ペペロンチーノは満足げに微笑んでいた。
「話を戻しましょうか。つまりそういう一見相反した、自分では不要だと思っている感情も、全部まとめて今あなたが抱いているあなた自身の本物の心ってことには違いないわけ。アタシはね、こうも思うのよ。そもそも『恋』っていう漢字を土台となって支えているのが、そういう『心』の全部なんだって。だから彼女を手に入れたいって思うのも、大切にしたいって思うのも、全部全部、あなたの『恋』を支えている大切な要素なのよ。その片方だけを無理矢理削ったりしたら、正しいカタチの支えを失ったあなたの恋は歪むか、下手したら瓦解してしまうんじゃないかしら?」
「
…………
」
「だからあなたが今すべきことは、自分の心の一部を無理矢理排除しようと頑張ることじゃなくて、そういう気持ちがあるってことを彼女にちゃんと伝えることだと思うわ。あなたはこれから先もずっと、その子のそばにいたいって思ってるんでしょ? それなのに本当の心を隠して、その子に見せないようにしてるのって、本当の意味でその子のそばにいるってことにはならないと思うのよ。もっとハッキリ言ってしまうなら、彼女の全部に触れたいと思っているのに、自分はかっこいいところだけ見せたいっていうのは、それはそれでちょっと誠実さが足りないわねぇってこと」
「
……
誠実さ、か」
ペペロンチーノの唇から紡がれた言葉たちは、不思議なくらいきれいにカルナの胸の内へすとんと収まっていった。彼女を大切にしたいと宣いながら、彼女のやわらかな身体に己の爪や牙を突き立ててしまいたいという凶悪な衝動を消しきれない自分に対する怒りで激しく波打っていた心が、徐々にではあるが平生の穏やかさを取り戻していく。
己の本心を覆い隠して、今までどおりの距離感で彼女のそばにいることも、きっとまったくできないというわけではない。けれどそんな偽りの自分を受け入れてもらえたところで、果たして何になるというのだろうか。
カルナはただ物理的に彼女のそばに在りたいと思っているわけではない。ジナコと心を寄り添わせ、本当は寂しいはずなのにそう素直に言えないであろう彼女が、一人で孤独に震えることがないようにしてやりたいのだ。そう願っているのにもかかわらず、触れる己の心が作りあげた張りぼての冷たさしか持たぬのであれば、カルナがカルナとしてジナコのそばにいる意味はない。せっかくカルナへ対して心を開いてくれたというのに、当のカルナが本心を偽り続けているのは、ペペロンチーノのいうとおり、きっと彼女に対してとても不誠実なことである。
けれどこの邪な衝動をジナコに明かすことは、果たして正しいことなのだろうか。そんな感情を抱いてそばにいるカルナは恐ろしいと、ジナコに拒絶されることも容易に想像できる。
もし彼女に、もう自分の前に現れないでくれと言われたら。
そうなったときにカルナが素直にジナコのそばを離れることができるかと問われれば、答えは間違いなく否だった。離れられそうにないから、今こんなにも困っているわけで。
「そりゃあ、そういう心配は一緒にいる以上ずっとついて回るでしょうね。でもそんなに怖がるようなことじゃないわ」
カルナがぽつりぽつりと零した漠然とした不安を、しかしペペロンチーノはそう言って軽く笑い飛ばしてくれた。
「どこまでいっても別々の人間と人間同士でしかないんだから、いきなり全部わかり合うっていうのは無理な話よ。あなたがどう思っているか、どうしたいのかを話すのと一緒に、その子がどう思ってどうしてほしいのかもきちんと聞いておきなさい。してほしいこと、してほしくないことを、お互いの間でだんだんと摺り合わせていくの。時には譲れないところで喧嘩したりするかもしれないわね。でも互いがよりわかり合うためには、そういうぶつかり合いもきっと必要なことよ」
ぶつかることを恐れ、自らに枷をつけ、口を噤んでおくのは簡単だ。けれどそんな仮初めの安寧、停滞から生まれ出るものは何もない。いつか確実にくる瓦解のリミットがくるのを恐れながら、ぎりぎりの綱渡りを繰り返し続けるのは、きっと互いにとても疲弊することになるだろう。そうした疲弊感が、やがて避けたかったはずの決定的な決裂を生んでしまうこともあるのだと、ペペロンチーノはカルナにそう言った。
「だからこそ、その子とはきちんと話をしなさいな。あなたの言葉は鋭すぎる刃になるときもあるけれど、きっと相手に向かってただ闇雲に振り回してるってわけじゃない。あなたが想っている子がそのことを理解してくれているのなら、あなたの心もちゃんと伝わるはずよ」
「
……
そ、うか」
何と言葉を返していいのかわからず、カルナはなんとかそう一言絞り出したあとは、ただちびちびとグラスの中身を口の中へ流し込んでいた。すうっと抜けていく爽やかな柑橘系の香りを噛みしめるようにしながら、ペペロンチーノの言葉を自分の中で静かに反芻する。
――
そうしているうちに、ふと、無性にジナコに会いたくなってしまった。
今すぐにでも会って話がしたい。自分のことを聞いて欲しい。ジナコのことももっと教えて欲しい。不意にそんな風に思ったのだ。
カルナの心の内を明かしたときジナコがどんな反応をするのか、それが恐ろしいという気持ちはまだ残っている。拒絶されることへの忌避感で足が竦んでいるのもおそらくは変わらない。けれどそういうものたちを押しのけてでも、今はジナコと直接向かい合って話がしたかった。自分のことをどう思っているのか、カルナの本当の心を知ったことでそれがどう変化するのか、今すぐにでも知りたかった。ジナコは果たして、自分のことをどれくらい理解してくれているのだろうか、と。
自分が他人にどう思われているかなど、今まではさほど気にならなかった。他者からどんな印象を抱かれていようと、その色が決して好ましいものでなくとも、そういうこともあろうとどちらかといえば俯瞰した視点で見てきた。その人が如何にカルナのことを嫌っていようと好いていようと、それはどこまでいってもその人が抱く、その人だけのありのままの感情だ。カルナ自身がどうこうできるものではないし、そういう感情を他者によって無理矢理歪めさせてしまうことの方が、カルナとしてはよっぽど忌諱することである。
けれどジナコは、生まれて初めて心底惚れたあの女に対しては、いつだって少しだけ違うのだ。今まで経験がないことばかりで、だからこそいつだって恐ろしい。
けれどカルナの抱く思いは、もうどうしたって消えることはない。隠しておくこともそろそろ限界だ。だったらもう、全てをジナコに打ち明けてしまおうと思った。そうしてその言葉に対してジナコが抱いたありのままのこころを、自分はきちんと受け止めよう、と。カルナの思いにジナコが如何に答えようと、自分はそれを尊重すると言ったのだから。
結局のところ、混乱してぐちゃぐちゃになって糸を解いて辿り直していった結果、カルナ自身が話の振り出しを思い出すことができたというだけだった。結論を落としてしまえばなんてことない単純な話だったわけだけれど、心の中でめちゃめちゃに絡み合っていたものがゆるやかにほどけたことで、何となく視界が鮮明になったような気がする。
「
……
しかしアンタってホント、そんな見てくれによらず妙に悟ったこと言うよな、いつも。素直に尊敬する」
しばらく黙ったままペペロンチーノの話を聞いていたアシュヴァッターマンが、自分のグラスに残っていた最後の一口を己の喉の奥へと滑り落とさせたあと、茶化すようにそう言った。カルナが俯いたまま黙りこくってしまったので、彼なりに場を和ませようと気を遣ってくれたのかもしれない。乱暴者に見えて、その実聡く慈悲深いこの男らしい言動である。
「あらやだァ! そんな見てくれだなんて、随分と言ってくれるわね~! アタシはいつだって、アタシが一番輝ける格好してるだけだけど?」
そしてそんなアシュヴァッターマンに対し、ペペロンチーノも明るい声音で答えていた。けらけらという楽しそうな笑い声が、バーの中で軽やかに響いていく。
「ああ、それも知ってる。アンタのそういうところも俺は嫌いじゃねーよ」
「ふふふっ、どうもありがと。そういうアンタも十分いい男だと思うわ。アタシもずっと前からそこは認めてる。でも残念ながら、アタシはもう心に決めた人がいるのよね~! だからごめんなさ~い!」
「な、べ、別にそういう意味で言ってんじゃねーよ! ってか、何で俺がフラれたみたいになってんだ!」
いいからもう一杯、とアシュヴァッターマンは怒鳴り声とともに眼前に突き出す。鼻先にぶつかりそうな勢いで目の前に差し出された空のグラスを、しかしペペロンチーノは全く怯むこともなく、相変わらずからからと楽しそうに笑いながら受け取っていた。
二人の間でやり取りされる透明な美しいグラスをぼんやりと眺め、そしてカルナは自分の手元に視線を落とした。そして、
「
……
ッ!」
「ちょ、おいカルナ!?」
気持ちの中でまだどうにも落ち着かない部分を無理矢理にでも治めたくて、カルナは目の前のグラスを引っ掴むと、口を付けて中身を一気に喉の奥へと流し込んだ。滑り落ちていくアルコールに、喉の奥がかっと急に熱を帯びる。
ぎょっとした声を上げるアシュヴァッターマンを横目に、カルナは空になったグラスをペペロンチーノに突き出した。
「俺にももう一杯、頼めるか」
「ええ、もちろんいいけど
……
」
完全に目が据わっているカルナに若干気圧された様子を見せつつも、ペペロンチーノは鮮やかな色のカクテルをグラスへ注いで出してくれた。しかしカルナはその彩りを目で楽しむでもなく、グラスを受け取るなり再び一気に腹の底へと流し込む。
「ちょ、おま、これ、そんな一気に飲むもんじゃねーぞ!?」
「わかっている。もう一杯」
「この馬鹿! 絶ッ対わかってねーだろ!」
そんなことはない。アシュヴァッターマンの言うとおりだ。今この酒を直接口にしたのはカルナなのだから、その点に関しては十全に理解している。そもそもどんな酒であろうと、こんな無茶な飲み方をすれば、いかに酒が強い人間であろうと良くない酔い方をするのは明白だ。酒の味を知ったばかりというわけでもないので、その先に待っているのが何なのかはよくよく知っている。
けれど今は、頭の中が真っ白になるまで一息に酔ってしまいたい気分だった。とりあえず、一旦わけがわからなくなりたい。そうでもしないと、今すぐにでもジナコの家まで駆けだして行ってしまいそうだったのだ。
しかしカルナはまだ、自分の中で渦巻く感情をきちんと整理できていない、と思う。こんな自分でも把握しきれていないめちゃくちゃな状態のものをそのままぶつけたら、きっとジナコを怖がらせてしまう。いくら彼女に対して自分は好き勝手に伝えると事前予告しているとはいえ、ただ暴力的にぶつけていいというわけではないのだ。必死になって口に出したところで、その中に託した思いを相手が解せないようであれば、何の意味も持たずに地面に落ちていくだけで終わってしまうだろう。
だから今日のところは、アルコールの力を借りてこの感情を宥め、燻る熱を酒のせいにして誤魔化してしてしまうのがいいと思ったのだ。
決して弱くないアルコールが滑り落ち喉を焼いていくのに、けふ、と軽く咳が出る。ジナコという女がいかに自分にとって大切か、手放しがたいか、そしてそのすべてをどれだけ欲しているかなどを二人に脈絡もなく語りながら、カルナは次々と杯を重ねていった。
ジナコのことを言葉にして零せば零すほど、己の中で熱が生じていく。それを誤魔化すために、アルコールを流し込む。その繰り返しだ。アシュヴァッターマンの呆れきった視線がちくちくと刺さってきているのは何となく感じていたが、彼に対してはここにくるまでに散々醜態を晒してきっている以上、今更な話である。
いくつのグラスを空にしたのか定かではないが、さすがにこれ以上は駄目だとペペロンチーノにストップをかけられ、カルナは無言のままバーカウンターの机に突っ伏した。ぐわん、と世界が回る。やはり良くない酔い方をしているようだが、願ったりだ。このまま帰宅してベッドに飛び込めば、何かを考える余裕もなく夢の世界へ飛び込めることだろう。明日は大学も休みだし、バイトのシフトも入っていないし、仮に二日酔いなどが襲いかかってこようとたいした問題にはなるまい。
実際、この時点でもうだいぶ理性がまともな仕事を放棄していたに違いないが、当のカルナ自身にはそんな自覚は全くなかった。まあ、酔っ払いなどというのは得てしてそういうものであろうが。
++++++
翌日の目覚めは、予想通りというか何というか、なかなかにひどいものだった。
まず目を開けた瞬間、見上げた先にあったのは全く見覚えのない天井。どういうことだと記憶を引っ張り出そうとしても、あのバーで机に突っ伏したあとから先はほとんど覚えていないときた。そろそろ帰るぞ、とアシュヴァッターマンに背中を突かれたことは何となく記憶しているのだが、その先は完全に暗闇の中である。もしかしたらその後、結局自宅までたどり着けず、大学の近所に住んでいる友人のいずれかの家へ上がりこんだのかもしれない。
意識が徐々に覚醒に近付いていくにつれ、ぐるぐると腹の底から何ともいえない不快感が噴き上がってきて、思わず顔をしかめた。深く呼吸を繰り返すことでどうにかそれをやり過ごそうとしても、今度は脳髄を貫く鈍痛に意識を持っていかれてしまう。端的に言えば、体調は最悪極まりなかった。
うめき声を漏らしながら苦労しいしい寝返りを打とうとして、しかし身体の横へ水平に放り出した腕が異様に重たいせいで、動くことがままならないことに気が付いた。これは二日酔いによるものではないと断言できる。単純に、何か重たいものが腕の上に乗せられているというだけで。
はて、一体何だろう。寝床にそんな重量物を置いている友人は覚えがないし、あったとしてもそれを腕の上に置いているのは意味がわからない。酔いすぎて奇行に走った可能性は大いにあるが。
頭を動かすと世界が回転し、胃の中のものをうっかりぶちまける羽目になりそうだったので、顔は天井を向けたままひとまずその正体を探ろうと反対側の手を伸ばす。
――
ふにゅ。
何とも言いがたい魅惑的な柔らかさを持つ何かが、指先に触れた。指先が吸い付くような不思議な感触と、ずっと触れていたいような温もりが宿った柔らかさだった。
「
……
?」
硬直。
そこからようやく抜け出した後、ゆっくり、ゆっくりと顔をそちら側へと傾ける。
まず目に入ったのは、見覚えがあるというか、まさか己が見紛うはずがない栗色のぼさぼさ髪だった。そしてあちこちに散らばった髪によって三分の一以上が覆い隠されてはいるものの、いつもどおりのまろみを帯びた顔が、そこにはあって。
「ッ!? っ、!?」
声が、出ない。
喉の奥からヒュ、と鳴り損なった笛のような間抜けな音が零れて、カルナはそのまま呼吸の仕方を忘れてしまった。
だっておかしいだろう、どうして彼女がこんなところにいるのだ。そして何故今こうしてカルナの腕に頭を乗せ、無垢な表情を晒してすうすうと寝入っているというのだ。わからない、何も。
「じ、なこ
……
?」
どうにか呼吸を思い出し、そうして喉から絞り出した声は、昨晩散々摂取したアルコールのせいでひどく掠れていた。そんながさがさになった小さな声でジナコを眠りの世界から連れ戻せるはずもなく、彼女はむにゃむにゃとむずがるようなよくわからない寝言を零して更に身体を丸めるだけだった。しかも温もりを求めるようにカルナに擦り寄ってなどくるものだから、もう頭の中が真っ白である。
――
ああ、神よ、どうか教えてくれ。オレは一体何をやらかした?
カルナが心の中で叫んだ懇願に、しかし天から有り難いお言葉が下りてくるなんてことは一切無く。返ってきたのは、ぷうぷうという愛らしくも憎らしい、ジナコの暢気な寝息のみだった。
とにかく落ち着け。息を吸え。そして吐け。どうにかして昨晩の記憶を掘り起こし、この状況を冷静に処理しろ。話はそれからだ。
しかしどんなに思考を巡らせても、昨夜の記憶はあのバーでのあれこれが最後でぷっつりと途切れており、カルナは頭を抱えたくなった。ジナコに関することをうっかり取り落としている自分の愚鈍さに、我ながら吐き気すら覚えるほどの嫌悪感が沸き上がってくる。いや、吐き気の要因は別にあるかもしれないが。だめだ、わからない、何も。
意識が覚醒すればするほど、脳髄の奥でガンガンと鐘を打ち鳴らされているような頭痛が襲いかかってくる。何も考えられなくなっていく。もういっそのこと意識を何処ぞかへ吹っ飛ばしてしまいたかった。ついでに自分の存在自体もどっかへ吹っ飛ばしたい。
「んぁ
……
かるなぁ
……
?」
すぐ隣、思わずびくりと飛び上がってしまいそうなほど近くから、舌足らずの蕩けた声が聞こえてきた。甘い声音。肌が粟立つ。ひくり、と下腹部の辺りが微かに痙攣する。
恐る恐る視線を落とすと、カルナに擦り寄ってむにゃむにゃ言っていたジナコの瞼が、ゆっくりと持ち上がっていくところだった。幼さすら残している丸みを帯びた飴色の瞳が、平生よりも蕩けた色を宿してカルナを見つめている。
ぞくぞくと、背筋を何かが駆け上がっていった。
あれほど己を苛んでいた頭痛が、魔法のように遠ざかっていく。半ば抱き寄せるような形になっているジナコの体温や、その柔らかさ、鼻孔を微かに擽る香りに対してのみ、己の感覚が研ぎ澄まされていくようだった。
「じな、こ」
「ふあ
……
かるなさん、おはよぉ~
……
」
「お、はよ、う」
もぞもぞとなめくじのような緩慢さで起き上がったジナコから、欠伸混じりの声が降ってきた。彼女と朝の挨拶を交わすのは、恐らくあの雨の朝以来だ。あれ以降は深夜のコンビニで、或いは夕方に大学帰りのカルナが足を運ぶばかりだったから。
どくどくと、心臓がいつにもまして激しく跳ねているのがわかる。ジナコの耳にもこの音がはっきり届いているのではないかと心配をしてしまうほどに。激しく暴れ回りながら皮膚の下を流れる血液が、ざーざーとノイズのような音を二日酔いの脳髄へと容赦なく叩き込んでくる。まるでカルナを責めるかのように。
硬直したまま動けずにいるカルナを余所に、ジナコはのたのたと布団の中から這い出ると、こちらに背を向けたままベッドから床に足を下ろした。彼女が服を身に纏っていること、さらに言えばどこを見ても大きな乱れがないことにほっと安堵の息を吐いて、しかし無意識にそんな想定をしてしまった自分への自己嫌悪で再び気分がどん底まで落ち込む。
「じ、ジナコ。その、オレは」
「あ、カルナさん、お水とか要る? あんだけべろんべろんに酔っ払ってたんだし、今日は二日酔いとかヤバいんじゃないッスか? えーと、二日酔いって何が効くんだっけ。しじみの味噌汁? しじみはないけど、味噌汁はインスタントのやつがどっかにあったような、なかったような。なかったらコンビニにでも行って探して来るッスかね~」
「待てジナコ。頼む、教えてくれ。オレは何をした」
「何って何? あ、トイレなら廊下を出て左、突き当たりにあるッスよ~。さすがにベッドの上でリバースは勘弁して欲しいッス。明日からここで寝られなくなっちゃうし、もらいゲロもしたくないッスもん。まったく、カルナさんももう子どもじゃないんだし、お酒の飲み方はもうちょっと考えて」
「ッ、ジナコ!」
どうやらジナコが普段横になっているベッドに今自分がいるという事実に脳みそをぶん殴られ、そのまま倒れそうになり、しかし根性でそれをねじ伏せて。
そうしてカルナに背を向けたままのジナコの腕を、慌てて起き上がり捕まえた。ぐわん、と世界が激しく回り、内臓が嫌な感じに動いたような気がしたが、またしても根性だけでどうにか押さえ込んで腹の底へ押し戻す。わずかにあがってしまったカルナの荒い吐息の音だけが、薄暗い部屋に微かに響く。
「
……
何?」
「答えろ。オレは、キミに、何をした」
噛んで含めるように言えば、びく、とその小さな肩が震えた。ひたひたと胸の奥に暗く詰めたいものが押し寄せるが、まずはジナコの言葉を待つ。
「
……
別に、何にも、してないッスけど?」
「嘘を吐くな」
「う、嘘じゃないッス!」
「では何故、お前はオレを見ない」
ジナコがいつにもまして妙に饒舌になっているときは、恐らく自分の中で何かを隠したがっているときだ。特に彼女が自身の心の中でさざめく波を誤魔化したいとき、自分で自分に言い聞かせるようにどうでもいい言葉を重ね、そこから目を反らそうとする。目の前にいるのはそういう女だと、カルナはいやというほど知っていた。
握り締めた手の中で、ジナコの腕は微かに震えていた。もしこれがカルナに対する恐怖などから来るものであったなら、カルナは既に、こうしてジナコに触れる権利を失ってしまったということになる。
「
……
オレが、キミを傷付けたというのなら、オレはキミの前から、姿を消さねばならん」
当たり前の事実を告げているだけなのに、自分がそうせねばなるまいと思っていることには違いないはずなのに、まるで心臓が握りつぶされるような心地がした。今握っているこの手を離し、そして二度と触れてはならないと思うだけで、息ができなくなるほど苦しくて。
カルナの言葉を聞いたジナコが、ようやくハッとこちらを振り向いてくれた。その顔をみたカルナは、思わずぱちぱちを目を瞬かせる。向けられた表情は恐怖に震えるものなどではなく、何というか、羞恥と怒りがない交ぜになったものだったからだ。想定していなかったものを寄越されて、いささか拍子抜けしてしまったのである。
彼女はじっとこちらを睨み付けているが、小動物のようにぷるぷると震えながら、若干涙目になり顔を真っ赤に染めているせいで、迫力は全くない。もっというとただただ可愛らしくて、少し困る。
「ジナコ
……
?」
「あ、アタシに、全部言えっていうの? 昨夜、カルナが何を言ってたか、何をしてたか、全部アタシの口から説明しろって? ば、馬ッ鹿じゃないの!? どんな羞恥プレイ!?」
甲高い声でカルナに向かって喚くジナコである。そのあまりの剣幕に、カルナは思わずぱちぱちと目を瞬かせたきり硬直してしまった。
「ああ、ああ! もういいッスよ! この際だから全部事細かに喋ってあげるッス! あ、アンタも精々、羞恥に震えて眠るがいいッスよ!」
「う、うん」
どすんどすんと、すわ像が闊歩しているのかと錯覚するような勢いで地団駄を踏みながら、ヤケクソ気味に喚くジナコ。その剣幕にうっかり気圧されてしまったカルナは、彼女に対してどうにも気の抜けた返事をすることしかできない。
「いい!? まずね! アンタは昨夜、急に深夜にボクんちに来たかと思ったら、入れろ開けろ出てこいってピンポン連打してたの! 何事かと思って外にすっ飛んでったら、アンタ、玄関先でうずくまってたんスよ! ほんともう、ボクその場で心臓止まるかと思うほどびっくりしたんスからね!」
カルナがバイトの帰り道で急に具合でも悪くなって、助けを求めようとジナコの家にやってきたのではないかと、ジナコは当初そう思ったのだという。口に出しかけていた文句の類いを全て放り出して、カルナのそばへと駆け寄り、ジナコは大慌てでその肩を掴んで揺さぶった。ほとんど悲鳴のような呼びかけに、カルナがようやくのろのろと顔を持ち上げて。その瞬間、ものすごい濃いアルコールの匂いがたちこめ、なるほど酔っ払っているだけなのだとほっと胸をなで下ろしたのだ。
しかし次の瞬間、ジナコはカルナの肩に乗せていた手を捕まえられ、あれよあれよという間にその腕の中にきつく閉じ込められていたのである。顔をしかめてしまいそうなくらいのアルコールの匂いに包まれて、ジナコの方までうっかり酔っぱらってしまいそうなほどだった。
「そのあとカルナさん、一体何し始めたと思う!?」
「
……
すまん、全くわからん」
「ぼっ、ボクをっ、ぎゅうぎゅうに苦しいくらい抱きしめて、ずっと、ずっと、ずーっと、耳元で『好きだ』って言い続けてたんスよッ!」
「は」
――
キミが好きだ。どうしようもなく好きなんだ。キミが欲しくてたまらないんだ。いつだってそばにいたいし、そばにいてほしい。本当はいつだってこんなふうにたくさん抱きしめたい。手を繋いでいたい。キスがしたい。それ以上のこともしたい。キミの内に俺を招き入れて欲しい。俺にはもう、キミなしの人生など考えられない。
そんな、平生であれば顔から火でも噴きそうなほどこっぱずかしいことを、しかしカルナはジナコを抱きしめたまま延々繰り返していたのだという。
どんなに暴れても叫んでも離してくれず、このまま玄関先で攻防を繰り広げていても埒があかないし、ジナコは色んな意味でひいひい言いながら、カルナを家の中へと引きずり込んだのである。ご近所様に迷惑をかけ、後日後ろ指を指されながらひそひそされるのは御免だ。
しかし結局そのあとも、カルナは「離れたら即死にます」とでも言わんばかりにジナコを強く抱きしめたままだった。そういうわけで、そのまま二人揃ってもつれ合うようにベッドの上へ転がるしかなかったわけだ。
離れろ落ち着けそして水を飲め、とジナコが何度言い聞かせても、カルナは頑是ない子どものように首を横に振るばかりだった。熱っぽい声で「好きだ」と繰り返し続けるだけの機械になってしまった彼が、くすんくすん、と幼気に鼻を鳴らしながら一生懸命擦り寄ってくるものだから、ジナコとしてもあまり強く突き放すことができず、遠い目をしながらハイハイと適当に頷くことしかできなかったのである。
「カルナさんってばそのあともボクを離さなくて、そのままぐーすか寝ちゃうし。ていうか、ぐでんぐでんの状態でベッドまで引きずってくのがそもそもめっちゃ大変だったんスからね。慈悲深いジナコさんを、カルナさんは存分に感謝して褒め称えるべきッス! そうでなかったら床に転がして放置ッスよ!」
「あ。ああ、そうだな。ありがとうジナコ」
「
……
そんな素直に言われると、それはそれでちょっと困るんスけど
……
」
ジナコは何やらもにゃもにゃ言いながら、困ったようにへにょりと眉尻を下げていた。
カルナの予期せぬ訪問と、その後に浴びせられた大告白祭りで多大に迷惑はかけてしまったことには違いなかろうが、幸いにもこちらに向けられる感情に嫌悪や恐怖の色は見当たらない。ひとまずジナコを傷付けるようなことには至っていなかったらしく、カルナは内心安堵の息を吐いていた。かなり恥ずかしい醜態を晒してはいたようだが、ひとまずその行為によってジナコが悲しんだり苦しんだりしていなかったことがわかれば、正直あとのことは全て些事である。それこそ彼女の言うとおり、そのまま家を叩き出されなかっただけ有情といえよう。
「今回の件は本当にすまなかった。覚えていないとはいえ、オレがお前に迷惑をかけたことは確かだ。疾く此処から立ち去ろう。お前が望むのならば、しばらくは顔を出さん。
……
出さない、ように、したいと、思う
……
」
泥酔状態でほぼ意識がないときに自然と足を運んでしまった以上、あまりこの言葉も信用されないだろう。けれどもうしばらくは酒を断とうと決めているし、こういう事態に陥ることもそうそうあるまい。酒による熱で彼女への気持ちを誤魔化そうとしていたのに、まさか逆にたがを外して暴走させる結果になるとは思わなんだ。
「では失礼する。愚行の詫びは後日改めてさせてくれ」
そう言い残して早々にベッドから下りようとしたカルナを制したのは、他でもないジナコだった。カルナが離した手を今度は彼女が取って、それだけでカッと一気に体温が上がるのがわかる。ぎゅっと力いっぱい握り返したくなる自分を制するのでいっぱいで、カルナは言葉を失ってしまった。
「ちょ、待って待って。そんな状態で家まで帰れると思ってんスか? 顔色が悪い
……
のは、まあ正直いつものことかもしれないッスけど、今日はホントに死にそうな顔してるんだよ?」
鏡を見るかと冗談めかして問われるのと同時に、胃の底の不快感が思い出したように襲いかかってきた。反射的に食いしばった歯の間から、噛み殺しきれなかった呻きが零れ落ちていく。そのままふらふらしている身体を、ベッドの上へと押し戻されてしまった。
「とりあえずお水持ってくるから、落ち着くまでは大人しくしてるッス」
よしよし、とまるで姉が弟をあやすかのような調子で頭を撫でられて、どういう顔でこの優しさを享受していいのかわからず、カルナはただ大人しく頷くことしかできなかった。ただ、満足げにニッと歯を見せて笑ったジナコの顔があまりにも可愛くて、愛おしくて、まあ何でもいいかという気持ちになってしまったことだけは確かであり。
とにかくこのときは、己の目にカメラのような機能が搭載されていないことをとても惜しく思った。もし今の笑顔を焼き付けることができたら、たとえこのあとジナコから「しばらく来るな」と言われても、それがあれば多少の間は耐えられるだろう。否、逆に会いたい気持ちが加速するような気もするが、果たして。
部屋を出て行くジナコの背中をぼんやりと見送ってから、カルナはいささか重くなってきた瞼を抗うことなく閉じたのだった。
++++++
「
……
なんで、ホントに何にも覚えてないんスか、カルナのばか」
廊下に出て、扉をぴったりと閉めて。そうして彼にこの声が聞こえないことを確認した後、ジナコはぽつりと独りごちた。そうして、馬鹿はジナコのほうだろうに、と自嘲めいた笑みを唇の端に浮かべる。
さきほどカルナに肩って聞かせたことは、おそらく大体が正解のはずだった。少なくとも嘘は言っていない。けれど敢えて口にしなかったことはあった。カルナのそんなこっぱずかしい言動に対して、ジナコが彼に返したことである。
痛いくらいの力で抱きしめられて、ぽつぽつと雨粒が落ちてくるかのように耳元に吹き込まれていった、カルナの声。
その声が何故か、ジナコにはまるで彼が泣いているかように聞こえたのだ。
降りしきる雨の中、ずぶ濡れになりながらぽつんと立っていた彼の姿を、その声によって不意に思い出してしまった。ひとりぼっちで、寂しそうで、ひどく寒そうで。けれどそのことに、自分自身でそれに気付いていなさそうなあの姿を。
そのときジナコの中には、彼を一人でいさせたくない、この手を離したくないというあの衝動にも近い感情が、再び芽生えていたのだ。
ぎゅうっと胸の奥が切なく締め付けられて、苦しくて、もうどうにかなってしまいそうだったのだ。だからこそ、これ以上は耐えられない、離してくれと懇願したのに、カルナは全く聞き入れてくれなかった。本当に、ひどい男に捕まってしまったものである。
けれどそんなひどい男から注がれた言葉に、染みこんでくる体温に、心が大きく揺さぶられてしまったのは事実だった。
アルコールの匂いとともにじわじわと染みこんできた彼の言葉が、ジナコの中へと我が物顔で収まっていく。ぴったりと嵌まったその場所から、ジナコの知らない類いの熱が発せられていく。その熱で彼をあたためてやりたいと、そうしたいがために今此処で抱きしめ返したいと彼に手を伸ばしたのも、結局ぜんぶはジナコ自身の意思なのだ。
無意識のうちに抱きしめ返していた自分に気付いてはっと顔を上げたら、鼻先が触れるくらいの距離に、彼の赤らんだ顔があって。
いつもは痛いくらいに相手を射貫く強い瞳が、今はまるでさざめく湖面のように、不安定にゆらゆらと揺れているのに気付いてしまって。
二人の呼吸が、不意にぴたりと重なり合ったタイミングで、止まってしまって。
――
気が付けばジナコは、むせ返るような濃いアルコールの匂いをたっぷり含んだままのカルナの唇に、自分のそれを重ねていたのだった。
「あ、あああ~
……
!」
なんてとんでもないことをしてしまったのだろうか、自分は。
ジナコは意味を成さないうめき声を上げながら、その場にずるずるとうずくまってしまった。顔どころか全身が熱い。湯気でも噴き出しそうな心地だ。カルナが二日酔いのせいでぽやぽやしてくれていて大変助かった。もしこんな状態になっているところを見られて、いつもの調子で指摘などされたら、反射的に何をやらかしてしまうか自分でもわからなかったから。
それにしても、あんなふうに酔っ払って何もわかららなくなっている人を襲うなんて、本当に最低な行為である。たとえその相手が、自分のことを好いているのだと喧しいくらい伝えていた人だとしてもだ。さすがに最低限のマナーというものが存在しよう。
しかもカルナは現役大学生で、はっきりとした数字を知っているわけではないが恐らく十以上は年下で、まだ親の庇護を受けている段階の健全な青少年で。
かたやこちらはアラサーの半引きこもりで、一応職に就いているとはいえそれだけで食べていけるほどの稼ぎはなく、生活費のほとんどを親の残してくれた遺産に依存しているような駄目人間で。
「と、年下のいたいけな青少年を家に引きずり込んで不純異性交遊とか、ほんとシャレになんないッス
……
!」
こんなのカルナが然るべき場所に訴えたら最後、明日のニュースにジナコの写真や名前が出てしまうことは間違いない。手を出してしまった事情が何だったにせよ、世間様から見れば間違いなく、ジナコが指をさされて非難され糾弾される構図である。
たとえカルナが一方的に押しかけてきたとか、どう足掻いても離してくれなかったとか弁解したところで、結局のところ明確に手を出したのがジナコ自身の意思によるものであることは揺るぎない事実だ。カルナはただ、聞いているのが耐えられないくらいこっぱずかしい愛の告白を、抱きしめたジナコの耳元で延々と並べていただけなのだから。
「
……
カルナさんが覚えてないならワンチャンある
……
?」
不意に口からこぼれ落ちたのは、責任感もクソもない最低すぎる発言だった。
けれどいくら社会的地位が最底辺といえるジナコだって、自分の身が可愛いのである。今のこの生活をぶち壊すようなことを積極的にしたいはずがない。そう、カルナと穏やかに過ごせているこの日常を、壊したくないというのが一番大きな気持ちだった。
コップに水を汲んで、もたもたと寝室へ戻る。部屋に入ると、カルナはベッドの上であぐらをかいて窓の外をぼんやりと眺めていた。こんな気の抜けた姿でも、なまじ顔が良いせいでめちゃくちゃ絵になるから困る。人類の眼に録画撮影機能が搭載されるのは果たしていつか。
「ジナコ」
「は、はいッ!?」
ぼうっと惚けているところに不意に呼びかけられて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。危ない、平常心、平常心、と己に言い聞かせながら、持ってきた水入りコップを彼の方へと差し出してやる。
「お前への詫びを考えていたのだが」
「へ? べ、別に要らないッスよ、そんなの!」
「そうはいかない。俺の気が済まない」
珍しく懇願するような調子で言うものだから、ジナコもぐっと言葉に詰まってしまった。へにょりと下がった眉が、どうしよう、あまりにも可愛らしい。
しかしカルナが次に放った言葉が完全に想定外で、ジナコは危うくその場で卒倒しそうになってしまった。
「今日から三日分、俺の時間をお前にやろう。幸いなことに大学は休みだし、バイトもない。お前の好きに使うといい。家事を言いつけるでも、ゲームの相手をするでも、何でも構わん。お前が望むことなら何でもしよう」
「な、何でもって
……
」
もしここがエロゲーの世界で、カルナがヒロインの内の一人だったら、それこそ本当にエラい目に遭わされているところである。あまりに己の身を軽んじた発言に、ジナコは色々心配になってきてしまった。この人、街とかで知らない人に高い壺なんかをしょっちゅう買わされてるんじゃなかろうか。
ああ、けれど。
「
……
何でも、いいの?」
「! ああ、もちろん」
昨夜散々カルナから浴びせかけられた熱のせいで、どうやらジナコの脳みそも馬鹿になってしまっているらしい。差し出された甘美なものに、うっかり手を伸ばしてしまっていた。でもカルナだって、ジナコが間接的に了承の意を示してしまったことで、まるで急に空が晴れ渡ったみたいにぱあっと顔を輝かせ出すのだからずるい。本当に、この男は、心底ずるい。
「じゃあ、ええっと
……
まずは、そうッスね。カルナさんの体調が戻るまでゆっくり寝ててほしいッス。これ飲んだら布団に入って大人しく寝るっスよ!」
「む、しかし、それでは何もしていないのと同じではないか?」
「何でもいいってアンタが言ったんでしょ! アタシの言うこと聞きなさい!」
「
……
承知した」
カルナは受け取ったコップをあおって一気に飲み干すと、躊躇いがちにベッドの上で横になった。やはりまだ少ししんどかったらしい。
「俺が、休んでいる間、お前はどうする
……
?」
さっそくうとうとと船を漕ぎ始めながら、しかしカルナはジナコを気遣うことを忘れなかった。きゅう、と胸が甘く締め付けられる心地がして、顔は反対にだらしなく緩みそうになる。
「カルナさんが起きるまで、ここでゲームしてるッス」
「
……
そうか」
カルナは満足そうに言うと、目を閉じて布団の中で丸くなった。やがてすうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めるが、ジナコは固まったまま動けなくなってしまった。
何であんなに嬉しそうな顔をされたのか。答えは明白だ。好きな人がそばにいてくれたら、なんだって嬉しい。ジナコもそれを理解している。理解しているからこそ、ジナコも今ここにいることを選んだわけで。
「う、うう~!」
カルナを起こしてしまうといけないので、小声で呻く。頭を抱えてうずくまると、自分で思っていた以上に顔や全身が熱を持っていることがわかった。恥ずかしい。もう床の上をめちゃくちゃにのたうち回りたい気分だ。さすがに絵面が痛すぎるのでしないけれど。そんな時制がきくくらいの理性は持ち合わせている。衝動に任せてカルナにキスしただろうって? うるせえ黙れそれとこれとは話が別だ。脳内のもうひとりの自分を殴り倒して黙らせる。
何にせよ、ジナコはもうどうしたって認めるしかなかったのだ。カルナがジナコを好きなのと同じように、ジナコもすっかりカルナのことが好きなのだということを。
彼が起きたとき、果たして自分はいったいどんな顔をすればいいというのか。
「う、ううう
……
っ!」
どんなに考えても残念ながらさっぱりわからなかったジナコは、ひとまず偉大なる専門家が作ったものから知恵を拝借すべく、しばらく触っていなかった恋愛シュミレーションゲームへと手を伸ばしたのだった。
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