夜半の初恋

コミュ障改善の一環としてコンビニでアルバイトをしていたカルナと、そんなコンビニに訪れる引きこもりジナコの出会いとその後のお話(現パロ)。
一部Pixivに掲載済みの部分もありますが、まとめたほうが読みやすいと思ったのでこちらですべてまとめています。


雨夜の恋歌



 ラーメン屋での不思議な一件以降、ジナコはコンビニへ顔を出すたびに顔が良すぎる店員、もといカルナという青年と、他愛ない会話を交わすようになっていた。

 会話と言っても、一応業務中である彼の邪魔をするわけにもいかないので、レジに商品を通している間に手持ち無沙汰に少し雑談をするとか、その程度のものである。しかしそんな些細なイベントであっても、カルナはジナコからすると過剰に感じるくらい楽しみにしてくれているらしい。いつもジナコが店内に入るなりぱっと嬉しそうに顔を輝かせ(表情筋が死んでいるレベルで動かないので非常にわかりにくいのだが、何度も見ているうちに雰囲気でわかるようになってきた)、ジナコがレジに並ぶのを今か今かと待っているのだ。
 その様といったら、まるで尻尾をぶんぶん振りながら、玄関の前で主人の帰りを待っている忠犬のようなのだ。なんだか妙にかわいらしく見えてしまう。以前はあんな無礼な男の顔も見たくないと思っていたのに、今となっては自分でも嘘だと思うくらいすっかりほだされてしまっていた。できるだけ長く話す時間を作ってやろうと、いつも少し多めに商品を買ってしまう癖がついてしまったのは、いわゆる不可抗力というやつであろう。ジナコは悪くない。
 友達から始めようというジナコの要求を素直に受け入れたらしいカルナは、ジナコに対して自分本位の無理なアプローチをしかけてくることはなかった。カルナはあくまでレジカウンターを挟んだ客と店員という関係を保っており、自分から積極的に崩そうとはしてこない。これから一体何をされるのかとジナコは少しばかり身構えてもいたものだから、少しばかり拍子抜けしたというのが本音だった。
 つまり今二人がしているのは、ただ限られた時間の中でとりとめのない会話をして、お互いのことを少しずつ知っていくことだけだった。
 なるほど、まるでお手本のような健全な親交の深め方である。世間一般のつきあい方と比較してもずいぶんゆっくりと言えるほうだろう。まっとうな人付き合いなんて数年単位でいていないから、ジナコの中にある正解の定義がそもそもだいぶ曖昧なのだけれど。
 こう言うと何だかジナコのほうに不満があるように聞こえるかもしれないが、実際のところ全くそうではなかった。ジナコ自身、今の穏やかでのんびりした彼との不思議な関係は存外気に入っており、どこか心地良いとすら感じている。だからこそ少しだけ工夫を凝らしてまで彼とたくさん話せるようにしていたわけで。
 ただ、彼は現役大学生だと聞いていたし、もっとそういう年頃の若者らしく、自分の欲に従ってガンガン迫ってくるとばかり思っていたのだ。ジナコにそういう類いの魅力を感じないからかもしれないと一度は考えたのだけれど、もしそうならばそもそも「お前に惚れた」だなんて言葉を使う必要はなかったはずだし。あのときのカルナとのやりとりは思い出すだけで赤面しそうなので、あまり深く考えないことにしているのだけれど。
 とにかく現状カルナがジナコに対してやっていることといえば、前述のとおりの何でもない会話と、コンビニ店員として客に対して当たり前に行っている接客作業だけだった。彼は果たして不満ではないのかと、そんなことを言える立場にはいないとわかっているのに思ってしまう。
 カルナとて人付き合いが得意な方ではなさそうだが、それでも人と接すること自体を拒んでいるわけではないと、ジナコは今までのやりとりの中で何となく察することができていた。だから何度も何度も繰り返し見かける顔馴染みの客と、少しだけ深く接してみたいと思ったのかもしれない。ジナコがカルナの立場だったら、ちょっと仲良くなれたりしないかなと期待くらいはするだろうし。
 
 まあ何はともあれ、こうして主に深夜帯にマイペースにコンビニに足を運び、カルナと他愛ない会話を交わすというイベントが、ジナコの日常生活の中に恒常実装されたのであった。
 一応付け加えておくが、決してカルナのバイトシフトが深夜に多いから合わせているというわけではない。元々夜型で、不意に思い出して外へ出るのが自然に深夜となるだけだ。別段、深意味はない、と思う。少なくともジナコ自身はそう思っていた。
 でもこういう日常も悪くはないと、正直なところ思っていたりはする。
 次に会ったときはもう少したくさん話ができればいいなと帰り道でちょっぴり願うくらいには、ジナコもカルナに対しての親愛を深めていた。


◇◇◇◇◇


「ジナコとの関係が進展しない……

 机に突っ伏しながらぼそりと零した友人の白い頭を眺めながら、アシュヴァッターマンは深く、それはそれは深くため息をついた。吐いた呼気で、顔を伏せているカルナの白髪が微かに揺れる。さながら風が吹き抜ける草原のようだが、あいにく二人が纏っている空気はそんな爽やかなものとはほど遠かった。

 場所は二人が通う大学の食堂、時間は昼飯時を少しばかり過ぎた頃合いだった。ピークを過ぎた食堂内は人の姿もまばらで、奥の厨房からは使用済みの食器をぶち込まれた食洗機が、律儀にせっせと働いているらしい唸り声が聞こえてくる。
 アシュヴァッターマンは本日午前のみで授業が終わりなので、本当なら適当に昼食を取ったらさっさと帰ろうと思っていたのだ。けれどあからさまに萎びた雰囲気をまとった友人が、らしくもなくため息など吐いて肩を落としながらもそもそと元気なく食事をしていたものだから、うっかり「どうした?」と声をかけてしまったのである。その結果、返ってきたのが冒頭の言葉だったわけで。
 彼が口にした『ジナコ』というのは、先日失礼な言葉を吐いたカルナにビンタを食らわせたという女性のことである。一体どんな魔法を使ったのか、名前を聞き出し、尚且つ平穏に会話ができるくらいの仲にはなったらしい。ジナコがどうの、ジナコがこうの、と正直たいした話でもないのに頬を染めながら嬉しそうに、そしてまるで大切にしまっている宝物を得意げに見せてくれるような顔で語ってくるカルナの姿は、良かったなと安堵する一方、正直「お前は誰だ?」と問いたくなるくらいだった。何だろう、先日もこんな感情を彼に対して抱いたばかりな気がする。
 カルナとアシュヴァッターマンはそれなりに長い付き合いのはずなのだが、こんなにぽやぽやした雰囲気を纏っているカルナの姿なんて、今まで一度も見たことがなかった。ついこのあいだまで、恋と鯉を混同しそうだと兄弟子たちにからかわれていた青年は、果たしてどこへいってしまったのやら。まるでこの世の春といわんばかりの浮かれっぷりに、素直に祝福する気持ちももちろんあるものの、アシュヴァッターマンの内では彼の行く末を心配する気持ちのほうがほんの少しだけ勝ってしまっていたのだ。
 そして案の定というか何というか、今目の前にいるカルナはひどく落ち込んでしまっている。最初こそ関係が進んだ(アシュヴァッターマンから見ればマイナスがようやくゼロに戻ったかどうかといった程度なのだが)ことを素直に喜んでいたようだが、それ以降一ミリも状況が動いていないことにさすがにやきもきし始めたらしい。

「進まねーとはいうけどよォ。オメー自身が進展するために何か努力したのか?」
……ジナコがそうすることを望んでいるのかが、そもそもオレにはまだわからない」
「はァ?」
 
 お前は一体何を言っているのかと、怪訝な顔をしながら人差し指でつむじの辺りをビシビシつついてやる。ややあって持ち上がった顔には、やっぱりアシュヴァッターマンが今まで見たことのないような表情が浮かんでいた。こいつはこんな人間くさい顔ができたのかと、思わず一瞬息を呑んでしまうくらいには。
 そんなアシュヴァッターマンを余所に、カルナは胸中にため込んでいたであろう言葉たちを訥々と零していく。

「オレはジナコと言葉を交わせるだけで、心の底から歓喜していた。幸福だった。この身に余る栄誉を与えられていると思ったんだ。彼女とラーメンを食べた日から、世界の色が変わったと感じるし、彼女との時間を思いながら食すラーメンは普段の三割、いや五割増しで美味かった」
「んな大袈裟な……
「だが恥ずべきことに、オレは存外傲慢な男だったらしい。いつからか今の関係では足りないと思い始めてしまった。もっとジナコのことを知りたいし、オレのことも知ってほしい。もっとたくさん話がしたい。一緒の時間を過ごしたい。もっと言うなら、その……手など繋いで、隣を歩いてみたい。そう思っていることを自覚してしまった日から、彼女の背を見送るたびに、気持ちが沈んでゆくばかりだ。あの日から、あんなに美味いと感じていたはずのラーメンの味がわからなくなってしまった……!」
「あーあーあー、わかった! わかったが、話がややこしくなるからとりあえずラーメンからは一旦離れろ!」

 何故か大袈裟なくらい悔しげにしているカルナの頭に、アシュヴァッターマンはガッと手を突っ込んだ。そしてその白い髪を乱雑にかき回し、腹の底から噴き上がりかけた苛立ちをどうにかこうにか飲み下す。
 しかし、ラーメンを美味しく食すということにここまで執着するとは。彼女と向かい合って食事ができたことがよほど嬉しかったらしい。あいつはあんなにラーメンが好きだっただろうかと、友人たちに怪訝な顔をされているのを彼は知っているのだろうか。知らないのだろうな、とアシュヴァッターマンは何度目になるかわからないため息をついた。いや、ラーメンの話は正直どうでもいい。
 
 話を本題に戻すとして。

 どうやらカルナは、己の中で新たに湧き上がった彼女に対する気持ちを、傲慢で恥ずべきものだと思っているようだった。今の彼女との関係に満足できず悶々としているのは、すべて己の欲深さ故であるのだと。
 しかし恋をしているというならこの程度の思いはあって当然であろうし、どちらかというとむしろ控えめですらあると言える。大学にいる共通の友人らなどは、まだ高校生気質が抜けきっていない者が多いせいもあるのだろうが、好きという気持ちが性欲に直結するような奴らばかりだった。
 もちろんそういう気持ちがあること自体が悪いというわけではないし、寧ろ彼らのほうがこの年頃としては健全だ。思考がそちら方面に行き過ぎてしまうのはもちろん問題になるだろうが、カルナに限ってそんなことは起こるまい。
 とにかくカルナが今抱いている欲望など、本人が考えているほど深刻でもなければたいしたことでもないはずだ、という話だった。手を繋いで一緒に歩きたいと口にするだけで照れて頬を染めるとか、何なんだその純情っぷりは。恋する乙女か。今時中学生だってもっと進んでいる。
 しかしアシュヴァッターマンがそう言ってたところで、カルナは絶対に納得はすまい。昔から変なところで頑固な男なのだ。

「で? お前は結局どうしたいんだよ」
「ジナコに、オレを好きになってほしい」
「ああ、そりゃーそうだろうな」

 それができれば話は簡単なのだけれど、そうはいかないのが恋愛というものである。
 しかし、あんな最悪も最悪としか言い様がないスタートからここまで関係を持ち直せたのだから、そう悪い感触ではないとアシュヴァッターマンは思うのだけれど。

「好きだってことは伝えたんだよな?」
「最初に口にした。オレはお前に惚れていると」

 だがあれ以降、そこまで深い話をするほど会話時間が取れていない、とカルナは言う。
 本当は何度だって繰り返し伝えたいのに、彼女がその言葉を受け取ってあたふたするかわいらしい様を見たいのに。しかし数分の会話を交わすのが精々といった今の状況では、なかなか難しいのだと。
 それなら本人から連絡先でも何でも聞き出して、仕事の片手間にではなく、会って話をすることを目的にする機会を設ければいいと思うのだけれど、己の欲を傲慢だと思っているカルナにはなかなか一歩が踏み出せないらしい。ジナコが望んでいないことを自分が無理矢理することはできない、と。

「でも多少は強引にいかねーと、永遠に前には進まねーぞ。どうすんだよ」
…………

 アシュヴァッターマンが改めて投げかけた問いかけに、しかしカルナは無言のまま再び机に突っ伏すだけだった。ごちん、とカルナの額と堅く冷たい机の板がぶつかった鈍い音が、閑散とした食堂内に虚しく響く。いつもはぴょんぴょん元気に跳ね回っている白髪が、今日は心なしか力なくへたっているような気がした。
 どうしたらいいのかなんて、間違いなくカルナ自身が誰よりも一番考えていることだった。その上でいつまで経っても結論が出ないから、こうしてへこんでいる。アシュヴァッターマンはやるせない気持ちでその頭を見下ろすことしかできなかった。
 おそらく彼の人生において初めてできた、心から愛しいと思う大切な人。けれど心から大切にしているからこそ、まさか自ら進んで踏み荒らすようなことはできなくて。己に許されている場所以上に踏み込んだら、彼女を傷付けてしまうかもしれない。そんな思いで動けなくなっている。もし再びビンタを食らってしまうような事態になったら、今度こそ彼女との間に決定的な溝が生まれてしまうであろうことも彼は理解しているはずだ。
 たとえそうなってもカルナはきっと諦めることなくジナコを求め、愛おしく思い続けるだろう。けれど自分の思いが決して変わらないことと、自分の思いばかりを押しつけてジナコを傷付けてしまうのを避けたいのとは、全く話が別なのだ。
 残念ながらアシュヴァッターマンもどうしたらいいのかはさっぱりわからなかった。完全にお手上げ状態である。さっさと先へ進めと背中を蹴飛ばしてやることくらいはできようが、今のカルナにとって最善の解決策だとはとうてい思えない。
 ジナコからカルナを求めて手を伸ばしてくれない限りは、どんなに強く蹴飛ばしたところでこいつはこの場を動きはすまい。カルナ自身が、ジナコの望むこと以外はしたくないなどと思っている以上は。

「あ~……その、何だ。わりーなカルナ。どうしたんだって俺から声かけといてなんだけどよ、俺はやっぱり恋愛相談には向いてねーと思うんだわ」

 アシュヴァッターマンはこれまでの人生のほとんどを男に囲まれてむさくるしく育ってきた身の上なので、女性の心の機微や男女のあれこれに関して深い造詣があるとはとても言えないのだ。そしてそれはカルナとて同じこと。故に二人でいくら頭をつきあわせていても、これ以上の進展は全く見込めないということだった。

「まー、あれだ。とりあえず、なんかその手の話に詳しそうな奴に適当に声かけて、相談に乗ってもらえねーか聞いてみるか」
「そうか。……そうだな。感謝するぞ、友よ」
「へーへー」

 ほんの少し表情を和らげたカルナの頭を、アシュヴァッターマンはさっきより強くかき回した。む、と非難めいた唸り声が返ってくるが無視である。
 最初に彼に相談をされたときにも、もっとその手の相談をするのに向いている奴に聞けと言ったアシュヴァッターマンだったが、今回に関しては自分のほうから声をかけてしまった案件だ。せめて一段落つくまでくらいは面倒を見てやるべきだろう。
 などと言いつつ、結局最後までつきあう羽目になりそうだという予感を無理矢理ねじ伏せながら、アシュヴァッターマンはスマートフォンの電話帳に目を通していくのだった。


 ◇◇◇◇◇


 雨の季節である。
 空を覆う雲から降り注ぐ水が、屋根を叩く音が一日中続く日も珍しくないような、そんな毎年恒例の時期を迎えていた。

 この季節にさしかかると、ただでさえプロの引きこもり生活をしているジナコは、ますます外へ出るのが億劫になってしまう。
 たとえ雨が上がったとしても、そのあとに訪れる、あの独特なむわっとした息が詰まるような空気も苦手なのだ。足下の水たまりから跳ねた泥水で靴やズボンが汚れるのも苦手だ。そんなことになる様を想像しただけで、玄関までの道のりが異様に長くなったように感じてしまう。
 結果的にただでさえ少ない外へ出かける回数がぐんと減り、どうしても必要になる生活必需品の調達は、家から一歩も出なくとも完結する通信販売を頼ることが増えてくるのだった。
 しかし毎年恒例であり、特に感慨があるはずもないこの状況も、今年は何だか妙に罪悪感のようなものを抱いてしまっている。
 原因は明白で、つまりはあのコンビニからも足が遠ざかってしまうことで、必然的にカルナと会う機会が減るからに他ならなかった。

「い、いや別に! ボクのほうが会いたいってわけじゃないッスけど!」

 ここ数日、胸の内に巣くうもやもやしたものの原因に気が付いた瞬間、思わず口にしたのはそんな言い訳じみた言葉。
 だって言葉を交わすたびに、カルナがあんなにも嬉しそうな顔をするものだから。ジナコがその機会を自分から奪ってしまうのが、何だか無性に申し訳ないような気がしてくるというだけなのだ。
 しかしそうやって結論を出した後も悶々とした気持ちを払拭することができなかったジナコは結局、雨の中であろうともコンビニへ足を運ぶという、今までの自分であれば絶対にやらないことを決行することにしたのだった。去年までの自分が今の自分を見たら、きっと目を剥いて驚くに違いない。
 実際今でも、お前は何をやっているんだ、という冷静な己の声が聞こえてきている気がする。そんなことをして、ジナコに一体何の利益があるのか。そうまでする理由は一体どこにあるのか。
 しかしジナコはそんな己の声を全部振り払って、外へ出ることを決めてしまったのだった。
 最後にいつ使ったのかもわからない雨傘を引っ張り出し、すっかりタンスの肥やしになっていた撥水性の高いレインブーツの中に足を突っ込む。つま先から伝わってくるひやりとした感触に、思わず小さく身を震わせた。
 のろのろと玄関の扉を開ければ、真っ黒な空からはしとしとと雨粒が降り注いでいた。一時間ほど前までは勢いよく屋根や庭先の地面を叩いていたのだが、つい先ほどになって雨脚が弱まったのである。
 今朝見た天気予報に曰く、明日の昼くらいまでは小雨が続き、これ以上強い雨になることはないらしい。ジナコはそんなお天気お姉さんを信じ、期間限定イベントのレイドボスに挑むかのような緊張感で外へ踏み出したのだった。
 時刻はすでに深夜帯といっていい頃である。
 もっと早い時間に家を出るべきだったかもしれないが、そうしてしまうと深夜帯が多いカルナのシフトと合わないため、せっかく一念発起して外に出たのに無駄足になる可能性が高い。そもそも、土砂降りの中での無茶な行軍はさすがに御免被りたかった。
 そしてそれ以上に、今日は無理そうだから明日にしようなどと思ってしまったが最後、このなけなしの決心があっという間に消し飛んでしまいそうな気がしたのだ。行こうと思えたときに動かなければ結局永遠に動けなくなるのだと、ジナコは経験上知っている。思い立ったが吉日。とは昔の人はよく言ったものだ。現状においては、ちょっと意味が当てはまらないような気がしなくもないが。
 畢竟、玄関の扉を開いて外へ出ること、そこからさらに自ら動いて目的地へ向かうことは、大凡常人と違う生活を送っているジナコにとってはそれだけで大行事だった。ただでさえ体力を使うのに、足元も視界も悪い中、転ばぬように濡れないように神経を尖らせながら歩くのは、心身が共にごりごりすり減らされる。現在のジナコのHPは初期値が低く設定されてしまっているのもあるけれど。
 普段は確かに自分以外の人間も生活していることがわかる、ほんのりとあたたかな気配が感じられる道も、今ばかりは完全に冷たい雨音だけに支配されていた。何だか体の芯からすうっと冷えていくような心地がして、ジナコは思わず縋るように傘の柄をぎゅっと握りしめる、黙々と足を進めていく。
 湿った重たい空気がべったりと肌にまとわりついてくるようだった。息が詰まる。雨音はノイズのようになって、ジナコの頭の中をかき乱していく。漠然とした、しかしずしりとした重量を持った大きな不安感が、両肩に重たくのしかかってくる。胃の底がぎゅうと引き絞られているようだった。
 どうして、一体何がこんなに不安なのか、自分でもよくわからない。
 暗闇そのもの? 人の気配が感じられないせい? 己の息遣いすら掻き消されて、暗闇に吸い込まれて、どこにも届かずに落ちていきそうなこと?
 思い付いて並べてみたその全てが原因かもしれないし、もしかしたらいずれでもないのかもしれない。わからないけれど、耐え難い孤独感に押しつぶされそうになっていることは確かだった。
 体の内の深いところから何か陰鬱とした重たいものがせぐり上げてきて、息が詰まる。これだから、こういう暗闇の横たわる空間が昔から嫌いなのだ。
 ああ、やっぱり帰ろうかな。慣れないことなんかするもんじゃない。
 そう思って、すっかり重たくなった足を今度こそ停止させて引き返そうとした、まさにそのときだった。


――ジナコ?」


 不意に、雨音を切り裂くような響きを持った声が、聞こえた。

 暗闇の中にカッと強烈な光が差し込んだような錯覚が、どこか薄ぼんやりとしていたジナコの脳裏を鮮烈に貫いていく。
 息を呑みながら反射的に顔を上げると、会いに行こうというなけなしの勇気をジナコに振り絞らせることになったその人が、すぐ目の前に立っていたのだ。


 ――何故か頭の先からつま先までぐっしょりの、まさしく濡れ鼠といった様相で。


「ホギャアァァァッ!?」

 近所迷惑も顧みず思わず素っ頓狂な声を上げてしまったジナコを、一体誰が責められようか。
 驚きで勢い余ってうっかり傘を放り出しそうになった手を、ぎりぎりのところで理性を取り戻し押しとどめただけでも、そこそこなレベルの偉業であるといえよう。

 いつもは元気よく跳ねているはずのカルナの白い髪はすっかり濡れそぼち、上を向く力を失って額や頬にべったりと張り付いている。鬱陶しそうに手で掻き上げている様が妙に色っぽくして、ジナコは己の心臓がとくりとことさら大きく跳ねる音を聞いた気がした。
 しかし、こう言うと彼にはちょっぴり失礼かもしれないが、幽霊が立っていたと言ったら普通に信じてもらえそうな様相だった。そう思わされてしまうくらい、目の前に立つカルナの姿には生気が感じられないというか、足元がふわふわしているというか。

「いや、え、ちょ、何してるんスか、そんなびしょびしょで!」

 数拍置いた後ようやく我に返ることができたジナコは、慌ててカルナへ駆け寄って早口で問いかけた。
 あわあわしているジナコとは対照的に、こちらを見下ろすカルナの態度はいつもどおりの淡々としたものである。

「これから帰宅するところだ」
「そうなんだ……じゃなくて、傘! 傘! 何で雨降ってんのに傘も差さないでぼーっと歩いてんの! あーいや、事情の説明は後でもいいから、とにかく早く入って!」

 大慌てで自分が差していた傘を彼の方へ傾ける。身長差がかなりあるせいで、かなり伸び上がらないと彼を中へ入れてあげられない。つま先立ちをしてなんとか頭の上まで傘の中へ納めようと奮闘するジナコを、カルナは眉間に微かな皺を刻みながら見下ろしていた。

「無駄なことをするものだ」
「うっさい! ボクがボクの勝手でしてるんだからほっとけッス!」

 自ら身を引いて傘の外へ出ようとするのを、ジナコが彼の手をぎゅっと握って制止する。長い間雨に濡れていたであろう手はすっかり冷たくなっており、さらにおそらくは突然のジナコからの接触によってぎゅっと固く強ばっていた。

「ほら、ちょっとはかがんでよ! ボクの手は某麦わら海賊みたいに伸び縮みしないんスから、濡れたくなかったら協力して」
……承知した」

 ジナコがあきらめ悪くキーキー言い続けた結果、カルナはようやく不承不承と言った様子でわずかに腰を折り、ジナコの傘の中に収まって大人しくなった。
 とりあえずほっと安堵の息を吐いて、カルナのアイスブルーの瞳を見上げる。濡れそぼった髪からは、ぽたぽたと雨粒が滴り落ちていた。

「で、傘はどうしたの? まさかこの季節に持ち歩いてないなんてことはないでしょ」
…………無くなった」
「あー、そう。ボクは空気が読めるオタクなので、一応これ以上は聞かないでおいてあげるッス。じゃあ、代わりにもう一個質問ね。傘もなくカッパもなく、これからどうやって家まで帰るつもりッスか?」
「オレが住んでいる場所までさほど遠くない。このまま歩いて帰る」
「へぇ~。では、そのおうちまでは何分くらいかかるんスか?」
「三十分程度だ」
「馬鹿なの?」

 本当に何でもないことのように答えるカルナに、ジナコは何だかすっかり脱力してしまい、ぐったりと肩を落とした。
 コンビニからここまで歩いてきただけでこんなにびしょ濡れになっているのに、ここからさらに三十分雨に打たれ続ければどうなるかなんて、小学生でもわかるだろうに。こんなに冷え切っていては、どんなに体が屈強であろうと風邪引きコース待ったなしだ。
 今日この時間にこの場所へ出てきて本当に良かった。
 オレは馬鹿なのかと至極真面目な顔で一人呟き、こてりと小さく首を傾げているカルナを眺めながら、ジナコは心底そう思った。もしここでジナコと出くわさなければ、カルナは本当に三十分以上冷たい雨の中歩き続けていただろう。ぞっとしない話である。

……カルナさん。あのさ」

 しかしこんな言葉がぽろりと自分の唇の間から零れ落ちたのは、ほとんど無意識でのことだった。

「今日は、うちに泊まれば」

 すべて言って終わってしまってから、何故こんなことを口にしたのかと自分でも驚いてしまった。
 驚いたように見開かれたカルナの瞳から注がれる視線が、ちくちくと刺さって痛い。
 けれどジナコは、今慌てて捕まえた彼の手を、どうしてもここで離せそうになかった。こんな冷たくて寂しいひとりぼっちの道を、冷たい雨に打たれながら彼に歩かせたくはなかったのだ。降り注ぐ冷えた雫を浴びながらぼんやりと立っていた彼は、そのまま雨に溶け、流されて消えてしまうんじゃないかと思うくらい、儚げに見えてしまったから。

……お前は、道端で偶然出会した男を、軽々しく己の家へ招くのか。不用心な女だな」

 顰め面をしながら返された言葉は非難がましいものだったが、カルナが純粋にジナコを心配しているということは何となく理解出来た。そんな緩い意識でいては危ないぞと、きっとそう言いたいのだろう。言い方はこれ以上ないくらい最悪だけれど。
 一瞬カチンときかけて、でもなんとかその言葉の真意に気がつけたからギリギリのところでそれを飲み込んで、ジナコは代わりに唇を尖らせてみせる。

「軽々しくないッスよ。だってカルナさんとボク、お互いに知らない仲ってわけでもないじゃないッスか。ボクだってさすがに見ず知らずの、数分前に出会ったばっかの人にはこんなこと言わないッス。カルナさんだから、いいの」
「ッ……そうかもしれないが、しかしオレは」
「はいはい、もうこの際つべこべ言わない! 風邪引いちゃうから急いで急いで! ボクのこと心配してくれるのは有り難いけど、その当事者のボクがいいって言ってるんだから!」

 眉尻をわずかに下げ、何やら困った顔でもにゃもにゃ言っているカルナを半ば遮るようにして、ジナコはさっさと踵を返した。己の手のひらの中で強ばったままのカルナの手を、うっかり滑らないようにしっかりと握り直し、先ほどまで一人黙々と歩いてきた道を足早に戻っていく。
 カルナは戸惑いがちに、しかし比較的大人しくジナコの後を付いてきてくれた。彼と一緒にラーメンを食べに行ったときも何となくこんな感じだったなと、そこまで昔の話ではないのに何だか懐かしく感じてしまう。
 そこから自宅までの道のりはあっという間だった。行きに要した時間の半分くらいしかかかっていないのではないだろうか。つい先ほどまでジナコの足をどうしようもなく重たくしていた不安感は、いつの間にかすっかり消え失せていた。早くこのびしょ濡れおばけをどうにかしなくてはという使命感がそれをかき消してくれたのか、或いは。

「とりあえず、ええと、まずはタオルッスかね。今持ってくるからそこでちょっと待ってるッスよ。どっか行っちゃダメだから!」
「知らぬ家の中だ、何処へ行きようもなかろう」
「はいはい、そーッスね。じゃあ大人しくしててね」

 家を出たときはあんなに重たく感じていた玄関の扉を半ば蹴破る勢いで開け、レインブーツを放り投げるようにして脱ぎ捨てながら、ジナコはカルナにそう強めに言いつけて廊下の中途にある風呂場へと足を急がせた。脱衣所の棚に詰め込んである大きめのバスタオルを数枚引っ張り出し、また慌ただしく廊下を戻っていく。
 ジナコが元の場所まで戻ってくると、カルナは落ち着かない様子できょろきょろと廊下や玄関のあちこちを見回していた。自分が戻って来たのを見て、ほっと安堵したように顔を緩めている。迷子の子供がようやく親と再会できたのを喜んでいるかのような雰囲気を醸し出す彼の姿に、何故だか急に胸の奥がきゅっと締め付けられるような心地がした。

「はい、タオルどーぞッス」
「ああ、助かる」

 ジナコが差し出した一枚を受け取りながら、カルナは小さく笑った。切れ長の目がわずかに細められ、唇の端がほんの少しだけゆるく弧を描く。
 彼を知らないほとんどの人が気付かないような些細な変化だ。間違い探しとして出されたら苦情が来るだろう。けれどジナコはどうしてかその小さな変化がわかるし、腹の底のあたりが静かにざわめくのを感じてしまうのだ。
 濡れそぼった髪からこめかみへ、そして顎へと滑り落ち、首筋を伝っていく雨の雫を見た瞬間、そのざわめきは今までにないほど強くなった。気のせいですませられないほどには。疲れたようにため息を吐くカルナの菅が、何だか妙に艶めかしく見えてしまって、ジナコは反射的に彼から顔を反らしてしまった。

「お、お礼なんていいから、早く拭いて!」
「む」

 うっかり湧き上がりかけた何かを誤魔化すように、ジナコはカルナへ追加でもう一枚タオルを押し付けた。顔面にふわふわのタオルを押しつけられたカルナのくぐもった声が、布越しにジナコの手のひらを振るわせる。
 何だか妙に顔が熱くなっている気がした。でもこれはきっと、自宅の廊下という超短距離とはいえ必死になって走ったせいだ。そうに違いない。そうでないと、困る。
 果たして誰に言い訳をしているのか自分でもよくわからないまま、ジナコはそわそわと落ち着かない心地で足下の床板を凝視していることしかできなかった。


◇◇◇◇◇


 ――何だか妙なことになってしまった。

 自分の家とは全く異なる色の浴室の天井を眺めながら、カルナはどこか他人事のようにぼんやりと思考を巡らせていた。
 あまりにも予想外なことばかり立て続けに起こったものだから、頭の中の回線がどこかショートしてしまっているのだろうか。己の傘が無くなってしまったのは、ある意味僥倖だったのかもしれない。

 一応弁明しておくと、家からコンビニへ向かう際には、一応きちんと傘を差して行ったのだ。差しては行ったのだけれど、いざ帰るときに傘立てを見たら影も形も無くなっていたのである。おそらくはここを通りかかった誰かが、カルナの知らぬうちに持って行ってしまったのだろう。
 だからあの場でジナコに嘘をついたというわけではない。ただ、無くなった経緯をあれこれと説明する必要を感じなかっただけだ。どうせどこで購入したかも覚えていない安物の傘だったし、そのおかげで見知らぬ誰かが濡れずに帰れたのならそれはそれでカルナとしては喜ばしいことである――と、先刻ジナコにそう零したら、何故か随分と険しい顔をされてしまった。何か怒らせるようなことを口にしたのだろうか、自分は。
 カルナのバイトが終了して帰宅する時分になっても、外は相変わらずの雨模様だった。初めこそコンビニで売り出されているビニール傘でも代わりに購入して帰ればいいだろうと思っていたのだが、あいにく傘はおろか、カッパなどの雨を凌げそうな商品はことごとく品切れとなっていたのだ。ここ数日はずっと雨天ばかりで、先日店長が早めに在庫補充をしようと発注をかけていたはずなのだが、到着が間に合わないうちに完売御礼となってしまったらしい。
 ないものはいくら求めても仕方がないので、カルナはそのまま何も装備せずに家まで帰ることにした。ここから家までは歩いて一時間もかからない道のりだし、こういう事態には比較的慣れている。何となくいつも間が悪いというか、どうにもそういう星の下に生まれてしまったらしいというか。
 しかしコンビニの駐車場から歩道に踏み出した瞬間、通り過ぎていったトラックが跳ね上げた水たまりの水を頭から思い切り被ってしまったのには、さすがに閉口した。タイミングが悪すぎてげんなりする。
 外へ数歩歩き出さないうちからずぶ濡れになってしまったカルナは、しかしそのまま黙々と家路につくことにした。戻っても着替えなどがあるわけでもないし、そうやってもたもたしている時間で家へ帰ってしまったほうが賢明であろうと思ったのだ。家にたどり着きさえすれば熱いシャワーを浴びられるし、着替えもある。ここまでびしょ濡れになってしまったのだから、これからいくら濡れようとたいして差はあるまい。
 体を縮こまらせるようにして、暗い道を一人黙々と歩いた。被ったフードの向こうで聞こえる雨音のせいか、何だか頭がぼうっとして。自分が果たして今どこを歩いているのか、だんだんとわからなくなってきて。

 そんなとき、目の前に突然ジナコが現れた。
 何故か最近コンビニに姿を現さなくなっていた想い人が、まるで落ち込むカルナに救いの手を差し伸べに来たかのごとく、そこに立っていたのだ。

 どんよりと湿って重苦しく肩にのしかかってきていた暗闇が、彼女を目にした瞬間、一気に晴れたような気がした。
 そこにあるのが幻か何かだと思いたくなくて、カルナはジナコの名前を呼んだ。果たして彼女の姿は煙雨に溶けて消えることなく、顔を上げるなりカルナを凝視して奇声を発したのだった。
 喜ばしくも偶然邂逅を果たしたジナコは、本気でカルナの身を案じ、あまつさえ心配そうに眉尻を下げながら自分の傘に入れようとしてくれた。傘をカルナへ傾けたせいで、外へはみ出してしまった己の肩や腕が濡れることすら厭わずに。
 そのときカルナの胸中に去来した歓喜は、言葉ではとうてい説明し尽くせないほどだった。ここしばらくジナコと顔を合わせる機会がなく、関係を進めるどころかいよいよ愛想を尽かされたのかと、これまでに増してがっくりと沈んでいたところだったから。
 けれどこうして再会し、その上ジナコはカルナのことを少なからず大切にせねばと思ってくれている様子であることがわかった。カルナはもうその場で飛び上がりたいくらいには嬉しかったのである。

 しかもあれよあれよという間に、こうしてジナコの家へ招かれることになってしまった。

 手を引かれるまま連れて行かれ、玄関でずぶ濡れのジャケットを剥くようにして脱がされた後、引きずられるようにして浴室へ放り込まれ。そして現在は、湯船に浸かって一人静かに体を温めているところである。
 彼女との関係が思っているところへ一向に進まない、否、進められないと嘆いていた数週間前の自分に、今の状況をつまびらかに語って聞かせてやりたかった。きっかけというのは案外思わぬところでころりと落っこちてくるもの、故にあまり落ち込むなかれ、と。
 しかしこんなことになるなんて夢にも思っていなかったので、今どういう顔をしてここに座っていればいいのかがいまいちわからない。
 少なくともカルナの中に、ここでジナコを無理矢理どうこうしてしまおうという気持ちはこれっぽっちもなかった。欲に任せて彼女に襲いかかってしまうのは簡単だが、そんなことをすればもはや自分は畜生以下の存在に成り下がるであろう。カルナが望む彼女との関係を、きっと今度こそ永遠に手に入れられなくなる。
 さらに言うならば、カルナの中ではジナコを手に入れたいという欲よりも、自分を彼女自身の意思で彼女に受け入れてもらいたいという思いの方が強かった。受け入れてもらいたいというか、自分という存在をジナコの中に入らせて欲しいというか。いや、もちろん物理的な話ではなく。こんな風に思うのが初めてのことだから、どうにもうまく説明できないのだ。元々言葉を操るのが得意なほうではないし。
 ジナコがこうして己の領域である家へ招き入れてくれたのが嬉しい。そのことに対して自分でも意外なくらい浮かれて、同時に緊張している。
 現時点でカルナがはっきりと形を認識できていることは、おおよそこれくらいのものである。自分で自分の心がわからないなんていうのは、本当に生まれて初めてのことだった。『恋』などというのは往々にしてそんなものなのかもしれないが。

 ジナコは先ほど、カルナに対してこうも言っていた。カルナだからこうできるのだと。

 こんなに嬉しい言葉が果たして他にあるだろうか。自分の存在が今こうしてここにあることを、他でもないジナコ自身に許されているのだ。カルナが望む彼女との関係には、存外手の届く距離まで近づけていたのかもしれないと、心のどこかでそう期待してしまう。ジナコもカルナを望んでくれているのではないかと。
 そう思うと何だか妙にむずがゆい心地がしてきて、カルナは湯船の中に深く沈んだ。吐いた息がぶくぶくと泡になって浮かび上がり、ぱちんと弾けては消えていく。

「カルナさ~ん? 大丈夫? のぼせた?」
「ッ! ジナコか」

 そのとき、扉の向こうからそんな声が聞こえてきた。
 はっとして湯船から飛び出すと、浴室入り口の曇りガラスの向こうに人が立っているのをぼんやりと認めることができた。ジナコがすぐそこにいるのだ。本当に警戒心がなさ過ぎて心配になるが、やはり自分が彼女にとって許されている存在故なのだと思うと、不謹慎だと思うがわずかに胸が躍る。

「いや、特に問題はない」
「ほんと? なら良かった。なんかいつまで経っても全然出てこないから、お湯の中で寝ちゃってそのまま溺れてるのかと思ったッス」
「オレがそこまで腑抜けた真似をすると思うのか。みくびってくれるなよ」
「も~、そこは素直に『心配してくれてありがとう』とかって言っとけばいいんスよ!」
「む、そういうものか」
「そういうものッス」

 着替えはここに置いておくからね~、というのんびりした調子で紡がれた言葉を残して、呆気ないほど簡単にジナコの気配が遠ざかっていった。
 突然の来客であることにもかかわらず、こうしてあれこれと世話を焼いてくれるのは有り難い。しかも普段から自堕落極まりない生活を送っていることが容易に想像できるあのジナコが、他でもない自らの意思でそうしているのだ。
 そんな自分にはもったいないほどの栄誉と奇跡を静かにかみしめながら、カルナは再び湯船に肩まで浸かる。
 しかし不意に頭をよぎった違和感に、カルナは湯を跳ね上げながら慌てて立ち上がった。吹き飛ばす勢いで扉を開けて、ジナコが置いていったと思われるカゴの中身を床の上へひっくり返す。

 入っていたのは、男性物のスウェット(上下セット)と下着だった。そう、紛う事なき男性物である。
 これはつまり、ジナコの家にこの衣類を身に纏う男が存在しているということの証左に他ならないのだ。

 先ほどまで胸の内を熱く震わせていた歓喜がみるみるうちに萎み、カルナはがっくりとその場に膝をついてしまっていた。全裸のままでそうしているのは端から見れば滑稽極まりなかっただろうが、どうせ誰も見ていないので許して欲しいところである。
 先ほどまで「自分は許されている」と思っていたが、実はカルナの勝手な勘違いでしかなかったのだろうか。ジナコには心に決めた男が既に隣にいて、カルナはそもそもそういう対象として見られていなくて。だからあくまで一友人として、カルナを気楽に家へ招き入れたのかもしれない。
 そう言われれば、確かにこの家は、ジナコが一人だけで暮らしているにしては少々大きすぎるような。

……いや、違う」

 予想とともに頭をもたげかけた逆らいようのない暗い絶望を、しかしカルナは根性で無理矢理ねじ伏せた。
 ジナコが本当に、同じ屋根の下で自分以外の他人とともに暮らしているならば、あんな不摂生を具現化したような食生活を送っているはずがないのだ。加えて、彼女がコンビニに食料品を買いに来ていた頻度と中身と量を全て詳細に知っていて、覚えていて、尚且つ毎日何人もの客とレジで相対してきたカルナにはわかる。あれはどう考えても、自分以外の誰かと共に暮らしている人間の買い方ではない。
 或いは住んでいるのではなく通っているのかもしれないが、もしそうならばカルナはその男と全力で戦わねばならなかった。
 ジナコと添い遂げたい、共にいたいというカルナと同じような気持ちを少しでも持っている男ならば、最低限彼女の体と心を守る義務があるはずだ。少なくともカルナはこうして心から恋い慕う相手を全力で守り、支えていきたいと考えている。
 しかし現状を見るに、ジナコはあの食生活を許容、或いは放任されているということになる。
 ジナコを甘やかしてやりたい、自由にさせてやりたいという気持ちがあるというならばそこだけは大いに理解するが、現状ジナコがされているのはどう考えても『放置』だ。甘やかしているのとは全く違う。カルナがしたいと願っていることとは全く別である。

 何にせよ、この服の出所をジナコの口からきちんと聞いておく必要があるだろう。

 けれど、たとえどんな真実がもたらされたとしても、ジナコを思う己の心は揺るがないという確固たる自信はあった。そんな簡単に諦められる恋心ならば、おそらくは彼女の足がコンビニから遠のいた時点で手放している。
 ただカルナは、あまりにもジナコ=カリギリという女のことを知らなかった。知る機会がなかったといえば簡単だが、自分から進んで知ろうとしなかったというのもまた事実である。
 ジナコが好きだという気持ちが覆ることはないと断言できるけれど、自分を受け入れて欲しいと願うならばまずは彼女の人生を、考えを、思いを、その全てをカルナがまずは受け入れなければならない。
 そんな決意を新たに、カルナは黙々と用意された着替えを身に纏い、浴室を後にした。洗濯機に入り損なったのか、ぴらぴらと誘惑するように揺れていた彼女のものと思われる下着は、一応見なかったことにしておく。そういうところに口を出すのは、もっとジナコとしかるべき関係になってからだ。
 この家の構造を把握しているわけではなかったが、人の気配がする方向くらいは何となく察知できる。微かに感じる気配を頼りに廊下を進み、突き当たりのドアに手をかけてそっと開けると、どうやらそこはダイニング兼リビングルームのようだった。壁掛け式の大型テレビの近くには、近頃毎日テレビのCMで見かける最新機種から、大昔に同級生が自慢していた懐かしの機器から、カルナが全く見覚えのない奇妙な形のものまで、多種多様なゲーム機が無秩序に散乱している。

「あ、お風呂終わった?」

 背後からかけられた声に振り返ると、そちらには台所があるようで、何やらがちゃがちゃとやっているジナコの背中が見えた。向こうから聞こえてくる、ごぼごぼごぼ、というのは何やら液体が沸騰している音であろう。脳天気な調子の鼻歌を口ずさみながら台所内をくるくると移動しているジナコの姿に胸がおおいにきゅんとときめいたが、それを苦労しいしい喉の奥へと飲み込んで、カルナはそっとその背中に声をかける。

「ジナコ」
「ちょっと待っててね~、今ちょうどタイミングよくお湯が沸いたッスから。本日の晩餐、もといカップ麺の準備をですね」
「ジナコ」
「はいはい、聞いてるッスよ。で、カルナさんは何味が好きッスか? 辛いほうが好きなんだっけ? じゃあ担々麺とかがいいかなぁ。あとはカレーうどんとかもあるッスよ」
「ジナコ」
……あーもう、何なんスかさっきから!」

 カルナに背を向けたまま台所の棚をがさごそやっていたジナコは、カルナの再三の呼びかけにようやくこちらを振り向いてくれた。
 かつてカルナの心をどうしようもなく掴んで虜にした榛色の瞳には、今はどこか柔らかな色が乗せられていた。いつかコンビニで見かけた、ご褒美をもらった子供のように興奮を隠しきれない様子のあの笑顔とはまた少し違う。しょうがないなあと、困ったように眉尻を下げた笑顔は、その穏やかなやわさとは裏腹に、カルナの心臓を抉るように強烈に貫いていった。

 ――かわいい、と思った。

 自分でもわけがわからないくらい、今目の前にいる女が、困ったような笑顔でカルナを受け入れようとしてくれている彼女が、好きだと思った。愛おしくてたまらなくなった。すっかり息をすることを忘れてしまった喉の奥からは、潰れたような呻きが微かに漏れる。

「ほら、何? 用があるならさっさと言うッス。ボクはエスパーとかじゃなんだし、名前呼ばれただけじゃカルナさんが何を言いたいかなんてわかんないッスよ。ただでさえ、カルナさんは言葉が足りないんスから」

 自分から呼びかけたくせに、無言のままじっと見つめることしかしないカルナを少し不審に思ったのか、ジナコはわずかに怪訝な顔をしながらそう問うてきた。
 しかし今のカルナは、その答えを持っていない。彼女へ対して抱く、自覚していたより遙かに強く激しい愛おしさで頭を強打された結果、用意していたはずの中身が完全に吹っ飛んだ。全部空っぽになってしまった。ここに残っているのは彼女への愛おしさだけだが、今ここで伝えたいと思ったのは、おそらくそういう話ではなかったはずで。

……すまない。オレにも、よくわからない」
「は?」

 カルナが躊躇いがちに紡いだ言葉に、彼女からは渾身の、もうこれ以上ないだろうというくらいの強烈な「は?」が返ってきた。思い切りひそめられた眉の下、分厚い眼鏡のガラスの向こうから、訝しげな視線が刺すように注がれてくる。
 自分でも理解出来ない感情を、衝動を、ひどく持て余しているのだ。しかしそれを今ジナコに自分勝手にすべてぶつけるのは完全に筋違いである。そんなの、いきなり突きつけられるジナコにとってはただの暴力だ。理性では十分に理解しているはずのに、どこからともなくわき上がってくる不可思議な声は、カルナが必死に押しとどめていることを許さない。

 ――いっそここでひと思いに捕まえて、食べてしまえばいい。

 己の中の獣がそう咆吼していた。
 そうすれば、ジナコを大切にしないカルナの見知らぬ男が彼女の心を奪っていようといなかろうと、カルナはジナコ=カリギリという女を己のものとしてしまえるだろう、と。

「ッ……

 いやだ、とカルナは静かにかぶりを振って、どこからともなくわき上がってくる乱暴な獣の声を払いのけた。
 そんなことはできない。できるわけがなかった。だって第一に、カルナはジナコに嫌われたくないのだ。カルナに向けてくれる日だまりのような尊い笑顔を失いたくはないし、ましてや自らの手でそれを壊すことになるなんて考えたくもない。カルナはジナコが好きで、大切で、だからこそその心を守るために、自分という存在を側に置いてはくれないものかと願ったのに。
 けれどジナコが、カルナがとうてい手の届かないようなところに自分の心を置いているかもしれない事実を直視するのは、きっともっと嫌だった。先ほどまでは、何があっても受け入れようと決めていたはずなのに。揺るがないだろうと己に問いかけ、肯定の答えを確かに得ていたはずなのに。ジナコの笑顔を見た瞬間にわき上がった愛おしいという気持ちが、衝動が、今はただ立ち尽くすしかできないカルナの背中をどうにかして突き飛ばそうと躍起になっている。
 二律背反の感情がぐるぐると腹の内で暴れ回り、今にも体が爆発してしまいそうだった。それぞれの感情を乗せた天秤が、公園にあるシーソーよろしく上下にガタガタと激しく揺れている。勢い余って皿から零れ落ちていきそうになる激情を、溢れ出さないようにと押さえておくだけで精一杯だった。
 口を開いたら、暴れ狂うそれらがそのまま飛び出してジナコに襲いかかってしまうのではないかと思えてしまって、怖い。何かに対してここまで強烈な、そして明確な恐怖を抱くなんて、今まで経験したことはなかった。
 腹のあたりをぎゅっと掴んだまま黙りこくってしまったカルナをじっと見つめていたジナコは、やがて大きくため息をついた。そして小さく肩をすくめながら、言う。

「ははーん。さてはカルナさん、今めちゃめちゃお腹が空いてるッスね?」
……?」

 彼女の口から自信満々といった様子で飛び出してきた言葉が、あまりにも突拍子もないものだったから。カルナの頭の中が、今度はまた別の意味で真っ白になってしまった。
 口を小さく開けたままぽかんとしているカルナを余所に、ジナコは妙に訳知り顔でうんうんとしきりに頷いている。

「わかるわかる、ジナコさんにもその気持ちはよーくわかるッスよ! 空腹が限界を超えたときって、もう自分でそうだとわからなくなっちゃうんスよね。我慢しすぎて、お腹空いたって気持ちを測るメーターがバグっちゃうんスよ。この間、平成が誇るクソゲー十選クリアRTAやってて丸三日何にも食べなかったとき、途中から逆にお腹空かなくなってたもん」
……そう、なのか」

 色々と口を出したいところはあったが、意味が理解できない単語がぽんぽん飛び出してくるせいで、やっぱり少しきょとんとしてしまう。
 けれど何だか楽しそうにしゃべっているのを遮るのも何やら悪い気がして、カルナは意味がわからないながらも、とりあえず相槌を打って話の先を促しておくことにした。

「でもやっぱり人間って、ちゃんと食べないとダメになっちゃうんスよね。その後、何にも食べないまま続行してたオンラインゲームで、普段ならあり得ないようなミスをめーっちゃ連発しちゃったんスよ。多分、うまく集中できてなかったんだと思う。そのことにもなんか無性にいらいらしちゃって、余計に集中できなくて。そうなるともうダメダメになる一方ッスよ。で、あとで録画してたプレイ動画とか見直してたら、その時のボクのプレイ、もうひどいの何のって!」
「ふむ」
「でも長年に渡って己の全てを捧げてプロゲーマーをやっているジナコさんは天才なので、そこで気が付いてしまったのです。『この見るも無惨なガバプレイ、もしやボクのお腹が減っているなのでは?』と! そのあとお腹いっぱいにして、ついでにがっつり昼寝してから再戦したら、案の定その前とは比べものにならないくらいキレッキレのプレイができたのだった!」
「なるほど。ジナコが普段から過剰なまでに不健康な食物を率先して食していたのは、己の成果を落とさぬための、ジナコなりの知恵だったということか」
「今してるのはそういう話じゃないですぅ~!」
「む」

 口封じとばかりに、顔面に大きめのカップ麺を押しつけられた。カルナは別にこんな無機物とキスがしたいわけではないのだけれど。
 やがてそれがおもむろに下ろされたとき、その向こうから再び現れたジナコの顔を、カルナはやっぱり愛おしいと思った。口調こそ怒ってはいたけれど、目に見える姿だけ見れば何だか不思議と楽しそうで。ふわりとやわらかくそのかんばせを綻ばせている様は、まるで大切に育てていた小さな花がようやくぽっと咲いたかようで。

 ぐう、と思わず低い呻き声を上げそうだった。

 心臓を握りつぶされるんじゃないかと錯覚するほどの、強烈な痛みというか疼きというか、とにかくそんな感覚たちに似たこの甘い衝動は、いったいどこからもたらされるのだろう。その柔らかそうな体に腕を回して、力いっぱい抱きしめて、香りを肺いっぱいに吸い込んで。ああ、そのまま永遠に閉じ込めてしまいたくなる――

「とにかくお腹空いてるとろくなことないから、何かやりたいにしてもまずは食べてからにしようってことッスよ! 腹が減っては戦ができぬって、昔の人はよく言ったもんッスよね~。そういうわけだから、座った座った!」

 しかしカルナの手が無意識のままジナコへ向かって伸びていこうとした刹那、彼女はくるりと踵を返して再び台所の方へ向き直ってしまった。少し外れた鼻歌を口ずさみながら、沸いた湯の入ったポットを片手に何やらがちゃがちゃと準備を始めている。
 すっかり行き先を失ってしまったカルナの腕は、手のひらは、そのまま大人しく元の位置へと戻るしかなかった。
 ひとまずは、彼女の言うとおり己の腹を満たすのを優先させる必要がありそうだ。指摘されてようやく自覚したのだが、確かに先ほどから腹の虫が激しく騒いでいるような気がする。そういえば、ちょうど業務が立て込んでしまったせいで休憩時間がかなり短くなってしまい、そのせいでタイミングを逸した結果まともな夕食を口にしていなかったような。さきほどから無性に腹の底からわき上がってきて収まらなかった飢餓感のようなものは、もしかしたら本当の空腹からくるものだったのかもしれない。
 湯の入ったポットを手にしたジナコと手ぶらのカルナは、そろってダイニングに設置されているテーブルについた。そして蓋をはがしたカップ麺の器の中に、順番に湯を注いでいく。
 ほこほこと立ち上る真っ白な湯気をぼんやりと見つめていると、ぐう、とかなり盛大に腹の虫が吠えた。その音を聞いたジナコは一瞬固まって目をしきりに瞬かせた後、けらけらと声を上げて楽しそうに笑ってみせた。

「なんだ、やっぱりお腹空いてたんじゃん」

 と肩をすくめながら、カップ麺ができあがるのを待っている間に、ジナコは冷蔵庫の中から何やらいくつかおかずらしきものを追加で出してきてくれた。
 焼き鳥の缶詰、イカの塩辛、枝豆、キムチ、カニかま――と、出てきたのはどうみても酒のお供といった感じのラインナップである。腹を満たすには少々物足りないものばかりだったけれど、彼女が気を遣って自分のものを分け与えてくれたということ自体が、カルナにはとても嬉しかった。
 自分は本当に、ジナコから何かをもらってばかりだ。カルナは出されたキムチを箸でちまちまとつまみながら、心の中で小さく呟いた。
 彼女からもたらされるものは、いつだってカルナの奥深いところに火を灯す。そこから生まれた熱が地獄の釜のように感情を煮えたたせしまうこともあれば、ぽかぽかと優しくあたためてくれることもあった。同じ人間から与えられているはずなのに、与えられたカルナの中ではその時毎に全く違う様相を見せるのだ。何とも不可解なものである。

「カルナさーん? そんなに考え事してるとラーメン伸びちゃうッスよ」
「! ああ、そうだな。いただこう」
「いただきま~す!」

 重しの代わりにしていた箸置きを退けて再び蓋を開くと、食欲をそそる香ばしい香りが湯気とともに立ち上り、踊るように軽やかに鼻腔をくすぐっていった。ぐう、と再び腹の虫が騒ぎ出し、カルナはわき上がってきた欲求に素直に従って箸を動かし、すくった麺を黙々と口の中へと運んでいく。
 カルナが選んだのはごくごく一般的な、塩ベーススープのカップラーメンだった。一般的に流通しているものだから、カルナも以前何度か口にしたことがある。けれどジナコの家で彼女と向かい合いながら食べるという特別な状況がそうさせるのか、今は何だか奇妙なほど新鮮な気持ちで味わっていた。癖になる独特な塩味が舌先からのどの奥へと滑り落ち、さきほどまで満たされないと駄々をこねていた腹の虫をじわじわと黙らせていく。

 美味しい、と思った。

 近頃ずっと悶々と一人悩みながら、どうにもならない気持ちを持て余して麺をすすっていたときは、味が全くといっていいほど感じられなかったというのに。ただの量産品でしかない即席のカップラーメンですら、今は本当に、心の底から美味だと感じられた。

「んんん、んま~い! やっぱ深夜のラーメンは背徳の味ッスね。この甘美を知らない人類は人生を損してると思うッス」
「そうか」

 前方に座るジナコはとろけきった顔をしながら、このために今日という日を生きてきたと言わんばかりの勢いで嬉しそうにスープを啜っていた。
 そんな彼女の顔を見ているだけでも、空っぽだった腹の内が満たされていくようだった。つられるように頬が緩んでしまう。ざわめいて仕方がなかったカルナの心も、そんな彼女のふにゃふにゃな笑顔に宥めすかされたのか、或いは拍子抜けしてしまったのか、先ほどまでと比べるとずいぶん落ち着きを取り戻していた。
 そうしてようやく最初の決意を見つめ直す余裕ができたカルナは、白濁したスープの中から残った麺を捜索しながら口を開いた。

「ジナコよ。まずはオレに宿を与え、衣服や食料まで用意してくれたことを感謝しよう。オレには身に余る光栄だ。だがどうしても気になることがある故、一つだけ問わせてくれ。この服は誰のものだ? お前が身につけているものではなかろう。いくらお前が太ましい図体をしているとはいえ、まだ男物を使うほどの体積には至っていまい」
「お礼を言ったそばから失礼のフルスロットルで大草原不可避。ここにいるのがボクじゃなかったから普通に殴られてるッスよ」
「それは知っている。キミにも最初は殴られた」
「ぐ、ぐぬぅ……!」

 痛いところを突かれたのか、ジナコは麺を啜るのを止めて唸り声を上げた。既に口の中に入っていた分をもぐもぐと咀嚼して、胃の中へ流し込んでから、のろのろと口を開く。

「ええと、ボクの黒歴史はいったん置いとくとして! ……その服は、ボクのパパのやつッスよ。といっても、新しく買ったあと使わないまま置いてあった新品だから、別に汚くはないはずッス」
「父」

 予想もしていなかった返答に、カルナはジナコの口にした答えをオウム返ししながら、思わず箸を取り落としそうになっていた。
 少し考えてみれば、可能性としてすぐに浮上しそうな回答だった。むしろ何故考えつかなかったのかと、今となっては不思議に思うくらいである。なるほど、あのときの自分はよほど冷静さを欠いていたらしい。確かに家族と同居しているのであれば、この家の大きさでもさしておかしくはないだろう。
 しかしもし家族とともにこの家で暮らしているのだとしたら、彼女の両親はジナコのこの生活を一体どう考えているのか。新たな疑問が浮上したものの、とりあえずは一つ一つ紐解いていくことにする。

「なるほど。では、お前の父君は今どこに?」
「もういないッスよ。死んだから」
…………

 しかしジナコから返ってきたのは、カルナの中で絡まっていた糸を根元から切り裂き、強引にばらばらにしてしまうような回答だった。お陰様で己の中にあった疑問は一気に解決したが、がつんと突然頭を殴られたかのような衝撃に、思わず箸を持った手が止まる。

「ボクのパパとママは、ずうっと前に事故に遭って死んじゃったんスよ」

 どこか他人事のように、ジナコは語る。そうすることで己の心を守ろうとしているということは、想像に難くなかった。

「だから今は一人でここに暮らしてるッス。パパが残してくれた遺産が腐るほどあるから、金銭面で不便な思いをしたことはないッスよ。つまりジナコさんは、たとえ一生働かなくても生きていけるスーパーエリートニートの勝ち組なのです! ふふん、羨ましかろう!」
…………そうか」
……がっかりした?」

 そうしてぼそりと唇の間から零れた声は、先ほどまでのおどけた様子とはうって変わって、ひどく冷たいものだった。顔から表情が抜け落ち、ぼんやりと濁った目が虚空を見つめている。
 カルナははっと息を呑んで真っ直ぐにジナコを見つめたが、彼女の視線と己のそれが交わることはなかった。ここではないどこかを見ているようなその姿は、見ているだけで喉が詰まる心地がする。何となく喉の奥あたりがじわじわと重たい痛みのような感覚を訴えてくるののを微かに感じながら、カルナは静かに箸を置いた。

「待てジナコ。何故、オレが落胆するなどと思った」
「だってボク、そんなしょーもない理由で引きこもって、人生を無駄に浪費してるダメダメ人間なんスよ? 一応ある程度は仕事もやってるけど、まともに社会に出てるなんてとてもじゃないけど言えない感じだし? だからその……そもそもカルナさんが惚れてくれるような人間じゃないんスよ、ボクは」
…………
「だから、アタシは全然、カルナさんにふさわしくなんかなくて……
「下らんな」

 何故か諦観をちらつかせ、うっそりと笑いながら言うジナコを途中で無理矢理遮って、カルナはきっぱりとそう告げた。
 本当は最後まで、ジナコの話を聞いてやるべきだったのかもしれない。けれど自分で自分にナイフを突き立てているような真似をしている彼女を、このまま黙って見ていることができそうになかったのだ。たとえそれがジナコ自身であろうと、彼女を傷付けるものを自分はとうてい許容できそうにない。
 ジナコは伏せていた視線をはっとこちらへ向ける。榛色の瞳が、湖面のように不安定に揺れていた。

 その瞳の奥に秘められているものを、おそらくカルナは既に知ってしまっている。ジナコはきっと、寂しいのだと。

 自分自身でも気付いていないのかもしれないが、ジナコは確かに自分を受け入れてくれる他者を、本当は強く求めている。けれど彼女は己の中にぽっかりと空いた穴を埋めるための方法を知らず、その上心のどこかでは埋めてもらうことを諦めてもいるのだろう。たとえその穴をふさいで満たしてくれるものがあったとしても、やがてはそれも必ず抜け落ちていってしまうのだと思っているから。
 だから予め線を引いて、ここから先へは踏み込むなと意地を張って下手くそに牽制して、自分の中へ入り込んでくるものを拒んでいる。受け入れて大切にしていたものが失われたとき、その喪失によってもたらされる痛みが果たしてどれほどのものか、ジナコはきっとカルナが考えているよりもずっと深く知っているのだ。
 最初にジナコと出会ったとき、彼女に対してカルナが感じたもの。あのときはぼんやりとしかわからなかったそれに、ようやく今はっきりと触れることができたような気がした。

「お前のその下らん主張は全く以て無駄だ。オレは己の目で今ここにいるジナコ=カリギリという人間を見て、己の意思でもって愛おしいと思ったのだから」

 だからといって、カルナはジナコのそんなちぐはぐな願いに応えてやるつもりは毛頭なかった。だってカルナはもうとっくに、ジナコが引いた境界線の向こう側へと招き入れられている。ジナコ本人が気付いていないだけで。
 ジナコがカルナのことを拒絶し、同時にカルナに拒絶してほしいと本当に心から願っているのなら、カルナも潔く身を引けよう。けれど今目の前で、まるで迷子の子供のような不安そうな顔をして唇を震わせている彼女の様子を見ていると、とてもそう願っているとは思えなかった。
 彼女が無意識に助けを求めて伸ばしている手をそっと握りしめるか、或いは振り払うか。答えなどとうに決まりきっていた。
 きっとカルナがここで引いたら、ジナコはきっと自身で予想していなかったほどに深く傷付くだろう。もう求めまいと決めていたはずのものを、自分でも知らないうちに受け入れたことに気が付くことになるだろう。もう手遅れだったと気が付かなかった自分の愚かさに、うっかり受け入れてしまった己の軽率さを深く、深く悔いて。そうしてジナコは再び、ひとりぼっちの部屋の中で孤独に泣くことになるのだ。
 ジナコにそんな寂しい未来を与えることなど、他でもない己ができようものか。カルナのジナコへ向ける思いの始まりは、『彼女に笑って欲しい』だったのというのに。
「お前の過去にどのような悲劇的な出来事があったとしてもと、お前がこれまで歩んできた生き方がどれほどの愚鈍さに支配されていようと、お前という人間がいかに働かない怠惰な無能であろうと、それらは全てジナコ=カリギリという人間を構成する一要素でしかないだろう。オレがジナコに向ける想いは、何一つ変わりはすまい。オレがお前の過去や生き様を忌諱し、嫌悪する理由が一体どこにある? 今ここに在るジナコという人間を形作っているものを、お前の全てを心から慈しみたいと願うオレが否定はせんよ」
 一応これで言いたいことは全て言ったつもりだが、ジナコの心にはきちんと届いてくれただろうか。ジナコの言うとおり、自分は常日頃から言葉が足りていないらしいから。
 そんな小さな心配を乗せながらそっと様子をうかがうと、ジナコは先ほどまでの生気が失われた顔が嘘のように、頬どころか耳まで真っ赤に紅潮させておろおろと狼狽えていた。こんなときに思うことではないのかもしれないが、照れて慌てふためく姿はとても愛らしい。自分の言動で好いた女が照れて右往左往するのを見ているのは、存外満足感にも似た不思議な感慨があった。もっと己に翻弄されて色々な顔を見せて欲しいだなんて、そんな邪なことまで考えてしまう。

「え……いや、あの、その……

 もごもごと、ジナコは口の中で次に言うべき言葉を探して、意味を成さない呻きを舌の上で転がしている。カルナはじっと彼女の顔を見つめながらその先を静かに待ち続けた。
 やがてジナコはうう、と小さく呻いた後、熱を持った頬を手のひらで押さえるようにしながら口を開いた。

「あの、か、カルナさん……その発言、自分で言ってて恥ずかしくないんスか……?」
「恥ずべきことを口にしたつもりはないが、お前は羞恥を覚えるのか」
「も、もういいッス!」

 言うが早いか、ジナコは何故か力尽きたようにへなへなと顔から机に突っ伏してしまった。はて、そこまで脱力させるようなことを言ったのだろうか、自分は。
 そのまましばらくの間、二人の間には沈黙が横たわっていたが、特に気まずさようなものを感じることはなかった。ジナコがそこにいてくれるだけで、カルナにとってそこは居心地の良い空間になるということなのだろう。

……カルナさん、さあ」

 しばしの無言の時間が過ぎ去った後、ジナコは机に突っ伏したままぼそぼそと声をかけてきた。声はくぐもっていたが、二人きりの部屋の中だ、聞き逃すはずもない。

「何だ、ジナコ」
「言いたいことは、多分、一応、わかったけどさ……でもやっぱり、ちょっと、言い方がダメだと思うッス……
「そうか。ではお前の期待に添えるよう、引き続き精進するとしよう」

 とりあえず、どうあってもカルナがジナコを愛おしく思う気持ちは変わらないという、最も伝えたかったことは無事に伝わってくれたらしい。
 ほっと安堵の息を吐いて、カルナはテーブルの上に残されているおかずたちを再びちまちまとつまみ始めた。無意識に手が止まったままになっていたのは、もしかしたら自分でも気付かぬうちに緊張していたのかも知れない。
 己の思いを理解してもらえるように吐露するという行為は、カルナには少し難しいことだった。口下手なせいでいつもうまく伝わらず、相手を怒らせたり不快な思いをさせたりしてしまうことが非常に多かったものだから。ジナコに誤った認識で伝わってしまったら、そのせいで届きかけた手を空振りさせてしまったらどうしようと、少しだけ怖かったのだ。

「でもその、ごめん、ちょっと待って」

 イカの塩辛を胃に収め終わり、パッケージに印字されている賞味期限が過去の日付になっていることにカルナがうっかり気付いてしまった頃、ジナコはのろのろと頭を上げて小声で呟くように言った。
 ようやく見えるようになった顔は相変わらず真っ赤なままで、熱を宿したまろい頬を突いたらどんな感触がするのだろうかと、ちょっとした好奇心がうずいてしまう。もしこの手に箸を握っていなかったら、泡のように浮上してきた欲望に従ってそのままうっかり手を伸ばしてしまっていたかもしれない。
 ジナコはうーだのあーだのと不明瞭な呻き声をしばらく漏らし続けていたが、やがて蚊の鳴くような声で言った。

「アタシ、その、まだカルナさんの気持ちを、アタシの中でうまく処理しきれてないっていうか。だから、へ、返事、どう言えばいいか、わかんなくて」
「いや、今すぐ返事をして欲しいという意図は全くないが」
「はえ?」

 カルナの発言を聞いたジナコは、いっそちぐはぐに感じるほど幼い色を宿している榛色の目を丸くし、奇妙な声を上げて呆けていた。
 なるほど、残念ながら細部までは伝わっていなかったらしい。もっと精進せねばと、カルナは内心で己を諫めながら再び口を開いた。

「オレがお前を慕わしく思うことと、お前がこの思いを受け入れることは、全く別の話だ。オレはあくまでお前の意思を尊重する」
「尊重って言ったって……

 ジナコは相変わらずそわそわと視線をさまよわせている。小動物のようなその姿に、またほろりと顔が綻んだ。体の内側からあたたかいものが生まれ、カルナの内を満たしていく。笑っている顔が見たいと思っているのに、それ以上にカルナの方が彼女に幸せにしてもらってしまっている気がするのはなんだか申し訳ない気がしてくる。
 だからこそ、カルナはジナコの願いを叶えたいと思ったのだ。彼女が求めるように、自分の在り方を定めようと。

「お前がオレの気持ちを受け入れたくないと心の底から思い、今すぐオレに消えて欲しいと願うのならば、オレとしては苦渋だが致し方ないと受け入れるが」
「そ、そんなこと思うわけないじゃないッスか! アタシは別に、カルナさんのことが嫌いだなんて思ったこと、一度もない!」
……そ、そうか」

 ぶんぶんと、首が取れてしまうんじゃないかというくらいの勢いで否定するジナコ。
 カルナが口にしたようなことをジナコが願っていないことは最初から何となくわかっていたが、彼女の口から直接聞きたくて、少しばかり意地悪な聞き方をしてしまった。予想していたよりも好意的な反応が返ってきたものだから、一瞬言葉を詰まらせてしまいそうになる。
 誤魔化すようにおかずを箸で口に運び、咀嚼し、飲み込んで。そうしてカルナは、再びジナコをまっすぐに見つめた。

「ああ。キミ自身が、オレがそばに在ることを拒んではいないということは理解した。故にオレは、ジナコのそばに居ることを許されている限り、オレの気持ちを伝え続けようと思う。応えるかどうかはあくまでキミ次第だ」
……言い損になっちゃうかもしれないッスよ? いいの?」
「構わん。オレが勝手に伝えたいことを伝えているだけだからな。オレの気持ちは、口にしたら損になるからという程度で抑えずとも枯れはしない」「
「む、無茶苦茶ッスね」
「性分だ。悪く思え」

 しれっとそう答えれば、ジナコはやはり顔を赤らめて低い唸り声を上げるのだった。


     ◇◇◇◇◇


 夕食の片付けを二人でした後、カルナはそのまま客間へと通された。もう随分と遅い時間だったし、無理をして起きている理由も特にないだろうと。
 カルナとしても今の時点で言いたいことは大体ジナコに伝えられたので、彼女の言葉に従って早々に客間のベッドに横になることにした。けれど緊張のせいかなかなか寝付けず、うとうとと船を漕いでは覚醒してというのを繰り返し、まともに睡眠が取れたとは言いがたい状態のまま朝を迎えてしまった。とはいえ、好いた女と同じ屋根の下にいて、暢気に爆睡できるような男がいるのなら会ってみたいものである。
 重たい体をのそのそと持ち上げて、窓の外を見やる。相変わらずしとしとと雨が降り続けていた。けれど雲の向こうで確かに昇った太陽の光が、僅かながらもしっかりと地上へと降り注ぎ、新しい一日の訪れを伝えてきている。
 カルナは寝不足のせいで若干の痛みを訴える頭を押さえながら、昨夜二人で食事をしたリビングへと足を運んだ。一宿一飯の礼として、ジナコに朝食を用意しようと思ったのだ。片付けながら冷蔵庫を覗いたのが、スクランブルエッグとトーストくらいならこさえられるだろうと、昨夜のうちにジナコには許可を取っている。

「おはよぉ~……
「! ああ、おはようジナコ」

 眠気でぼんやりとしたままフライパンを取り出していたカルナだったが、のたのたとゾウガメを思わせる動きでリビングへと入ってきたジナコを見て、現金なことに一気に意識が覚醒してしまった。
 いつもは夜の帳が下りた後にしか巡り会えない彼女が、雨雲に遮られてはいるとはいえ、今は太陽の光の下にいるのだ。何だか新鮮な印象をもたらすジナコの姿が胸に深々と突き刺さって、痛みとも疼きとも取れる不思議な感覚がカルナの中を駆け巡っていく。
 しかし一つだけ文句を言わせてほしい。長年使っているのか首元がすっかりたるんで緩み、胸元の防御が非常に危うくなっているシャツを身に纏って、昨晩お前が好きだと伝えたばかり男の前に平然と出てくるのはいかがなものか、と。カルナとてそういう欲が全くないわけではないのだけれど。

「見苦しいぞ、ジナコ。着替えてこい」
「え~? だって、どうせカルナさんしか見てないんだしいいじゃないッスか。それより朝ご飯マダー? ジナコさんが飢え死にしちゃうッスよ~」
…………

 熱したフライパンの上で卵をぐるぐるとかき混ぜながら、カルナは何だか手に持っている菜箸を力一杯へし折りたいような気分になってしまった。深呼吸をして、腹の底から沸き上がりかけたものを、苦心しながらも何とか飲み下す。
 あまりにもジナコが無防備極まりないものだから、自分という存在が彼女の中でどこまで許されているのかが逆にわからなくなってきてしまった。
 昨日の態度を見るにそこそこ好意的な感情を抱いてくれていることは何となく理解したが、その色がいまいち見えてこないというか。そこにあるのは、自分が襲われることなど微塵も考えていないただの無防備さなのか、或いはカルナがそんなことをするとは思えないという彼女なりの信頼なのか。聞きたいような、聞きたくないような。ジナコがカルナに対して抱いている気持ちがどのようなものであれ、やはり常識的な話として乱れた服装は咎めるべきではないのか。けれどあまりこのことに関してぐだぐだ言い続けると、カルナにそういう邪な気持ちがあると考えて、過剰に警戒されてしまうのでは。
 言いたいことが喉の奥でぐちゃぐちゃに絡み合って、結局全部が詰まってしまって出てこない。そのあとカルナが無理矢理口から吐き出せたのは、

……相変わらず、呆れた食欲だ」

 という、中身などほとんどないに等しい淡白な感想だけだった。カルナが口にしたその言葉に対してぶーぶー言いながら唇をとがらせるジナコは、何というか、もう胸を掻きむしりたくなるほど可愛かったけれど。
 ほどなくして完成したスクランブルエッグと焼いたウインナー(冷蔵庫の奥から発掘した)、冷蔵庫に入っていた出来合いのポテトサラダとこんがりと焼き上がったトーストを皿に盛り付けて、昨夜はラーメンがのっていたテーブルの上に置いていく。さほど手間もかかっておらず、特別でも何でもない朝食であるにもかかわらず、ジナコは子供のようにはしゃいで喜んでくれた。

「うお、すっごい! これぞ朝ご飯って感じがするッスね。ボクは時間に縛られないエリートニートなので起床後の朝食イコール昼食になることが多いッスけど、こういうのがちゃんと出てくるならたまには早起きも悪くないかな? なーんちゃって」
「ジナコよ、オレは味噌汁も作れる」
「ゴメン何言ってんのか全然わかんない。何で急に味噌汁?」

 なにゆえいきなりそんな話をと、眉をひそめ怪訝な顔をしているジナコ。
 自分のために毎朝味噌汁を作ってくれ、というプロポーズがあるらしいというのを不意に思い出したので口にしてみたのだが、残念ながらジナコにはひとかけらも伝わらなかったらしい。
 しょぼ、と小さく肩を落としかけたカルナだったが、トーストを頬張るジナコが随分と幸せそうだったから、まあ何でもいいかと立ち直れてしまった。自分でも驚くくらいけろりとしたものである。カルナは元来根暗な性質なはずなのだが、不思議なものだ。

「うう~ん、美味しい! ご飯が美味しいってほんと幸せッスよね~」
「随分と安い幸福だな」
「うっせーッスよ。昨夜も言ったでしょ、お腹が空いてると何にも良いことないからって。あ、そういえばカルナさん、今日学校は?」
「今日は日曜日だが」
「え? あーそっか、今日は世間様は休みか。ゴメンねー、ジナコさんってば曜日なんてつまんない概念にとらわれず、毎日自由気ままに思うままに生きてる人生上級者なもんだから」

 わはは、と上機嫌に笑うジナコ。その姿を永遠にこうやって見続けられたらどんなにいいかと、まだまだ叶いそうにない願いを胸に秘めながら、カルナも今ここにある幸福の味をゆっくりと噛みしめるのだった。
 のどかな調子で朝食の片付けまで済ませたあと、カルナはそのまま自宅へ帰ることにした。大学は休みだが、夜になればまたバイトがある。一度家に帰ってきちんと睡眠を取っておきたかったのだ。就業中にうとうとと船を漕ぐような事態になってはいけない。なんとかクビにならずにバイト継続最長記録を更新し続けているのを自ら壊したくはないし、何よりあそこでバイトができなくなったら、ジナコと会える貴重な機会を失ってしまう。
 外はまだ雨がしとしとと降り続けており、アスファルトの道路にはあちこちに水たまりができていた。時折通りかかる車が、そこにたまった水をばしゃりと跳ね上げていくのが見える。昨夜はあのせいで頭からつま先までずぶ濡れになってしまったので、今日はなるべく気をつけて歩こうと気を引き締めた。

「世話になったな。この礼は、またいず、れ……ジナコよ、どうした」

 玄関でそう言いながら振り返ると、ジナコは何やら眉間に皺を寄せてそこに立っていた。さっきまでご機嫌な様子だったのに、急にどうしたというのだろう。
 意図をはかりかねてただただきょとんとするしかないカルナに対し、ジナコはむくれたままぼそぼそと独り言を呟くように言った。

「外。雨、降ってるけど」
「? ああ、そのようだな」
「まさかとは思うけど、そのまま帰るつもりッスか?」
「それ以外に何がある」

 幸いにも、空から降り注ぐ雨は昨日と比べて随分と弱い。走って行けばさほど濡れずに家へとたどり着くことができるはずだ。
 しかし彼女は何故、そんなに顔をしかめて怒っているのか。ジナコの怒りの根源がわからず、さりとてどう問えば怒りを静められるのかもわからず、カルナは無言のままこてりと首を傾げるしかできなかった。
 するとジナコはフンと鼻を鳴らしたかと思うと、昨夜カルナを入れてくれた傘を押しつけるようにして差し出してきたのだ。

「ジナコ?」
「貸してあげるッス。もう、なんで『傘を貸してくれ』っていう簡単な一言が出てこないのかな、アンタは」

 どうやらジナコの不機嫌の理由はそこだったようである。しかし何故カルナが傘を借りたいと申し出なかったことがジナコを不快にさせたのかが、カルナにはよく理解できなかった。
 素直にそう告げると、ジナコはやれやれと呆れたように大きなため息を吐いて、手に持った傘をぐいぐいとカルナに押しつけながら、言う。

「いいよ、カルナさんがそういう人だっていうのは、ボクも十分にわかったッスから。というわけで、ハイ、これ持ってって」
「だが、これがないとお前が困るのではないか? この家には他に傘がないように見える」
「ほほーん、それは嫌味ッスか? 引きこもりエリートたるこのボクが、雨の日にわざわざ傘を差して、ふらふら外に遊びに行くような女だと本気でお考えで?」
「昨日はそうしていた」
「そうだけど、でも、あれは……ああ、もう、まだるっこしい!」

 ジナコは駄々をこねる子供のように地団駄を踏んで、顔を真っ赤に染めて、過ぎた羞恥のせいか微かに潤んだ榛色の瞳でカルナをキッと睨み付けた。

「だから! ボクはもうこの傘使ってカルナさんに会いには行かないから、代わりにカルナさんがこれ使ってボクの家まで来てくれればいいでしょって言ってんの! それくらい言わなくてもわかれ、バカ!」

 投げつけるように叫ぶと、ジナコは力一杯ぐいぐいと押しつけてきていた傘からさっさと手を離してしまった。支えを失った傘が、ゆっくりと地面に向かって傾いてゆく。
 反射的に手を伸ばして傘を手のひらに受け止めたカルナは、回らない頭で先ほど彼女が言い放った言葉を脳内で反芻していた。飲み込んで、何度も噛みしめ直して。
 そうしてそこに秘められているであろうジナコの気持ちに触れたカルナは、どっ、と心臓が激しく脈打ったのを感じた。
 一瞬にして沸騰させられたかのように熱くなった血潮が、ぐるぐると全身を駆け巡っていく。けれど自分のおめでたい勘違いなどではないことを確かめたくて、はっきりとそうだと肯定して欲しくて、カルナは噛んで含めるようにゆっくりと問いを紡いでいった。

「オレは、キミに、会いに来てもいいのか? 店員と客としてコンビニで会うのではなく、ただのオレと、ジナコとして?」
「だから、さっきからそう言ってるじゃないッスか」

 深く俯いてしまっているせいで、表情がほとんど見えないのが非常に残念だと思った。栗色のぼさぼさ髪の向こうにある顔は、きっととても可愛い顔をしているだろうから。

……承知した。ああ、また来る、また来るぞ。ジナコよ、首を洗って待っておけ」
「い、言い方ァ~」

 ジナコは力が抜けたのか、うっかりその場でずっこけそうになっていた。
 女性が喜びそうなロマンチックな言葉が出てこないのは、できれば現時点では見逃して欲しいところである。次までにはもう少し練習してくるとしよう。とはいえ、あまりにも気障ったらしいことを口にしたら、それはそれでジナコが変な顔をしそうだが。

「まあ、カルナさんだししょうがないッスよね。……またね、カルナさん」
……ああ、またな」

 何やら妙に疲れた様子で肩を落としたジナコは、しかしカルナをきちんと玄関の外まで見送ってくれた。のたのたと手を振ってくれたので、駆け寄ってその手を掴んで引き寄せて、ぎゅうとそのやわらかい体を抱きしめてしまいたい衝動を抑えつけ、カルナは手を振ってその場を後にする。
 後ろ髪を引かれるような、とはまさにこういう心情のことをいうのだろう。
 振り返ってしまったらその場から動けなくなってしまうような気がしたので、黙々と前だけ見て自宅へと急いだ。ぽつぽつと傘を叩く雨音たちが「よかったね」と口々に言ってくれているような気がする。
 こうしてカルナは昨夜とはまるきり正反対な浮かれた気持ちで、朝日を反射してきらきらと輝く道を歩いて行くのだった。


 ――二人がこの道を、手を繋いでともに歩けるようになる日は、きっと、そう遠くない。