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真那
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カルジナ
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夜半の初恋
コミュ障改善の一環としてコンビニでアルバイトをしていたカルナと、そんなコンビニに訪れる引きこもりジナコの出会いとその後のお話(現パロ)。
一部Pixivに掲載済みの部分もありますが、まとめたほうが読みやすいと思ったのでこちらですべてまとめています。
1
2
3
夜半の初恋
「アシュヴァッターマンよ。これまでまともに口をきいたことのない女に話しかけるには、どうするのが最も適切だと思う?」
大学から自宅への帰り道の途中、いつもと変わらぬ涼しい顔で歩いていたはずの幼馴染みから突然飛んできた爆弾発言である。いきなりとんでもない者をぶん投げられたアシュヴァッターマンは、口に含んでいたコーヒー牛乳を盛大に噴き出しそうになった。
げほげほ、と激しく咳き込みながら足を止めたアシュヴァッターマンに、彼は訝しげな視線を向けてくる。どうした大丈夫か、だなんて呑気に首を傾げているが、その「どうした」というセリフをそっくりそのまま投げ返してやりたかった。
何、何だって? 女に話しかける方法だって? この男が?
もしかしたら今自分の目の前にいるのは、いつの間にか入れ替わっていた別の人間なのではないか。あまりに突拍子もない、今そこに居るはずの男の口から出てくるとは思えない類いの先の発言に、ふとそんな考えが頭を過った。寧ろそうであってほしいとさえ思っている自分がいて。
アシュヴァッターマンはうっかり気管へ飛び込みかけていたコーヒー牛乳を何とか正当な道に押し込んでから、一つ深呼吸をし、それからおそるおそる顔を上げてその先に男を見やる。しかしそこにいるのは疑いようもなく、いつもの見慣れた色を宿した、アシュヴァッターマンにとっての見知った青年であった。
見慣れた色というのは、具体的にいうと『白』である。
第一印象を余人に問えば、おそらくは大抵が「白い」という類いのことを口にすると思われる、真っ白な頭髪と透き通るような白磁の肌。彼は持っているそんな特徴が、見る者全てに淡い光のような印象を与えるのである。
しかしそんな、ぱっと見た感じの印象は何だか少し不健康そうで、どこか幽霊じみてさえいる見た目とは裏腹に、何故か太陽の光の下にいるのが妙に似合う男だった。さらに見た者にその存在感を強烈に焼き付けてくるのに、ふとした拍子に空気に溶けて消えてしまいそうな奇妙な雰囲気も併せ持っている。
そんな何ともつかみ所のない不思議な男が、アシュヴァッターマンと同じ大学に通う同級生であり、そして同じ道場で共に武芸を学ぶ友人であるカルナという青年であった。つまり現在アシュヴァッターマンの目の前にいて、先程の発言を投げかけてきたのは、間違いなく己が知っている男であるということになる。
「いや、いやいや、ちょっと待て。待ってくれ。一旦整理させろ」
「む?」
「む? じゃねーんだよ! 何でテメーが突然そんなことを俺に聞いてきたのか、事情を説明しろっつってんだ、事情を!」
カルナの言葉が足りないのはいつものことだが、今回は輪にかけて酷い。アシュヴァッターマンはカルナに向かってそう怒鳴りつけると、頭痛に耐えるように眉間を抑えながら、じわじわと沸き上がってきた疲れを無理矢理吐き出すように深々とため息をついた。
これがもし別の人間の口から出た言葉であれば、アシュヴァッターマンも適当に答えて流していたと思う。別に何を喋ろうと構わない、好きなように話しかけとけば良いんじゃねーの、的な。
しかし今回これを口にしたのはカルナだ。まるきり恋愛とか性欲とかの話題に興味がなさそうというか、そもそもそういった類いの欲や感情がごっそり欠落しているのではないかとか、そんなことを本気で心配されているような男なのである。
あまりにもその方面に対しての反応がさっぱりしているものだからと、道場で兄弟子たちにしょっちゅうからかわれているのをアシュヴァッターマンもよく知っていた。こいつは性欲の類いを、母ちゃんの腹に全部忘れて生まれてきたんじゃないか、と。
けれど彼らが口にするそんなカルナの評価は、残念ながら誇張でも何でもない。全くもって正当としか言いようがないものだったのだ。
たとえば同級生たちが講義の合間なんかに、教室でわーきゃーと声を上げて騒ぎながら誰かが持ち込んだエロ本を回し読みしているときにも、カルナは全く我関せずといった顔でぼんやりと空を眺めているだけ。目の前で肌色の占有量が高めのページを広げて目の前につきだして見せても、ただただきょとんとしながら目を瞬かせるのみなのだ。
先日、友人たちに無理矢理感想を求められたカルナが「この服装を考えた人間はどうやら頭が悪いと見える」というズレにズレまくった所見を口にして、その場にいた全員を脱力させたのは記憶に新しい。ちなみに後で詳しく聞いたのだが、カルナとしては「そんな紐のような服だけでは防御力など皆無に等しいのではないか」というようなことを伝えたつもりだったらしい。言いたいことはわかったのだが、何故こいつはグラビアアイドルが色っぽい下着でガチファイトすることを想定しているのだろうか。
加えてこの年頃であれば多かれ少なかれ興味をそそられるはずの恋愛の話題を振られても、基本的には無表情のまま首を傾げてみせるばかりなのである。
前述したとおりのどこか儚げにも見えるカルナの容姿は、同じ大学内は言わずもがな、近隣の大学、果ては大学近辺にある生徒御用達のカフェの店員まで、それはそれは多くの女性を惹きつけている。けれど言い寄ってくるのがどんな美女であったとしても、カルナは告白された端からばっさりと断り続けているのだ。先日、女子にモテたいと日頃から騒いでいる奴らから「少しは分けろ」と嘆きの悲鳴を浴びせられていたが、当の本人は相変わらずよくわかっていなさそうな顔で、こてりと首を傾げているだけだった。男連中から上がる慟哭に拍車がかかったのは言うまでもなかろう。
カルナ曰く、「彼女らの言う『好き』という感情がどういうものなのかオレにはよくわからない」とのことらしい。渡される感情を十全に理解できていないにもかかわらず中途半端に受け入れるようなことは、彼女たちに対して不誠実になるからしたくないのだそうだ。
その思いをきちんと伝わるように伝えれば拗らせないで終われるだろうにと、彼に対する悪質なストーカー被害が五件を超えたあたりで、アシュヴァッターマンは心底そう思った。こういう場面でも生来の言葉足らずが色々と災いしてしまっている。
しかし実際に被害に遭った本人が全く事を深刻にとらえてくれないというか、どうして『好き』という感情が彼女たちをそこまで追い詰めて凶行に走らせてしまうのかがそもそも理解できていない様子なのだ。故にアシュヴァッターマンとしてはいまいち怒りようがなく、何とももどかしい気持ちを抱え続けているのが現状である。
さてそんな多数の珍エピソードに事欠かないのもあって、「あいつは『赤子はコウノトリが運んでくるのだろう?』と真顔で言いそうだ」なんて、共通の知人たちの間ではもっぱらそんな扱いをされている男がカルナだった。もはや健全な男子大学生としてどうなのかというレベルである。最初は一緒になってからかっていたアシュヴァッターマンも、最近は若干心配になってきていたところだったのだ。
しかしそんな男がある日突然、「女に話しかける方法」なんてのを友人である自分に相談してきた。天変地異の前触れを疑ってしまった己を、一体誰が責められようか。だからまずは経緯からきちんと説明せよと苛立ち混じりに促すと、それもそうかと彼は素直に頷いたのだった。
カルナは現在、自宅近くのコンビニで深夜にアルバイトをしている。働き始めたのは、「お前はもう少しコミュニケーションを取る練習をしたほうがいい」というカルナの居候している家の息子の助言が始まりだった。
カルナは人付き合いがあまり得意な人間ではない。人と接すること自体は本人も嫌いではないらしいのだが、前述した口下手な性質のせいもあり、何故かいつも相手を過剰に怒らせてしまうのである。一応直そうと本人なりに努力もしているらしいが、間が悪いというかなんというか、何かと空回ってしまっていてなかなかうまくいっていないようだった。
そのため、これまでは飲食店の厨房業務だったり、或いは商業施設の清掃だったりと、倉庫整理であったりと、なるべく面と向かっての接客が必要になるアルバイトを避けてきたらしい。それでも同僚や上司とコミュニケーションにおいてトラブルばかり起こしてしまい、半年以上続いたためしがないというから筋金入りである。
そうして数回目の実質的なクビを言い渡されたタイミングで、突然彼の居候先の息子に宣告されてしまったのだ。今まで意識的に避けてきたこと自体がそもそもの間違いだったのかもしれないぞ、と。
要するに、出来ないからと逃げてばかりいては、本当にいつまで経っても上手くいかないままになってしまう。だから失敗するのが目に見えていたとしても、少しくらいは練習する場を設けた方がいい、という話らしい。
そういうわけで新たに始めたのが、コンビニでの接客バイトだったのだ。淡々としたやり取りのみが必要とされる業務形態が功を奏したのか、或いは同僚や上司がカルナの人付き合いの下手さをのき込める人格者だったのかは定かではないが、今のところはそれなりにうまくいっているらしい。先日そんな話を聞いたアシュヴァッターマンも、内心安堵のため息を吐いていたのだ。クビになったとしょぼくれるカルナの姿は何度見てもやはり慣れないし、心がしくしくと痛みを訴えてきてしょうがない。どんなに理不尽な状況に陥った結果の一方的なクビ宣告だったとしても、自分などをわざわざ雇ってくれたのに申し訳ないとカルナはまず自分を責めるばかりだから、余計に。
さてこの話の前提を整理したところで、改めて本題である。
カルナはバイト中に出会った常連客の女性が気になっているのだそうだ。彼女にどうしても話しかけたいのだが、しかし具体的にどういう話しかけ方がいいのかいまいちわからないのだと。
なるほど、話の内容自体は至ってシンプルなものだった。しかし残念ながら、アシュヴァッターマンの中に浮かんだ最大の疑問点は一切解決していない。
「しかしカルナよぉ。今までは女なんか一ミリも興味ねぇみたいな面してやがったくせに、何で急にそんな気になるヤツなんか出来ちまったんだ?」
「む、オレとてただの人間だぞ。興味、と言われると些か首を傾げざるを得んが、どうしようもなく心を惹かれる者がいても別段おかしくはなかろう」
「
……
それを聞いてどっか安心しちまってる自分がムカつくぜ。それで? 肝心の答えがまだ聞けてねーぞ。どうなんだよ」
「すまん、その、オレ自身も何がどうしてここまで彼女の存在が心に刺さったのか、正直よくわかっていない。だがあの女を見た瞬間、平手を食らったようにこう
……
何かがオレ野中でバチンときたというか。いや、実際に彼女から食らった平手は、あれほどの衝撃ではなかったのだが」
「は?」
平手? 平手を食らったと言ったのか、この男は。
またしても突然すぎる爆弾発言に、アシュヴァッターマンは思わず飲み終わったコーヒー牛乳の紙パックを握り潰してしまった。微かに残っていた中身がストローから噴きだし、ぽたり、と地面に垂れる。
「つまり、何か? その女にビンタ食らったってことか? お前が?」
「ん? ああ、そうだな。顔面に一発、良いのが入った。だがあれはオレが無礼だった故の致し方ない所行だ。彼女のことは責められまいよ」
「いや、お前ホントそれ何を言ったんだ
……
?」
己の無礼によるものだと反省しているということは、つまるところ、またカルナの口下手が災いした結果という話なのだろう。しかしいきなり平手を食らうほど怒らせたというのだから、相当盛大に相手の地雷を踏み抜いたに違いない。
それにしても、「女からビンタを食らったような衝撃を受けた結果、女に対しての興味に目覚めてしまった」だなんていう上級者な発言を、この男の口からだけは聞きたくなかった。アシュヴァッターマンはまた大きなため息をつきながら、ひとまずカルナの次の言葉を待つことにする。
事の始まりは、カルナがアルバイトを開始してしばらく経ったの頃のこと。
三日に一度ほどの頻度で、ある程度決まった時間帯に、とある女がコンビニにやってきているのにカルナが気付いたことだった。
栗色の髪は伸ばし放題のボサボサで、いつも「今の今までぐっすり寝ていましたよ」と言わんばかりののろのろした動きをしている、自分よりはいくらか年上と思われる一人の女である。
あまり外に出ていないらしいということは、彼女が纏っている雰囲気や動きで何となく察することができた。その身にこびりついている鬱屈とした雰囲気からは社交性といったものが全く感じられない。見た目から感じられる社交性についてはカルナも人のことを言えた立場ではないが、そんな人間がはっきりとそう感じるほどだったのだから、きっと相当なものであろう。
しかしその髪の下から時折ちらりと覗く瞳に、カルナは明確な理由もなく強く気を惹かれてしまったのだという。己の中に入り込んで来ようとする何もかもを頑なに拒絶しつつ、しかし固く閉ざして自分でも開け方を忘れてしまった扉を開けてくれる者が現れるのを、ちらちらと顔をのぞかせながら待っているような、そんな印象を抱く瞳に。いつもそうやってどこか仄暗い色を宿している彼女の瞳が、もっと別の色を宿す瞬間が見たいと思ったのだ。
彼女の存在が気になり始めてからしばらくした頃に、瞳が別の色を宿してきらきらと輝いた瞬間を、カルナはたった一度だけ目にできたことがあった。対象商品を一定数購入することで引ける何かのアニメのくじ引きで、彼女が一番いい商品を引き当てたときである。
ぱあっと光を宿した瞳。興奮で僅かに紅潮した頬。歓喜によって完全に緩みまくった柔らかそうな唇。
彼女の顔が目の前でくるりと明るいものに変化した瞬間、カルナは目の前でぶわりと美しい花びらが舞い踊り始めたかのような錯覚に陥ったのだ。きゅっと胸の奥が甘く締め付けられて、息の仕方を忘れてしまうほどに、カルナは彼女の喜びに咲く笑顔に見惚れていた。そして同時に強く思ったのだ。こんな儚くあたたかいぬくもりを宿した花を、満開に咲かせることができる存在に、自分こそがなってみたいものだと。そして咲き続けるその光が決して手折られることのないよう守りたいのだと。
「これは恐らく、俗にいう『一目惚れ』というやつに違いあるまい」
「
……
多分、そういうことになんだろな」
もはやどういう顔でこの話を聞いていればいいのかわからなくなってしまったアシュヴァッターマンには、渋い顔をしながら適当に頷いておいた。
しかし、まさかカルナが「一目惚れ」なんて言葉を使いこなすとは思ってもみなかった。ぽつりとそうボヤいたら、二人の共通の友人でもある藤丸立香が教えてくれたのだと、何故か妙に得意げな顔で教えてくれた。なるほど、腹が立つほどどうでもいい。
まあ要するに、一目惚れなどという鮮烈な経験を人生で初めて味わったカルナは、彼女とどうにかしてお近づきになりたいと思うようになったというわけだった。
しかし現状カルナと彼女の間にあるのは、カルナが支払金額を伝え、彼女からそれを受け取り、袋に詰めた商品を手渡しながら「ありがとうございました」と決まり切った挨拶を返すという、完全なる事務的なやり取りだけだ。これだけではそれ以上の関係に踏み込むことは出来ない。彼女の中にあるカルナの存在は、いつまで経っても「行きつけのコンビニにいる店員さん」という認識止まりのままであろう。
それでも何とか話をしてみたくて、ある日カルナは手元で商品をレジに通しながら、何か彼女に振れる話題は無いかと慌てて思考を巡らせた。とにかく何かいつもの事務会話以外に話ができるきっかけがないものかと、彼女が選んだ商品たちに目を通してみる。
彼女がコンビニに来て購入していくのは、その大抵が食料品だった。スナック菓子、カップ麺、クリームがたっぷり使用されたケーキ、毒々しい色の炭酸ジュース、それからたまに酒のつまみになりそうな塩分高めの乾物、エトセトラエトセトラ。健全な食生活を送っているとはとうてい言い難い。そこでカルナは、彼女の健康を気遣う言葉をかけてみることにしたのである。
「『このようなものばかり食していては、その大いに溜め込んでいる脂肪の増量に拍車をかけるばかりだ。いずれトドか何かのように何処から胸で何処から腹なのかわからんような体になりかねんぞ』と」
「
……
ちょっと待て、待ってくれ。お前、それはもしかしてツッコミ待ちなのか?」
「?」
いや、カルナの言葉が全く理解できていない、というわけではない。付き合いの長いアシュヴァッターマンには、何とか、辛うじて、ぎりぎり彼の本意がわかる。おそらくカルナとしては純粋に、そして真剣に彼女の健康などを心配したつもりだったのだろう。しかし言葉のチョイスがあまりにも最悪すぎる。少なくとも女性に対して投げかけていい発言ではない。
なんだか本当に頭痛がしてきた気がして、アシュヴァッターマンは手を突っ込んでがしがしと己の髪の毛を掻き回した。そんな自分を見て、カルナはあからさまにしょんぼりと肩を落としている。
「彼女をひどく怒らせてしまったということはオレも正確に理解している。後々思い返せば、お前の言うとおりひどい言葉を浴びせたのだろう、とも思う。だからオレは、彼女にきちんと謝りたい。しかしこれ以上怒らせてしまうのはもちろん本意ではない。だから初対面の女にかける言葉として適切なものを、改めて知っておきたいんだ」
「
…………
なるほど」
気の抜けた相槌を打ちながら、どうしよう、と心底思った。そして迂闊に話を聞いてしまったことをうっすらと後悔した。思っていた以上にハードルが高い相談案件だったもので。
件の女の中でのカルナの印象が、現在最悪も最悪な状態になっていることは想像に難くない。店員に無礼な態度を取られたと店側にクレームを入れられていてもおかしくないレベルだ。現状、カルナは店をクビになったり特別に注意を受けたりはしていないようだから、幸いにもそういうことは起こっていないようだが。
そんな女にもう一度話しかけたいと、カルナはそう望んでいる。しかしどんな声をかけたところで、今発生してしまっている最悪な印象を払拭するのは相当難しいだろう。簡単に挨拶をするだけで逃げられてしまいそうなほどだ。いや、カルナがレジに立っているのを見ただけで、さっと背を向けられてしまうかもしれない。
そんな状態の女性ときちんと話ができるよう、改めて声をかける方法を教えてくれというのだ、この男は。コミュニケーション能力が壊滅的なカルナでなくても難易度が高すぎる。せめて事故案件になってしまった最初の第一声をかける前に相談してくれれば、もう少し穏便にお近づきになれる方法の一つや二つは助言できただろうに。
「あー、うん、そうだな。とりあえず、顔を見てもしばらくは何も言うな。軽い挨拶だけにしとけ。時間が解決してくれるのを待つしかねーよ、もう。今話しかけようとしても逃げられちまうのが関の山だ。あとはまあ、その手の話に詳しい奴に相談しろ。俺には無理だ」
「! どうして逃げられているとわかったんだ」
「もうなってんのかよ!」
だからもう少し先んじて助けを乞うてくれと、そんなアシュヴァッターマンの怒声が夕暮れの街に響き渡っていった。
◇◇◇◇◇
「最悪、最悪、最悪! ああもう、ホント最悪ッス!」
件の女
――
ジナコ=カリギリは、己の中で居座ったまま一向に立ち去ってくれない苛立ちを無理矢理吐き出すように、ポテチの袋を力一杯開け放った。
そして口を開けた袋の中に手を直接突っ込み、手に取ったそれを乱暴に己の口の中へねじ込み、ボリボリと音を立てて咀嚼する。しかしいくらそんなふうに荒ぶってみせたところで、胸の奥に巣くった苛立ちが解消されることはなかった。
『どうどう。ジナっちゃんってば、ちょっと落ち着いてよ~』
「落ち着けないッスよ! もう、ホントどうしてくれるんスか! あいつがいる限り、永遠にあのコンビニに行けないじゃないッスかボクは!」
開いたパソコン画面の向こうにいる通話の相手に向かって叫ぶと、向こうからは何とも言えない苦い笑いが返ってきた。
一方的に八つ当たりをしてしまって申し訳ないとは思うが、そうでもしていないと己のどうしようもない不甲斐なさに対する怒りで気が狂ってしまいそうなのである。本当にどうしたらいいのかわからなくて、少しでいいから話を聞いてくれと懇願した後に通話を受けてくれたから、ちょっと甘えてしまっているところもあるが。
とにかく現在、ジナコは困っていた。ものすごく、心の底から困り果てていた。
その悩みの原因は、自宅近くのコンビニに最近入ったらしい新人のアルバイト店員である。
最初の頃は「何かめちゃくちゃイケメンが入ったな」という、何とも淡々とした感想が浮かぶばかりだった。確かに美丈夫であることには間違いないが、正直ジナコの好みには合致しなかったから。もう十歳くらい若かったら愛でる対象に入っていたんじゃないかと思うけれど。
それでも単純に顔のいい男を見るのが目の保養になることは間違いない。加えて、顔はともかく声は非常にジナコの好みだったし、行き詰まった仕事やゲームのリフレッシュとして接触するにはなかなか最適だったのである。
そういうわけで、ほぼ完全在宅勤務なことも手伝って普段は完全に出不精極まれりといった生活を送っているジナコだったが、いつの間にか三日に一度くらいの頻度でコンビニに通うようになっていた。
そんな状況が一変したのは、今から二週間ほど前のことである。いつものように食料品をばっさばっさとカゴに放り込み、そうして黙々と商品をレジに通していくイケメンの淡白な声を噛みしめるように味わっていた時、不意に彼から声をかけられたのだ。
これまで「いらっしゃいませ」「○○円になります」「ありがとうございました」の三種類の言葉とそこから若干派生したものしか聞いてこなかったジナコは、唐突なボイス更新に思わず身構えてしまった。
しかしその薄い唇から飛び出したのは、無礼を形にして練り込んだようなとんでもない発言だったのである。
『それでジナッちゃん、思わずビンタして逃げちゃったんでしょ?』
「
……
あとで我に返って悲鳴を上げたッス
……
」
彼の言葉を脳みそが咀嚼しきった刹那、一瞬だけ目の前が完全に真っ赤に染まってしまい。そうして気が付けば、ばちん、という小気味のいい音が深夜の店内に響き渡っていたのである。
僅かに顔を背けるような形になっていた青年の、もはや病人じみているといってもいいほどの白い頬は、しかしじわじわと赤くなっていて。
ジナコの右手は、いつの間にか振り上げられていて。
それらが一体何を現すのかも理解しないまま、ジナコは勢いに任せて「最低!」と悲鳴のような声を投げつけ、商品をひったくるように掴んでコンビニから逃げ出したのだった。
家に帰ってからようやく自分がやらかしてしまったことを理解して、ジナコは一人で悶絶した。いくら無礼な言葉を投げつけられたとはいえ、大の大人がいきなり暴力を振るってしまったのだ。茫然とこちらを見つめていた彼の揺れる瞳の色が、じわじわと腫れ始めていた頬の赤さが、目に焼き付いたように離れてくれない。
きちんと謝ろうと勇気を振り絞って外に出たのは、それから五日後のことだった。仕事を言い訳に行くことを躊躇っていたのだが、ついにすべての案件の納品を済ませてしまって、とうとう覚悟を決めざるを得ない状況になってしまったのである。
恐る恐るコンビニに踏み込むと、その青年はそれまでと全く同じ調子で店内の品出し作業をしていた。ジナコが引っぱたいたことが夢か何かだったんじゃないかというくらい、いつもどおりの飄々とした様子で。
そうしてこちらの気配に気が付いたのか、青年が不意に顔を上げた。きょとんと眼を見開いた顔が、何だか妙に可愛らしいなと思ってしまって。いらっしゃいませ、とかけられた挨拶は、やはりとてもいい声紡がれていて。
――
気が付けばジナコは青年に背を向け、全力でコンビニから逃げ帰ってしまっていたのだ。
いや、一応弁解くらいさせてほしい。本当は逃げるつもりなんか全くなかったのだ。少なくとも彼の声を聞くまでは、きちんと謝ろうとそれだけを思っていたはずだった。謝罪の言葉が自然に伝えられるようにと、頭の中で何度もシミュレートもしてきたし、その後の当たり障りのない雑談だって複数パターン用意していた。
しかしそんな完璧に準備して挑んでいたにもかかわらず、ジナコは彼の顔を見た瞬間、何故か反射的に逃走を図ってしまったのである。どうしてそんなことをしてしまったのか自分でもさっぱりわからなかった。
その後、無様すぎる撤退芸をかましてしまった初回以降も幾度かチャレンジしてみたのだが、相変わらずその青年の顔を見るだけで逃げ出してしまうのだ。自分の意志でねじ伏せようにもどうにもならない。気が付いたら足が反対方向へ走り出していて、我に返った頃にはコンビニは遙か遠く背後である。
それで何とかならないかと、数少ない友人である彼女に泣きついたという次第であった。
「ボク、もうどうしたらいいのかわかんないッスよぉ~」
『そうは言われてもねえ。本人にわかんないことは姫にもよくわかんないよ。ねえ、ジナッちゃんは一体何がそんなに嫌なの?』
「
……
別に何かが嫌だから逃げてる、ってわけじゃないはずなんスよ。ただ、あの人の顔を見ると気まずさが大爆発しちゃってどうしようもないというか、あの人にじーっと見つめられると、頭が真っ白になっちゃうっていうか」
『何それ?』
「正直なところ、ボクにもさっぱりなんスよねぇ」
さっぱりした快晴の朝空のような色の瞳に真っすぐに射抜かれると、どうしてか自分の奥底に秘めている何かを、強引に引きずり出されそうな気がしてしまうのだ。その上、あの強い瞳を、自分はどこかで見たことがあるような気がして。
とはいえこれは何となく「そういう気がする」というジナコの勝手な想像でしかない。こんなしょうもない理由を説明したところで、ますます画面の向こうの彼女を混乱させてしまうだけだろう。だからこれ以上は一人で胸の奥に秘めておくことにした。
「とりあえず、明日にでももう一回あのコンビニに行ってみるッス
……
駄目だったら慰める会パート2の開催をオナシャス」
『うん、もちろんいいよ~。姫も、今やってる原稿の助手を頼む段取りの相談とかもしときたいし?』
「あーそっか、今年ももうそんな時期ッスね。
……
ねえ、あの、おさかべちゃん、今年はさすがに早めに上げてくれるッスよね? 年末の修羅場の再来にはならないって、ボクは信じてるッスよ?」
『あー
………………
じゃあ姫はお肌に悪いからもう寝るねおやすみィッ!』
「そこはわかってるって即答してよォ!」
一方的に通話を切られ、最後の叫びが彼女に届くことはなかった。ジナコはやれやれとため息をつき、散々叫びまくって小腹が空いていたので、とりあえずカップ麺でも口に入れて腹の虫を鎮めることにした。深夜にすするカップ麺は背徳の味である。カロリー? 知らない国の言葉ですね。
しかしいつもカップ麺の拡充在庫を山と積めてあるはずの棚の中は、間が悪いことに空っぽの閉店ガラガラ状態となっていた。そういえば最近はコンビニに足を運んでもかの店員を見るなり何も購入せずに逃げ帰ることを続けていたから、在庫を補充するのをすっかり失念していたのである。いつも適当なタイミングでコンビニを訪れて在庫補充をしていたから、通販などで定期的に購入しておくという習慣がなかったのだ。
こうなれば致し方なし。いざゆかん例のコンビニへ。
素直に夜食を諦めて就寝するという手もあったのだろうが、もうここまでくると意地である。ジナコは財布を握り締め、それこそ陸の上に上げられたトドかアザラシのごとく、もたもたと自宅を後にしたのだった。
閑散とした深夜の街は、独特な静けさに包まれている。
しかしジナコはこの静寂が不思議と嫌いではなかった。完全に無音にも思えるこの時間は、しかし確かにここでたくさんの人たちが息づいている気配を感じることができるからだ。完全なひとりぼっちではないのだと、何となくそう思える。
そんなことを考えながら、緊張を無理矢理解きほぐすべく鼻歌交じりに足を進めていると、ふとジナコの進行方向から誰かが歩いてくるのが見えた。
この道で人とすれ違うのは、別段珍しいことではない。深夜とはいえ住宅街の中心部に位置するこの道は、人の行き来が完全に無となるような場所ではないからだ。いかにも残業終わりといった感じのサラリーマンなどとすれ違うのはよくあることである。
しかし今視界の先に立ち尽くしているのは、いつもジナコがいつもここですれ違うどの人物とも違った。
街灯の下、その光を受けてぼんやりと鈍く輝いているようにも見える、白磁の髪。『彼』はジナコが彼を視認するよりもずっと早くジナコの存在に気付いていたらしく、その場で立ち止まったままこちらを凝視していた。
まさかこんなところで出くわすとは微塵も思っていなかったのだろう。ああ、よくわかる。ジナコも全く同じ気持ちだ。心の準備がまるでできていない。経験値を貯める必要がある弱パーティの設定のまま、うっかり強ボスの部屋に突入してしまったときのような気分だった。何なら今すぐ回れ右をして逃げたいくらいの気持ちなのだが、足が地面に縫い付けられてしまったかのように動けない。
「
……
こ、コンバンハ」
機械音声か何かかと錯覚するくらいのぎこちなさで、彼からそんな挨拶の言葉が飛んできた。一瞬、彼の声だと認識できなかったほどの固い声だった。緊張しているらしいことが手に取るようにわかる。彼のそんな雰囲気に引きずられて、ジナコも思わずびくりと肩を跳ねさせてしまった。
彼の方から声をかけてくれた。これはチャンスだ。何か、何か言わなくては。ジナコも適当に挨拶を返して、その後でも構わないから、この間のことをきちんと謝らなくては。
しかしどんなに苦心してもまともな形を成した言葉は一向に出てこず、陸に揚げられた魚よろしくぱくぱくと口を忙しなく動かすことしかできない。
だって月明かりに照らされて静かに立つ彼の姿が、あまりにも綺麗だと思ったから。見つめてくる彼の顔に、喜びの色がちらついたのに気付いてしまったから。そしてそのことが嬉しいと思ってしまった自分自身に、ひどく驚いてしまったから。
「
…………
」
無言でこちらを見ていた青年は、そんなジナコを見てふっと僅かに目を伏せた。そして黙したまま、この場を去ろうと歩き出す。
ふわりと、どこか懐かしい香りがジナコの横を通り抜けていった。どこか懐かしさをかき立てる、穏やかなおひさまの香り。
「あ、ま、待って!」
ジナコははっと我に返り、横をすり抜けていこうとした青年の腕を掴んでしまっていた。たたらを踏んだ彼は、振り返ってこちらを見下ろしてくる。
どうしよう。引き留めたものの、何を言えばいいのか、これからどうすればいいのかは相変わらずさっぱりわからない。
ただこのまま何も言葉を交わさないまま帰してしまうことが、どうしてもできそうにないことだけは確かだった。彼に触れるこの手を放したくない。どこかへ行かせてしまいたくない。
引き留めたのはいいものの、そのまま何をするでもなく言うでもなくただ黙りこくっているジナコに、青年はただただ困惑しているようだった。微かに眉をひそめ、ジナコをじっと見降ろしている。このままではいけない。わかっているのに、焦る気持ちばかりが先走って思考が空回りしている。
完全に真っ白になったジナコの頭に、唐突に一つだけ、ぽん、ととある単語が浮かんだ。ジナコが家を出ることになったきっかけの食べ物。不意に浮かんだそれを、ジナコは無我夢中で叫んでいた。
「ら、ラーメン!」
「え?」
「えっと、そう、ラーメン! ラーメンは! お好きッスか!」
「ら、ラーメンか。なるほど。いや、嫌い、ではないが」
「了解ッス!」
一体何をどう了解したのか自分自身でもわけがわからないまま、ジナコは掴んでいた青年の腕を強引に引いて歩き出した。
深夜の暗い街を、二人は油を差し忘れたブリキの人形のようなぎくしゃくした動きで歩いていく。
戸惑いながらも素直についてきてくれている彼にほっと安堵しつつ、ジナコは少しだけ彼のことが心配にもなってきてしまっていた。自分でいうのもなんだが、こんな怪しい女にほいほい付いてきてしまうなんて、ちょっと警戒心が足りないんじゃないか。最近は何かと物騒な世の中だし。しかも相手は数日前、いきなり顔面にビンタを食らわせた張本人であろうに。
ずんずんと無言で歩き続け、やがて二人はジナコの自宅近くで二十四時間営業しているラーメン屋にたどり着いた。仕事が煮詰まったときだったり、先ほど通話していた友人の原稿明けの祝いにやってきたりしている馴染みの店である。
ラッシャーセー、といつもと変わらぬ様子で声をかけてきた顔なじみの店員は、しかしジナコが年若い男を伴ってやってきたことにかなり衝撃を受けたらしい。鍋の中をかき回していた大きなお玉を手にしたまま、ぽかんとした表情で固まってしまっていた。あんぐりと口を開け、一体何事かとジナコの顔を凝視してくる。
そんなに自分が男連れでくるのがおかしいか。おかしいだろうな、わかる。自分も今の状況ちょっとが信じられない。だがいくら何でもそんな、まるで世界終焉の予言を受けた場に立ち会ったかのような衝撃を受けた顔をするのはやめていただきたい。
ジナコは一人悲しく心中で呟きながら、店内の奥側に位置する席に座った。青年は数秒そんなジナコを眺めていたが、やがてもたもたと向かいの席に腰かける。
そのまま、しばしの沈黙に突入。水を持ってきた店員が目も合わさずにさっさと立ち去っていくレベルの気まずい空気が、二人の間を重苦しく支配していた。
しかしこのまま黙っていては埒が明かない。ジナコは覚悟を決めて、重たい唇を根性で無理矢理動かした。
「あ、あの!」
「オレは」
「
…………
」
「
…………
」
「
………………
えっと、お先にドウゾ」
「! ああ、すまない。そうさせてもらおう」
見合いか何かかと突っ込みたくなるような謎の展開と雰囲気である。
しかしこの気まずさに負けていてはいけない。改めて気を引き締め直したジナコは、ひとまず彼の言葉をきちんと聞いてみることにした。
先ほど道で出くわしたとき、掴んだジナコの手を乱暴に振り払って逃げたとしてもいいというか、むしろそうするのが当たり前といえるような状況だったはずだ。けれどこの青年はじっと動かぬまま、ジナコの言葉を待っていてくれたから。 だからもしかしたら彼は、ジナコが考えていたよりもずっと優しい人なのではないだろうか、と考えたのだ。先程ジナコに注いでいた視線には、そう思わせるには十分なものが確かにあったように感じる。
故にあんなとんでもない暴言を放ったのにも、或いは何か理由があったのかもしれない。もし彼が己の口からあの言葉の真意を話してくれるのならば、ジナコはそれを聞きたかったのだ。
青年は微かに俯いて数秒ほど深く考え込むような仕草をしたのち、ひどく緩慢に口を動かしはじめた。どうやらものすごく気を遣いながら言葉を選んでいるらしいことがわかる。いつもコンビニで交わしているのよりもずっとゆっくりな調子で、彼の不思議とよく透る声が耳を優しくくすぐっていった。
「先日は本当にすまなかった。どうやらオレは、かなり口下手らしくてな。そのせいで、普段から、人を怒らせてばかりいる。だが、あのときはただ、お前の不健康極まりない食生活と、たるみきっているその体を見て、お前の健康が心配になっただけなんだ。お前の気分を害する意図はなかった。断言しよう」
メニュー表をジナコたちのいるテーブルまで持ってきた店員が、口元を押さえながら噴き出すのを必死に耐えているのが視界の端で見えた。うむ、言いたいことはよく理解できるが、今はそれを置いて早急にこの場を去ってほしい。
つまり、何だ? 言葉選びこそ最悪の最悪ではあったものの、すべてはジナコを気遣っての発言だったと。
間違いなく本心から出た言葉であることは、この顔を見ていればいやでもわかる。しゅんと肩を縮こまらせてわずかに目を伏せている様は、まるで叱られるのを怖がっている子犬か何かのようだった。
「あー、うん、言いたいことはわかったッス。でも赤の他人であるボクの健康なんかアンタが気にすることないじゃないっスか。あ、何食べる? ボクは担々麺で」
「お前と、赤の他人ではない間柄になりたかったからな。オレはこのオススメ激辛つけ麺とやらをもらおう」
「
…………
は?」
「聞こえなかったのか。オレはこのつけ麺が食べたいと言った」
「そ、そっちじゃなくて最初のほう!」
こいつは今、何とほざいた。他人ではない間柄になりたい?
何だそれは、と思った。心底思った。
何を言っているのかさっぱりわからない。
いや、放たれた言葉の意味自体はもちろん解するが、何故それを彼が自分に対して言うのかが完全にジナコの理解の外だった。
だってこんな、女なんか選り取り見取りで全く困っていなさそうな顔の良い男が、わざわざジナコのようなキワモノ的な女を選ぶなんて、どう考えてもおかしい。どこかで頭でも打ったんじゃなかろうか。どこか良い病院を紹介してやるべきかもしれない。
或いはいつも周りを美女に囲まれているからこそ、ジナコのような賞味期限切れの女もつまみ食いしてみたくなったのかもしれないが、それにしたって趣味が悪いと言わざるを得なかった。自虐のしすぎでいい加減胸が痛くなってきたのでそろそろやめよう。
あんぐりと口を開けたまま呆けているジナコを置き去りにしたまま、青年は訥々と言葉を続けていくのである。
「オレは以前からお前に強く心を惹かれていたのだと思う。そしてお前は以前、コンビニのくじ引きで一等を取ったことがあっただろう? そのとき喜びに顔を輝かせるキミを見て、それがとても尊く、そして美しいものだと思った。その顔をオレに向けてほしいと思った。つまりこれは一目惚れというやつだ。オレは、キミに惚れているんだ」
絶賛注文したラーメンを調理していると思われるカウンターのほうから、何かを盛大に落っことした音が響いてきた。
現在この店内にはジナコとこの青年しかいないから、会話がすっかり筒抜けになっている状況である。つまり青年が突然歯の浮くようなセリフを吐きながらジナコを口説き始めたのもばっちり耳にしてしまっていたわけで。なるほど、そりゃあお玉の一つや二つくらい落とすだろう。ちなみにジナコがそのことに気が付いて、もう二度とあそこに行けないとまたしても喚く羽目になるのは、もう少し後の話である。
とにかくこの時点では、ジナコは彼の告白をただただ茫然と聞いていることしかできなかったわけだった。こんなセリフを三次元で聞くことになるとは夢にも思わなかったから。しかも第三者同士がどっかで言っているのを聞いているというシチュエーションではなく、目の前の青年が、他の誰でもないジナコに対して言っているのである。昨日までの自分に言ったら、きっと「そんな馬鹿な」と腹を抱えて笑っているところだ。
「
…………
ええと、その
……
突然すぎて、ボク、は、えっと、どうしたらいいのか」
助けてくれと叫びたいところだが、悲しいかな、ここにジナコの味方になってくれそうな存在が何一つない。ジナコの冒険はここで終わってしまった。次回作にご期待ください。
とはいえどんなにページを閉じたくても、目の前にある現実はそのまま閉ざすことなく続いてしまうので、ジナコはここで彼に返事をしなくてはならない。でも、本当に何を返せばいいのか全くわからないのだ。困ってしまう。
とにかく、彼の言いたいことはこれで全部終わったようだった。ようやく伝えられたとすっきりした顔をしているが、逆にジナコは混沌の渦の中であっぷあっぷと溺れている真っ最中だ。
「と、とりあえず、先にボクが言いたいことだけ言っちゃっとくッス。ええと、こないだは、いきなり引っぱたいちゃってゴメンナサイ
……
」
彼の突然すぎる告白へ対する返事は何一つ出てこないので、ひとまず後回しにするとして。ジナコは予め用意していた自分の言いたいことを先に伝えてしまうことにした。こういうのはまず解決できるところから片付けていくべきだ。
ぺこりと頭を下げたジナコのつむじに、相変わらず淡白な彼の声が降ってくる。
「いや、構わん。お前が放ったあの蚊が止まるような平手など、避けられて当然のものだった。すべてはオレの未熟さ故。それを気付かせてくれたことに感謝したいほどだ」
「さ、さいでっか
……
」
そうこうしているうちに、無事に出来上がったラーメンがジナコたちの前へと配膳されてきた。テーブルの上に並べられたどんぶりからはほこほこと真っ白な湯気が噴き上がり、食欲をそそる香ばしい匂いが踊るように鼻腔を擽ってくる。
しかしそれはそうとして、店員よ、そんなにやついた顔でちらちらと自分たちの様子をうかがうようなことをするのはやめてほしい。気持ちはわかるし、ジナコがそちらの立場だったとしたらそういう風になっていたかもしれないが、当事者になるといたたまれなさ過ぎて消え失せたくなる。
「い、いただきます~
……
」
「いただきます」
考えるべきことや言うべきことは色々あるのだが、このままもたもたと無駄な時間を過ごしていればせっかくのラーメンが伸びてしまう。二人は手を合わせ、箸を手に取り、言葉少なにそれぞれのどんぶりへと挑みかかった。
ずるずる、と麺を啜る音だけが店内に響く。
しばらくの間、二人のあいだに会話はなかった。互いに黙ったまま半分くらいを胃に収め終えた頃、ジナコはようやくぼそりと口を開く。
「
……
じゃあ、とりあえず。お友達から始めるッスか?」
「! そうか。オレの言葉を受け止めてくれたことを感謝しよう。では改めてよろしく頼むぞ。まずはキミの名前を教えてくれないか。オレはカルナという」
「え、ボク?
……
ボクは、ジナコ。ジナコ=カリギリッス。その
……
よろしくね、カルナさん」
何だか奇妙なことになってしまったなと思いつつ、ジナコは教えられたばかりの彼の
――
カルナの名前を口にした。初めて知った名前なのに、不思議と口に馴染む響きだった。
そうして己の名を呼ばれた時の、青年の嬉しそうな顔ときたら!
もっと冷たくて、淡白な人だと思っていたのだ。笑ったり泣いたりを軽々しくする性質ではないのだと。
けれど今目の前で白磁の頬を薔薇色に染め、困ったように視線を彷徨わせて照れまくっている姿は、それまでずっと抱いていた彼の印象をひっくり返すのには十分過ぎる代物だったのだ。
そんな彼の姿を目にしてしまったジナコは、箸でつかんで口に運ぶ予定だった次の一口を、うっかりスープの中へと落っことすくらいには驚いてしまった。同時に、どっ、と心臓が今まで鳴らしたことのないような音を立てて跳ね上がる。
いや、おかしい。違う。こんなのってない。だって別に、彼はジナコの好みの容姿などではなかったはずなのに。
けれどこうして嬉しそうに笑っている姿を見ていると、どうしようもなく自分の奥から沸き上がってくる熱があるのは、認めざるを得ない事実だった。もちろん、先ほど啜った麺やスープの熱さなんかじゃない。
今ジナコの中を支配しているのはもっと強烈で、でも不思議と甘くて優しい熱だった。
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