一歩また一歩と進む足は重く、若干引き摺っているまでもある。歩くのに合わせ前屈みになった上半身とだらり伸ばさ背れた両腕がメトロノームよろしく無駄に左右に揺れていた。
「っとに疲れた……!!」
威光を示すべくかつて身に纏っていた抜け殻の裾が元から塵埃のない廊下を拭き掃除していく。
つい先ほど閉幕した非公式とはいえこの国の諸事情を知っている者達が内部外部問わず集まり、今後近隣諸国や大陸相手にこの国の振り方もとい統治について話し合う会議の重々しさにライオスは終始息が詰まって仕方なかった。
これがまだ内部の者達だけならここまで息苦しくなかった。だが、お目付け役も兼ねて外交官であるミスルンとパッタドルが出席していた為、迂闊な発言が出来ないというプレッシャーが常に纏わり付いていた。
まだまだ新米な王であるが、何かを発言する際何が良くて何が駄目なのか最低限の線引きをカブルーとヤアドに叩き込まれていたのでうっかり失言する事態は免れていた。
もっともライオスが失言する前にカブルーとヤアドが先手を打ちフォローする構図はライオス国王誕生時に即産まれたものである。
「せめてもの幸いは出された料理の量が心なしか多かったくらいか」
常時小腹が空き続けるライオスは気が付けば何かを口に運び満たされない小腹を満たそうとする。
その所為で普段とても優秀な宰相筆頭に摂生を強いられているので表面上好き勝手に食べられないでいた。いくら食べても満たされないからといって、食べた栄養が緩やかに吸収され確実に肉体に蓄積するのには変わらない。
「(きっと彼が配慮してくれたのだろう)」
事細かな気遣いが出来る友人の事だ。今日行われた非公式の会議でぐったりするライオスを労わる為に「今宵開かれる会議後振舞う食事は一段と豪勢に。特に精が付くものと食後のチーズケーキを忘れずに」と指示する頼りになり過ぎるカブルーの姿を思い浮かべるだけでライオスの目に薄っすら涙が滲む。
こっそり給仕係から貰ったチーズケーキを懐から取り出し食べるライオスの口の中と胸の奥にささやかな幸福が広がる。
好物のチーズケーキを追加で食べたお陰か、ちょっと元気が出たライオスが行儀悪く指先に付いたチーズケーキの味を舐め取り前屈みになっていた姿勢を正す。
そんなこんなで会議の愚痴やらチーズケーキの美味しさに舌鼓している内に私室に辿り着いた。とかく頭で意識せずとも体にしみ込んだ習慣で勝手に動く素晴らしさ。自分が即位するまでの王達が触れ握っていたであろう、いい塩梅に年季の入ったドアノブを掴み扉を開ける。
完全なるライオスのプライベートなる空間は所狭しと魔物関連の書物や牙から毛皮に至るまで散々マルシルとカブルーによって選別されたものしか置けていないものの、ヤアドからこっそり教えてもらった王しか知らない隠し部屋にはライオス珠玉のバレたら速攻廃棄させられてしまう魔物関連の数々が飾られていたりする。
部屋に入り扉を後ろ手で閉め、着替えが置いてある衝立向こうへ歩きつつローブを外していたライオスの視線が部屋の違和感を捉えた。
「(はー。やっぱりエルフは何しても様になるもんだ)」
皺ひとつないベッドメイクされた名の通りのキングサイズベッドの端。無駄な肉が付いていない細い足を優雅に組み本棚に置かれていた魔物関連の書物を読み耽っている端麗な横顔にライオスから暢気な溜息が零れ、衝立に遮られるまでその様子を目で追っていた。
堅苦しい格式高い衣服を脱ぎ、緩い寝間着に着替えて衝立向こうから出てきたライオスはやっと異常な光景に気が付いた。
「(何故ミスルンが俺の部屋にいるんだ?)」
エルフ特有の長い耳が真ん中近くから切り落とされている外交官ミスルンの憂いている、ように見えなくもない横顔に胸中突っ込んだ。
「ここ、俺の寝室ですよ…?」
「そうだが?」
ライオスの問い掛けに何当たり前な事を訊ねているのだと云わんばかりなミスルンの態度にライオスは自分がおかしいのかと顔を俯かせ目元を右手で覆う。視界を無くしたところで何かが変わるわけもなく、タンッと本が閉じる乾いた音がやけに響いた。
目元を覆っていた手を僅かにズラし向こうの様子を窺う。ミスルンが片手で閉じた本を己自身の隣に置き、組んだ足の上に頬杖をつきライオスを眺める所作の細部に至るまで気品に満ちていた。
いや本当にエルフという種族はつくづく絵画映えする線の細い美しさを持った、じゃない。
「今日はもう王の公務は終わりましたので、外交的な話は後日改め──」
「違う」
「……あー。今回会議が長引いたのにあたり、此方で用意した部屋が分からず迷──」
「用意された部屋は分かる、迷っていない」
これだという理由を述べていくも、眉ひとつ動かさず淡々とミスルンに撃墜されたライオスが唸った後、彼の人となりを良く知っている面々なら一瞬で顔を渋くさせる言の葉を嬉々として舌先に乗せた。
「俺との魔物談議で花を咲かせ──ッ」
「ない」
目元を覆っていた手を外す程に喜びかけたライオスの表情がやおら落ち着きを取り戻す。
正直なところ魔物に対しての専門的な話が出来るミスルンとの会話はライオスにとって実に有意義で楽しい。何より相手がどれだけライオスが興奮気味に話しても全然引かないだけではなく、欠けている要所要所を補足説明してくれるのだから時間が許す限り語り続けたいが、大抵カブルーストップが途中で入り強制終了するのが殆どだった。
ミスルンの純度の高い漆黒の瞳に宿る感情の色は希薄で、人間相手の感情を読み取るのが疎いライオスは常に難儀していた。
「(もしや魔物関連の話をしてくれるのって社交辞令ってやつだったりするのだろうか)」
額面通りに受け止めてしまうのをマルシル達に怒られるやつだ。ライオスは居たたまれない気持ちで小さく嘆息を吐き頬を掻き視線をミスルンから逸らした。
「望むのであればしなくもない。だが、今はその気にはなれない」
正面で受け止めていた声がすぐ間近から聞こえただけでは収まらず、体全身が感じた事のない浮遊感に包まれたかと思いきや、次の瞬間には臀部をベッドが優しく包み込んでいた。
咄嗟の事で回らない思考でライオスが自分を仰ぎ見ているミスルンから先程まで佇んでいた場所に軽い音を立て落下する魔物の本に目を向けた。
「おおっ! 転移術が自分に使用されるとこんな感──」
子供の様に目を輝かせていたライオスの視界が突如彼の意思に関係なく流れていく。
時間差でベッドに沈む体をさも他人事みたく感じつつ、影を従え見下ろしてくるミスルンの表情筋が仕事放棄している美貌をぽかんと見上げた。動きに合わせ揺れるウェーブ掛かった流麗な白銀の髪。虹彩のない黒の隻眼が逸らさず自分の下にいるライオスを食い入るように眺めていた。
端から自分に危害を加える相手だとは思っていなかった男の細く長い指先が肩を掴み、やんわりとベッドに押し付ける圧が強まる。
ミスルンに覆い被さられても尚、ライオスの中で警戒心らしい警戒心は産まれず、どうしたものかという少しばかりの困惑した気持ちが産まれただけだった。
「抵抗しないのであれば肯定したと受け取る」
抑揚のない声音に潜むミスルン意図──、を全く理解出来ず首を傾げるライオスにミスルンは立てていた膝で彼の股座にぐりっと押し当てた。
ここまでして急所攻撃をされている、などという間違った認識されたら如何しようか。そんな事をミスルンは胸中思うも杞憂に終わる。
結果から言えばライオスはそこまで疎くはなかった。ただ置かれた状況を理解するなり「それは参ったな」と緊張感のない事を呟き、フッと一息吐いてから自分を押し倒しているミスルンの華奢な肩に手を伸ばし掴んだ。
小柄で体重の軽い身体。ちょっと力を込めて押し返せば呆気なくミスルンを上から退かす事が出来る。
そんな喉が焼けるくらい甘い考えは、はじめこそ加減して入れていた力が本気になるにつれ消えていった。顔を真っ赤にするくらい力むライオスに対して、ミスルンは涼し気な表情を崩さない。基本エルフよりトールマンの方が力で勝るにもかかわらず、現状それがものの見事に逆転しているのをライオスは身を持って味わった。
「抵抗しないのか?」
「(……抵抗しないんじゃなく、抵抗させないが正しいだろっ!)」
ライオスがバタつかせる足を容易く抑え込む細い足、肩をベッドに押しつけ続けている手首を掴めば指同士が余裕で重なる、だのにどこもかしこもミスルンの外見から感じられる病的なまでに華奢で折れてしまいそうな感触が欠片もない。
最近鍛錬をサボり気味だからという言い訳を盾にしても辛すぎる圧倒的な力の差。こめかみに血管が浮かび上がるまで込めていた力を緩やかに抜いた。
唐突に弛緩するライオスの体にミスルンの隻眼が少しだけ見開く。
「あなたが如何してこのような事をしたいのか理由を教えてほしい」
「理由か」
別段意識を逸らして逃げる算段を考えているようには見えないライオスの面持ちにミスルンがつと目線を外した。思案に耽るような仕草にライオスは急かさずに彼の言葉を待った。
そして、頭の中や胸中渦巻く感情の言語化が完了したらしくミスルンが薄い唇を開け語り出した。
「まず、お前の傍に居るとやりたい事が以前より産まれてくる」
「──俺の中にある翼獅子の残滓か何かに反応してか?」
「それは無い。お前は悪魔の欲望を喰らったというが見る限りそれらしいものは感じない」
徐にミスルンがライオスの肩を掴んでいた手を離して、彼の口、喉、胸、腹へと細い指先でつーっと触れなぞっていく。ふんわり艶やかな手付きでライオスの下腹部を撫でるも、特に顔色を変えないと見るやミスルンの手が離れライオスの頬を包み込み親指の腹で目元を擦った。
「これはそうか、あれか……」
何やらひとり納得してぶつぶつ呟きだすライオスにミスルンが耳をすませた。
「同性間の性行為は自然界における動物や魔物に至るまで一般的なものであって、性行為そのものの理由に子孫を残さなければならないというのが必ずしもあるわけじゃない。たとえば精神的苦痛を解消するためや、単純に性欲を解消するため自分より弱い相手を組み敷く事だってある。もし、沸き立つ衝動を解消するため今に至っているのなら……、俺はあまりその手の店に行かないが城下町の裏通りに何店舗かあると聞いた。一回行ってみてはどうだろうか」
至極真面目な顔で提案する姿に焦燥感の影はない。
もともと暴力的解決を好まないライオスの性格を考え対話での解決を試みているのは目に見えて明らかだ。それは短い付き合いながらミスルンも理解しており、空虚な胸の奥でゴトリと重たい石が転がる様な不快な感覚に目を眇める。
「一時の気の迷いや欲求不満をお前以外で解消出来るのであればとっくにしている。でなければ一国の王を組み敷くなぞ子供でも分かる愚かで不敬な真似はしない」
「・・・。つまり俺じゃないと駄目?」
今更ながらハッと気付いたライオスの表情は心底真剣なもので崩れる気配はない。目尻の垂れた琥珀色を宿すライオスの目からありありと伝わる困惑の色。茶化すわけでも馬鹿にするわけでもない、愚直過ぎる程にミスルンの言葉を受け止め真剣に悩み唸るライオスの唇を色素の薄いミスルンの親指が掠める。
目尻を撫でていた手付きよりも繊細に何度も何度も往復する。
「……何故お前なのかは私自身よく分からない。だが、少なくともお前と接する事で私の中で新たな気持ちが産まれてくるのはたしかだ。今までの無気力さ無関心さが薄まり、やりたい事が雪に埋もれ眠りについていた草木が目覚めるように芽吹く」
魔物の話題になった途端、輝きを増す琥珀色の瞳に惹かれ、嬉々として魔物を語る唇の動きを無意識に目で追う。指先から伝わる肌や唇の柔さと温もり。ライオスに触れ撫でるミスルンの動きに躊躇いはおろか初々しさを微塵にも感じさせない。昔の記憶を辿るように、懐かしい思い出の軌跡をなぞるように動くしみ込んだ手付き。
愛玩動物を愛でるとは違う、ミスルンの慈しみに満ちた触れ方は大事で大切な人を想い触れるものだとライオスがぼんやり頭の中で呟いた。
「ゆえに私は知りたい。お前と事を為せば悪魔に喰われ虚になった欲望がどれほど戻って来るのかを」
澱み昏くなる黒の隻眼が埋め込まれた義眼の無垢な黒を一層際立たせる。未だ悪魔に募らせる黒炎の復讐心が宿るミスルンの険しい表情にライオスの大きな手がやおら伸ばされた。
「あなたにはファリンの事、このメリニに置いてもかなり融通を利かせてくれている恩がある。だから俺に出来る事なら可能な限り協力するつもりだ」
ライオスが手の甲でミスルンの頬をすり…、と撫でる。なめらかな肌質もさることながら控えめに自ら頬を寄せるミスルンの瞳から昏い影が消えた事にライオスの顔が和らいだ。
「体は丈夫な方だがお手柔らかに頼むよ」
これから起きる事を甘んじて受け止める。そんな自ら皿の上に身を置くライオスの態度は他人事感が否めない。
ミスルンとしては協力してくれる姿勢に感謝すべきところだが、心に灯る一抹の言い表し難い感情の火が大きくなっていく。男のトールマンらしい皮膚の厚い手の甲へミスルンが自身の薄い唇を押し当てても血色が良くなれば一発で分かるライオスの頬に朱が走る事は無かった。
空白が多い心の隅。無意識のうちに期待した分だけ気落ちする己自身の感情をミスルンが自覚する。
だが、此処まで意識されず興味を向けて来ないライオスの心を果たして何処まで自分へ抱かせる事が出来るだろうか。沸き立つ好奇心の裏側、細くしなやかなミスルンの親指がライオスの下唇を押さえ口元をやおら開かせた。
「うん」
短い了承の言葉をミスルンが紡ぎ緩やかに体全身を下降させ始めた矢先の事、数回扉をノックする音に続きライオスの寝室の扉が気まずそうに鳴き声を上げる。
「ライオス、お休みのところすみません。この件だけ早急に確認を──」
書類を見ながら部屋に入ったカブルーが顔を上げた瞬間、彼のシアンブルーの瞳にライオスを押し倒しているミスルンの光景が映り込み、そしてライオスの琥珀色の瞳とミスルンの夜を掬った瞳もまたカブルーの姿を視界に捉えた。
緊張感も何も無いただただ「カブルーが来たって事は何かの確認だろうか」と思っているライオスとは対照的にミスルンの流し目に宿る冷たさを押し倒されているライオスは知らない。
普段から取り繕った笑みを絶やさないカブルーは一度完全に部屋の扉が閉まっているのを確認後、一先ず書類を適当な場所に避難させるなり無言で二人のもとに歩み寄った。
「これはこれはミスルン外交官殿。お休みになられる部屋が分からず迷ってしまわれましたか。それは大変だ、俺が直々部屋までご案内いたしますね」
早口でまくし立てるカブルーがライオスの上に跨っているミスルンの両脇に腕を通し随分あっさりと引き剥がした。それをまた暢気にライオスは「はー、カブルーって結構力あるんだな」という視線を送っているが、実際にはミスルンが力を抜いたからである。
カブルーがミスルンを羽交い締めにしたまま部屋から出て行くのを目で見送り、やれやれ寝るかと上半身を起こしたライオスを見計らってか閉まりかけた扉の隙間から。
「その書類確認するまで寝るの待っててください」
と、釘を打たれてしまっては寝ずに寝られず。とりあえず、床に落ちっぱなしになっている転移術で場所を移動させられてしまった魔物の本を片付けるか。そう思いつつライオスはベッドから腰を上げたのだった。
ライオスの部屋から少しばかり離れたところでカブルーは半ば抱えていたミスルンを下ろした。
「ほら、こっちですよ」
隠す気なぞ毛頭ない。渋い顔付で廊下の先を指差すカブルーの人差し指をミスルンの隻眼が一瞥する。
「分かっている」
「どこが」
用意された部屋に向かい歩き出すミスルンに合わせ一拍置き歩き出すカブルーに歩みを止め振り返った。
「迷わず行ける」
「いえ、部屋まできっちり送ります」
ライオスの前で言った手前か、はたまた違う理由からか。今にも喉元に短剣を突きつけたい衝動を抑え込んでいるカブルーの気配にミスルンは緩く握った手を口元に当て思案する。
とかく如何反撃するかではない。何故自分に対して此処まで敵意を剥き出しでいるのか疑問に思いある仮説に辿り着いた。
カブルーもまたライオスに根が深い感情を抱き向けている。
奇しくもミスルンが悪魔の甘い誘惑に誘われ迷宮の主になってしまった要因と似た状況。当時の忌々しい感情と嫌悪感が記憶を伝いどろり黒い不快感となってミスルンの失われた右目から溢れかえる、なんて事は無かった。
あの頃の傲慢な自分とは違う。酸いも甘いも知り己自身がやりたい事をするには如何すればいいかの術をミスルンは悪魔に復讐を誓った日から学び続けていた。
結果、カブルーに牽制されようとも上手い具合に周囲に敵を作らないよう立ち回り、長年の魔物に対しての知識を共有するかたちでライオスとの対話を続け──、見事ミスルンがオフの日にはライオス自らミスルンを探すようになったという。
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