彼と二度目にあったのは、一度目のときと同じような、雷雨の夜だった。
時刻はあのときより少し遅い。父さんがよく眠っているのを確認して、僕は家を抜け出した。傘化けを起こす訳にはいかなかったから、たまたま家に置きっぱなしにしていた黒い傘をさして。
何でそんな行動に走ったかといえば、彼が来る気がしたから、としか言えない。雨の大気の中に、確かに彼の気配がする。雨が降る森の中、彼があの四角い隠れ家の中に独りでいるんだろうかと思ったら、僕の体は勝手に動いていた。
小走りに隠れ家までいくと、前と同じように、彼は窓から外を見ていた。
ただ、足元は素足で、ちゃんちゃんこも着ていない。向こうの世界で何かあったんだ、と直感が告げる。
「
……先輩」
窓から射し込む雷光に、彼の膝から下が泥まみれになっているのが浮かび上がった。その泥に微かな妖怪の気配を感じて、僕は息を呑む。
……泥田坊。
「きみ、まさか」
言いながら、違和感を覚える。あの泥の体は、髪や指鉄砲ではどうにもならない。飛び散った破片からでも分裂して再生するから
――少なくともこっちの世界の泥田坊はそうだった。でも、今沢城くんの足にまとわりついている泥には、気配は微かに残っていても、もう妖怪として動き出すだけの力はないようだった。
「泥田坊を、
……殺したのか」
彼はきっと、泥田坊を体内電気で灼き尽くしたんだろう。破片の泥に魂が宿らないなら、本体の魂を逃がす隙さえ与えずに、一瞬で文字通り全てを灼いた、ってことになる。そう思い至って背中に冷たいものが走った。とんでもない力だ。一撃の威力も、電気の制御も。
僕の表情をどう取ったのか、彼はためらいがちに頷いた。
「こっちの世界の、じゃありませんけど
……」
何か押し殺したような声音。砂嵐に似た雨音の中、僕の耳は辛うじて、沢城くんの言葉を聞き取った。
「前に来たとき、こっちの泥田坊の様子も、少しだけ見に行ったことがあります。平和に暮らしてて、
……こっちでは上手くいってるんだな、って。でも、僕の方は」
だめでした、という言葉は唇の動きだけで読み取る。
そのまま崩れ落ちるように、彼は床に座り込んだ。
傷ついたようにうつむく彼の表情に、妙な気持ちがざわついた。
何か見てはいけないものを見てしまったような、それなのに
――揺れる金糸混じりの髪も、噛みしめられて震える唇と対照的に、力なく閉じた目も。
頭の奥に音を立てて焼き付いた気がした。
「先に足を、
……ちょっと、待ってて」
僕がとっさに選んだ行動は、何でもいいから彼の側から離れること、だった。
床に放置していたタライをひっつかんで、隠れ家の隣の川まで降り、水をくみながら息を整える。自分の中に湧いたよく分からない気持ちをなだめつつ、手ぬぐいを絞った。少し冷たいかなと思ったけど、寒い季節じゃないから大丈夫だろう。
僕がタライと共に隠れ家へ戻ったところで、彼は初めて自分の足がかなりの泥まみれだったことに気づいたらしい。ごめんなさい、と呟く声も弱々しくて、ほとんど泣いているようだった。
「何か、わけがあるんだろう? きみが何の理由もなく妖怪を殺すとは、僕には思えないよ」
つとめて冷静な声を保ちながら、告げる。
泥田坊を殺すような事態なんて、人間との土地争いくらいしかないだろう。幽霊族は、正確には妖怪ではないけれど、人間からしたら妖怪のようなものだ。その彼が人間の味方をした結果、妖怪を殺したなら
――余程何か、人間側に『退かない理由』があったのか。
そう考えながら、絞った手ぬぐいを彼の膝のあたりに当てたら、布の向こうの肌が一瞬だけぴくりと震えた。また気持ちがざわめくのを感じる。
「あの、自分で」
「いいから」
伸びてきた手を、やんわり押しのける。沢城くんはそれ以上、抵抗しなかった。
雨音と遠雷の音だけが響く中、そっと彼の足を拭っていく。僕より少し冷たい肌一枚の下、しなやかでいながら強くはじき返す感触と、奧にある硬い骨と。
ざわめく気分が少しずつ強くなる。居心地がいいとは言えない、なのに手を伸ばして触れていたくなる、矛盾した感覚。左足を拭き終わっても、沢城くんは何の反応も見せない。
すっかり汚れてしまった手ぬぐいを、一度タライへ放す。ほんの微かに残っていた泥田坊の気配は、水に晒されて霧散する。残ったものはもう泥とは呼べず、水に沈んだ砂粒という方が正しいだろう。泥田坊の屍、と言っていいのだろうか。
「
……人間を死なせるのが、そんなに嫌なのかい」
「それだけは、ゆずれないから。人間の命だけは、
……何をしてでも」
改めて絞った手ぬぐいで、右足も拭う。
それで彼の中の鍵が開いたように、ぽつぽつと言葉がこぼれはじめた。
沢城くんの語った顛末は、もうどうしようもない人間と妖怪の軋轢だった。
封じる手段がない、あったとしても、封じておける『場所』が残されていない。だから殺すしかなかったと
――それで人間の親子を守ることはできたけれど、そうして泥田坊を殺した痛みは、誰に明かしたところで届きはしない。
気持ちを引きずったまま、森の仲間たちのところに戻る気にはなれなくて、ここに逃げてきてしまったのだという。
「そっか。
……やっぱり、僕にはよく分からないな」
「分からなくていい。先輩は、分からない方がいい」
足を拭き終わった布をタライに投げて、僕は問い返した。
「どういうことだい。分からない方がいい、って
……」
沢城くんは黙って首を横に振る。
続く沈黙に耐えられなくなったのは、僕の方が先だった。
彼の隣に肩を並べるように座って、食い下がる。
「僕は、
……分からないことがあるなら、少しでも分かりたいよ」
視線の高さを合わせて、彼の顔を覗き込むように言ったら、どういうわけか沢城くんは小さく笑った。
「
……こっちのみんなに、お人好し、って言わてれません? 先輩」
「う」
聞き覚えのありすぎる一言だった。
でも、分からなかったら何も変わらないじゃないか
――そう思ってしまったのが表情に出たのか、沢城くんはまた静かに語りだした。
「先輩のこの世界では、人間たちの間に、見えないモノを畏れ敬う心が、まだちゃんと残ってるみたいですね
……だから、線を引いて共存しよう、って持ちかければ話が通じる」
でも、と続けた声は明らかに曇っていた。
「僕の世界では、もう、そういう感じ方をする人はほんの少しです。たまに、不意打ちのようにお互い関わることがあっても
……対等に話ができることは、ほとんどありません。人間のほとんどは妖怪を『存在しないもの』扱いしていて、邪魔と感じたら排除するだけ。妖怪も黙って殺されるいわれはない。だから命がけの対立になるんです」
「それで、きみが妖怪を殺すことになるのか。人間を守りたい、から」
「他にどうしようもないので。
……人間のほとんどは、妖怪と話す気がない、たとえ話せても通じない、折り合えない。そんな絶望感、先輩は分からない方がいいんです」
淡々と語る口調はそのままなのに、沢城くんの片目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。まばたき一つ、またひとしずく。
「人間は人間、妖怪は妖怪として、
……それぞれ対立はあっても、ちゃんとお互い話ができる、
……先輩の世界が、今の僕にはとてもまぶしい」
ぱたぱたと、涙が灰色の石を濡らしていく。
気がつけば僕の指先は勝手に、沢城くんの涙を拭っていた。
「せんぱ、」
「軽々しく、分かる、なんて言う気はないよ。でも、きみが今泣いてることは分かるし、辛い気持ちなんだろうってことも
……想像はできてるつもりだ」
他に泣ける場所がないんだろう、ってことも
――思い浮かんだ言葉の後半は、そっと胸の内に沈めた。それを言っても、彼にはどうしようもないことだから。
僕はこのとき完全に確信した。
沢城くんの隣には『誰も居ない』。
僕が生きるこの世界では、人間も妖怪も、お互いのほとんどが『条件が揃えば対等に話せる相手』だと、うっすらだけど思っている。それでも話を聞かない人間がいたら、妖怪のみんなが力を貸してくれる。
でもきっと沢城くんの世界は、そうやって力を貸し合える状況じゃないんだ。だから、彼は人間と妖怪の間を取り持つために、たった独りで
――痛みも苦しみも、全部引き受けながら。
「
……先輩。もう少し、ここにいていいですか。雨が止むまで」
「うん。僕も、雨が止むまでここにいるつもりだけど、それで良ければ
……ここに来る途中、傘を木の枝に引っかけて壊しちゃってね」
嘘だ。ただの言い訳。
でも彼を独りにしたくはなかったから。
「そんなに、あわてて来たんですか」
僕のヘタな嘘なんてバレバレだろう。だけど彼は敢えて、その嘘に乗ってくれたらしかった。
「うん、
……まあ。きみが来る、って気配がしたから」
「、どうして
……? 先輩、いくらでも来ていいって、前に」
何か話がかみ合ってない、と五分の一秒くらい考えて
――
「え、あ、いや」
たどり着いた答えであぶり出された、自分自身の本音に思わず動揺する。
きっと沢城くんは、僕が『警戒しに来た』と思ったんだろう。
だけど僕はそんなこと、毛の先ほども思ってなかった。ただ彼が来る、会いに行こう、って
……それだけで家を抜け出して、夜の森を走って。
結局口から出たのは、ミもフタもない事実が一つだけ。
「うん、ええと、
……きみに、会いたかっただけ」
「
……、どうして?」
再びの問いかけは、極々純粋な声音で飛んできた。
何の他意もない、ただ分からないから尋ねている、というだけの顔と声。軽く傾げた首の、さらりと流れる金糸混じりの栗色が、本当にきれいだ。
僕は正直に答えた。
「来るなら、会いたいと思って。雨が降ってる夜の森に、きみが来ているんだろうかと思ったら、いてもたってもいられなくて」
「え、」
「
……何でかな。気がついたら走り出してた」
さっき涙を拭ったときもそうだった。体が勝手に動いてる。
彼の脚を拭いたときのよく分からない気持ちも、うつむく横顔が焼き付いてしまったのも、
――その大元にある、僕を突き動かしてる気持ちが言葉にならない。
「泥だらけで泣いてるきみを、雨の中で独りぼっちにしないで済んだなら
……僕は、よかったと思うけど。
……でも、余計なこと、だったかな?」
「いえ、」
沢城くんはまた、さっきと同じように、小さく首を横に振った。
でも表情は違う。少しだけ困ったような、でもどこか柔らかい、笑顔。
「僕も少しだけ、会えるかなって期待してました」
「そっか」
どちらからともなく手を伸ばす。
軽く絡めたお互いの指先を感じて、僕と沢城くんは黙ったまま、互いの呼吸を感じていた。
穏やかで優しい沈黙が、どれくらい続いたのか。
雨音が少しずつ弱まり始めて、東の空が微かに明るくなりはじめた頃、沢城くんは指を解いて立ち上がった。
「もう帰るのかい?」
「はい。
……雨が完全に止んでしまう前に、戻らなきゃ」
僕もつられるように立ち上がる。
部屋の中央に向かって踏み出そうとする沢城くんの手を、僕は思わず捕まえていた。驚いたように固まる彼の顔を正面から捉えて、また体が勝手に動いてしまったことを知る。
言葉は後からなんとか、追いついてきた。
「今回、
……きみが来るの、ちゃんと分かったから。次にきみがここへ来たとき、また会いに来てもいいかな?」
「
……、はい」
微かなうなずきと共に、握り返す力を感じた。
それだけで胸の奥が大きくざわめくのを感じる。
「きっと、また来ます。次に会うときまで、元気で」
僕の手を握って、沢城くんは柔らかな笑顔でそう言ってくれた。
慎重に言葉を選びながら、という風だったけど
――今まで聞いたことのない、どこか甘さすら感じるような、何かひどく心を波立たせるような。
その正体を掴む間もなく、彼はするりと僕の手を解いてしまった。そして四角い部屋の中央に立つ。この隠れ家全体を囲む中心点の真上、散発的な雨音が均等に聞こえる場所だ。
妖力の波を感じる。
不意に彼の輪郭が揺らいで、ふわりと桜色の光へと変わった。決して強い光ではないけど、暗がりの中では一際鮮やかだ。
その、あいまいな桜色の輪郭が、僕の方をはっきりと振り向いて。
『ありがとう、高山先輩』
口元がそう動いたのを最後に、彼の姿は桜が散るように掻き消えていく。
その花びらの最後の一片が消えたあとも、僕はしばらく彼のいた場所を見つめ続けていた。
傍らに、砂の沈んだタライを置いたまま。
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波箱
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