しか野
2024-04-18 00:34:58
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Dawn(スミイサ/複座)

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─────

……このまま2人で、どこかに逃げないか」
……は?」
 イサミは何か、未知の恐ろしいものを見るような目でスミスを見た。何を言っているのかまるで分からない、とその視線が告げていた。

***

 かろうじて、あの銀と紫のボディをもった気味の悪い機体生命体──自分たちは、奴らが何者なのかほとんど知らない──を破壊し、窮地を脱した2人はライジング・オルトスのコクピットからほとんど這い出るようにして外に出た。風は生ぬるく、硝煙の匂いに満ちていて、決して居心地が良いとは言えない。それでも深く呼吸ができるだけで、ずいぶん楽だった。
 今日は何体のTSが破壊され、何人の戦友が志半ばで命を落としたのだろう。いつしか数えることをやめていた。思えば、最後に空のミッシングマン・フォーメーションを仰いで敬礼を捧げたのはいつだったか。人員や燃料、その他あらゆる物資に余裕がない状況で、式典など行えるはずもないのだ。
「お疲れ、イサミ。少し休憩したら戻って休んだ方がいい」
「わかってる……
 力なく返事したイサミは、今しがた降りたばかりの機体に寄りかかり、ため息をついた。すっかり疲れ果て、すぐには動けそうもない様子だった。スミスはコクピット内部へ手を伸ばすと、本部へ『少し休んだら帰投する。迎えは不要』と通信機から打電した。
 イサミのもたれかかっている巨大なTS、XM3/ライジング・オルトス。日米合同で秘かに開発された初の複座式TSは極めて高性能で、後部座席搭乗者の脳波を利用し、戦場の脅威判定を行えるというのが最大の特徴だ。しかし高性能である代わりに、気位の高い猫のように乗り手を選ぶ。適合した者が後部座席に乗らなければ、一般的なTSより少々図体が大きいだけの、何の変哲もない機体になり下がってしまうのだった。なぜそんな厄介なものを、と話を聞いた当時のスミスは思ったものだが、これがなければ今ごろハワイ諸島はすっかり敵の手に落ちていたかもしれない。混迷を極めた戦場を自由に動き回ることのできる愛機は、今やATFになくてはならない主戦力である。
 しかしその分、後部座席に座るコー・パイロットへかかる負担が大きいのが難点だった。イサミはいつもこうして、真っ青な顔をして機体から降りてくる。

***

 パイロットを選定するにあたり、日本の自衛隊、米軍の海兵隊それぞれのTS部隊から選りすぐりの隊員が集められた。ヒーローを目指し訓練に余念のなかったスミスは当然選出され、そして演習の中で彼に──イサミ・アオに出会った。
 彼は優秀だった。旧式のTSであるにも関わらず、まるで戦闘機のような反応速度、思いもよらぬ大胆な動き、正確無比な射撃。まさしくスミスの考える、理想のヒーローそのもの。
 メットの下から現れたのは、猫のように涼やかな黒目、硬く引き結ばれた口元、まるで黒豹のようにしなやかで美しい男だった。スミスは一目で心を奪われてしまった。そして、彼と共に例のTSを駆れたらどんなに気持ちよいかと夢想した。だが彼の適性もまた、己と同じく前部座席にて機体を操るメインパイロット側だろう。つまり今この場においては、1つの席を争う好敵手、というわけだ。
 単純にTSの操縦技術がものを言うメインパイロットと違って、コー・パイロットに適性があるのかどのような人物なのか、未だ判然としないという。ゆえに、全員が実際に乗り込んで、起動するかどうかを試していくことになる。機体には最新の技術の粋が詰め込まれているのに、そんなところにはずいぶんアナログ感がある。
 あるメカニックが『適性……うーん、五感が常人より鋭い人、ですかねぇ』なんて曖昧なことを言っていたが、あいにくスミスは己をそんな風に思ったことはない。案の定、機体はうんともすんとも言わなかった。どうやら米軍側に適合者はいなかったようで、みな一様に、複雑そうな顔で日本の自衛隊隊員たちを眺めている。次は彼らの番だ。
 しかし乗れども乗れども、厳ついTSは沈黙を保つばかりである。適合者がいなければ宝の持ち腐れもいいところだ。分解してパーツを再使用でもするのか、あるいは適合者が現れるまで飾りにでもするのか? そんな風にスミスが考えていた時、最後の1人として機体に近寄ったのが彼だった。イサミ・アオだ。同僚らしい女性に、がんばれ~なんて声をかけられている。彼はしぶしぶといった様子でステップを上り、後部座席に乗り込んでいった。
 これで終わりか、とにわかに弛緩した空気が周囲に流れる。適合者など現れず、こいつの出番は当分先にお預けと、誰もが思った時だった。
 ブゥン、と独特の起動音が鳴る。スミスははっとその音の方向に目を向け、格納庫に残っていた候補者やメカニックたちも、驚いて目を見開いたようだった。視線の先、これまで石像のようにぴくりともしなかったTSの、人で言うところの目にあたる部分が淡いグリーンに光り始めたのだ。APUが起動している。まさか!とスミスは走り出し、ステップを駆けあがった。
 後部座席で、彼は呆然としているようだった。覗き込んできたスミスに気が付くと、バイザー越しに見上げてくる。戸惑っているような、あるいは不安そうな目をしているように見えて、その様子に彼の本質を垣間見たような気がした。
「ルイス・スミス少尉……?」
「ああ。演習の時はどうも。アオ・イサミ3等陸尉? ……すごいな、君は適合者だったんだ」
「そう、みたいだが……
 彼はメットを外す。途端にAPUが停止し、再び機体が沈黙した。間違いなく彼に反応している、ということだ。
 メカニックたちも驚愕を隠せない様子で駆け寄ってきて、スミスはあっという間に追いやられた。やれやれとステップを降りると、上官兼飲み仲間のリョウマ・アラカイ大尉がにやにや人の悪そうな笑みを浮かべていた。
「なんだよ、その顔」
「ここでは上官な。……いや、お前ってああいうのがタイプなのかと思って」
 通りでどんなレディにも靡かないわけだ、と彼は大げさに肩をすくめて見せた。
「はぁ……? どういう意味でしょうか、大尉」
「あの自衛隊のエースに惚れちまったんだろ? 白状しちまえって」
「馬鹿な! 彼のことはとても素晴らしいパイロットだとは思い、ますが……
 言葉が尻すぼみになる。惚れてなどいない、と切り捨てることは例え嘘でもできなかった。
 戦死判定だ、なんてクールに言い捨てられた時。そして彼が眩しそうに戦闘機を見上げた横顔。目が離せなかったのはどこのどいつだ、と自問した。そして考えれば考えるほど胸が高鳴っていく。まさかこれが一目惚れ、というやつなのかと。
……大尉」
「なんだ?」
「ご相談があります。今夜飲みに行きませんか」
「Okay, いくらでも付き合うぜ、bro」
 頼りになる上官は茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。

 ワイキキのバーで彼に遭遇したのはまさに僥倖だった。禁欲的な装いに身を包み、細いビアグラスで甘いフルーツビールをちびちびと飲みながら、同僚らしい女性と言葉を交わしている。この機を逃すスミスではない。やれやれと苦笑した連れに目もくれず、まっすぐ彼の元に歩いていく。
 胸の高鳴りをごまかしながら、改めてよろしくなと手を差し出した。彼はほとんど表情を動かさないまま握り返してくれた。日本人は目の髪も真っ黒というイメージがあったが、よく見ると違っている。特に目だ。虹彩はあたたかなブラウンで、甘いチョコレートを思わせる。舐めたら甘いかもしれない。
 話してるうちについ舞い上がってしまったが、まぁ悪くない印象を与えられたのではないだろうか。
(初っ端からあまりぐいぐいいくのもな。特に日本人は控えめで、押しに弱いと聞くし……
 このくらいで引き下がろう、と軽く手を振ってその場を離れたので、まさか名前すら認識されていなかったことは知る由もなかった。

 翌日、機体と彼への熱意が通じたというわけではないだろうが、メインパイロットとして選出されたのはスミスだった。これからアド・リムパックにて行われるテストは己と、唯一のコー・パイロット適合者であるアオ・イサミ2人の仕事となる。
 機体の前に、昨夜も共にいた女性──リオウ・ヒビキ3尉というらしい──と並んで立っている彼に、気さくに声をかけた。
「よろしくな、アオ3尉」
……どうも。あー……スミス少尉?」
「息を合わせて頑張ろうぜ。俺は君ともっと……その、親しくなりたいんだ。日米合同開発機のテストパイロットに米軍と自衛隊からそれぞれ選ばれたのは、運命じみたものを感じないか?」
「仕事に運命もクソもないだろ。私情は挟まない。あんたは俺の足を引っ張らなければそれでいい」
 ヒュウ、とヒビキが揶揄うように口笛を吹いた。淡々とあしらわれてしまったが、へこむどころかますます燃え上がるものを感じる。なるほど、中々ガードが堅い。そしてストイックだ。ぐっと距離を詰めると彼は反射的に後ずさるが、手首をつかんでそれ以上は阻止した。
「な、なんだよ」
「足なんて引っ張らないさ。俺は君を信頼してこいつを操縦するから、君にも俺を信じてほしい。おんなじ機体に乗るんだ、俺たちは間違いなく運命共同体だぜ?」
……演習だろ」
 周りに『敵』などいない、撃ち合うものは殺傷能力ゼロのペイント弾。彼はそう言いたいのだ。そしてそれはその通りだった。開発者たちだって、両国の威信のかかったこの特殊なTSが、間違いなく思惑通り動くかどうか確かめたいだけだ。
 しかし、なぜだろう。肌がピリピリするような、不思議な感覚があるのだ。予感と言い換えてもいい。これから行われる演習が、ただの『演習』では終わらないような──
「スミス少尉?」
 急に押し黙ったスミスに、イサミはわずかに戸惑ったような目を向けてきた。
「あ、ああ、すまない。ちょっと考え事をね。……ともかく、演習とはいえ本気で!ってことさ」
「俺はいつでも本気だ」
「そうだろうな。そうでなきゃ、演習であんな動きはできないし、単騎特攻なんて以ての外だ」
 今日のテストでまた無茶をしたら、減俸や便所掃除じゃ済まないかもしれない。しかしどちらも彼と一緒なら悪くないだろう。長いお説教だって心地よい子守唄になるに違いなかった。
 アド・リムパックは1日では終わらない。彼と信頼関係を築き、『これから』につなげていくには十分な時間があるはずだ。
 嫌な予感を無理やり振り払って、スミスはイサミに良い印象を与えるべくにっこり微笑みかけた。
(まずは日本人の『恋』というものについて、一晩で調べなくちゃな!)
 楽しくなりそうだ、とスミスはすっかり上機嫌だった。

***

 そんな風に笑っていられたのは、数ヶ月ほど前までの話だ。突如宇宙から未知の脅威が降り注ぎ、オアフ島から、そして世界から平和というものが失われて久しい。演習の場は即座に実践の場へと変わり、扱うものは実弾となった。相手が人でないもの──機械生命体であるのは、唯一の救いだろうか。
 ATFと名付けられた多国籍軍は、ハル・キング大将を司令官として戦い続けているが、戦況は一進一退。一刻も早くハワイを解放して世界各地へ支援に回らねばと奮戦しているが、どうしても決定力に駆ける。そんな中でスミスとイサミが駆るライジング・オルトスは重要な主戦力であったが、1機のみで対応できる数にはどうしても限界がある。他のTSや艦砲の支援を受けながら機体が悲鳴を上げるまで戦い続け、メカニックたちが夜を徹して整備し、また出撃。そんな日々がもはや日常と化している。
 気力でカバーするにも限界がある。元々TS部隊所属で、役割がさほど変わらないスミスはともかく、慣れないサポート役、脳にかかる負担、そういった諸々でイサミは疲弊しているようだった。時々見せる、あの目──コー・パイロット適合者であることが分かった時に見せた、戸惑いを隠せない目。あれを見るとたまらない気持ちになるのだ。なんとしても守らなくては、と思う。だが守ると言いながら、スミスは彼がいなくては戦えない。
「イサミ……
 機体にもたれる彼に寄り添い名を呼ぶと、彼はうっすら目を開けた。
 彼は名も美しい。聞けば、Brave──勇気を意味するのだという。軍でファーストネームで呼ぶのは珍しいことだったが、スミスはなんとしてもその名を呼びたいと思った。響きが良いし、彼にふさわしい意味も持っている。
 勇気、それはこの戦場で最も必要なもの。
……こいつ乗って、先に戻っててもいいぞ。俺はもうちょっと、休んでから」
「君を置いていけるわけないだろう。動けるなら、メットは被らず後ろに座ってるだけでいい。ただ動かすだけなら支障はないからね。……戻って休もう」
 肩を貸してやり、力の抜けた彼の体をどうにか立たせてやる。イサミは俯いた。泣いてやしないかと顔を覗き込むが、彼は唇と強く噛みしめているのみだった。
「乗れるか? ほら、こっちにもっと寄りかかっていいから。なんなら抱き上げてやるけど?」
「いい。……悪い、スミス」
「謝るなよ。俺たちはいつも一緒、運命共同体だ」
 な? と片目を閉じてやると、イサミはほんのわずかに口端を上げて笑った。笑顔と呼んでいいものか分からないほどの、ほのかの表情の変化。思えば出会ってからこれまで、彼が満面の笑みを浮かべていたことなんてあったか? スミスは回想し、そして愕然とする。彼はずっと消沈している。疲れを押して、勇気を振り絞って、ほとんど毎日のように戦場に立って命を懸け、後ろからスミスを守ってくれているのだ。
 このまま戦い続けたら、そう遠くない未来に彼が壊れてしまうような気がした。スミスはそれが恐ろしかった、もしかしたら敵の脅威よりもよほど。
 そうしてぽろりと、気持ちが発露してしまった。
……このまま2人で、どこかに逃げないか」
……は?」
 イサミは何か、未知の恐ろしいものを見るような目でスミスを見た。何を言っているのかまるで分からない、とその視線が告げていた。
「今のは空耳か?」
「違う。2人で逃げないか、と言ったよ、確かにね。君の耳は正常だ」
……聞かなかったことにしておいてやる」
 イサミはふいと視線をそらした。敵前逃亡は、多くの場合重刑が課せられる重大な軍規違反だ。戦闘のさなかであれば即、銃殺刑とされる軍隊もあるという。ましてや2人の駆るライジング・オルトスなくして敵を押し返すことは不可能に近いだろう。その2人の逃亡は、すなわちATFの敗北を意味すると言っても決して過言ではなかった。
 スミスとて愚かではない。そんなことは言われるまでもなく分かっていた。
「イサミ。俺は本気だ、と言ったら?」
……上に報告するだけだ」
「そうして俺は営倉行きかな? それならぜひ、コナビールを差し入れて──」
「ふざけるのも大概にしろ!」
 イサミはスミスの体を振り払い、激昂した。身に着けている者がパイロットスーツでなければ、胸倉でも掴まれていたかもしれない。
「あんた、ヒーローに憧れてるって言ってただろ! なんで、そんなこと言うんだ……今さら……!」
「そうだね……俺はヒーローになりたかったんだ。ずっと……夢だった」
 圧倒的なパワーで敵を退け、時に窮地に陥ることがあっても逆境を跳ねのけて必ず勝利する。時に仲間を頼り、援け、受け入れる。そんな強さにずっと憧れていた。あの時その強さがあれば、きっと両親だって死なせずに済んだ。スミスは守りたいものを己の手で守るために、ヒーローになることを決めたのだ。
「だったら、なんで!」
 なおも声を張り上げるイサミに、スミスは静かに首を振った。いま守りたいものは目の前にある。
……俺は、君を守りたいんだ。俺が、ルイス・スミスが1番守りたいのは君だ」
「は……?」
「君が好きだ、イサミ。だから死なせたくない」
 まったくロマンチックでも何でもない、瓦礫だらけの『街だった』場所で、スミスは愛を告げた。ぬるい風が吹いて砂埃が舞い上がる。イサミはこの上ないほど目を見開いていて、砂粒が入って痛まなければいいけど、なんて場違いなことをスミスは考えた。
……あんた、自分が何言ってるか分かってるのか?」
「分かってるし、冗談なんかじゃないからな。君を愛してる。一目惚れだったんだ」
「な、んで……
 なぜ好きになったのか、なぜ今それを口にしたのか、2つの意味が言外に込められているような気がした。
 スミスは肩をすくめると、さてどうしてだろうと考えようとして、やめた。そんなものは無意味だ。一目惚れに理由などないし、もしかしたら共に戦い続ける中での吊り橋効果も、あるいは多少あるのかもしれない。そしてタイミングなんて、今しかないと思ったから、ただそれだけだ。
「大丈夫、俺を信じて。今すぐ逃げよう、イサミ。……俺が君を、必ず守るから」
……そんなの、無理に決まってる。俺たちは」
「そうだな、今はATF所属の軍人だ。敵前逃亡はご法度。またいつ敵の襲撃があるか分からないし、俺たちがいなかったら相当苦戦させられるだろうな」
「スミス、おまえ……
「俺のこと、頭がおかしくなっちまったって思うかい? 違うな、俺は元々こういう人間なんだ。守るべきものを、守るためなら、俺は……
 呆然とするイサミにじりじりと近づく。彼はゴーストでも見たような目でただそれを見ている。スミスは両手を伸ばすと、微動だにしない彼の体を引き寄せて強く抱きしめた。そして彼を宥めるように、あるいは慰めるように後頭部を優しく撫でた。びくっとイサミの肩が跳ね、やがて小刻みに震え始める。
「ス、ミス……俺は……
「大丈夫、俺がついてる。何も怖いことはないよ。イサミ……俺と一緒に、逃げてくれる?」
 愛してる、と耳元でもう一度告げて、腰に回した手にぐっと力を込めた。
 どれくらいそうしていたのか分からない。ほんの数分間のことだったかもしれないし、あるいは数時間経ったようにも思えた。は、は、と肩口でイサミが苦しそうに息を吐いていて、密着した胸元で彼の心臓が激しく鼓動をしているのを感じた。緊張、しているのだ。というより、恐れている。選択を迫られていることを、そして選択肢のうちある1つを選ぶことが、これからの世界にどのように影響するのかを。
 優しい男だ。己が逃げることで、人々がどんな目に遭うのか考えてしまって、その恐怖ですっかり混乱してしまっている。なんて愛おしい存在なのだろうと思った。例えば己がもっと大きな──例えるならば巨大なTSに生まれ変わって彼を抱くことができたら、どんな強大な敵も彼のために打ち倒し、屠り、彼のためだけに力のすべてを使い、彼が守りたいものすべてを守ってみせるのに。
 だがそんな夢物語は叶わない。この両腕は、彼1人を包むことしかできないのだ。
「イサミ……お願いだからYesと言って。それだけでいい……
 すみす、と細く小さい声。本当に助けてくれるのかと、確かめるような声音だった。
 やがてイサミは小さく、だが確かにうなずいた。スミスにはそれだけで十分だった。

 オルトスをこのままにしておくわけにはいかないと、それだけは譲れないというようにイサミは言った。2人は機体を格納庫に戻した後に夜闇に紛れて基地を出ると計画し、落ち合う場所と時間を決めた。その時間までは普段通りに振舞って、決して誰にも気取られないように、とスミスはイサミによく言い聞かせる。だが難しいかもしれない。スミスはポーカーフェイスに自信があったが、イサミは顔に出てしまう。気分がよくないとか、疲れているとか、そういう言い訳をしてなるべく部屋にこもっていて、と諭した。実際に疲労しているのは誰もが知っていることだから、不自然ではないだろう。
 基地へ戻ると、遅い帰りだと咎められたが、疲れていますのでと短く往なしてイサミを自室へと送った。ドアを閉じる前に、俺を信じて、ともう一度力強く告げる。イサミはしばらく目を泳がせると、わずかにではあるが首肯して見せた。それにほっとして、夜までよく休むよう言い含めてその場を離れた。スミスとて疲れているし、空腹だし、ここを離れるための準備だって必要だ。
 問題なく普段通りに振舞い、食堂で数個のパンと薄いスープを手早く腹に詰め込んで自室に戻る。
 私物のボディバッグに金銭やいくらかの糧食、ミネラルウォーターのボトルを数本、そして最低限の着替えとキャップを2つ詰め込み、動きやすい服装に着替えた。制服は畳み、外した階級章をその上にそっと置く。これを手放すのは歳をとって退役するときだろうと思っていた、今日この時までは。
 スミスは目を閉じる。ヒーローばかり追いかけていた幼少のころ、両親の無残な死、海軍兵学校での血反吐を吐くような訓練、初めてTSのコクピットに乗った時の感動、さまざまな思い出が胸中に去来する。そしてすべてが収束する、あの運命の存在に。
 目を開き、壁に貼り付けられたヒーローのポスターを見つめた。いつも完璧なポーズを決め、見守ってくれていた存在。
(俺はイサミのヒーローになる)
 だからここでお別れだ。スミスはこつんと拳をぶつけた。

 約束の時間の少し前に基地を抜け出し、歩哨たちの目をかいくぐって約束の場所へ向かう。イサミが不安に思わぬよう、先に待っている必要があった。茂みに隠れて息をひそめ、彼がやってくるのを待つ。
 本当に来るだろうか、イサミは。そんなことを考えなかったと言えば嘘になるだろう。彼はひどく怯えていたし、きっと軍規違反なんて……演習での無茶以外はしたことがなかっただろう。基本的に生真面目で、人を援けるという意思を強く持っている男だ。だからこそ自衛官を目指すに至ったのだろう。いつか志した理由を聞いてみたいと思っていたが、きっとそれは叶わない。彼からその役割を奪おうとしているのだから。
 もし約束の時間になっても彼が姿を現さなかったとして、スミスにそれを咎める気持ちも理由も、権利もない。そうしたら基地に戻って、何も言わずに日常に──敵と戦う日々に戻るだけだ。
 しかしそれは杞憂に終わった。約束した22:00のちょうど5分前に、静かな足音が近づいてきたのである。スミスは茂みの隙間からそちらを覗いた。彼がきょろきょろと、不安げに周囲を見回している。
「イサミ……!」
 あくまで小声で呼びながら、スミスはそっと茂みから這い出た。
「スミス……よかった、来ていないのかと」
「そんなはずない! ああ、イサミ……
 よく来てくれた、と強くかき抱くと、彼の体は小刻みに震えているようだった。これから先も見えぬ暗闇に向かって走るようなものだ、恐ろしくて仕方ないのだろう。少しでも安心させてやりたくて、繰り返し背中を撫でてやった。
「大丈夫、心配しなくていい……俺がずっとそばにいる」
「スミス……
「急ごう。ここを離れるんだ」
 スミスは体を離すと、彼の手を握りしめた。気が張り詰めているのだろう、冷たい手だ。少しでも熱を分けてやりたくて指を絡めた。彼も逡巡を見せたのちに、おずおずと握り返してくれた。
 そして駆け出さんとした、まさにその時だった。

「──こんな時間に、どこに行くつもりだ?」
 硬く厳しい声が辺りに響いた。スミスは驚いて肩を跳ねさせると、一種の諦念を抱きながらおそるおそる振り向いた。かわいそうに、イサミは月明かりでもわかるほど顔色が悪い。 彼の肩越しに見えたのは、TS部隊の指揮を執る男、そしてイサミの上官でもあるサタケ2佐その人だった。腕を組み、睨むようにしてこちらを見ている。
……こんばんは、カーネル・サタケ」
「質問に答えろ、スミス少尉」
 硬い応えの声に、スミスは哀れっぽく震えるイサミを背にかばうようにして立った。彼の手が縋るようにシャツの裾をつかむ。
「夜のデートですよ。なかなか時間が取れないものですから。口を出すのは無粋ではありませんか?」
「軍規違反だ。そんなものは基地内でやれ。……すぐに戻るんだ。分かるな? アオ・イサミ3尉」
 名を呼ばれたイサミはきっと、顔を真っ青にしているだろう。今にも『わかりました』と頷いて、駆け出して行ってしまうのではないかと思った。
 しかし彼はそうせず、スミスに体を寄せてきた。まるで怯える子供が、自分を助けてくれる存在と確信している大人の背に隠れるように。彼を守らなくては。ここで引き下がるわけにはいかない。
(イサミの柔道の師匠、だったか……だが、そんなものは関係ない)
 スミスは怯むことなく、サタケを睨み返した。
 おそらく彼は、イサミの様子からすべて見抜いた上で追いかけてきて、ここに立っている。ならばこれ以上のブラフには何の意味もない。
……茶番はやめましょう、カーネル・サタケ。俺はこいつを連れて逃げます。どうせもう分かっていらっしゃるんでしょう?」
「どこへ?」
「分かりません。ですが、俺はイサミを守る。そう決めました」
 背後のイサミがはっと息をのんだ、気がした。
 静寂の中、相対した2人は鋭い目つきでにらみ合う。膠着状態が続いてはこちらが不利だ。もしかしたら、2人の不在に気付いた誰かが捜索をはじめるかもしれないし、サタケがすでに手を回してる可能性も否定できない。
 しかし引き下がれない。スミスは番を守る狼のように立ち続けた。殺気にも似たぴりぴりした感覚が絶え間なく肌を刺してくる。
 長い時間が経過し、やがて折れたのはサタケの方だった。はぁ、と彼が深くため息をつくと空気が弛緩し、肌に正常な感覚が戻ってくる。
……民間人の避難船がまだ出ている。明日の便は明け方に出港するはずだ」
「カーネル……!?」
 サタケは2人に背を向けた。見逃してやる、と彼はそう言っているのだ。上官として、指揮官として、あるまじき行為であるのは間違いなかった。
「あの機体を動かせるのはお前たち2人だけだ。これまで常に作戦の中心にあって、最前線に立たされて、神経をすり減らして……辛かっただろう。本当に、すまなかった」
「サタケ、隊長……
 ざり、と引きずるような足音がして、イサミがスミスの背の影から出てくる。サタケが振り返り、優しくあたたかい眼差しを彼に向けた。上官というより、出来の悪い弟を見ているような、そんな目だった。
「しばらくはごまかしておいてやるが、長くは無理だ。早く行け」
「隊長、俺……
「お前にそんな顔させちゃ、『あいつ』に顔向けできない。……いいから行け、イサミ。少尉、どうかイサミを頼む」
 サタケは腰を折って深く頭を下げると、振り向くことなく足早に去っていった。初めから見逃すつもりだったのか、あるいはスミスが少しでも迷う様子を見せたら力づくで連れ戻すつもりだったのか。もはや知る由もないことだが、彼がイサミに対して何か特別な想いを持っていることは明らかだった。
 スミスは彼の足音が消えていった方向に向かって、かの国の作法に則り、彼がそうしたように頭を下げた。
「スミス、俺は、本当に……
「いいから、何も言わないで。さぁ行こう。明け方まで、波止場の近くで休むんだ」
 壊れた家々でも、壁や屋根がいくらか残っていれば風を避けるくらいはできるだろう。幸い雲はなく、月明かりは眩しいほどだ。雨の心配はない。
 スミスはイサミの手を握り、まさしく言葉通り逃げるように駆け出した。

 急ごしらえの波止場のすぐそばに、窓ガラスが吹き飛び、屋根と壁に穴の開いた小屋を見つけた。ぼろぼろではあったが建物としての状態は保っている。きっとレジャーを楽しむ観光客向けの施設だったものだろう。ドアは拉げていて開きそうもなく、潜り抜けるのにちょうどよい壁の穴から2人は中に入った。まるで空き巣の気分だった。
 ラグの埃を軽く払って、イサミをそこに座らせた。スミスはボディバッグから取り出したミネラルウォーターの封を開けて差し出してやるが、イサミは力なく首を振って受け取ろうとしない。
「今は、いい……
「わかった。でも気が向いたら飲んで。ここまで歩いて疲れてるだろう?」
 スミスは優しく声をかけながら彼の隣に腰を下ろし、ボトルをそばに置いてやった。
 震える彼の肩に手をやり、あたためるように摩る。ここには彼を柔らかく受け止めるベッドなどなく、震える彼を安っぽい言葉で慰めてやることしかできない。
 ぐず、と湿った音がして、スミスは彼の横顔を見た。時折鼻をすすりながら、彼は静かにほろほろと涙をこぼしている。
「イサミ……
……悪い、こんな、つもりじゃ……
 手の甲で顔をぬぐい、それでも彼の涙は止まらない。心臓を直接つかまれたかのように息苦しくなって、たまらず彼に向き直って強く引き寄せた。弛緩した体はだらりと、意思のない人形のように胸の中に倒れこんでくる。シャツに涙が染み込んできて、そこだけ火傷しそうなほど熱かった。
「いいんだ、イサミ……
……俺、ずっと怖かったんだ……。実践なんて、初めてで……
「分かってるよ」
 静かに相槌をうちながら、イサミの途切れ途切れの言葉を必死に拾う。彼がようやく想いを吐露してくれている。
「演習じゃいい成績残してたけど、そんなの、実弾じゃないし、相手は味方と分かってたからだ……。エースパイロットだなんて持ち上げられてたけど、いざとなったら手が、震えて……本当は、ずっと、逃げ出したかった……
「うん……
「だけど、スミスが一緒だから戦えた。……あんたの背中見てると、怖いけど、落ち着けたんだ。『大丈夫だ』って、いつも言ってくれたから……
 そんなこと、彼は今まで1度だって言ったことはない。だが時折、何か言いたげにこちらを見つめていることはあったように思う。そんな時いつも、こんな愛おしいことを考えていたのだろうか。
 ならば、とスミスも言葉を返した。
「俺だって同じだ。お前がいるから戦えていたんだ」
 顔をあげさせ、涙にぬれた頬を包む。そして目元にそっと口づけると、涙が唇にじわりとしみた。
「お前のサポートはいつもパーフェクトだったし、俺はお前を守るためならどんな無茶もできた」
 戦場は恐ろしく、だがどこか甘美でもあった。ずっと彼とつながっているような感覚があり、スミス、スミスと幾度となく名を呼ばれた。彼と心を合わせて敵を屠り、瞬間生じる確かな興奮は、たぶん性行為で感じるものとよく似ていた。
(間違いなくあの場で、俺たちは2人で1つだった)
 体が熱くなる。逃亡兵の立場で、これからどこへ向かうかもわからないのに、腕の中の想い人に本能が反応してしまう。抱け、種をつけろと言わんばかりに。しかし強い理性で振り払い、スミスは彼の背中にただ優しいだけの愛撫をおくる。
「少しでも眠った方がいい、イサミ。ずっとそばにいるから」
「うん……
「ほら、ここに横になって。枕が俺の硬い足で悪いけど……その代わり、とびきり頑丈さ」
 悪戯っぽく笑って言ってやると、イサミは涙をぬぐって頷いた。足を延ばして背にもたれると、イサミはおそるおそる体を横たえ、腿に頭を乗せる。
……ほんとだ、硬いな」
「だろう? ……さぁ、目を閉じて」
 指先で、目尻にむかって瞼を撫でる。小刻みに震えながら黒瞳に帳が下りる様子が、屋根の穴から入る月明かりでよく見えた。濃く生えそろった黒い睫毛が、頬に影を落とす。
『Hush, little Baby, don't say a word……Mama's going to buy you a mockingbird……
 遠い昔に母が歌ってくれたlullabyを探り探り思い出しながら、低い声で歌ってみせた。イサミは何も言わない。まだ寝入ったわけではないことは、腿にかかる重みで分かった。思い出せない部分はハミングでごまかし、イサミに少しでも安らかな眠りが訪れるように、悪い夢をみないようにと祈りながら歌い続ける。
……あんたの声、けっこう好きだ」
 ぼそ、とイサミがつぶやいた。肌に息がかかって少しくすぐったい。
「Really? 嬉しいな。もっと歌ってあげる」
 次はどんな曲にしようかと考え始めると、イサミはくすっと笑ったようだった。スミスの胸に喜びがこみ上げる。彼にはずっと笑っていてほしい。そのためならばなんだって出来るような気がした。それが軍人にあるまじき、いや、人にあるまじき行為であっても。
 だが、彼はきっと二度と心から笑うことはないのだ、ということも頭のどこかで分かっていた。2人は人々を、仲間を、世界を見捨てて逃げ出そうとしているのだから。
『Twinkle, Twinkle, Little Star……
 癖のない黒髪を撫でながら、異なる歌を口ずさむ。そうしているうち、スミス自身にも少しずつ睡魔が忍び寄ってきていた。

……ミス……スミス、起きてくれ……
 肩を揺さぶられ、意識が深いところから浮上していく。後頭部の下に何か硬く暖かいものがある。ぼやけた意識下でそれを探ると、
「ん、こら、くすぐったいだろ……スミス、寝ぼけてないで起きろって」
 少し悩まし気な声と苦情とが、頭上から降ってきた。スミスは瞬時に覚醒すると、腹に力を入れて飛び起きる。記憶の最後にある光景とまるで逆だ。彼は己の足を枕に寝ていたはずなのに、スミスの頭の下にあったのは間違いなく彼のそれだった。
「あ、れ……?」
 全部夢だった、というわけではないだろうが、驚いてぽかんと彼の顔を見やる。
……あんた、体勢ちょっときつそうだったから。寝かせてやっても起きなくてびびった」
「イサミはちゃんと眠れたのか? 足は大丈夫か? しびれてない?」
 まったく不覚だったと己に舌打ちしながら、イサミの筋張った足を労わる。
「平気だ。俺の足も、硬くて悪いな」
「まさか! 人生最高の寝心地だったよ」
「よく言う。……な、夜明けだよ、スミス」
 イサミが、ガラスの吹き飛んだ窓の方を指さした。まだ夜の名残を残す昏い青空に、オレンジ色がじわじわと染み込み、広がっている。南国の美しい夜明けだ。スミスは立ち上がると窓に歩み寄って、その光景を目に焼き付けるようにじっと目を凝らした。どれだけ悲惨な出来事があろうと、人が命を落とそうと、誰かが悲しみに暮れようと、変わらない光景がそこにある。
……きれいだな」
「うん……きれいだ」
 スミスの独り言じみたつぶやきに、いつしか隣に立っていたイサミが応えた。常とは違って下りた前髪が彼を少しばかり幼く見せたが、朝の清浄な光に照らされた横顔のなんと美しいことか。きれいだ、と無意識のうちに囁いていた。
……ばか。俺は男だぞ」
「関係ないよ。イサミはきれいだ、すごく……。ずっとそう思ってた」
 本当は平和な世界で、とびきりムードを作って、それから愛を告げたかった。日本ではそうやって恋人同士の付き合いをはじめるというのは、彼に一目惚れしたその日に調べたことのひとつだ。いつか必ずそうしようと自分に誓って。そしてそれは叶わぬ夢となってしまった。
「見て、あれが避難船だ。俺たちも向かわないと」
 波止場の方を指さす。停まっているのは小型のプレジャーボートである。島に残っている民間人は残り少ない。多くは、たとえ命を落としたとしても生まれ育った故郷を離れたくないという面々である。しかし決して芳しくない戦況の中、1人、また1人と島外への避難を選択する人々のために、民間の船会社が危険を冒して船を出している。本来ならば軍が運営すべきなのだろうが、人手不足は深刻だった。
「置いていかれたら、次はいつになるか分からない。急ごう、イサミ」
……分かった」
 民間人に顔は割れていないだろうが、念のために持ち出してきたキャップを目深にかぶらせる。2人は手をつなぐと、避難民のふりをして波止場へと走り出すのだった。
 夜明けは美しい。だが、2人の未来に広がる光景がどんな景色をしているのか、今は闇に包まれていて分からない。それでも彼だけは、あらゆる脅威や悲しみから守ってみせる。スミスはそう誓って彼の手を握り締めた。