吾妻
2024-04-07 16:01:19
12300文字
Public アークナイツ
 

いつか涯を目指すまで

リクエスト頂いた、「サーミにお出かけするテキ博♀」です。デキてる。
いちゃいちゃもしてるんですが、ちょっと不穏にもなってしまった。


2.

――ドクター、おぬし、サーミへ行くそうじゃな。

 ギターノが執務室を訪ねてきたのは、ロドスを発つ数日前のことだった。
「サーミと言っても、最南端の観光地だよ。マゼランたちみたいに、奥地まで入り込むわけじゃない」
 正直、ギターノの来意を測りかねてはいたが、彼女は飄々と掴みどころがないように見えて、常に深慮を巡らせている人物だ。故郷を訪ねる上司に土産をねだりに来たわけでもないだろう。
 返答を聞いて、ギターノは「ふむ」と細い指先を口元に当てた。
「あのあたりであれば、大した問題も起こらぬだろうが……
「マゼランたちからも聞いたよ。サーミは、我々の常識の範疇を超えた出来事が起こる場所だって。彼の地をよく知る君から、何か助言がもらえるのかな?」
「おぬしはどうも、奇妙な縁を引き寄せやすいようじゃからのう。いくら文明と国境を接している土地とはいえ、何が起こっても不思議ではない。とはいえ、具体的にどんなことが起きるかまでは、わらわにもわからぬが……
「なるほど……
 時には持って回った言い回しで相手を煙に巻くこともあるギターノだが、その日の彼女からはからかいの気配は感じられなかった。おそらく、彼女が感じていた不安はかなり漠然としたものであり、言語化が難しい類の〝勘〟だったのだろう。
 それでも敢えて伝えに来てくれた心遣いを、ありがたく思った。
「気を緩めないようにするよ。ありがとう」
「そうするがよい。そのうえで、わらわがおぬしに言えることがあるとすれば――

 あのとき。
 ギターノは何と言ったのだったか。
 何故だろう、思い出せない。


            *


 粉砂糖のようにサラサラとした雪が、建物から漏れ出す光を受けて輝く。
 サーミの夜は、凍てつく寒ささえ度外視すれば、実に幻想的で美しいものだった。

 会食からの帰り道。ホテルまでの短い道のりを、恋人と他愛のない話をして歩く。日々の慌ただしさが嘘のように、実に贅沢な時間だ。
「ドクター、あれだけ仕事してて、いつ勉強してるの? 研究員さんとの話、全然ついていけなかったんだけど」
「君だって、いつの間にこのあたりの風土や名産品なんかの知識を仕入れていたんだ? 詳しくてびっくりした」
「まぁ、そのへんは前職で身についた習慣かな……。でも、こういう場面で役に立てようと思ったわけじゃなくて、折角のドクターとの旅行だし、ガイド役として張り切ってただけなんだけど」
「お陰で会話が弾んだし、先方にも好印象を与えられた。今回の視察の主目的は達成できたと思うよ。ありがとう」
「じゃあ、ご褒美もらえたりする?」
……?」
 珍しい申し出だったので、思わず足を止めて隣に並ぶ男を見上げてしまった。
 テキーラは、自身の行いに見返りを求めるタイプではない。
 そのスタンスは仕事でもプライベートでも変わらず、あまりの献身ぶりに時折こっちが恐縮するくらいだ。
 仕事はともかくとして、プライベートはもう少し気を抜いてくれてもいいのにな、と考えていたのは事実なので、要望に応じるのはやぶさかではないのだが。
……私が個人的にあげられるものなら、いいけど」
 あまりに珍しすぎて、返答に戸惑いが滲んでしまった。
「大丈夫」
 厚手のグローブに包まれた男の手が、同様に防寒具を身に着けたこちらの手を取る。
「ドクターからしかもらえないものだよ」
 じゃあホテルに戻ろうか、とテキーラは笑顔で繋いだ手を引く。
 ああ、ふーん、そういう? 体で支払え的な……
 なんとなく先の展開が読めたような気がした。今日の彼は妙に甘えたがりだし、日中は一度邪魔が入っている。〝続き〟を求められているのかもしれない。
 彼にとってそれが〝ご褒美〟になるのか。
 少々くすぐったく感じつつ、音も立てずに降る雪の中、宿へと戻ったのだが――


……ちょっと想定と違ったな」
 せり出した屋根の向こう側で、ちらちらと雪が舞っている。
 客室備え付けの露天風呂は、一般的な家庭用のバスタブより一回りも二回りも広々としていた。大人ふたり程度なら、余裕を持って浸かれるほどに。
 だというのに。
「なにが?」
 背後からぴったりと体を抱き込んでくる男が、不思議そうな声を出す。
 折角の広々とした浴槽なのだから、こんなに密着せずにゆったりと体を伸ばせばいいものを。
 濡れないよう髪をまとめあげたせいで露出している項に、顔を見なくても上機嫌だと丸わかりのテキーラの唇が触れてくる。
「君の言ってた〝ご褒美〟って、これのこと?」
「そうだよ。客室にこんな豪華な露天風呂がついてるんだし、入らないのは勿体ないでしょ」
「それはそうかもしれないけど……
「それとも、何か別の〝ご褒美〟をくれるつもりだったの?」
「う……
 ベッドへの誘いだと思っていた、なんて恥ずかしくて言えなかった。おそらくテキーラはそのあたりまで察しているのだろうが、迂闊に白状するのも何だか悔しかった。客室と地続きとは言えここは屋外だし、流石にこれ以上の〝こと〟には及ばないとは思うが。
「耳赤くなってる。ちょっと熱めのお湯だからかな」
 項から移動した唇が、耳の後ろ側にゆっくりと吸い付く。鼓膜のそばで鳴るリップ音に、思わず小さく声が漏れた。
 身じろぎしようにも、男の腕はしっかりとこちらの腹部に回されていて逃れようがない。別に、くっついているのが嫌なわけでもなければ、彼とこうして湯船に浸かるのが初めてなわけでもないが、激務の間にぽっかりと訪れた(ほぼ)休暇に、本艦 ホームから遠く離れた観光地で、恋人とふたりきりで豪華な露天風呂に浸かっているというこの状況――
 日々張り詰めている緊張感や警戒心を服と一緒に脱ぎ捨ててしまったようで、落ち着かない。
(甘えてしまいたくなる)
 普段から甘えているだろうと言われれば返す言葉もないが、これでもある程度の自制はしているつもりだ。職務上の線引きも、個人間の礼儀も、出来る限り蔑ろにしないように努めているのに。その境界が、揺らぎそうになる。
 顔に当たる外気は冷たい。が、そのお陰で完全に理性を手放さずに済んでいる。凍てつくような寒さも、今はありがたかった。
「さっき思い出したんだけど、ここ、前にミュルジスさんがパンフレットを持ってきたホテルだよね」
……そうだった、かな? というか君は、あの大量のパンフレットの内容を全部覚えているの?」
 ライン生命の生態課主任であるミュルジスとは、トリマウンツ事件の最中に出会った。以降、提携先としても個人としても親しくやり取りをしている。
 真面目で几帳面な彼女は、本艦を訪れるたびに様々な土産を抱えてくるのだが、お気に入りのキャンディやおすすめのコスメだけでなく、大量のガイドブックやパンフレットを持参するのも忘れない。
 生活に関わることから余暇の趣味まで。ミュルジスはありとあらゆる事柄に日々全力で取り組んでいる。ロドスには、そんな彼女からもたらされる情報を楽しみにしているスタッフも多いのだ。
 科学者として、一人の女性として、トレンドや興味ある分野にアンテナを張り続けているバイタリティを見習いたいとは思うが、実践できているとは言い難い。事実、彼女が持ってきてくれたパンフレットには全て目を通しているはずなのに、所々記憶が抜け落ちてしまっている。
「全部ってわけじゃないよ。気になったものを覚えてるだけ。ミュルジスさん、ドクターと一緒にここに来たがってたから、印象に残ってたんだ。……抜け駆けしたのがバレたら拗ねられちゃうかな」
「下見に来たことにしておけば、彼女だって拗ねないよ」
「そうかなぁ。――でも」
 背後から耳元に落とされる声が、少しだけ、低くなった。
「どうして急にサーミに来ようと思ったの?」
 同時に、腰に絡んだテキーラの腕に力が籠もる。
 同行を頼んだ際に軽く説明はしたはずだ。昨今の状況を鑑みて、一度現地に足を運んでおきたい、と。それだけでは納得のいかない部分が、彼の中にはあるのだろうか?
 とはいえ、説明以上の目的がないのもまた事実なので、返答に困る。
 どう答えたものか思案しながら背後にいる男に重みを預けてもたれかかると、こちらの困惑が伝わったのか、テキーラが小さく笑った。
「自主的に休もうと思ってくれるようになったんなら、俺もケルシー先生も安心なんだけど」
……ケルシーが何か言ってた?」
「『あのワーカホリックが自分から休暇申請をしてくるのは天変地異の前触れかもしれない。注視しておくように』ってさ」
……そう」
 随分とひどい言われようだ。というか、激務度合いならばケルシーだって人のことを言えた立場ではないはずだが。
(どうしてサーミに来ようと思ったのか――か)
 改めて問われると、自分でも不思議に思う。
 昨今、俄に耳に入ってくるようになった地名だった。オペレーターたちが遭遇した不可思議としか表現できない現象の気配を、肌で感じられたらと考えた。
 だが、未知の現象が起きているのはサーミだけではない。
 向き合わなければならない問題は、この大地のあちこちに山積している。
 それなのに、なぜ今、サーミに足を運ぼうと思ったのか。

――……

 不意に、前方の闇が揺らいだ、気がした。
……?」
 会食ではほとんど酒を飲まなかったから、酔っているわけではない。熱めの湯に長く浸かりすぎて、のぼせてしまったのだろうか?

――……

(声……?)
 誰かが、闇の向こう側から呼んでいる。
 しんしんと降りしきる雪が徐々にぼやけて、のっぺりとした暗闇が音もなく忍び寄ってくる。
(誰だ……?)
 目を凝らしても、何も見えない。

『わらわがおぬしに言えることがあるとすれば……

 唐突に、ギターノの忠告を思い出した。
 彼女はあの日、いつもタロットを巧みに操る細い指先で自分の唇をなぞったあと。

『姿の見えぬ呼び声には、迂闊に応えぬことじゃ』

 そう言ったのだ。

(目を背けなければ)
 〝あれ〟は、おそらくよくないモノだ。理由はないが、確信がある。
 それなのに、にじり寄ってくる闇から目を逸らせない。
 あまりにも危うく、それでいて、どこか懐かしい気配。
 呼んでいるのは誰だ? どこへ導こうとしている?
 氷原か、それともさらに果ての――

「ドクター」
 危うい呼び声を掻き消す声が、鼓膜のすぐそばで聞こえた。
「ドクター、こっちを見て」
 湯船から持ち上がった大きな掌が、固まって動かないこちらの顎を捉える。
 少し強引に上向かされた視界に、常夏の海の色を宿した双眸が入り込んでくる。
 透き通った薄青の瞳と、水気を吸って肌に張り付く金の髪は、闇に魅入られかけていた目には殊更眩しく映る。
「俺を見て。目を逸らさないで」
 そのまま顔が近づいて、唇が重なった。
 唇の表を舌でなぞられ、促されるままに薄く開けば、あっという間にテキーラの舌先が口内に滑り込んでくる。
「ん……、ふ……
 貪るようなくちづけだった。
 ベッドの中以外で、こんな激しく舌を絡ませてくるのは珍しい。息継ぎすら難しくて身を捩っても、顎と腰を抑え込まれてなすすべがない。
 身悶えするたびに跳ね上がる水音と、口内から直接脳まで響く濃密なキスの音。互いの浅い息遣い。
 それらがすべて混ざり合って、いつの間にか。
 ――呼び声は、聞こえなくなっていた。

「え、る……ねす、と……! くる、し……!」
 不穏な気配が遠のいたら、今度は呼吸困難でくらくらしてきた。
 途切れ途切れに文句を発すれば、好き勝手に口の中を荒らしていた舌先が名残惜しそうに唇の表を舐めて離れていく。
「顔が真っ赤だよ、ドクター。のぼせちゃった?」
……わか、らない。頭が、ぼうっと、して……
「うん。折角の温泉だけど、もうあがろうか。何か飲んだほうがいいし、髪も乾かさなきゃいけないし、それに――ドクターがどこかにさらわれちゃったら大変だから」
 頬に、労るようなキスを一つ落として、テキーラは今一度腰を抱く腕に力を込める。
「エルネスト、私は……
 今、自分の身に起こったことを何とか説明しようとして、欠片さえ言葉にできずに困惑した。混乱と、入浴による体温の上昇と、くちづけによる酸素不足で、頭が回らない。
 それでも、おそらく異変に気づいて引き止めてくれたであろう彼に、何かを伝えなければいけない気がした。
「話は部屋の中でしよう。ここに長居するのはよくないと思うし。あと、やっぱりドクターがくれるつもりだった方の〝ご褒美〟も欲しくなっちゃったからさ」
……え?」
「部屋に戻って、少し休んで……。そしたら、俺と一晩中いいことしよ?」
「エルネスト……
「今夜はずっと傍にいるよ。どこにも行かせないから安心して」
 腰を捉えていた腕が離れ、テキーラが先に立ち上がる。
 鍛えられ、均整の取れた体には不似合いなほど愛らしい尻尾がびしょ濡れになって、毛束の先から雫を落としているのを見ていたら、ようやく自分が今、誰とどこにいるのかが理解できた。それは、とてつもない安堵感だった。
「ほら、ドクター」
……君が」
 差し出された手を取ると、しっかりとした力で引き上げられた。
 まだ意識はぼんやりと霞みがかっていて、言葉だけが勝手に唇からこぼれていく。
「ん?」
 テキーラが首をかしげ、言葉の先を促した。しっとりと濡れた頭部の耳が首の傾きと共に揺れて、その愛らしさに思わず口元が緩んでしまう。
「君が、傍にいてくれて、よかった」
……うん。俺も、ドクターが俺を連れてきてくれてよかったと思ってるよ」
 風邪ひいちゃうよ、と促されて湯船を出る。
 凍てつく風も、のぼせ上がった体にはむしろ心地よいほどだったが、徐々に意識が冴えてゆくのに従って、麻痺していた危機感が正常に機能し始めた。
 背後にはまだ得体の知れぬ気配の残滓を感じていたが、繋がれた手が正しく明るいところへ導いてくれるので。
 もう、振り返りたいとは思わなかった。