吾妻
2024-04-07 16:01:19
12300文字
Public アークナイツ
 

いつか涯を目指すまで

リクエスト頂いた、「サーミにお出かけするテキ博♀」です。デキてる。
いちゃいちゃもしてるんですが、ちょっと不穏にもなってしまった。

1.

 不意に、誰かに呼ばれたような気がして足が止まった。
 とても遠くから。
 それともすぐ耳元で、だろうか。
 悲痛な慟哭にも似た風の音に混じって、確かに。
 名を呼ぶ声が聞こえた、気がするのだけれど。

「ドクター?」
 数歩ほど前を歩いていた同行者がこちらを振り返る。
「どうかした?」
 平素の薄着が嘘のように、厚手の防寒ジャケットを着込んだペッローの青年は、少しだけ体を屈めて気遣わしげにこちらの顔を覗き込んだ。
……いや」
 誰かに呼ばれた気がする、と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。よくよく考えてみれば、そんなはずはないのだ。
 普段の行動圏から鑑みるに、この場所に自分を知っている者がいるとは思えなかった。現地で落ち合う予定の人物との待ち合わせ場所はもう少し先だし、この天候でわざわざ外に出ているとも思えなかった。
 そう、こんな――吹雪の日に。


            *


 ライン生命からサーミ最南端にある温泉宿の優待券が届いたのは、先月半ばのことだった。
 先頃オープンした新たな宿がライン生命サーミ支部のすぐそばにあるので、視察も兼ねて観光に来ないかという誘いだった。
 いつもなら、この類の誘いは丁重にお断りするか、付近で業務に当たっているオペレーターに代理を頼むのが常だ。いくら業務提携を結んでいる企業からの申し出でも、必要以上に便宜を図ってもらうと、いざという時の弱味になりかねない。それに、そもそも仕事が山積みで、本艦を離れて遠出をする暇がないのが現状だ。
 しかし、今回は敢えて誘いに応じることにした。
 マゼランの氷原調査に、ギターノの帰郷。ティフォン、ヴァラルクビン両名とロドスの間に結ばれた協力協定――等々。近頃妙にサーミ周辺が騒がしい。
 ケルシーが確固たる警戒心をもって注視を続けているサーミ。過酷な環境と独自の文化に閉ざされたその国について、自分はあまりにも無知なのだ。
 資料や文献に当たれば、知識をインプットすることはできるだろう。だが、一度くらいは現地の雰囲気に触れてみるべきだと感じた。たとえ、クルビアの手が入った最南端の観光地であっても、足を運んでみるのは無駄ではないと思ったのだ。
 何しろ、マゼランの報告によれば、現地の異変は〝写真に映らない〟らしいので。

 事の次第を聞かされた際のケルシーの顔は、まさに『渋面』の具現化だった。
 かくかくしかじかと、現地に足を運びたい理由を説明したら、不承不承といった体で溜息混じりに許可をくれた。ここ数ヶ月ろくな休暇を取っていなかったので、少しは休んだほうがいいと判断されたのかもしれない。
 だが彼女は、承諾の後に「ただし――」と言葉を続けた。

『ただし、単独行動は許可できない。たとえ文明の手が入った最南端であろうとも、そして、たとえ作戦行動のない視察であろうとも、戦闘能力はおろか、運動能力さえ平均を大きく下回っている君が一人でのんびりと遊覧できるほど、サーミは安全な場所ではない。ドクター、君はロドスにとって替えの効かない人材であり、皆が君を頼りにしている。だからこそ君は、自身の安全を確保するために最大限の努力をするべきだ』

 滔々と溢れ出すケルシーの言葉には反論の余地がなかった。全て彼女の言う通りだ。この大地を渡り歩くには、この身はあまりに無力すぎる。それなのに。
 それなのになぜ、自分はサーミに行こうなどと思ったのだろうか。
 また、何かが背後から呼びかけてきた気がしたが、今度は足を止めなかった。
 吹き荒ぶ雪の向こう側に、文明が灯す人工の光が見えた。


            *


 案内された客室に入り、防寒具とフェイスマスクを取り外す。
 外気と室温とのあまりの気温差に、肌がじんじんと火照って疼いた。
 マスクをつけていてこの有り様なのだから、〝護衛〟は尚更だろう。特に彼は、太陽が燦々と降り注ぐリゾート地で育ってきたのだ。寒さに慣れているとは言い難い。
「妙な頼み事をしてごめん」
 急に申し訳なさがこみ上げてきて、詫びの言葉が口から転がり落ちた。風雪を受けて重みを増した防寒具を温かい場所に掛けていた男が、不思議そうな顔でこちらを振り返る。
「今回の視察のこと?」
 本来ふわふわと空気を多めに含んでいるテキーラの髪は、雪で濡れたのか、いつもよりもしっとりと重そうに見えた。
「確かに、いつもはこういうお誘いを断ってるのに、招待に応じるなんてちょっと意外だったかな。でも、物騒な護衛任務ってわけでもないし、むしろ俺は役得だって思ってるよ」
「役得……
「だって、視察とはいえドクターとふたりで温泉旅行みたいなものだし。護衛が俺でもいいってことは、ケルシー先生も気を利かせてくれたんじゃないかな」
……
 ケルシーの無言の気遣いに、察しがついていないわけではなかった。
 彼女は、今回の出張に諸手を上げて賛成してくれているわけではないだろう。むしろ、面倒なことを言い出したと思われているに違いない。それでも、護衛の人選は自由にしていい、と言ってくれたのは、紛れもなく気遣いなのだ。
 正直、エリートオペレーターを誰か一人連れて行けと言われるかと思っていた。定時連絡こそ義務付けられているものの、視察の内容が細かく決まっているわけでもなし、それ以外はただの休暇と変わらない。
「色々気になることがあるのはわかるけど、せっかくだからゆっくりしようよ。何か温かい飲み物入れるから座ってて」
「君だって寒かっただろ。少し休んだら?」
「まぁ、寒いのが得意じゃないのは事実かな」
 客室に備え付けの給湯セットに足を向けかけたテキーラが、ふと何かを思いついた様子で立ち止まり、
……ドクターが温めてくれる?」
 と、からかいを含んだ笑みを向けてきた。
「む……
 護衛を好きに選んでいいと言われて、軽率に彼を巻き込んだのは自分なので、何かしら礼をしたい気持ちはあるにはある。そもそも、普段から公私に渡って世話になっているのだし。
 とはいえ、〝温める〟方法はいくつかある。この場合、どれが適切なんだろうか。ただのハグだけでも許されるものなのか。
 真剣に考え込んでいたら、テキーラのまとう雰囲気がほんの少しだけ変化した。
 快活で空気の読める有能な部下の爽やかさが、恋人とふたりきりで過ごす男のしっとりとした気配に塗り替えられていく。
 給湯セットから方向転換して歩み寄ってきた青年は、防寒用の手袋を外したばかりの掌をこちらへと伸ばしてきた。
頬に触れた指先は冷たかった。いつもはもっと温かいはずなのに、これでは余計に互いの境目を意識してしまう。
「難しい顔して、何を考えてるの?」
 身長差を埋めるように身を屈めて、テキーラがこちらの顔を覗き込む。
 薄水色の瞳には、わずかに情欲の色が滲んでいるように見えた。
……君をどうやって温めようか考えていたんだ」
 下手に誤魔化しても仕方がないので、素直に白状する。
 テキーラは一見複雑そうに見えるが、その実ストレートに攻められると弱い。だから、彼と接するときは、出来る限り持って回った言い回しをしないように心掛けている。
 案の定テキーラは一瞬だけ目を瞠り、そのあとで口の端をいたずらっぽく吊り上げた。
……ふぅん。それで、何かいい案は浮かんだ? せっかくだし、俺にも教えてよ?」
 あまりにも自然に、男の腕が腰に回された。
 露骨に距離を詰め、これ以上離れられないように腰を抱きつつ、それでもぴったりと抱き締めるわけでもない。
 これは、「そっちから抱きついてきてほしいな」という、彼の無言の意思表示だ。
 テキーラは、人前できっちりと公私を線引きしているぶん、プライベートではやたらと甘えを見せてくる。元々他人を頼るのが苦手な性質が垣間見えるせいか、それとも単純に惚れた弱みなのか、彼の求めには応えたくなってしまうので困ったものだ。
 もっとも、こちらの甘え下手を察して、わざと彼の方からスキンシップを求めてくれている面も大いにあるのだろう。お陰で、スキンシップが欲しいときには気づけば触れ合っている状況が出来上がっている。それは決して偶然などではなく、彼の細やかな気遣いの為せる業なのだ。
 求めに応じて、男の背に腕を回す。
 細身に見えて、しっかりと厚みのある胸元に顔を埋め、隙間がなくなるように抱き締めた。
 お返しとばかりに、腰に回されているテキーラの腕に力が籠る。別々の鼓動と体温が混ざり合い、徐々にひとつに溶け合っていく感覚は、何度味わっても心地良いものだ。
「ほら、ドクターの方が冷たい」
「そんなことない。同じくらいだよ」
 実際、擦り合わされる互いの頬の温度に大した違いはない。それでも、上からすっぽりと包むように抱き込まれていると、自分の方が温められているように思えてくる。
「こうやってふたりきりで過ごすの、ちょっと久しぶりかな。俺もしばらく外勤任務が立て込んでたし」
 あやすように背を撫で下ろす大きな掌と、耳元に零れ落ちてくる優しい声。
「こういう時にドクターが俺を頼ってくれて嬉しいよ。むしろ、他の誰かに頼んだりしてたら、今頃ショックで寝込んじゃってたかも」
 彼に温もりを分け与えるために身を寄せたはずなのに、結局愛でられているのはこちらの方だ。寒さと妙な緊張感で強張っていた体から、少しずつ力が抜けていく。
「君以外、誰も思い浮かばなかった」
「そんなに俺を喜ばせてどうするの?」
「だって本当のことだし」
「うん。もっと頼って」
 そのまましばらく身を寄せていたら、こめかみのあたりにそっと、テキーラの唇が押し当てられる。
「だいぶ温まったかな。ドクター、サーミに着いてから、なんだかぼんやりしてたから、ちょっと心配だったんだ」
 額に、瞼に、順番にキスが降ってくる。
 心配してくれるのはありがたいし、久しぶりにふたりきりで過ごせるのも嬉しい。嬉しいが、ちょっと甘やかしが過ぎるのではないか。
 現地に到着したばかりだし、まだ日も高いのに、このままでは〝そういう〟雰囲気になってしまうのでは。というかもうほぼなっているのでは。
「え、エルネスト……
「なに?」
「雪のせいで服も濡れたし、ひとまず着替えたいかなって……
「じゃあ、俺が脱がしてもいい?」
「う……
 見事な墓穴を掘った。これでは自分から脱がして欲しいと言い出したようなものではないか。
「ごめんね。俺、結構浮かれちゃってるかも……
「ん……
 首筋に擦り寄せられた男の唇が、耳の下あたりを啄む。たったそれだけで、幾度も重ねた情事の記憶が蘇り、体の奥に熱が灯った。
 確かに到着したばかりだし、まだ日も高いけれど、数日は滞在する予定だし、折角ふたりきりなのだし、お誂え向きにベッドもあるのだし。まぁ、いいかな――と思いかけた、そのとき。
 無情にも、室内備え付けの電話が鳴り出した。
……
 テキーラはしばしの葛藤の末、名残惜しそうに体を離し、鳴り続ける受話器を取った。
 漏れ聞こえてくるやり取りから察するに、電話の相手はどうやらフロントのようだ。
 ややあって、受話器を片手に振り返ったテキーラの顔は、すっかり部下のものに戻っており。
「ライン生命の支部の人から夕食のお誘いだって。どうしようか? 今日は着いたばかりだから、疲れてるなら明日にする手もあるけど……
「いいよ。折角だし招待を受けようか」
「わかった」
 電話口に戻り、てきぱきと予定の調整を進める有能な部下を頼もしいと思いつつ、じゃれ合いに水を差されたことを少しだけ残念に思う自分もいて、随分と絆されたものだなと苦笑がこぼれてしまった。

――……

……?」
 不意に背後に気配を感じて、振り返る。
 当然、そこには誰もいない。綺麗に整えられた真新しい客室が広がっているばかりだ。
「ドクター?」
 今度は聞き慣れた声が呼び掛けてきた。
 フロントとの通話を終えたテキーラが、気遣わしげな表情でこちらを見ている。
「大丈夫?」
……平気。会食は何時から?」
 テキーラは何か言いたげな素振りを見せたが、それ以上は食い下がらずに、代わりに今晩の予定について話し始めた。