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2024-03-16 23:22:11
16405文字
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慶安神前試合術陣営~最後まで、の感想代わりの幻覚。伊吹ちゃんに「迎えにいく」といわれたので迎えを待っている宮本伊織と引き止めたいセイバーの話。

一、

絶対に怒られるぞ、なんとなく、と危惧していたセイバーの予感は的中した。

またぞろ彫った仏像を売りに来たついでに、世間話の一環として彼のマスターが店主に告げたものだった。
「まあこんなものであろうよ」とまんざらでもない顔でいつものように仏像の几帳面な細工を眺めていた若旦那のこめかみがぴくりとし、血のように赤い瞳がこちらを見た。

――なんだと?」
「友諠を結んだ。真名を伊吹童子というらしい。言っていることの八割も理解できなかったが英霊との会話ではそう珍しいことでもない。気立ては良さそうで特に警戒する気が起きなかったのでそのまま」
なんとなく裏表がなさそうに見えたからとりあえず信じてみた、と」

世にも美しい顔が一瞬大きく歪み、叱り飛ばそうとしたのか大きく口を開く。が、急速にやる気を失ったのかしなしなと口を閉じ、はあーあ、と嘆いた。

「この中立中庸の道化めが……
……なにかまずかっただろうか?」
「いや、もうよい。あちらの世界からわざわざ渡ってきたのだろうから今更こちらで面倒事を起こす気もなかろうよ。せいぜいこき使ってやるがよい。
――セイバー! 貴様はただそこに突っ立って見ていただけか。貴様のマスターはかように愚かで隙だらけなのだ、貴様がなんとかせんでどうする!」

急に飛んできた叱責に一瞬猫のように毛を逆立てたセイバーは、しかし言い返す言葉もなく項垂れた。
確かに、わかっていながら最近このマスターの言いなりになっている気がする。セイバーは伊織の考え方や性格が好きだ。とても好ましく思うし、彼がなにかを言うたびに、セイバー自身の論理的思考や常識とは別のところで、「彼の言う通りにしてやりたい」という気持ちが働いている気がする。そういう風に考えられる生き方に憧れている気がするし、それを臆面もなく口に出せるマスターを誇らしくも思っている、気がする。なにより、セイバー自身がマスターを、彼の判断を信頼し始めている。彼の望みを叶えることを、自らの主張より優先させたい気持ちが芽生えてきている。
――とはいえ、限度がある。彼のマスターは極度のお人好しな分他人に対する警戒心が著しく低いのも事実なので、代わりにしっかりと締めるところは締めてやらねばならなかったのだ、彼よりは余程常識的でまともであるセイバーが。
で、それを怠った。それを若旦那になじられている。相手が若旦那なのが心底業腹だが、今の彼に何を言う資格があるだろう。

ぐ、っと堪えて、まるで彼のマスターのような口調で零した。

「面目ない」
「まったくだ! なんのためのサーヴァントなのだ、この役立たずめが」
「若旦那、そんなことはない。セイバーはいつもよく頑張ってくれている」
「口を挟むな宮本伊織! 貴様は――まあよい。そのままでいるがよい。道化としての質が落ちてもつまらぬ」

よいよいもうよい、つまらぬ展開になれば我がすべて薙ぎ払うまでよ――と結局尻拭いを背負い込む宣言をしながら、苦労人のルーラーは伊織に向き直った。

「しかし、まさかこうも早々に貴様らの前に姿を現すとは。『牙が研がれたら迎えに行く』とは一体なんだったのだ、余裕ぶりおって」
「『迎えに行く』――? なんの話だろうか、若旦那」
「は、それすら言っておらなんだか」

一考し、若旦那が自分の顎を撫でた。

「では、『迎えに行く』のは貴様のことではないのやもしれぬな。――あちらに戻るつもりなのか?」
「若旦那? 話が見えないのだが」
「よい、この我の知ったことではない。あれの相手は気持ちのよいものでもないからな。――さあ、さっさと去ぬか! 商売の邪魔だ!」

仏像の代金を渡してしっしと犬を追いやるような手振りをすると、セイバーは心底不服そうな顔をし、伊織は特に気にも留めていないような顔で、店の前から立ち去った。
ふたつの後姿が大通りに消えていくのを眺めながら、若旦那が目を眇める。――で、あるならば。



あちらの世界の宮本伊織は、一体どうしているのだろう。――あの大御霊に「迎えに行く」と告げられた、あちらの宮本伊織は。






二、

浅草で催された祭りは騒がしくて楽しかった。

屋台での買い食いで伊織に有り金をほとんどすべて吐き出させた後、わずかに残った銭で翌朝の朝餉用の食材を買わせ、いよいよ素寒貧になったマスターを引き連れてセイバーは揚々と幽霊長屋に帰宅した。
せっせと朝餉の仕込みを終えたカヤが小笠原の屋敷に帰る頃には月が高くに昇っていた。夜道の中カヤを送っていった伊織が長屋に戻ったとき、セイバーは祭りで手に入れた玩具を手すさびで弄んでいた。
がらがら、と開かれた引き戸の方を振り向きもせず、「おかえり、イオリ」と生返事のように声をかける。

「まだ起きていたのか、セイバー」
「前々から言おうと思っていたのだがな。本来サーヴァントは睡眠を――ん?」

手許の木製の玩具からようやく目を上げて、セイバーが引き戸を見遣る。入室した伊織が後ろ手に戸を閉め――閉め切っていない。わずかに、人差し指の長さ程の隙間が開いている。

「なんだイオリ、きちんと戸を閉め切れ。今更隙間風がどうなどと言うつもりはないが、夜間に開け放しているのはなんだか妙だろう」
――あ、ああ。……すまない」

そう言って引き戸を閉める。――が、閉め切らない。小指の長さ程の隙間を残している。
なんだなんだ、とセイバーが眉を顰める。玩具を置き、手ずから戸を閉めようとして立ち上がり、手をかけようとして――その手を伊織に掴まれた。
セイバーが訝しげに目を遣ると、伊織がわずかに目を逸らした。目の合わないまま、やや早口で告げられる。

「すまん。……少し、寝苦しいんだ。開けておいてくれないか」
「なんだ、それならそうと早く言え。きみの安眠を妨げてまで無理して閉め切ろうなどと思っていない」
「助かる。――かたじけない、セイバー」
「別に、こんなことで礼など」

妙に改まった言葉にまごつきつつ、セイバーが畳の上に戻る。横で布団を敷き始めた伊織をちらりと見遣り、それからわずかに開け放たれた引き戸を見遣る。――なぜだろう。



そのわずかな隙間に込められた意図が。妙に落ち着かない。







我ながら妙な相手に訊いたものだ、とも思ったが、伊織の目を盗んでひとり長屋から抜け出したセイバーは、いつものように大通りでぶらついている助之進に声をかけた。

消去法だった。そもそも「なんだか妙な胸騒ぎがするから」などというろくに理由にもなっていないような理由で物事を尋ねられる相手も限られていたし、ましてやそれが伊織の言動に関してならばなおさらだ。
カヤや紅玉には無駄な心労をかけたくはないし――若旦那に話をしてみたところでなんになる。当人だけなにやら得心したような顔をされて、こちらにはわかるようなわからないような意味深長な言葉を投げつけられて終わりだ。

スケノシン、と声をかけると、「おおアンタか!」と人懐っこい笑顔で迎えられた。

「あれ、今日は伊織さんは?」
「そのイオリのことで尋ねたいことがあるのだ。――いや、きみに訊くべきことなのか正直いまだよくわかっていないのだが」

一拍おいて、セイバーは尋ねた。

「もしも、もしもだ。――夜毎、眠るときに家の引き戸を少しだけ開けているとしたら――それはどういう意味だと思う?」
……そりゃ伊織さんがそうしてるって話かい?」

顎に手を当てて助之進が考え込むそぶりをする。それから、頭を掻きながら困惑した顔で告げた。

「そりゃ、寝苦しいってことでは」
……いや、そうなのだ。その通り、その筈なのだ。……むしろ、なぜ私はこんなにもこれが引っ掛かっているのだろう……?」

ううん、と両のこめかみに人差し指を当てながらセイバーが考え込む。
いやーあ、と助之進が改めて腰に手を当てながら頭を掻いた。

「しっぽりやってる二人暮らしの部屋の戸を毎晩開け放たれたんじゃセイバー殿も気にはなるだろうが……まあ、あの安普請――っと、あの長屋じゃあ戸締りをしようとしまいと不用心にはあんまり変わりなさそうだしなあ。でも、確かになあ」
「いや、私が要らぬ心配をしていただけのような気がする。すまないスケノシン、忘れてくれ」
「まるでなにかを呼び込もうとしてるみたいで、ちょっと薄気味悪いかもなあ」

「えっ」とセイバーが思わず声を上げる。目線を宙にさまよわせたまま、助之進がぽつりと言った。

「なんかこう――『入ってきてくれ』って、誰かに頼んでるみたいじゃねェかい? わざと少しだけ戸を開けておいて、誘い込むように――誰かを待っているみたいに」

「ま、セイバー殿がいるのに伊織さんが一体誰に粉かけるって話だ、忘れてくれい」。カラカラと笑い、助之進が陽気に去っていく。
取り残されたセイバーは、愕然としてその場に立ち尽くしていた。――誰かを待っている? 誘い込むように? ――迎えに来るのを待っている



――まさか。



長屋の方角を振り返る。――イオリ、まさかきみは。

「彼女が――迎えに来るのを待っている、のか――?」







――考える。

セイバーは考える。イオリが、何を求めているのかを考える。
伊織自身、自分が「求めている」ことに自覚的であるのかもわからない。ただ、意識的であれ無意識であれ――彼が迎え入れ、身を委ねようとしているものがなんなのか、考える。

あの大御霊に見初められ、認められ、求められている彼のうちの何か――それを求められるままに応えて、献上しようと、奉納しようとしている彼のことを考える。

先の神前試合で宮本伊織は奉納を行った。彼の才を存分に発揮し、御山の大御霊ですら歓ぶ程の見事な「剣舞」を奉納したのだ。
――果たしてあの場で、彼ほど純粋に、真摯に、一振りの刀としてかの神霊への心からの奉納を行った者がいただろうか。
剣になによりも価値を置き、それこそが彼自身の存在意義であり自身の生命と同義であるとする、宮本伊織ほどに。

つまり、彼は捧げてしまったのだ。彼の中でもっとも価値のある「剣」という存在を、彼自身ごと。
そしてそれを、かの神霊は受け取った。受け取って、善しとした。――だから、召し上げるという。

それを、イオリは待っているのだという。



――それを「いやだ」、と思うのは、セイバーの我儘なのだろうか。






三、

――で、我のところに泣きつきにきたと」

帳簿から目線を上げもせずに若旦那が言った。返す言葉がない。セイバーがぐっと押し黙ると、「やれやれ」とようやく赤い目がこちらを見た。

「くだらん。逸れの一匹程度自力でなんとかできぬようではどの道貴様に見込みなどないわ」
「~~~……

反射的に悪態をつきそうになるがぐっと堪える。その『逸れの一匹』ごときのために全陣営を巻き込んであれだけ大規模な儀式をやっておいてよく言う――とは思うが。
帳簿に何やら書き留めながら、「で、結局貴様はどうしたいのだ」と半分も気持ちの篭もっていない口調で尋ねられる。

――イオリが、連れていかれるのを阻止したい」
「貴様の話では本人が望んで連れていかれるのを『待っている』とのことであったが」
……~~~っ! それでも、だ!」

吐き捨てるように宣言し、セイバーは縋るように若旦那を見遣る。やや沈黙があって、帳簿からようやく若旦那が再び目線を上げた。はあ、と呆れ返ったような溜息をついた。
筆を置き、珍しく諭すような口調で言った。

「貴様、自身のそれが酷く無責任で残酷な望みであることは理解しているのであろうな?」
「は?」
「野良の獣に気まぐれで餌付けをして、だが『飼えぬから』とまた往来に捨ててくるような真似だ」

「一度餌付けされた獣はな」、若旦那が己の長い指先を見遣りながらぽつりと言った。「二度と、自力では生きられぬ」。

なんらかの例え話であることはわかった。だが、何を言わんとしているのかセイバーにはさっぱりわからない。
これだから若旦那と話すのは嫌いだ、と内心苛立ちながら、「とにかく」と強引に話を進める。

「たとえイオリ本人が今はそう望んでいたとしても、そう易々と渡してやれるものか。カヤだって哀しむし――なにより、イオリが喰われてしまうのだぞ。イオリのサーヴァントとして、そんなこと認められるものか」
「ならば儀が終わったあとにくれてやればよかろう。それであれば貴様の不利益にもなるまい」
「そ、そういうことではない!」

(イオリに――自分が好ましく思っている相手に破滅してほしくないと望むのは、そんなにおかしなことか?)
痺れを切らしながら若旦那をねめつける。が、存外真面目な面持ちをした赤い目とぶつかり、怯む。――(そんなに、おかしなことを言っているか? 私は。)

やがて、はあ、と何度目かの溜息をついて、若旦那は言った。

「よい。我とて愉快な道化を横取りされるのはつまらん。気が向いたなら我こそが貴様らを連れ回してやろうと考えていたのだ。ぽっと出の神ごときに愉しみを奪われてはかなわん」
――きみ、なんだと?」
あれが現れたなら呼ぶがよい。あれの相手は不愉快極まりないが――まあ、加勢くらいはしてやろう」
「ワカダンナ」
「だがな」

セイバーが礼を言うのを遮るように、若旦那がぴしゃりと言った。

「本人が望んでいるうちはどうにもならん。まずは伊織と話をつけてくるのだ。――フン、本当は貴様自身そのくらいわかっていたのだろうに」

対峙するのが怖くて我のところに逃げてきたな。――そう指摘されるのが怖くなり、セイバーは足早に若旦那のもとを辞する。

これだから、若旦那と話すのは嫌いだ。






四、

その晩、ここ数日ずっとそうしているように、伊織はわずかに引き戸を開け放してから布団を敷き始めた。
伊織が敷布団を均す横を素通りし、セイバーは何も言わずに戸に近づく。かたん、と軽い音を立てて戸を閉め切る。

伊織の手が止まる。かすかな灯りに照らされてちらちらと橙色に光る瞳が、セイバーを見る。

――あ、セイバー。そこは」

開けておいて。――その言葉を遮るように、セイバーは毅然として言った。

「だめだ、イオリ。……だめだよ。きちんと閉めるんだ。――誰も、入ってこれないように」

伊織の顔が一瞬強張る。それから、こちらを安心させるようにふっと柔らかく微笑んだ。――この、一見お人好しに見えるマスターは存外嘘が上手なのだと、セイバーは思い知らされる。

「そんなに用心しなくとも、こんな何もない家に誰も入ってなんてきやしないよ。怪異は結界に弾かれるし――この頃少し、寝苦しいんだ。戸を開けておいてくれないか」
「『寝苦しい』のは、あの大御霊と約束したからか?」

伊織の顔が微笑みを模したまま凍る。やがて、ぽつりと問うた。

「セイバー、なんのことだ?」
「きみは、待っているんだろう。――だめだよ、イオリ。神に連れていかれた人間は、ろくな目に遭わない。特に、あのような神ならば」

伊織の顔からようやく微笑みが消え失せた。代わりに、珍しくやや不満げな表情を浮かべた。

……そうかな」
「そうとも。日ノ本の神々がどういうものかは、この私に訊くといい」

ふうん、と拗ねたように伊織がそっぽを向く。まるでセイバーがするようにやや頬を膨らませた。
端正な顔に浮かぶ幼い表情のアンバランスさに、セイバーの不安が煽られる。

「イオリ」
……『喰われる』とは、聞いている」
「ちゃんと、わかっているじゃないか」

思わず伊織に向かって一歩踏み出したセイバーに、伊織が続けた。

「だが、あの神が喰らうとしたら、それは」

セイバーの足が止まる。伊織の、月夜を溶かし込んだような深遠な瞳が、セイバーではないどこか遠くを見つめていた。

――少なくともかの神に喰われるそれは、もはや一振りの『剣』と同義となれるのではないだろうか。セイバー」







――甘い夢を見ている。

それは願いとも違う、渇望とも違う、至上命令とも違う、諦念にも似た、すべてを擲って見る優しくて甘い夢。
生を諦め、せめて死に意味と救済を見い出そうとする、頽廃的で怠惰な、それでいて酷く満ち足りた。

これまで、彼はよく頑張った
その彼の、降って湧いたせめてもの終の住み処を、その最期を、その甘やかな夢を――取り上げる権利が、果たしてセイバーにあるのだろうか。



――あろうがなかろうが。
間違っていようがなかろうが、セイバーは伊織を引き留めるしかないのだ。

なぜ、それがそんなにも嫌なのかセイバー自身にもわからない。それでもなぜか――

――「その役目はおまえのものではないのだ」と、彼の中のなにかが叫んでいる。






五、

何食わぬ顔をして、日中を過ごしている。

まるでなにごともなかったかのように、朝餉を食べ、銭を稼ぎ、その合間に少しだけ儀に進展があって、そしてぷつんと手がかりが途切れる。次に何かが起こるまで、また束の間の日常に戻る。夕餉を食べる。その繰り返し。
セイバーが何も言い出さない限り、伊織も何も言わない。まるであんなやり取りはなかったかのように――穏やかで、騒がしくて、たまにセイバーがからかうように僅かな毒気を孕んだ軽口を叩いて、それを伊織が苦笑いして軽く受け流すような――そんな、なんでもない会話を交わしている。――日の昇っている間は。

日が沈んで、月が昇る。――月は、セイバーに伊織を想わせる。



夜は、狂乱と焦燥の時間だ。



セイバーが引き戸を閉め切ったあの夜から、伊織は引き戸を開け放さなくなった。
そもそも、宵の戸締りをセイバーが行うようになった。伊織は、きちんと几帳面に広げて均した敷布団の上に腰を下ろして、セイバーがきっちりと戸を閉め切るのをただ静かに眺めている。
特に不満げにも見えない凪いだ顔を見遣り、セイバーがかまどを背にして腰を下ろす。入口を護衛するようにも、出て行こうとする者を監視するようにも見えた。

「おやすみ、セイバー」
「ああ、おやすみ。イオリ」

短く言葉を交わし、灯りを落とす。一瞬だけ部屋の中に深い闇が訪れたのち、うすぼんやりとした月明かりを透かして障子の影が伊織の布団の上に落ちる。

―― 一刻の後。

障子越しの月明かりの中で、青年のかたちをした影がうごめく。ゆっくりと布団から身を起こし、物音を立てぬように土間を抜け、引き戸を開ける。
ひんやりとした夜風が吹き込んで、青白い月明かりに照らされた頬を撫で、着物の袖をわずかに揺らす。そのまま外に出る。後ろ手に閉められた引き戸が、かたん、とかすかな音を立てる。

――セイバーが、静かに目を開ける。







『鍛錬場』と名付けた林の中で、伊織が二振りの刀と共に舞い踊る。

夜更けにこの場所にいること自体は無論、初めてのことではない。伊織が寝食を忘れて夜通し稽古に没頭してしまった経験など一度や二度のことではない。
なんなら、夜中にこっそりと抜け出して秘密の訓練をしたことがあるのはセイバーとて同じだ。その在り方を気に入って憧れたマスターの剣を、よりにもよってクラス『セイバー』が模倣して喜んでいた。いじらしいことだ。

状況は似ている。だが違う。

二振りの刀が宙を斬り裂き、ちらちらと月明かりを反射しながら弧を描く。ぴんとよく伸びた背筋の美しい姿勢のまま、深く腰を落として宙を突き、あるいはすっと身を起こして宙を薙ぐ。
いつもの型と変わらない。だがその剣は、誰かを愉しませるために捧げられるそれは、もはや剣技などではなく、

――奉納剣舞』。

夜毎誰かに捧げられるその剣舞がきちんと受け取られているかなど、もはや伊織には関係のないことなのかもしれなかった。
それはもはや祈りのようなものであり、それを舞っている間は、彼は夢を見ることができるのかもしれなかった。
「牙が研がれたらいつか迎えにきてくれる」。そんな、童話に出てくる永遠の少年と彼の世界ネバーランドに憧れて、夜毎窓を開けて『迎え』を待っている異邦の少女のような、淡く純朴で、胸を締めつけられるような憧憬を抱きながら。

――いつか奪われて、壊されるのを待っている。







三日、見逃してやった。

セイバーが目を閉じたまま眠ったふりをして待っていると、四刻が経過した頃に、かたん、と引き戸が開いた。
伊織が息をひそめているのがわかる。少なくとも「セイバーに見つかったらまずい」ことをしている自覚が彼にあるのだと、セイバーの心が冷たくなる。
そろそろと土間を抜け、畳に上がる。何事もなかったかのように床に就き、やがて本物の軽い寝息が聞こえてくる。――セイバーが目を開ける。

引き戸を閉め切るようにしたら夜半に長屋を抜け出すようになった。不用意に問い詰めれば、次にどうなるかわからない。
柄にもなく弱気になって手をこまねいている。その自覚はあったが、どうしても選択を誤りたくはなかった。
マスターとサーヴァント。確固たる、しかしひとたび儀を離れてしまえばなんのよすがもなくなってしまう、この一本の絹糸のような心許ない繋がりを己の浅慮でみすみす崩して、この指の隙間から、さらさらと砂のように無惨に取りこぼしたくはない。

だから、三日は見て見ぬふりをしてやった。
一体どこで何をしているのかは知らないが、明らかに睡眠時間が足りていないだろうに日中は疲れなどおくびにも出さない伊織に、セイバー自身感心するなどもした。――「で、あるならば、夜中にどこで何をやっていようと彼の自由か」。彼を問い詰めない自分への言い訳にも都合がよかった。

だが、四日目のことだった。日中のことだ。
いつものなにげない会話の中でのことだった。ほんのたわむれ、深い意味などなにもない、ただ間をもたせるための世間話だった。「きみは、この儀が終わったあとはどうするのだ」。
自分は、ただ退去をするだけだ。儀の「終わったあと」なんてない。だが伊織は違う。お互いに盈月にかける願いなどないのだから、儀が終われば伊織には日常が、人生が待っている。寿命の限りどこまでも続く、長い長い道のりが。

「仕官を目指すかな」。「さしあたってはなにもない。ただ用心棒を続けるだけだ」。そんな、当たり障りのない、つまらない答えを期待した。

だが、伊織は答えなかった。セイバーの望んだ答えを口にしなかった。それどころか――ただ曖昧に笑って、セイバーから目を逸らしたのだ。

まるで「そんなものはない」のだと、セイバーに告げるように。



だが、そんなことはもはやセイバーにとっては些事であった。そんなことよりも、それを告げた伊織が、彼から目を逸らしたことの方が大問題だった。――イオリが、彼を見ない。



目が、合わないことが。

伊織の目が、セイバーを見ないことが。

――烈火の如き苛立ちを、セイバーの腹の奥底から湧き立たせる。

まるで、伊織の顛末にセイバーは不要であるとでもいうように。まるで、彼には関わりのないことだとでもいうように。――伊織の『願い』を叶える誰かは、別にいるのだと。



酷い苛立ちに突き動かされるまま、四日目の晩。
あれほど躊躇っていたことをすべて無に帰すように、セイバーは長屋を抜け出す伊織の後を追った。

はらわたが煮えくり返っている。すぐにでも胸倉を引っ掴んで、振り向かせて、怒鳴りつけてやりたい。頬を張って、こちらを見る怯えた目に言い聞かせてやりたい。

――きみがなにかを望むなら。その相手は、私であるべきだ。他の誰かであってはならない。きみは、私を望むべきだ

当然の権利を蔑ろにされたかのような、義憤さえ含んだ憤怒。――それを正当な感情だと、灼熱に浮かされた頭で、セイバーは思う。
彼に対して信じられないような不義理を働いているのは、むしろ伊織の方なのだと。






六、

眩暈を誘発するような光景だった。

彼が鍛錬するところを幾度となく見た。一振りを、一突きを、丁寧に、丁寧に、ただのひとつの所作とて決しておろそかにしない。
指の先まで神経の行き届いた動きで、己の肉体を完全に掌握し、それでいてさらに高みを目指そうとする。

知っている。彼が刀を振るうとき、それは儀式にも似た真摯さと厳粛さを伴っている。――だがこれは違う。
そこに込められた意志に一切の妥協はない。だが、これは。――セイバー程の剣士に、わからないとでもいうのだろうか。

――イオリ!」

思わず声を張り上げると、両の刀を振り上げていた伊織の動きが止まった。ゆっくりと腕を下ろし、セイバーを振り返る。「……あ、」と、さすがにばつの悪そうな声を漏らした。

「セイバー。……すまん、おまえを起こしてしまったか? ……なに、これはなんでもないよ。ただ、昼間の鍛錬では物足りなくて」
「つまらぬ言い訳はよい。必要ないし聞きたくもない。――イオリ、なんだこれは。きみ、わかっていてやっているのか」
……ただの鍛錬だよ、セイバー」
「これはきみ自身のための鍛錬なんかじゃない。他の誰かのための『剣舞』だ」

月明かりの青白い光の中で、伊織の首筋がかすかに朱に染まるのが見える。――どうやら、自覚がなかったようだった。
指摘されて初めて気が付いて、今更ながらに恥じ入るのか。セイバーが内心で苦々しく毒づく。酷く不愉快で、面白くなかった。
「ハッ、」と悪意の篭もった笑い声が漏れた。

「まるで恋だな? イオリ」
……セイバー?」

セイバーの剣幕が理解できず、伊織が恐る恐る尋ねる。セイバーの可憐な相貌の、その小さな口の端が、嘲弄のかたちに歪んだ。

「知らなかったぞ。きみの破滅願望がここまでのものとは」

なじられた伊織がセイバーから目を逸らそうとする。そこにまた怒りを覚え、セイバーが辛辣な言葉を重ねる。

「なに、きみがきみの身に起こることでまわりがどう思うかなんて気にしたことがないのは今に始まったことじゃない。
もはや言っても無駄だろうが、きみがきみの望み通りの破滅を迎えればカヤは哀しむ。――それから、私も哀しむぞ。言っても無駄だろうがな」

これは本心だった。少なくとも、若旦那に相談をした時点ではまぎれもない本心だった。――破滅など、できることなら迎えて欲しくはないのだ。どうあっても、セイバーはこのマスターのことを好ましく思っているのだから。
眉尻を下げ、伊織がセイバーを見た。少しだけ、セイバーの溜飲が下がる。

「セイバー。……おまえが、俺を心配してくれているのはよくわかったよ」
「ああそうだ。これでも私はきみのサーヴァントだからな」

ぶっきらぼうに言い放つと、伊織がふっと苦笑いしたのが見える。――いつもの伊織のように見えた。
なんだかようやく気持ちが通じたような気がして、セイバーが饒舌になる。

「イオリ、私はただきみに幸福であってほしいのだ。――きみ、昼間の会話の受け答えだっておかしかっただろう。
きみには、私と違って儀のあとにも続くきみ自身の人生があるのだ。すべてが終われば、きみはまた日常に戻っていく。やがてこの儀のことも私との日々もよき想い出になって――我らが共に取り戻した江戸の平穏の中で、ゆるやかに、穏やかに、きみは生きていくんだ。それこそが、私がきみに望むことだ」



ぷつん、と。
なにかが、途切れてしまった気がした。



伊織の返事がない。相槌すらない。
見遣ると、伊織が俯いてしまっている。――また、目が合わない。

――イオリ?」
「おまえは、いなくなるじゃないか?」

ぼそり、と呟くように吐き出された言葉は、まるで伊織の声ではないように聞こえた。
喉の奥から絞り出すような、糾弾するような――幼い男の子が、拙い言葉で必死に理不尽を訴えるような。

「セイバー。おまえは、いなくなるじゃないか? 俺をおいて、ここからいなくなるじゃないか?
おまえは、おまえの剣を俺に見せて――俺と共に戦場を駆け巡って――俺にこんな世界を見せるだけ見せておいて、そしていなくなるじゃないか?
俺はもう、あの凪いだ日常あそこに戻っては生きていけないのに?」



――獣に、餌付けをしたから。

ああ、と今になって、あの時若旦那が言っていたことをセイバーはようやく理解する。

喰わせたのだ。セイバーは伊織に喰わせたのだ。
ペルセポネの柘榴、イザナミの黄泉戸喫。
一度口にしてしまったからにはもう戻れない。――もうそれなしには生きられない。

わかっていた。
儀が終われば、それまでは朧げにやり過ごしていたその渇きを、彼がはっきりと自覚しながら生き続けなければならないことを。
一度貪ることを、満たされることを知ってしまったその身が、もう二度と満たされることがないことを知りながら、なお。



もうきっと、これ以上彼は生きてはいけないのに。



その彼をたったひとり残して、セイバーは退去する。もはや彼には呼吸ができないとわかっている世界にひとり取り残しておいて、「幸福であってほしい」などと、酷薄で無責任な望みを託して。

不義理だと、糾弾されてしかるべきは最初から自分の方だったのだと、ようやくセイバーは理解する。
冷や水を浴びせられたような気分だった。正体のわからない怒りに燃え上がっていた頭が急速に冷却される。――ああ、だから、降って湧いたあの神に縋ったとでもいうのか?
彼をこんなにしてしまったセイバーのことは、端から頼れなかったとでもいうのだろうか。

は、と伊織が我に返ったような顔をする。酷く申し訳なさそうな顔をして、「すまん。おまえに言うことではなかった」と早口に謝罪した。

……私に、言うことではない……? 私に言うことだろう」
「だがなにひとつおまえのせいではない。すべて俺自身の問題だ。筋違いにおまえを責めるようなことを言って悪かった。どうかしていた」

「戻ろう」と声をかけ、伊織が林の中の夜道を行く。俯いたまま、セイバーがその後ろ姿を追う。






七、

それ以来、セイバーは伊織に何も言わなくなった。
それからしばらくの間は伊織の夜半の外出も続いていたが、やがて儀が激化するとそれどころではなくなった。純粋に伊織に生身の人間としての体力の限界がきて、夜中に出歩くどころではなくなったのだ。
話題にしなかったので伊織がどう思っているのかセイバーには見当がつかなかった。いまだに強く願っているのか、それとも時間の経過と共に興味が薄れ、忘れてしまっているのか。
――だが、セイバーは片時も忘れたことなどなかった。

夜毎、眩しく光り輝く月を見上げては伊織を想う。伊織の来たした生涯を想う。伊織が何を考えているのかを想う。宮本伊織という人を想う。
伊織を識りたいと想う。理解りたいと想う。考えて考えて――考えるほどに、識るほどに、理解るほどに、彼への『情』は募っていく。
憐憫も、憧憬も、欲心も、情愛も、友情も、すべてを内包してないまぜになって、もはや正体もわからなくなったひとつの感情が、行き場もないままに溢れ続け、やがてその場を透き通った水のように満たしていく。

きっと彼にこの気持ちが見えることはないのだし、この気持ちを彼が受け取ることもきっとない。――それでも。

その、冷たく澄み渡った孤独な月の輝きから、セイバーは決して目を逸らさない。






八、

女武蔵が、光の粒子となって宙に霧散する。
己が手で、彼女を斃すのにもっとも適した奥義でもって容赦なく破っておきながら、こうも酷く傷ついたような顔をするから剣士というものは手に負えない。
心のもっとも脆い部分を剥き出しにしたような幼い表情で、伊織が恩師を見送る。――別れの儀が終わるのを待って、セイバーが声をかける。

「イオリ」

疲労から倒れ込む伊織を受け止め、彼が立ち上がるのを介助してやる。さあ、いよいよだ――本堂に向かおうとして、セイバーが足を止めた。

――イオリ。ずっと、考えていたことがあるのだ」

そもそもが覚束ない足取りだった伊織も足を止める気配があった。セイバーが彼を振り向く。

「きみは言っただろう。私が、きみを置いていくと。――この儀が終わったら、私はきみを置いていくと」
「その件についてはすまなかった。儀とは、サーヴァントとはそういうものだ。どの道を辿っても最後にはおまえとは別れる。そういうものだ」
「ものわかりのいいことを言って、私を突き放すのはやめてくれ」

ぴしゃりと言い、口を噤んだ伊織にセイバーは続けた。

「だからきみは、あの神を選んだのか。きみに救済を与える相手として。彼女が、たまたまきみに手を差し伸べたから」
――救済、などと」
「あれから考えたのだ。きみのことも、きみが願っていることも。――そして、思ったのだ」

夜風が、セイバーの黒髪を揺らす。ざああ、と木々の揺れる音がした。

「それはやっぱり、私でなくてはならないのだと」

セイバーが、伊織に一方近づく。呆然と立ち尽くしたままの伊織は、ただセイバーの顔を見つめている。

「それがきみの『願い』ならば。それこそが、きみという人が真に求めるものならば。もうどうあってもそれを変えられないというのならば。
それをきみに与えるのは、私でなければならない」
――……
「私は、きみを識っている。きみが教えてくれたから。私は、きみのことを考え続けた。眩い月の夜に、喧騒の朝に、穏やかな昼下がりに。――きっと、きみという存在を私ほどに想い続けた者はいないよ。イオリ」
「セイバー」
「だから」

セイバーの足が止まる。伊織の目の前に対峙して、途方に暮れる子供のような表情の、マスターの顔を見上げる。

「きみは私になにも返してくれなくていい。――ただ、最期にきみに届く私の最後の一撃が、『よい生だった』ときみに思ってもらえるならば」

伊織の、月夜の色をした瞳が見開かれる。目の前のセイバーを見る。「――ああ、」と、かすかに声を漏らした。嗚咽のようでもあった。

――もったい、ないなあ」
「うん……?」
「俺にはもったいないほどだよ、セイバー」

ゆるゆると首を振り、伊織がセイバーを見下ろす。憑き物が落ちたような、柔らかな笑みを浮かべていた。

「きっと、ずっとどうかしていた。行こう、セイバー。おまえがいてくれるから、きっとこの先どうなったとしても、少なくとも俺は――
「ああ、イオリ――






ふっ、と。






セイバーの目の前から、伊織が消えた



……えっ」

セイバーが左右を見渡す。誰もいない。一歩、二歩下がり、どくどくと早まる動悸を覚えながら、体ごと捻って周囲を見る。誰も、誰もいない。

「イオリ! ――イオリ! どこだ!」

夜風が吹き荒ぶ。セイバーの長い三つ編みをも攫いながら、木々を揺らしている。――ああ、そんなばかな!
恐慌を起こしかけている頭で、唯一心当たりのある名を叫ぶ。

「イブキ――イブキ! きみなのか! ――貴様なのか、イブキ! ――イオリを返せ!」

返事はない。セイバーの声が虚しく響き渡り、やがて風音に掻き消される。
ビュウビュウと吹き荒ぶ夜風が、あの大御霊の哄笑のようにすら聞こえた。――ああ、一体なにを思い上がっていたのだろう。
神が召し上げると決めたのだ。伊織が選ぶのではない。選んだのはあの大御霊で、選ばれたのが伊織だった。それだけの話だ。
一体なにを悠長に構えていたのだろう、自分は。――さっさと斬るべきはあの神の方だったのだ

「ああ、イオリ――イオリ、そんな――

空を見上げる。なにものにも溶け込まず、ぽっかりと浮かんでいた筈の眩い望月が、雷雲にも似た雲に覆い尽くされていた。
セイバーの奥歯がぎりぎりと軋む。――ああ、これだから、神というものは、

「イオリ――!」

アアアアアアア、と意味をなさない咆哮を、暗雲の立ち込めた夜空に向かって絶叫した。






盈月の器に王手をかけていたと見做されていたセイバー陣営は、突然のマスターの不可解な失踪によって脱落となった。
マスターである宮本伊織が消えた、と関係者が気付いた頃には、そのサーヴァントであるセイバーの姿も既に江戸にはなかった。宮本伊織の死亡、あるいはなんらかの理由でパスが切れ、魔力供給を受けられなくなり退去したものと考えられた。

かくして宮本伊織は盈月の儀から姿を消し、その顛末は誰の関知するところでもなくなったのである。