「お疲れ、墓の」
「本当に疲れますよ。でも今回ばかりはなァ
……、」
ちいさいのが眠る布団を挟んで座った墓のに、俺は煙草を差し出した。墓のは慣れた仕草で受け取ると同時に、首を回しつつため息をつく。
ちいさいのを起こさない為の小声の会話は、もはや完全に習慣だった。
「高山の鍵は何とかしました。体の負担を考えれば、どう足掻いても二発が限度でしょうけどネ。最低限、暴発は防げるはずです」
「そっか。
……あいつ、何だってあんな物騒なモン抱えちまったンかな」
「正直僕もそう思いましたけど、生身の時点で物騒が極まりきってる輩に言う資格あります?」
そう言われてしまうと、一言もない。俺は曖昧に笑ってごまかした。
ライターの、かちりという音。和室の、木と古い畳の匂いを押しのけて、紫煙が漂う。苦味の中に甘いバニラが混ざる、俺にはとても思い出深い匂いだ。前は、何ですこの甘ったるいのは、と眉をひそめていた墓のも、気がつけばすっかり馴染んでしまっている。
漂う紫煙の下、ちいさいのの寝息は変わらない。
俺が元いた世界では、子供の前で煙草なんてって時代になっていた。でもちいさいのにとっては、この煙草の匂いは恋しいものの一つのはずだ。昔の俺で、昔の沢城。でも、愛するものも愛してくれるものも全て失った。そんな魂だから。
「で、ゲタ吉の方はどうなんです?」
「こっちも完了」
ちいさいのの布団の端を少しめくって、ちいさな左腕を視線で指してみる。その手首にあるのは一本の組紐だ。ご先祖様の霊毛を少しほどいて、俺の髪と合わせて編んだ白と黒。ちいさいのの魂に会わせて糸を選んだら、黄色は入らなかった。
寒がるといけないから、布団はすぐに戻す。
「
……見上げた執念です」
墓のの呟きは、組紐に対する呆れ半分の賛辞だった。
本当は、俺はちいさいのの側から絶対に離れたくない。でも今回ばかりは、という先ほどの墓のの言葉通り
――全力で戦わざるを得ない戦場に、ちいさいのを連れて行くわけにもいかない。だからこの組紐は、せめてものお守りだった。
「気休め程度だけどネ。ちいさいの、霊毛の操り方は教わってないと思うし。霊毛の方にしても、正式な持ち主は俺だから、ちいさいのの為には動かないはず
……」
「それでも、ないよりはずっといい。軽めの瘴気くらいなら打ち消せますよ」
「いや、そもそも絶対巻き込まれないとこまで、逃げて欲しいんだけどナ」
ちいさいのの為であり、墓のの為でもある。
墓のの頭の出来は、俺より明らかに上だ。でも戦う腕の方は
――まあ、そのへんの人間に負けることはないな、くらいでしかない。いつか高山が、うちのねこ娘よりは強いだろうと思うけど
……と、言葉を濁していたことがある。だから、正面は俺たちで請け負って、墓のはちいさいのを連れて逃げる方針になっていた。
煙草を吹かしながら、墓のは小さく呟く。ちいさいのを起こさないように。
「
……しかしこのタイミングで沢城と高山がここにいるのは、何という奇遇でしょうねェ。アナタたちで勝てなかったら、他の誰でも勝てないでしょうよ」
「俺たち、ね。
……俺と沢城は、人間の街がかかってる以上、絶対に退けないからナ。でも高山はなァ、正直あいつに命を張らせるのは、気が進まないな」
帰るところがあるあいつには、と内心で続けた言葉が、墓のには聞こえたんだろうか。紫煙の薄もやの向こうから、墓のの声が聞こえる。
「当人が戦うと言ってる以上、出てくるなと言っても無駄ですよ。あの肚の据わり具合、元の世界で妖怪の親玉になれるわけだと納得しました僕ァ」
「お前がそこまで言うなんて、余程だな」
俺の背後の卓袱台にあった灰皿を、ちいさいのの枕の上あたりに置いてやる。ん、と小さく唸りつつ、墓のはその上に灰を落とした。
「高山のやつ、沢城にかなり入れ込んでるでしょ。何があったか知りませんけど、惚れちまったらしょうがない、ってモンです」
「惚れ
……、」
「そうとしか言えねェでしょう、あれ」
思い返して、まあ確かに、と俺も小さく頷いた。
半年ほど前に飛ばされてきた頃から、高山と沢城はずっと一緒にいる。より正確には、高山が沢城を構い続けている。
沢城はそういうタイプの相手が、本来かなり苦手なはずだ。何しろ沢城は、出元が俺とほぼ“同じ”なので、そのへんはよく分かる。なのに半年ばかり過ごすうち、沢城はだいぶ絆されたようだった。どんな風に心が動いたのかは、俺は聞いてもいないけど。
「
……となると。ちゃんと生かして帰さないとなァ、沢城も高山も」
どれくらいの規模の戦いになるかは、墓のからもらった情報でだいたい見当がついている。俺一人なら自爆前提でやるしかない、沢城と二人なら、まあそこまでしなくても
……くらい。加えて地獄の鍵を操れる高山がいるなら
――おそらく、ほぼ勝てる。但し、二人を生かして帰せるかという別種の勝負が加わる。
俺の考えがそこまでたどり着いたところで、墓のがぼそりと呟いた。
「もう一人忘れないでくださいよ」
「え、誰?」
ちいさいのは墓のが連れて逃げるはずだし
……と考えていると、墓のは少し苛ついた仕草で、焦げたフィルターを灰皿に押しつけた。
「お前自身を忘れるんじゃねェって言ってんです、ゲタの」
「あ」
「あ、じゃありませんよ、ッたく。
……本当、洒落にもならない。いいですか、僕ァちいさいのの身の安全だけは守ってやりますよ。けど、」
墓のの視線がちいさいのの寝顔を指した。
寝息のリズムは変わらない。
「お前が帰ってこなかったら、今度こそちいさいのの心が壊れちまう」
――二の句が継げなかった。
黙ったままの俺を正面から見据えて、墓のは言葉を重ねてくる。
「ちいさいのにとって、お前の代わりは居ねェんですよゲタの。それくらいに絆して絆されて、だからお前らこの墓場に留まってンでしょうが」
「それは
……そうだナ」
全く以てその通り、だった。
はあ、とこれ見よがしにため息をついて、墓のはゆっくりと立ち上がる。
「今回ばかりは、僕ァお前の役には立ちません。頼るしかない。だから、」
無事に帰ってこなかったら承知しませんよ、と言い捨てて、墓のは少しだけ落ち着かない足取りで部屋を得ていった。まあ、事態が事態なだけにしょうがないか、と思って、俺はその背を見送る。
「絆して、絆されて
……か」
ちいさいのの寝息を背にして、俺も煙草に火をつけた。
開け放った障子の向こうは、荒れた庭と、真っ黒な空があるばかり。ただ空気の中に、密かに何かが忍び寄る気配がある。組紐を早めに完成させたのは、この不安定な大気から、ちいさいのの心を守ってやりたいからだったことを思い出した。
守ってやらなくちゃいけない、
……本当に、墓のが言う通りだった。
聞こえる寝息から、悪夢の気配は感じない。
注意は背後に向けたまま、俺は縁側に腰掛けて空を見上げた。
月のない夜。どうしても思い出す。
俺が見た、元の世界の最後の空も、新月の夜空だった。
俺がこの世界に飛ばされてきてから正確にどれくらいなのかは、もう数えてもいなかった。元の世界のことを忘れたわけじゃない
――元の世界の最後の記憶は、第三次妖怪戦争、と呼ばれる騒乱の中だ。第二次のときとは比べものにならない規模で、文字通り世界中を巻き込んだ戦いになって、そして俺はそのさなか、対妖怪に特化したあの銃に撃たれたのだ。
但し、今回は死にはしなかった。左足を撃ち抜かれて倒れたところを、父さんが助けてくれたから。ただ状況が悪かった、周囲をその銃に取り巻かれて、あとまばたき一つの間でも父さんの動きが遅れていたら、俺は蜂の巣にされていただろう。
――生きるんじゃ、鬼太郎。心のままに。
銃口に囲まれた父さんが笑って、白い髪がなびいたその次の瞬間、俺の目の前は唐突に暗くなって
――次に見えたのは、今いるこの廃寺の墓地だった。そして墓のに発見された。
墓のは悪態をつきつつも、俺の脚を丁寧に手当てしてくれた。幸いすぐに治ってくれて、次に元の世界へ帰る方法を探し始めた。
でも時空をまたぐ方法なんて、そうそうあるモンじゃアない。手をこまねくうちにあっという間に一年くらい過ぎて、そしてやっぱりとある新月の夜、かつて俺が倒れていたのと同じ場所に、今度はちいさいのが倒れていた。
発見したのは俺だった。
ちいさいのは全身ずぶ濡れで、見覚えのある、古い型のスーツの上着に半ば埋まっていた。下駄もちゃんちゃんこも持っておらず、濡れていなかったのは、ちいさいのが両手で守るように胸に抱えていた、古い煙草の箱だけだった。今俺が吸っているのと同じ銘柄の。
そして、ちいさいのを包んでいた古い型のスーツの内ポケットには、水に濡れてにじんだ名刺が入っていて
――辛うじて読み取れた『帝国血液銀行 水木』の文字を見て、俺と墓のはちいさいのの正体を察したのだ。
その日から今日に至るまで、ちいさいのは一言も喋らない。体を妖怪の爪にブチ抜かれても、悲鳴すら上げない。でも、声も言葉もなくても、俺を全身で慕ってきた。その年頃の子供が、親の背中を必死に追うように。
昔の俺が現れたかと思った。これは沢城が来たときにも思ったけど。
だからこそ、ちいさいのが失ったものの大きさが、そのまま俺にも突き刺さる。
ちいさいのがここに来てすぐの頃のこと。
墓のが『元の世界で、父さんはどうしていましたか』と問いかけたことがある。元々墓のは、行方不明の父さんを探しているわけだから、ある意味でそれは当然の問いだったとは思う。
ちいさいのは、首を横に振った。いなくなったのか、それとも? と問いを重ねた墓のに、ぽろぽろと涙をこぼしながら、手近にあった湯のみに指を突っ込んで
――そういえばこの頃もう平仮名は書けたっけな、と俺が思い出したのはだいぶあとのこと。そのときは、飲みかけの番茶でテーブル上に書かれた四文字に、絶句しただけだった。
“けされた”。
泣き崩れてしまったちいさいのを抱きしめた、その温度と重みはよく覚えてる。
墓のがばつの悪い顔で、すみません、と謝ったのも。
ともあれ、俺はちいさいのを抱きしめるのと同時に、元の世界へ帰ることを一旦、棚上げにした。元の世界がどうなっているかと思うと、後ろ髪を引かれる気持ちは確かにある。考えられる可能性だってそう多くはない、でも、敢えてそれを考えから外すことにしたのだ。
それくらい、俺の本能の声は強かった。
ちいさいのを離しちゃいけない、離れちゃいけない
――もうほとんど無条件の衝動で、今もそれは続いてる。また背後に意識をやった、変わらない寝息がそこにあることにほっとする。
どうして来たのか分からないということは、同時に、ある日突然いなくなるかもしれない、ということでもあるから。
俺は父さんから、あんな言葉と共に飛ばされた身だ。だからたとえ方法があったとしても、呼び戻されることは、おそらく、ない。でもちいさいのの背景がどうなっているかは分からない、何しろちいさいのは一言も喋らないので。だからどうしても、いつもどこか切迫したような気分がつきまとっている。
その手をずっと、握っていてやりたい。
組紐に込めた気持ちも、おおむね、そんなものだ。
ちらりと振り向けば、ちいさいのの寝顔が見える。うつ伏せで眠る癖は、あの頃の俺と同じ。その姿を見ると、俺はどうしても水木さんのことを思い出す。もう遠い思い出だ。でも、水木さんの視界に映っていた頃の俺は、ちょうどこんな姿をしていたんだろうと思うと
……どうしても。
俺と、あと沢城が辛うじて“禍を喚ぶもの”になっていないのは、拾ってくれたのがあの水木さんだったから。三桁年の時が過ぎても、俺の中に水木さんの愛情は生き続けている。
でもちいさいのは、それを途中で奪われてしまった。
最初から与えられないのと、半端に与えられて取り上げられるのと、どちらがマシか
――とは、墓のの問いだ。その問いに、俺は答えられなかった。きっと沢城も答えられないだろう、長い時間が経っても消えない、深く大きい愛情を一身に受けて育ってしまったら。
紫煙を揺らす風が一際強くなる。ちいさいのを起こしたらいけないので、俺は部屋に戻って襖を閉めた。焦げたフィルターは灰皿に投げて、もう一回、ちいさいのの寝顔を確認する。静かな表情に、茶色い髪。
かざした手で寝息を確かめたら、ふわりと柔らかな気持ちが湧いてきた。
生きて、ここにいる。そう感じただけでこんな気持ちになるなんて、ちいさいのが現れるまで、俺は知らなかった。
「父さん、
……水木さん」
小さな声で、ここにはいない二人に向かって呼びかけた。
茶色い髪の端を指先で撫でて、何故か視界がにじむのを感じる。
「僕はまだ、生きてます。ちゃんと、幸せだって思えてます」
二人の父がくれた愛情は、生き続けてる。僕の心を生かしてくれている。
父さんにもお義父さんにも、もう二度と、会えないのだとしても。
僕の心に注がれたこの愛だけは本物だ。
だから、この組紐を編めたんだ
――ちいさいのが寝返りを打って、外へ出てしまった左手首を布団に戻しながら、こっそり涙を拭った。
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