両手いっぱいの花をきみに(2)

5月。訪れた試練/しあわせな朝

 ドリップケトルの注ぎ口からしゅーっと湯気が吹き出した。コンロの火を止め、ペーパーフィルターをドリッパーにセットする。すりきり一杯のコーヒー粉を入れて粉全体が湿る程度にお湯を注いだら待つこと三十秒、それから真ん中あたりに円を描くよう静かにゆっくりと残りのお湯を注いでいった。粉がむくむく膨らんで、お湯の注がれた箇所からは琥珀色の泡が広がっていく。
 あたりにコーヒーの独特な香りが立ちこめた。匂いはそんなに嫌いじゃないし淹れる工程も結構面白い。飲みたいとはやっぱり思えないけど。

「ええと、お湯が全部落ちきらないうちにフィルターごと捨てるんだっけ……

 ドリッパーをひっくり返してペーパーフィルターを三角コーナーに落とした。全部淹れてしまうと苦みが出るって確かアン先生が言ってた気がする。というかそもそもコーヒーという飲み物が普通に苦いのに何が違うんだろう。
 あらためて見てみたカップの中には濃い色の液体がなみなみと入っていた。うう、すごく苦そう……


 カウンターキッチンを出たリューは、リビングに置かれた小さなテーブルを見つめた。先日アンと一目惚れして即買いした白いテーブルだ。アンと料理を囲むには最適なサイズなのだが、今日の来客と向かい合わせに座るには少々距離が近すぎる気がした。うん、全力でご遠慮したい。
 リューはリビングの隣、小上がりになっている和室に足を向けた。開け放した和室のど真ん中に置かれたコタツ……もといコタツ布団を外した座卓におずおずとカップを置く。カップとソーサーの立てる小さな音がやけに大きく響いた。

……あのぅ、コーヒー淹れたんで、どうぞ」

 できれば声をかけたくないなーと思いつつもせっかく淹れたコーヒーが冷めてしまうのは忍びなく、おそるおそる声を投げた。
 キャビネットの前で腕組みをし、テディベアを睨んでいた男性がおもむろに振り返った。ぬいぐるみのクマになんの恨みがあるのかと思うほど眉間に力の入った顔をしている。
 座卓についた彼はカップの中をじっと見つめ、ゆっくりと口に運んだ。それからまた中身をじっと見る。ずっと真顔、そして一言も発さない。美味しいのか不味いのか全くわからない。アン直伝だから多分大丈夫なはずだけどコーヒーは自分で味見できないのが痛い。
 爽やかな初夏の風がリビングのカーテンを揺らしていた。遠くに子どもの元気な声がする。この和室とは雲泥の差、まるで別世界だ。ここの空気は凍りついてるし、まだ冬のような錯覚さえするし。コタツしまうの早かったかな……

 ――こんなことなら俺もアンについていけばよかったかも。

 五月晴さつきばれな昼下がりのリビングに男二人きりというシチュエーション。なぜ神妙な顔つきで向かい合っているんだろうか……アンの兄ジェイと。



 今日はアンの甥っ子ウィルの参観日。どうしても都合がつかないウィルの両親に代わり、アンが見にいくとだけ聞いていた。早めのお昼を食べたあと彼女を送り出し、しばらくするとインターホンが鳴った。忘れ物かなと出てみたらそれがジェイだったというわけだ。
 彼がなぜひとりで訪ねてきたのか全く見当がつかなかった。アンが不在なことを伝えても返ってきたのはただ一言「知っている」。……心臓に悪すぎて生きた心地がしない。

「聞いていると思うが」
「はっ、はい」

 飛び上がりそうなくらい驚きつつ、実際は軽くる程度にどうにか動きを抑えた。ばくばく暴れ出す心臓に落ち着け落ち着けと念を送る。ああああアン早く帰ってきて。

「先月、四人目が生まれた」
……はい?」
「上と間があいたうえに産気づいたのが予定より早く、入院中もいろいろあってな、しばらく慌ただしかった」
「はい……

 なんだこの会話。
 リューはややぽかんとしながらも相槌だけはしっかり打った。話を聞いていないと思われるわけにはいかない。株が暴落すれば結局アンに迷惑をかける。
 コーヒーを睨んでいたジェイはゆるりと顔を上げた。リューをまっすぐ見据える瞳には強い光が宿っていた。

「忙殺されている間にアンが家を出ていた。置き手紙には、おまえと住むと」

 ぎくりと息を呑む。弱々しい相槌をなんとか返すとリューはそれとなく視線をそらした。背筋を冷たい汗が流れていく。
 ……やばい。要件はそこか。



 アンは母子家庭で育ったそうだ。歳の離れたジェイが父代わりでもあったというのは以前彼女の口から聞いていた。
 大事に大切に成長を見守ってきた妹がある日突然家を出た。それだけでも心配だろうに、一緒に暮らすのが薄給の男と聞けばさぞや心中穏やかではないだろう。
 だけど同棲に関して言わせてもらえるならあまり責任もないと思っていた。自分から言い出したことではないし、相談して決めたわけでもないし。成り行きでこうなったというか、リューだって入院していて身動きが取れなかった間に勝手にいろいろ事が進められていたわけで。まあ特に文句も問題もないけど。
 住めば都とはよく言ったもので、いざ暮らし始めるとこれが意外と楽しく、むしろ便利なことも多かった。他人と一つ屋根の下なんて煩わしくて到底無理だと思っていたのに、アンとなら全然関係ないなぁなんて――

「家賃はアンが払っているのか」
「へっ!?」

 槍のごとく飛んできた言葉に思わず変な声が出た。気難しい兄とのツーショットというこの状況が嫌すぎて思考がトリップしていたようだ。

 ――待て、考えを改めよう。

 膝の上で固く握り拳を作った。
 これは株を上げるチャンスだ。ちゃんと考えているところを示して、妹の同棲相手に相応しいと認めてもらえるチャンス。

……情けない話なんですが、俺自身今月は出費が嵩んでちょっと厳しくて、家賃はアン……あの、妹さんにお世話に……。でも来月からは折半できると思うし、今はその分家事の方を」
折半か」

 ぐっと詰まった。しまった、失言……
 光溢れる室内にわざとらしく吐かれた深い溜息が響いた。うう、顔を上げられない。



 子どもの声や車のエンジン音が耳に小さく届く中、ジェイがコーヒーを飲む音がかぶさる。それから座卓にカップを下ろす音も。

……とっくに成人もしている妹に今さらとやかく言うつもりはない。あれに言ったところで聞かないのはおまえもよく知っているだろう。だが――

 ジェイはそこで口を閉じた。俯き顔のままリューがちらりと目だけで視線を送れば真正面から射抜かれた。すごい目力だ……アンもすごいと思ってるけどジェイはそれ以上だった。さすがアンの兄。
 そして沈黙が訪れた。

……?」

 何も言わずじっと睨んでくるジェイにリューは小首を傾げる。今は確か向こうの話の途中だったはず。「だが、」の後にはなんと続けるつもりだったのか。
 思考時間はたっぷり十秒、そしてハッとした。彼はもしかしてリューの言葉を待っているのではないか。これからアンとふたりで住むにあたっての抱負というか決意表明みたいな、そういうのを聞かせろということでは。だからあんなに睨んでいるのでは。

「あー……ええと」

 だけど何を言えばいいんだろう。「絶対に幸せにします」?
 うーん、なんだかしっくりこない。そもそも〝アンを幸せにする〟って最高難度な気がする。難易度地獄。大体アンは「あたしの幸せはあたしが決める」とか言うタイプだ。
 かといって「妹さんをください」は絶対違うし。まだプロポーズしてないし――ってちょっと待て俺。〝まだ〟はさすがにおかしい。結婚話なんて今まで一度も出たことがない。
 ――いや、この間ウィルが来た折にちらっと話には出たんだっけ。でも全力で否定する流れだったし、つまりアンにもそんな気はないってことだ。Q.E.D.
 考えれば考えるほどわからなかった。誰かこの場の最適解を教えてほしい。



 玄関の外で物音がした。すぐに解錠とドアの開く音が耳朶を打ち、続いて元気な声が響いてきた。

「おじゃましまーす! リューただいま〜!」

 ぱたぱた軽い足音が近づいてくる。リビングに飛びこんできたのは予想通りウィルだった。藍色のランドセルを背負った彼は和室を覗きこんできょとんと目を瞬かせた。

「お父さん」
「え、兄さんもう来てるの? ……って何、このお通夜みたいな空気」

 後から入ってきたアンがランドセル以外の細々した荷物をジェイに差し出しながら眉を顰めた。

「アン、『もう』って?」
「さっき家を出てすぐ電話もらってさ、『あとで寄るからウィルも連れて一緒に帰ってこい』って」
「お母さんとセイルをむかえに行くんだよね! 今日、病院の日だって言ってたもん。ええとね、なんとかケンシン?」
「一ヶ月健診ね」
「そうそれ!」

 にこーっと満面の笑みを見せるウィルに室内が瞬く間に春の陽気になっていく。子どもの笑顔は偉大である。
 ジェイが立ち上がった。体操服袋や上靴などをひとまとめに抱えると「行くぞ」とウィルの頭に手を置く。

「えっもう!? リューと遊びたかったのに」
「ウィル。お母さん待ってるんでしょ? また今度おいで」
「アンの言う通りだよ。お休みの日にゆっくり遊びに来たらいいよ」

 ふたりがかりの説得と提案に少年は一応納得したようだ。むうと唇を尖らせながらも「じゃあまた来るね」と渋々玄関に向かう。
 アンに付き添われる小さな背中を追いかけようと一歩踏み出したところでリューの足は動かなくなった。行く手を遮るように出てきた影、そして放たれる威圧感――ジェイだった。



――泣かせるな」

 立ちはだかる横顔から告げられたのはたった一言だ。主語はない。けれど強い眼差しが「わかっているな?」と念押ししていた。
 う、と息を呑んだあとリューは慌てて首を縦に振った。ジェイはたっぷり余韻を残し、部屋を出ていった。



 ドアの外で大きく手を振るウィルに、リューもリビングからそっと振り返す。そうしてゆっくり外界が閉じられると青年はその場に座りこんだ。もとい、足の力が抜けた。

…………つかれた」
「どうしたの?」

 アンが訝しげな目を向けてくる。あらためてまじまじ眺めてみればジャケットに細身のパンツスタイルというアンの出で立ちは冗談抜きに格好良かった。すらりと背の高い彼女によく似合っていると思う。まさに〝高嶺の花〟。なんでこんな人が自分なんかとと思う一方で、向けられたまっすぐな瞳に宿る気遣わしげな色は素直に嬉しい。

……俺も一緒に行けばよかったなぁ、と思って」
「ウィルの参観? 来月は日曜参観があるみたいだからこっそり覗きにいくのもいいかもね。――そういえば兄さんはいつ来たの?」
「ええと……一時過ぎかな」
「じゃあ余裕で参観に間に合ったんじゃない。兄さんが行けばよかったのに。その方がウィルだって」

 ぷりぷり怒りながらジャケットを脱ぐ彼女には弱々しい笑みを送るだけで精一杯だった。
 とても長い、午後だった。




 * *




「ねえ、リューもお茶飲む? ミルクティー淹れようか」

 廊下の向こうから声が飛んできた。着替えてリビングに戻ってきた彼女にリューは首肯し、しばし考えたのちにへらっと口角を上げた。

「俺が淹れるよ。アンは座ってて」

 腰を上げれば軽やかな風が前髪を揺らしていった。
 卓上にぽつんと置かれた来客の名残――空になったカップを取り上げてリューはキッチンに向かう。