繋いだ手の温かさはいつも通り。
歩幅も変わらずいつも通り。
けれど違和感を感じるのはなぜかしら。
何かが違う、その〝何か〟がわからない。
すぐ隣を歩く横顔をカレンはそっと見上げた。自分のものより遥かに上方にある端正な横顔。その唇は真一文字に引き結ばれ、眉間には力が入っている。
――いつも通りと言えばそれまでなのだけど。
――私
……何か怒らせるようなことを言ってしまったかしら。
もはやそうとしか思えなかった。おそらくカレンが彼の機嫌を損ねる何かを口にしてしまったがために、今の奇妙な沈黙が訪れている。
* * *
丘の上のウィンザール邸には庭園がふたつある。
ひとつは表門から見える場所にある、四季折々の花が華やかに咲き乱れる庭園。
昼は美しい花樹に蝶が舞い、小鳥は歌い、目も耳も楽しませてくれる。夜になると
小径の両脇に設えられたランプの灯りが辺りを幻想的に照らし、昼とはまた違った様相を見せるのだ。
そしてもうひとつは侯爵夫人が私的に愛でている庭園。
敷地の奥まった場所に造られたこちらには、夫人の特に好みに合う花々を植えてあった。表の庭園に比べれば広さ、花樹の品種数ともこぢんまりとしている。
花卉なども八重咲きのものに偏っている印象を受ける。
その中のひとつ、たくさんの白い小さな花をつけた低木をカレンはじっと眺めていた。小花は葉の付け根に塊になって咲き、一見しただけではあまり華やかさは感じられない。けれど他には類を見ないとてもよい香りを放つ花樹である。ふんわりと漂うやさしい香りには自然と口許が綻びる。
目を閉じて、密やかな虫たちの囁きに耳を傾けた。花の香りを纏った空気を心静かに吸いこめば、まるで身も心も穏やかにほどけて溶けていくような、そんな一体感を感じられる。
声が降ってきたのはそんな折だった。
「探した」
ハッと、カレンが顔を上げると
東屋の外に人が佇んでいた。細身で長身という背格好を認めるより早く、この数ヶ月で耳に馴染んだその声音から、来訪者が誰なのかをカレンは知った。
「セイ
――」
「こんなところで何してんだよ。暗いだろ」
「
……暗い?」
酷く面倒そうな声が告げた事実に、カレンは小首を傾げる。次いでゆるりと辺りを見渡した。
庭園は薄青い闇に沈んでいた。暗がりの中、白い花弁を持つ花々がぼんやりと光って見える。背丈より高い木立はまるで影絵のようにその輪郭のみを伝え、そうして見上げてみれば夜空の方がまだ明るく見えるほど。
ガゼボの長椅子に腰かけ花樹の香りを楽しむことに夢中になっていたおかげで、日が落ちたことに全く気づいていなかった。
やおら腰を上げ、ガゼボから出る。カレンの目は、青年
――セイルの髪色に留まった。明るい太陽の下で見る色よりも青みを帯びた金色の、短く揃えられた髪がきらきら輝いている。
「アンが呼んでこいって。
……ほら」
差し出された手の色もうっすら白く、詳細によく見えた。夜闇の中にあってどうしてこうも明るく見えるのか。
そろそろと持ち上げたカレンの右手、その指先が彼のそれに触れるか触れないか
――。ふと空を見上げたカレンは次の瞬間小さく声を上げていた。
「なんだよ」
「
……月が」
「つき?」
訝しげな声とともにセイルの視線が天に向かって投げられる。
明るい夜空に浮かぶまあるい月がそこにあった。遥か高みから穏やかにやさしい光を降り注がせている。
「月が、綺麗ですね」
夜風にそっと声を乗せた。暗くなれば外には出ることのないカレンである。こんなふうに美しい満月の姿を望むのはいつ以来だろう。
本当に、月が綺麗。それはカレンの純粋なる思い。言ってしまえばただの独り言。
だがその瞬間セイルが息を呑む気配がした。纏う空気が明らかに変わった、気がした。
――原因は、あれだったの?
あのときセイルは肯定も否定もしなかった。表情にも変化はなかったと思う。視力の乏しいカレンにはいまいち自信が持てないけれど、それでもほんの僅か、違和感はあったのだ。なのに特に気に留めることもなく流してしまった。
しばしの沈黙のあとカレンは有無を言わせず手を取られた。そうしてそのまま邸へと続く小径を歩いている。
繋いだ手の温かさはいつも通りで、歩幅も変わらずいつも通り。だけど何かが違う、その〝何か〟がわからない。
――もしかして、本当は不快に思ったけど、その気持ちを抑えて何でもないふうを装っている、とか。
確かセイルは、〝アネッサに言われたから呼びにきた〟というようなことを言っていた。カレンを迎えにきたのはセイル自身がそうしたい、そうしようと思ったからではなく、命令が下ったからなのだ。叔母にだけは逆らえないと苦虫を噛み潰したような顔をしていたのを思い出す。
そんな、渋々迎えに来た彼に向かって、カレンは呑気に何を言ったのか。
思い耽っていたカレンの足が何かに蹴躓いた。小さく悲鳴を上げ、繋いだ手のままにセイルの腕に取り縋る。
「
……す、すみません!」
我に返ったカレンは慌てて身体を離した。支えてくれたセイルのお陰でなんとか転ばずには済んだ。けれどまた迷惑をかけてしまった。ますます機嫌を損ねるようなことを。
夫人の庭園は夜に観賞することを前提としていない。そのため最低限の数のランプしか置かれていない。ただでさえ目の悪いカレンに考え事をしながら歩くという芸当はさすがに難しすぎた。
――この子は足下が危なっかしい。おまえが手を引いていきなさい。
ひょんなことから世話になった老婆にそう言われたのはもう随分前の話だ。セイルが引き受けてくれたことを有り難く思いはすれ、それ以上に申し訳ない思いの方がカレンには強かった。
これ以上迷惑をかけないためにはなるべく躓かずに、支障なく歩く。それが今の自分にできることだろう。余計なことは考えず、ただ歩くことだけに集中する。
「本当にすみませんでした。ちゃんと、下を見て歩きます」
地面に目を落とし、僅かな色の差異も見逃すまいとしっかり目を凝らす。
「
……なあ」
ぽつりと、抑揚のない低音が耳に届いた。
振り仰いで「はい」と返事を返せば、繋いだ手に力が籠められたような気がした。満月を背にした彼の顔は暗く、どんな感情を宿しているのかよくわからない。ただ、碧い瞳がまっすぐにカレンを見下ろしていることだけはなんとなくわかる。
「
……つき」
「え?」
柔らかな風が頬をなでた。セイルの碧い目と、その向こうのまあるい月。それらを視界に収めながらカレンは小首を傾げた。肩口にかかっていた癖のない髪がさらさら靡いて背に落ちる。
「あの、なんでしょう?」
「
……いや、だから、おまえがさっき、つ、月の
……、月が
……」
「月って、あの月ですか?」
セイルの肩向こうを小さく指差し尋ねると彼は押し黙った。再び訪れた奇妙な空気と、固まってしまった青年の姿と、沈黙と。カレンの心が疑問符で埋め尽くされていく。
月が、一体何かしら。何か話があるから呼び止めたのだろうし、それを聞かないことには歩き出すふうにも見えないし。
「セイルさ
――」
「だからそう思うってことだよ、オレも!」
「
……そう、思う? 何がですか?」
「きれいってやつ、が。
……つ、つつ月がな、月だからなっ」
勢いのままにそれだけを叫んで、セイルは再び黙ってしまった。僅かに背けた顔はやっぱり暗くてどんな表情をしているのかわからない。でも、声音は決して冷たいものではなかった、と思う。
ぱちくりと目を丸くしていたカレンはゆるゆると彼の言葉を反芻する。つきが、きれい。月が綺麗。
そうして導き出された答えは。
――話を合わせてくれたのね。
呑気なカレンにさぞや呆れただろうに、もしかしたら不快だったかもしれないのに、話を合わせるために言葉を探してくれていたのか。それから声をかけるタイミングを見計らっていた。きっと、そういうことなのだろう。
じんわりと、カレンの心が温かくなっていく。
やっぱりセイルは思いやりのある、とても優しい人だと思う。あまり
面には出さないけれど、いつもいろいろ考えてくれている。
カレンのことを見てくれている。
そっと呼びかければセイルがこちらに目を向ける気配がした。
「ありがとうございます、セイルさん」
朗らかな心持ちで感謝を告げた。思いやりと気遣いをありがとうございます、と。返事はなかったけれど想いはきっと伝わったことだろう。だって、繋いだ手はこんなにも温かい。
しっかりと前を向く。カレンの行く手は清かな光で照らされている。
<目次> <続編へ>
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.