その日、異変にいち早く気づいたのはウキウキとバスケットを手にしたアデレードではなく、同じようにバスケットを持たされながら仏頂面で歩みを進めるセイルでもなく、彼に手を引かれて歩いていたカレンだった。
「ここ……」
小さな発見を口にしようとして、噤む。取り立てて言うほどのことなのか判断がつかず、芽生えた疑問をそのまま言うのは躊躇われた。
何より見間違いかもしれない。カレンの目は酷く悪い。転ばないよう常に足元を見つめていて、それだからこそ気づいたとも言えるのだけれど。
「……なに?」
繋いだ手に微かな抵抗の力を感じてセイルが足を止める。ゆるゆる顔を上げたカレンは束の間逡巡したのち、たった今歩いてきた箇所を指差した。
「あの、白いきのこが一列に生えてるんです。辺りの草の色もなんだか違うような気がして」
「はぁ?」
セイルの眉間に皺が寄る。一体何を言ってるんだこの女は。
……と思ったものの、示された箇所に一応目を凝らしてやった。自邸の表門とエントランスを繋ぐ小径を途中で逸れて入った草地である。セイルの目には幾度も踏まれてうっすら道のようになっていること以外、何の変哲もないただの草むらにしか見えなかった。きのこも確かにいくつか顔を出しているが果たしてそこまで気にするようなことだろうか。
――わからない。が、唐突にわけのわからないことを言い出すのがこのカレンという女の〝人となり〟でもある。
どうしたのと戻ってきたアデレードにもカレンは遠慮がちに告白した。その途端アデレードの目が輝いた。辺りをぐるり見回したかと思えばそこに予想した通りのものを見つけたらしく、すごいすごいと飛び上がってはしゃぎ出す。
「〝妖精の輪〟だわ! 見るの初めてよ、わたし」
「なんだそれ」
「やだ、セイル知らないの?」
アデレードがにんまりと笑った。その三日月型に細められた双眸にセイルはげんなりした。あれは、偉そうに講釈を垂れようとするときの顔だ。それも大多数の人間にとってはどーでもいい、大して重要でもないことを鼻高々に宣うのである。
どうやらアデレードの専門分野とも言える何かが起きているらしい。
やれおまじないだの占いだの、何かと夢見がちな彼女はこれまでもたびたび大騒ぎし、周りを巻きこんできた。セイルにとってはただただ面倒だった思い出だ。今回もおそらくそうらしいと思えばこれから始まるご高説はあまり聞きたくないのが本音である。
そんなこととは露知らず、得意顔のアデレードが口を開きかけたそのとき、
「満月の晩に精霊たちが輪になって踊る。その形跡を妖精の輪と呼ぶそうだね。ここに来た精霊は一日早かったようだけど」
凛と涼やかな声音が耳朶を打った。
振り返った視線の先にあったのは艶のある黒髪を風に靡かせながら歩いてくる美女の姿。背が高く、すらりとした体躯はあまり女性らしさを前面に押し出すものではない。が、その一挙一動は実に優美で、見る者の目を釘づけにした。
何より美しいのは長い睫毛に縁取られた瑠璃色の瞳だ。濃い青色の中にきらきら輝く砂金のような粒が混じり、なんとも不思議な色合いをしていた。泉の水面に踊る木漏れ日を深い底から望むような、もしくはキンと冷えた夜空にさんざめく星々の瞬きのような。
そんな趣のある瞳にもしじっと見つめられることがあったなら、おそらく身動きすることは適わず、息もできず、何も考えられなくなることだろう。
「ディートさん! 来てくださったのね」
アデレードの嬉しそうな声にディートと呼ばれた美女は目を細めた。それまでのどこか近寄りがたかった雰囲気は一転、春の麗らかな陽射しを思わせる温かな笑みにアデレードは思わず顔を赤らめた。知り合ったばかりの頃に比べるとだいぶ慣れてきたとはいえ、絶世の美女にこうして至近距離で微笑まれれば胸がどきどき高鳴るのはさすがに仕方ない。
「こんにちはアデレード。今日はお茶会にお招きありがとう。もう少ししたらアンも来る」
「本当!?」
「伝言を言付かってきた。遅れるけど必ず行くから美味しいお菓子を残しておいてって」
よかったと手を鳴らし、アデレードはにっこり笑みを返した。
ディートはアンが連れてきたいわゆる〝連れ〟だ。旅先で意気投合し、それ以来ずっと行動を共にしているらしい。あの鬼女の連れなどよく務まるものだと感心を通り越しもはや変人認定しているのはセイルだけで、美しい容姿に知性も兼ね備えたディートは他の面々にとっては憧れの的のようだった。
「おふたりとは一度ゆっくりお話ししてみたいと思っていたの。いろいろ聞いてみたいこともあるし……」
「私に? 何を聞きたいの」
ディートが小首を傾ける。その拍子に肩上で揃えられた黒髪がさらりと揺れ、ふんわり花の香りまで漂ってくる気がした。「それは後で!」と慌てて声を上げたアデレードにディートは微苦笑し、それから思案げに目を伏せた。
「だけど、ここはやめた方がいい」
今度はアデレードが首を傾げる番だった。
ディートは小さく嘆息すると、目前に迫った一本の樹をおもむろに見上げた。からりと晴れた空に向かって大きく枝を伸ばした樹は穏やかな陽射しを浴び、悠然と佇んでいる。吹き抜けた風が梢を軽やかに鳴らした。
「……魔法の力が強すぎる。少し立ち寄る程度であればさほど支障はないが、この場に居続けるなら動悸や目眩がしてくるはずだ。影響を受けやすいカレンやセイルにはさぞつらいだろう」
「でも……ここにはよく来るけど、今までそんなふうになったことはないわ。ねぇ?」
しどろもどろに答えたアデレードは同意を求めて友人ふたりを振り返る。振られたカレンは生真面目な顔を作ってこくこく頷いた。ウィンザール邸にはもう何度も来ているし、眺望の良いこの樹の下でお喋りするのも慣れたものだ。心安く過ごすことはあれ、体調を崩したことなど一度もない。
「今日だけ特別なのだよ。今夜は満月だから」
「満月だったらなんなんだよ」
「小さな隣人がここで踊る」
さっきも言っただろうと当然のことのように返され、セイルの顔がむっと歪んだ。セイルにとって〝見えない〟ものは存在しないのと同義である。それが世の理だと説かれたところで信憑性もなければ納得できるものでもない。おまじないの類いが好きな人間はひとりで充分だ。
「まさかあの蝶みたいのがうじゃうじゃ来るってのか? ……おい聞いてみろよ、今夜ここに仲間が来んのかって」
「レーレ、そうなの? お友だちと一緒に踊るの?」
セイルに言われてカレンが宙の一方を見やった。
つられるように皆が目をやったそこに、蝶が舞っていた。大きさは両手の平を合わせたくらい。夜明け前の薄紫色や目の覚めるような青、黄昏時の深い朱、そんな色鮮やかな空の色を黒地に織りこんだ翅をひらりはらりと羽ばたかせている。
一見珍しい柄の蝶だなと思われて終わるだろうそれ。その小さな隣人の声を聞くことができる者は限られていた。
「レーレ、こない。しーらない。レーレ、カレン、いーっしょ!」
蝶の言葉は独特のアクセントをもって、力ある者の耳朶に響く。そうして後翅から伸びた優美な尾をなびかせ少女の元に舞い降りた。ほっそりした肩を我が物顔で陣取り、すっかりくつろいだ様子で翅を休める姿はまるで幼子が母に甘えるそれだ。カレンはそっと微笑みを送り、セイルには首をゆるく横に振った。
「知らないみたいです」
「ほらな」
子ども騙しの言い訳は通用しないぞと言わんばかりにセイルが胸を張る。ディートは白旗を上げ「参ったな」と笑みを漏らした。
「そうか、カレンには契約精霊がいるのだったね。では誤魔化さずに言うけれど、確かにこれは本来の妖精の輪とは少々異なる。本当はね、魔法の技を使った跡なのだよ」
「魔法の技? それは、魔術道具ってことですか? 誰が?」
きょとんと不思議そうな瞳をよこすアデレードを前にディートは肩を竦め、作った拳を口許に当てる。
「さてね。もしかしたら気紛れな精霊がやってきて気紛れに力を使ったかもしれないし、そこまでは私にはわかりかねるけれど。それより問題は未だ力が色濃く残っていることだよ。全て消えるには少し時間がかかりそうだ。それまではしばらく近づかない方がいい。――カレン、お友だちのおチビちゃんにもそう伝えてくれる?」
ほとんど条件反射の勢いで少女ははいと素直に頷いた。月色の長い髪がさらさらと肩口を滑る様にディートは笑みを深くする。早速肩乗り蝶に説明し出したカレンの横でアデレードはがっくり肩を落としていた。
「踊ったわけじゃないのね。精霊のダンスなんて絶対可愛いと思ったのに」
「見えねーのに何が可愛いだよ」
「見えなくたってね! 確かにここにいたんだって感じられればドキドキするし、想像するのは自由でしょ」
「オレは見えるもんしか信じねえし」
「はぁ、セイルは夢がないわ」
わざとらしく溜息をついてみせるアデレードにセイルはふんと顔を背けた。そんなふたりの顔をおろおろ見比べていたカレンの後ろからディートの華やかな笑い声が響いた。
「フォルトレストは人間が多い。好んでこの街に住んでいる精霊は少ないだろうけど、中には物好きな子たちが一人二人は覗きに来るかもしれないよ。なんたって今夜は満月だから」
闇夜に灯る明かりが虫を集めるように、濃い魔力は精霊を惹きつける性質があるらしい。そして魔力の強さは月の満ち欠けと比例する。アデレードは再び目を輝かせた。
「せっかくだからわたしのクッキーをお裾分けするわ。お茶会には美味しいお菓子がなくちゃ。それに明日になってもしクッキーが齧られていたら精霊が来たんだってわかるもの」
「精霊ってクッキー食べんの? 猫とか犬に食われる可能性の方がよっぽど高いんじゃね」
「もうセイルは黙ってて! 大体猫を飼ってたのってずいぶん昔のことなんでしょ、ウィルトールが言ってたわよ」
ぷりぷりと頬を膨らませつつバスケットから自作の菓子を取り出す幼馴染に、セイルは半眼で言葉を投げた。
「精霊の茶会よりまずおまえらの女子会だろ。コイツどこ連れてきゃいいんだよ。オレこのあと用事あるんだからさっさとしろよな」
* *
溶けたバターを塗りたくったような、黄色くてまんまるい月。
昇ってきたのはいつだったかしら。
ついさっきだったような、もうずいぶん前のことのような。
「気になって見にきたけれど、正解だったね」
ほにゃん、とレーレが顔を上げる。そこにいたのはとっても背が高い人だった。レーレの大好きな人よりも、そしてレーレの大嫌いな人よりも。うんとうんと背が高くて、とてもきれいな人。
青白い光が背中の方からさしていて、そのせいで顔は陰になっていた。だから今どんな表情をしているのか、レーレには全くわからない。
「昼間、ここには来ないようにと言われなかったかな」
きれいな人の声が近くなった。それとともに近くなった顔をレーレは見上げる。
「……レーレ、たーべる」
「うん。美味しかった?」
問われて、うつむいた。膝の上には大きくて平べったくてまんまるいものがある。
今レーレは人の形をとっていた。大きさは蝶のときとほぼ変わらない。が、その姿は人間のそれとはかなり異なっていた。額から突き出た触覚、白目のない吊り目気味の円らな瞳、そして彼女の背にはきらきら輝く蝶の翅――。
両脚を投げ出して座り、大事に抱えこんでいるのは人間が〝くっきー〟と呼んでいたものだ。みんながにこにこ笑って食べていたもの。レーレの大好きな人も美味しいと喜んでいたもの。
暁の空を映しこんだ朝露や、うっとりと咲き綻んだお花の蜜よりも美味しいのかしら。どきどきと胸を高鳴らせ、勇気を出して舐めてみると何だか舌がピリピリした。
「君の身体には受けつけないと、カレンも言っていたね? 無茶をしてはいけない。君に何かあれば、誰よりも困るのが、カレン」
諭すような響きにレーレは悲しくなった。昼間訪れた東屋で仲間外れにされたときも悲しかった。レーレだけが食べさせてもらえなかった。
だから人と同じ形になれば、大丈夫になると思っていたのに。
「……カレン、たーべる。おーいしい……。レーレ、カレン……いーっしょ」
口の中のピリピリはすぐに消えた。でも今度は目の前で星がチカチカし出した。頭がぐるぐるしてきて、レーレは、ぽて、と後ろに倒れた。身体が熱くて、どきどきして、ぼうっとする。
真っ暗な空の一番高いところに青くてまんまるい月が浮かんでいた。冷たくて、眩しくて、怒ってるみたいなお月さまがレーレを静かに見下ろしている。なんでそんなことしたの、そんな声が聞こえてくるようだ。
目を瞑った。やさしい色のお月さまはどこにいったのかしら。大好きな人の髪とおんなじ色をしたお月さまは――。
「……いくら残滓とはいえ、君には強すぎる。明日の正午、いや日暮れか……それまで……」
ふわ、と持ち上げられる感覚にうっすら目を開く。青と金の混じった不思議な色を確かに見たとレーレは思った。
* *
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