はるの
2022-08-08 23:13:43
54039文字
Public パシフィックリム
 

骨に火をつける

全年齢|newmann|2022.1.30|香港シャッタードーム赴任時から怪獣戦争終結後までの博士組つれづれ話。



 ローリーの声が届いた直後から、管制室はお祭り騒ぎであった。
 どこもかしこも、誰もかれもが、互いを讃え、慰労し、歓喜に満ちあふれている。ハーマンの中にも、もちろん、わあっと声を上げたくなるような衝動はあった。けれど、その風景の一部となり、体の半分に触れている体温を受けとめるだけで、胸がいっぱいになってしまっている。もともと、感情を使うのはへたくそなほうだ。
 ニュートンはこちらの肩を組んだまま、近くで自撮りを始めた管制官に嬉々として声をかけた。うれしさとブレインハンドシェイクの余韻であまり回らない頭のまま、何枚かシャッターを切られる。それからもニュートンに連れまわされて、ぼやぼやうろうろしていると、やがてパイロット回収班から通信が入った。応答するハークに気づいて、ニュートンはぱっと勢いよく顔を上げる。
「病院だ! ハーマン!」
 そう叫んで、ニュートンはこちらを掴んだままハークに駆け寄った。ハーマンはよろよろとついて行きながら、そうだ、確かに病院だ、と我に返る。比重の重い液体を流し込むように、するりと戻ってきた冷静な思考は、その上に重なるふわふわとしたあたたかい空気をより実感させてくれるようだった。
「なんだ、彼らはすぐに戻ると」
「だめだだめだ! ちょっとは頭を使ってくれ、すぐに病院だ!」
 親切に通信の内容を伝えてくれたハークは、即座にニュートンの「だめだ」を食らってむっつりとした表情になってしまった。誰に対しても――それがたとえラース・ゴットリーブであったとしても――自分のアイディアを話すとなれば、すぐさま相手が誰かを忘れるニュートンの洗礼を、初めて受けたものとみえる。
 彼は本当に、ずっと変わらないな。そう思うと、なんだかとてつもなく面白い出来事に遭遇しているような気がしてきた。最初の手紙からもうずっと、こんな厳しい現代社会で、こんなニュートンが、こんなニュートンのまま、こんなふうに生きていられる。その事実はあまりにも奇妙で、愉快で、魅力的であるように思えて、思わずハーマンはくすくすと笑った。失礼な共同研究者を野放しにしているからだろう、ハークからは厳しいまなざしが飛んできたが、こちらからはあきらめてくれの一言しかない。もしくは、ペントコストのように自分のやり方を考案するしかないのだ。
「アンティバースまで落ちたんだぞ、あそこの放射線は馬鹿みたいなことになってるはずだ! 脱出ポットは無事だろうけど、コンポッドは破損してた! ベケットくんも森さんもすぐに検査! 病院の技師なんかじゃだめだ、僕がやらなきゃ……、でも、病院だ! 普通の精密検査もやらなきゃ!」
「それと、私たちも頭部検査を受けたほうがいい。最悪どこか内出血しているかもしれん」
「そのとおりだハーマン、よかったよ君が頭を使うタイプで。え、なんかすごく楽しそうじゃない?! 君ひとりで勝手に面白いこと考えるのは卑怯だぞ!」
 わあわあとわめき立てるニュートンにやや気圧されるような形で、ハークは言われたとおり、ジプシーパイロットふたりの病院搬送と、科学部門ふたりの送迎用ヘリコプターを手配した。ニュートンはそれを聞くやいなや、行くぞハーマン、ああだめだ機材取ってこないと、先に行くなよハーマン、待ち合わせだぞ絶対だぞ! などと叫び、せかせかと管制室を飛び出していく。
……アンティバースの話を早くローリーから聞きたい、ってことじゃないよな?」
 そんなニュートンの後姿を見送って、ハークはほとんど呆然としたようにそう呟いた。
 確かに、その可能性を考えるのは自然なことだろう。そう思って、ハーマンはふふっと声を出してしまう。怪獣の生産工場を直接見た人間がいるのなら、彼は話を聞きたがるに違いない。
 けれど彼は、それだけではないのだ。いつだって、並行処理で物事を考えている。
 のんびり笑っていると、開きっぱなしのドア口に、再びニュートンが現れた。
「君の骨折もちゃんと病院で診てもらったほうがいい! 変なふうにくっついたら余計面倒なことになるぞ、ハンセン司令官!」
 そしてこちらにそう叫ぶと、再びぴゅっといなくなってしまう。ついにハークはきょとんとしたあどけない様子になってしまい、ハーマンは先ほどから楽しくて仕方なかった。
「私も同感です、司令官」
……この状態のシャッタードームを残して?」
「3日間程度ならチョイ氏がなんとかしてくれるのでは」
「おぉおい突然のとばっちりが聞こえてきたぞ?!」
 あまりのんびりしていては、またニュートンにファーストネームを連呼されることになるだろう。ハーマンはにこりと笑って、コツコツと杖をついた。
 ヘリポートへ出れば、大きなリュックを抱えたニュートンがこちらに手を振っていて、送迎用のヘリコプターはすでにプロペラを回している。彼は少しだけ合流を待ったものの、すぐさま待ちきれなくなったらしく、くるりと回って先にカーゴへ飛び込んでしまった。散歩に行くのが待ちきれない犬みたいだな、と思いながら入り口に足をかけると、中からにゅっと腕を差し出される。
 ハーマンは何も考えず、その手を取って自分の体を支えた。
 座席に座ると同時に重力がかかり、特にヘッドセットを用意されていない自分たちは会話が困難になる。けれど、彼が今何を考えているのかは、ハーマンにはよく分かるような気がしていた。神妙な表情で荷物を抱えているニュートンはずっとこちらを見ていて、ハーマンはささやかに微笑むと、彼の肩をそっと撫でてやる。びく、と驚いた様子を見せるのも動物のようで、もしかしたらドリフト酔いには相手が犬に見えてくるサイドエフェクトがあるのかもしれない、と馬鹿な冗談を考えた。



 ローリーは、もちろんのこと個室に入れられていた。だから、ハーマンはニュートンとアイコンタクトすると、隣の病室へ赴き、困惑するマコを連れてきた。突然ニュートンの襲撃を受けたローリーは目を白黒させていて、戻ってきたこちらに助けを求めるような視線を向けてくる。ばたばたと検査を始めているニュートンはそのままに、ハーマンは椅子を抱えてベッド脇に置くと、マコに着席を促した。
「説明していないのか」
「いきなり検査だ! って……、何事です?」
「私も知りたいです。ローリーに何か?」
 ハーマンは検査に没頭しているニュートンを見てから、もうひとつ椅子を出してきて座り込んだ。パイロットたちの視線を受けとめて、なるべくやさしく、安心して見えるよう、彼らに微笑みかける。
「アンティバースの放射線は、大量に浴びると人体に影響があるという点においては地球産のものと相違ない。厳密に言うと、ジプシーに使っているような原子力とは性質の違う崩壊をするのだが」
「あ、博士、細かいところは」
――失礼。つまり、破損したコンポッド内が汚染されていた可能性がある」
 告げた言葉に、ふたりは深刻な顔つきになった。特にマコは、ペントコストの件もある。不安を押し隠そうともせず、慎重なまなざしを寄せられて、ハーマンは静かにそれを受けとめた。
 なんと言えば彼らの気持ちが軽くなるのかは分からない。けれど、さほど深刻に捉えることでもないはずだ。何故かそんな直感がある。
「脱出ポッドの耐久性も、戻ってきたものを検証する必要がある。あれの強度が確約されなければ、森さん、あなたも同様だ」
……ゴットリーブ博士、それって」
「いや~、わっかんないなこれ! でも、すぐさま死にはしない! と思う!」
 ひどくぎこちない様子で、マコはおそるおそる口を開いた。と同時、のんきな馬鹿でかい声が、そんなシリアスを無残に一刀両断する。
「確かに線量は出てるんだけど、そもそも12年に渡る怪獣アタックで地球全体の線量も上がってんだよな。具体的な健康被害も切り分けにくくなってるし、そもそも被ばくするほど向こう側に近づいた人はだいたい別要因で死んじゃってるし……。でも、あっこれ死ぬな? みたいな数値は出てないから安心して!」
「えぇ……
 ぱっと顔を上げたかと思うと、ガッツポーズつきでそんなふわついた結論を元気にのたまったニュートンに、ローリーは露骨にドン引きしたうめき声を上げた。マコは、うそでしょ、みたいな顔でそんなやり取りに目を向け、ハーマンはゆっくりと顔を覆う。
「とはいえ、早死にしたくなかったら、ちゃんと定期的に精検は受けるべきだね」
「早死にするかもしれないことを、こんなに明るく言われる未来が来るとは思わなかったな……、めったにない」
「だって助かったんだ、うれしいだろ? 来るか来ないか分かんないいつかより、今生きてるほうがずっといいよ」
「そりゃ、そのほうがいいですけど。ロックバンドのスローガンかよ」
「はは、いいこと言うな君! あ、森さん、ベケットくんがうかうか検査をさぼらないように、ちゃんと見張っておいてね」
「え?! あ、はい、頑張ります!」
「頑張っちゃった……
 あまりの展開に動揺しているマコまで元気に返答するに至って、ローリーは額に手を添えながらベッドにばたんと倒れ込んだ。仕事は終わったとばかりにせかせかと機材を片づけ始めるニュートンを見やって、ハーマンは深く頭を垂れる。
「その、すまない。うちのニュートンが」
「おい、なんでそこでハーマンが謝るんだ」
「いえ、初対面のときから変なやつだなとは思ってたんで、大丈夫です」
「おいこらベケットくぅん?! 聞き捨てならないぞ! いったい誰のおかげでピットフォール作戦が成功したと思ってるんだ!」
「なんにせよ、君と森さんは、本来人間という構造物が受ける想定をしていない環境に暴露されている。しばらくは何もなくても、入念な検査をお勧めする」
 ごく親しげな表情で面白いことを言うローリーに、ハーマンは笑った。相手が世界を救った英雄であっても、ニュートンはこの態度だ。やかましいことこの上ない、と彼を無視して助言すれば、ローリーは片眉を上げてマコを見やり、マコは眉尻を下げて笑みを作った。
 きょとんとそんなやり取りを見つめていると、手を止めたニュートンが舞台役者みたいなしぐさで割り込んでくる。
「ごめんな、うちのハーマンが」
「おい、なんでそうなる」
「まあ正直、科学部門に関しては、第一印象から『なんだこいつら』だったので」
「何もおかしなことは言っていないだろう。こいつと一緒にしないでもらいたい」
「ゴットリーブ博士の言い回しがちょっと変なんですよ」
「へ、変……!」
「うそだろそんなショック受ける? 自覚がないって怖いなハーマン、僕よりよっぽど君のほうがフリークだよ」
 はっはっは、とわざとらしく笑いながら、無秩序にケーブルをリュックへ突っ込むニュートンを見やって、ハーマンは青筋を立てた。立ち上がって椅子を戻すと、『何故か帰りは旅行バックが閉まらない』状態になっている彼に歩み寄る。じたばたやっている手を追い払って無断で中を覗き込めば、まさにカオスと言うべきエントロピーを体現していて溜息が漏れた。
「でも俺、ちょっと見直しました」
 ごそごそとやっていると、ゆったりと寝転んだままのローリーは、のんびりとそんなことを言う。
「そうだろうそうだろう。君の見積もりが甘かったな」
「なんだこの煽り耐性めんどくさ……。いや、たぶんガイズラー博士の考えてることじゃなくて」
「君いまめんどくさいって言ったな!」
「普通、最初のドリフトで、100%は出ないですよ。成功したって少しくらいは、ウサギに気が散って同調が乱れたりするんだ。それをあんたたちは初手で、しかも怪獣を交えて成功させたんだろ?」
「私もすごいと思う。私も、最初は失敗したから……、あれを、怪獣と、って思うと。ちょっと意味が分からないです。博士の装置は何か改良されてるの?」
 早速片づける気をなくしたニュートンは、そんなパイロットふたりを前に、にんまりと、ひどく得意げな表情を浮かべた。ああこれは調子に乗るな、とハーマンは直感したが、うまい具合に機材が底にはまりそうでそれどころではない。
「いいや? ペントコストのうすらトンカチ――、失礼。先進的な科学の発展に理解を得られなかった僕は、ゴミ捨て場の廃材からあの装置を作ったんだ。つまり、君たちが普段使っているものより、ずっと性能は落ちていた」
「その状態で、成し遂げたのですね。本当にすごいと思います。あと次に先生の悪口を言ったら表に出てくださいね」
「こわ……。え、森さんっていつもこう?」
「俺は今あんたの蛮勇に真の恐怖を感じてます」
「だって死んだ途端に『あの人は良い人でした』なんて浮ついたこと言い出すほうが失礼だろ。僕はちゃんとあの人のことを知ってるんだ。すごい人だと認めてるし、融通の利かないうすら――、あ、あ、ストップ森さん! 押さえて!」
……言いたいことはそれだけですか?」
「えーっとだから、つまり僕らのブレインハンドシェイクが成功したのは、僕とハーマンの相性がすごくすごくストロングでスペシャルだからってことですごめんなさい!」
「そんなくだらないことを言うためにいくつ失礼を吹き飛ばしたんだ君は。単純に、私たちは現象の理屈を専門家レベルで理解しているからだろう。すまないな、今日はどうも頭がハイになっているようで」
 やっとリュックに詰め終えた頃には、ニュートンは頭をかばってしゃがみ込み、マコは毅然と立ち上がって美しい構えを取り、ローリーはアッチャーという顔をして笑っていた。ハーマンは丸まっているニュートンの背中にリュックを乗せ、申し訳ない気持ちでマコを見やる。
 目が合えば、彼女は少し困ったように笑った。ニュートンに故人をけなす意図はない、ということは正しく伝わっていると分かり、ハーマンはほっと安堵する。まあ、単に無神経で失礼なだけ、というのが安心要素かどうかは、非常に疑問の余地があるが。
 リュックを抱えて勢いよく立ち上がったニュートンは、思いっきり不平をこぼした。
「なんだよ! ハーマンだって『まあストロングでスペシャルではあったな』って思ってるくせに!」
「思ってない。君との付き合いは長いからいろいろなことが今更だ、という諦観は、要因のひとつになりうるかもしれないと思っているだけだ」
「諦観! さっきの人間構造物といい、君の言葉はわざとかってくらいややこしいんだよ! それをシンプルに言ったらつまり、『僕たちベストフレンズだね♡』の一言だろ?!」
「どういう読解能力を持っていたらそうなるんだ?!」
「あ、これから僕らも検査だから。帰るね!」
「おいニュートン! きさま! あ、ええと、失礼した。その、お大事に」
 無茶苦茶なことをまくしたてたニュートンは、さっさとドアを開けて退室してしまった。慌てて追いながら振り返ると、パイロットのふたりはほのぼのと微笑んで、小さく会釈をしてくれる。ローリーもそうすることをやや意外に思ったが、ハーマンも思わず会釈を返し、戸惑いながらも扉を閉じた。



 個室が並ぶ階だからだろう、廊下には誰もいなかった。振り返って待っていたニュートンは、こちらが追いつくと歩き出して、そのままふたりで肩を並べる。これから受付まで行って、待合で検査の順番を待たなければならない。
「ねえ、ハーマン」
 呼ばれて顔を向ければ、ニュートンは前を向いたままだった。
「今、すごく興奮してるんだけど、分かる?」
 突然の言葉だったが、ハーマンにはよく分かる。もしヘリコプターが無音で飛ぶ乗り物だったら、きっとここに着くまでに、散々話していたことだ。
「ああ。これがいわゆるドリフト酔いか」
「そう! やばいな、これがどういう理屈か方程式にしたい。でもそれって君の役目だよな。未知の体験って全部面白いけど、これは5本の指に入るね。もっと早く被験してみればよかった」
「あのタイミングじゃなかったら、私は参加しなかった」
「それはそうだ。そうだな……、僕はハーマンとドリフトしたんだな」
「厳密に言うと、君と私と怪獣だ」
「今は厳密に言わなくていいよ! まったく、情緒のない男だな」
 受付に行くと、何故かものすごく仰天された。そういえば、鼻血を出したままだし、眼球の毛細血管は千々に切れたままだ。慌てた様子でいろいろと調整を始めた病院側に恐縮しつつも、ふたりは案内された待合におとなしく座った。長い長い廊下のすみで、ときおり看護師や患者が前を通り過ぎていくのをぼんやりと眺める。遠くでは番号を呼ぶ穏やかなアナウンスが響き、まるで昨日もそうだったように、ただ今日が流れていた。
 今日、怪獣戦争は終結した。人類は救われたというのに、まるで何事もなかったみたいだ。
「平和だな」
 ぽつりとそう言って、隣を見る。ニュートンはちょっと不安そうな顔をして、そろそろと右手を差し出してきた。
「今日、あったことだよな?」
 何を不安に思っているのかは分からないが――分かるようで、分からない――、彼はそんなふうにささやく。
 ハーマンは、ブレインハンドシェイクの前にやったように、その手を取ってきゅっと握った。
「今日、あったことだった」
「へへ、そうか」
 やたらぽかぽかしているその手を、まるで新しい方程式に出会ったような気持ちで見つめる。ニュートンは安心したように笑って、ひそやかに息を吐いた。
「ハーマン、ごめん」
「ん?」
「限界」
 そして彼はそう言うと、どっと倒れ込んでしまう。肩口にのしかかってきたあほ面に押しつぶされそうになりながら、ハーマンは一生懸命踏ん張った。ああそうだ、こいつは単独で怪獣とブレインハンドシェイクなんて馬鹿をやったあと、司令官に叩き出されて雨の骸骨街を走り回り、チャウに脅され、オオタチにつけ狙われて、命の危機に瀕してから、現場に機材を持ち込んでその場でキャップを複製し、再度自分と怪獣とでブレインハンドシェイク、いろんな場所の血管をぶっちぎりながらシャッタードームまで全力疾走して、とんぼ返りでここまで飛んできた。まったく休んでいなければ、きっと飲食もしていないだろう。
「ニュート、重い」
 なんとか彼を壁に預けようと、ハーマンは両手を突っ張った。けれど勢いあまって向こう側に倒れそうになり、慌ててその体にしがみつく。やたらぽかぽかしているのはまさか熱を出しているのか、と気づいて眉間を寄せていると、四苦八苦しているこちらに気づいた看護師が助けに来てくれた。
 結局、ニュートンも半日ベッドのお世話になる。点滴を受けながら横たわって眠り続ける相棒に、ハーマンは小声で「お疲れさま」と伝えた。






 ブレインハンドシェイクの余韻は、確かに、体験してみると面白いものだった。
 理屈からすると、存在しないニューラルネットワークの疑似的な使用によって学習した思考パターンを、条件反射的になぞることで起きる錯覚のようなものである。眼鏡をかけていないときに、位置を直そうとするのと同じことだ。あいつならこう考えるだろうな、という発想を、経験という肉づけによって非常に生々しく感じているわけである。
「ハーマン、やばい……。僕の頭、ブリーチがもう一度向こうから開かれる確率をずっと計算してる……、よく眠れなかった……
「私のほうがずっと無秩序でひどいありさまだ。現存するサンプルの獲得方法と、バイオメカニクスへの応用と、謎の怪獣ショーで混雑している」
 終戦の興奮も冷めやんで、シャッタードームは戦後処理に舵を切っていた。香港はその功績を讃えられて、PPDCへと再編成されるそうだ。それを聞いたニュートンの「いいとこどりかよ!」という叫びは理にかなっていたし、実に同意見であったが、まあ、巨大な組織というものは、そうやって運営されていくものなのだろう。PPDCが今後の方針をどう定めるつもりかはまだ降りてきていないが、産業母体か、海軍に近いものになるのではないかと思っている。いずれにせよ、大幅な軍縮はされるだろう。
 よろよろと寝不足な顔でやってきたニュートンは、ふらりとはかなく着席した。右脳と左脳のように二分した、いつものふたりの研究室である。ハーマンはチョークを摘まんでいる手を止めて、はしごの上から同僚を見下ろした。
「怪獣ショーなら楽しいだろ。僕はずっと数式、数式、数式……
「何ひとつ楽しくない。それと、ブリーチの問題なら解いたぞ」
「ほんと?! よし、見せろハーマン。僕の安眠が守られるかもしれない」
 途端に生き生きとした目になって、ニュートンは立ち上がる。ハーマンはゆっくりと床まで下りて、黒板にチョークを置いた。指の粉を払いながら自席に向かい、コンピュータを操作する。
 ニュートンはスキップでやってきて、かがみ込んでいるこちらの肩にひょいとあごを乗せかけた。
「そっちに送るから自分で見ろ」
「えー、ここで開いてるならここで見ればいいだろ。もう歩いてきちゃったし」
「めんどくさ……
「僕はめんどくさいと言われるのはちゃんと傷つくんだからな」
「なら負傷しない振る舞いをしろ」
 こうなったニュートンは、自分の要求を通すまで、てこでも動かなくなってしまう。ハーマンは軽く溜息をついて、乗っているあごを押しのけ体を起こした。あきらめて黒板へ戻れば、彼は嬉々として人のデスクを占領する。
「結論は? 『ほとんど確実に』。なるほど。まあ向こうからこっちを発見してスロートをつないだ以上、同じことが起こらないとは言い切れないよな」
「だが、つなげにくくなった、とは思う。向こうの世界がどういう規模でここから離れているかは推測だが、怪獣を50体でも一気に派遣すれば早期に決したはずの戦争を、ちまちまと進めていたのはそれだけの理由があるからだろう」
「地球上にマーカーでもあれば、ずっとつなぎやすくなるんじゃない? 怪獣のどこかの組織がビーコンになってるのかも――、ああ、書いてある」
「書いたからな。現象としては起こりづらいだろうが、手段はいくらでも講じうる。早々何かが起こる確率は低いが、いずれにせよ警戒は必要、が私の意見だ」
「で、僕がそれを補足するわけだな。まだ全部の組織を完璧に解明できたわけじゃないけど、少なくとも死んじゃった怪獣にブロードキャスト機能はないと思うよ。電源が入らなきゃラジオだってただの箱だ」
「細胞レベルで生きていても? 脳神経系はやつらのネットワークだろう」
「組み立てなきゃ意味がないのもラジオと一緒。不安なら地球上の怪獣組織を片っ端から消し炭にしてみる?」
「燃えにくいだろうあれは。それに、不可能だ。どれだけの量の怪獣ブルーが流出したと思っている。危険性がないなら今着手すべきではない」
「うん、そのとおり。あー、つまんない。YESしかないよハーマン、君の言うことが全部分かる」
「齟齬がないなら無理にNOを叩きつける必要はないとあれほど。つまらないとは失礼だな」
「いや、普通に問題じゃないか? これってちゃんと査読になってんのかな」
「ドリフトしながらなら意味はないが、ドリフト酔いなら有効だろう。思考回路は100%君のものだ」
「じゃあ、君のめちゃくちゃ込み入った理論展開を読むときは、事前にブレインハンドシェイクしておくべきだな」
「そもそも、常々司令部には訴えていたが、数学者に生物学の査読をさせるなと私は言いたい」
 ニュートンとの長年のやり取りのおかげで、彼の専門の範囲でなら、ある程度の素養はあるものの、普通に考えれば無茶すぎる命令である。だから彼との口論も絶えなかったし、お互いにNOを突きつけてはすり合わせるはめになっているのだ。もちろん、それがあったからこそ、ふたりで怪獣戦争の最前線に立てていたとは思っているが。
 ふんふんと機嫌よく揺れながら、報告書を読み進めているニュートンの後姿を見やって、ハーマンは再び黒板に向かった。
「君のデータボックス理論はどうなった?」
「今は固有組織にかっこいい名前をつけてるとこ」
「どこに時間を割いてるんだ……
「だって、永遠に残るものだろ。怪獣図鑑を開いたときに、ぱっと光るものがないと」
「さっきの話じゃないが、汚染分布の件もあるぞ」
「ああ……、うん、そうだよね。なんで戦争が終わったのに、いまだに納期に追われてるんだろ? ちょっとはのんびりさせてほしいよ」
 やることがなくなったらなくなったできっと文句を言うくせに、ニュートンは両足をぶらぶらさせながらそんな不満をぶつくさ言う。ハーマンはそのぶさいくに尖った口元を見やって、慌てて黒板に向き直った。思わず笑ってしまったことがばれたらいろいろと面倒だ。
 PPDCより報告を課された『怪獣汚染の今後の広がりと影響に関する予測データ』は、ニュートンが出してくる影響力を数値化して、大気と海洋のデータマップに当て込むだけである。ハーマンは方程式を書き終えて、再び床に着地した。彼の回答を待って、この内容を見直そう。
「こっちから向こうを見つけることも、今の技術じゃできそうにないな」
 自席を取られてしまっているので、ハーマンは仕方なく、彼の隣で机にもたれる。ほとんど尻を乗せるようにしていると、ニュートンはこちらを見上げてやさしく笑った。
「そこはもう、宇宙工学とか、量子力学の世界だな。私たちには荷が重い」
「ま、僕がちょっとだけ頑張れば、そのへんの博士号だって取っちゃうけど」
「はいはい。読むなら早く読み終われ。そして仕事をしろ」
「これを読むのだって仕事だろ、提出は連名になるんだから」
 不服そうにそう言って、彼はこてんと体を倒す。こちらの腿に頭を乗せたまま、ニュートンは行儀悪く画面をスクロールした。
 特に咎める理由はなかったので、ハーマンはそのまま画面を覗き込む。彼の読んでいる場所を特定して、少しぼやけている文字を裸眼でなぞった。確かに、ちょっとくらいのんびりしたっていいだろう。そんな気持ちになったからだ。
「プリカーサー、あのまま絶滅するのかな」
 ぽつりとニュートンはつぶやいた。脳裏にアンティバースの景色がぶわっと広がって、ハーマンは思わず彼のシャツを掴む。
「ほかの星の攻略に取り組んでいないなら、そうだろうな」
「もしあいつらが、あんなに敵対的じゃなくて、もっとただの、絶滅危惧種で、庇護だけを求めてコンタクトしてきたとしたら、もっと……、もう少し、平和だったかな」
……そうしたら、たぶんまた別の問題が起こるだろう」
「はは、そうだな。難民問題、『第9地区』だ」
 ニュートンは軽く笑って、ぐりぐりとこめかみをこすりつけてきた。眼鏡が当たって少し痛かったが、そのままにしておく。掴んでいたシャツは解放して、ハーマンは寄ってしまったしわを伸ばした。第9地区? と疑問に思ったが、なんとなく、SFか何かのことだろうと分かる。
「なあハーマン、もし僕が怪獣になっちゃって、群れに紛れてどれが僕か分からなくなっても、シリコンの花を作って君に贈るようなやつがいたら、それが僕だからな。覚えておいてよ」
 彼の手が回ってきて、なついている腿に添えられた。少しの間、抱きつくようにそうしてから、ニュートンはぱっと顔を上げて笑う。
「それにしても、ハーマンのディフェンスずいぶん下がったなあ。ブレインハンドシェイクさまさまだ」
「冷たくされたいならそうするが」
「しなくていいよ! 嫌なやつだな、せっかくほめてるのに」
 べし、と添えていた手でこちらの腿をはたき、彼はやっと体を起こした。残りの査読に真面目に取り組む様子を見て小さく息をこぼし、ハーマンはその横顔を見つめる。



 文明のかけらも感じられないような納期に追われる戦時に慣れてしまい、のんびりすることに少し戸惑っている。そういう感覚は、ハーマンにも理解できるものだった。ドリフト酔いも加わって、なんとなくぽかんとしたような、次の行動に困るような、そんな気持ちを抱いている。やることは無限にあるが、今の自分がしたいことはなんだろう――、そう考えるときだけに存在する、幻のような無力感だ。
 ニュートンの研究は、応用面でいえば引く手あまただろう。怪獣という先進的な生物兵器は、工学的に転用できる箇所がいくらでもある。彼はメカニックにも精通しているので、取り組むのに大きな困難はないはずだ。分解して仕組みを理解し、新しく面白いものを作り上げるのは、彼の得意とするところである。
 けれど、そう、思うだけだ。
 実際にそうするニュートンを思い浮かべてみても、うまく像が結ばないのは、まだ彼が、自分にとっては『無邪気な怪獣博士』のままだからだろう。そして、いずれこの像を解体しなければならない、と考えたとき、ほんの少しだけ寂しさを感じるのだ。きっとそれは、自分たちが積み上げてきた12年という歳月が、まるで堆積して固まることで輝きを放つ結晶のように思えているからで、それはもはや、戦争とはまったく別の場所に存在している。
 怪獣もアンティバースももうたくさんだが、この時代だけに存在するニュートン・ガイズラーというものを、もう少しだけ大事に眺めていたかった。かつて、その才能に憧れ、嫉妬し、拒絶できずに受け入れた、甘酸っぱく青い時代の情熱を、まるで懐かしく掘り返すように。
「うん、やっぱどこもおかしくない。ちぇー、つまんない」
 読み終わったらしいニュートンはそう言うと、ハーマンの名前の隣にぱぱっと自分の名前を打ち込んだ。そうしてぐんと伸びをして、ころころと椅子を後退させる。
「さては僕がかっこよくて見とれてたな、ハーマン」
「そんなことはまったくないが、君と初めて会った日のことを思い出していた」
「マゾか? わざわざ嫌な思い出をほじくり返す気がしれないよ」
「ああ、死ぬほど嫌な思い出だ」
「はいはいはーい。どうせ全部僕が悪かったって言うんだろ、絶対に君だって全部悪いからな」
「分かっている。お互いに必死だったんだ、お互いに」
 近い将来、この感傷もすべてうまく飲み込んで、新しい『日常』を作っていかなければならない。
 警戒すべしとの助言をPPDCと世間が受け入れれば、イェーガー開発は続くかもしれないが、もちろんなくなってしまうかもしれないし、ブレインハンドシェイクの仕組みも別分野で応用されることになるかもしれない。
 数学者は、いろいろと替えがきく。どの分野にも必要とされるし、自分はそういうことが得意だ。工学にも物理学にも対応できるし、生物学なんて言わずもがな。社会学や経済学だってかじれるだろうし、純粋に数学をすることだってできる。
「あのとき、私は君の才能を、まるで世界中で自分だけが理解している気になっていた。だから、君の適当な態度には腹が立ったし、音楽で食べていきたいなどと言い出したときは冒涜だと思った」
――ハーマン」
「けれど、君のあのときの言葉を、今は素直に受け入れられる。そして、そのまま返したいと思う。ニュートン、君はこんな才能があるのだからこんな成果をあげるべきだ、なんて思い込んでいるやつがいても、その期待に従う必要はない。そんなのは君に夢を見ているやつの勝手で、君に責任は一切ないからだ。できることをしなくても、何も君のせいじゃない。君は慈善家でもなんでもない、ただものを考えるのが好きなだけの、ただの私の友人だ。これからこの科学部門がどうなるのかは分からないが、それだけは覚えておいてくれ」
 言いながら、少しずつ羞恥がせり上がってきて震えたが、はっきりと伝えておきたいことだった。ハーマンはなんとか踏ん張って、ニュートンの目を見つめたまま最後まで言い切る。同時に、ぐわんと感情が揺れるような思考パターンを、脳みそが勝手にトレースした。きっと、このドリフト酔いがなくなる頃には、進退を決めることになるだろう。
 ニュートンは、まるで呆然自失の様相だった。目を見開いてこちらを見つめ返したまま、呼吸をしているかどうかも怪しいほどである。
 しばらくそのまま見つめ合って、いや本当に大丈夫か? とハーマンが眉を寄せたとき、ニュートンはふわっと立ち上がった。
「ハーマン、それってプロポーズ?」
「いやどこをどう取ったらそうなるんだ」
 馬鹿みたいなことを言いながらよろよろと歩いてくるので、思わず吹き出して笑ってしまう。論理的な思考というものを知らないのかこの天才生物学者は。そう思うと、ひどく愉快な気分だった。
 ニュートンは相変わらず呆然としていて、そっと両手を伸ばしてくる。鎖骨にそれを添えられて、ハーマンは顔を上げた。
「ハグはしてもいいってことだろ?」
「だから、何をどう解釈したらそうなるんだ」
 きっとふたりが何もかもうまくやれていたら、まるで当たり前の友人たちみたいに、初対面でこういうことができただろう。けれど、それが2017年のあの日ではなく今だから、自分たちはこんなにも自分たちになれたのだ。すべてのことには季節があり、すべてのわざには時がある。
 ニュートンが反論する前に、ハーマンはそっと両腕を広げてみた。すると彼は双眸をきらめかせて、勢いよく抱きついてきた。






 あれ以来、ニュートンは要らんほど元気だ。
「う、うわーっ! ハーマン! ハーマンちょっと聞いてよ!」
「うるっさい! 永遠に後にしろ!」
「永遠に?! 大事なことだったらどうするんだよ!」
 部屋中を歩き回ってぶつぶつ言っていたかと思えば、机に座って自分のコンピュータに触れた途端、彼はそう叫んだ。やや上ずった高い声は、もう聞き飽きることも通り過ぎてしまったほど聞き慣れたもので、ハーマンは構わず黒板でチョークを削り続ける。
 今度の課題は『アンティバース警戒に際して最も効率的な軍事運用モデル』だった。確か香港はPPDCに復帰したんだよな、他拠点の科学部門は軒並み息をしていないのか? そんなことを思いながら、下のほうまでかがみ込んで、やや乱暴に関数を書き連ねていく。
「費用対効果もか? 金融工学までさせる気か……! 他に識者がいるだろう絶対に!」
「ハァァ~~マァァア~~ン」
「永遠はまだ過ぎてないぞニュートン!」
「ヒュウ、哲学的。そんなことより大変なんだよハーマン」
「そんなこと! そんなことだと? 暇なようだから君に私の計算結果を清書させてやろう、手伝え!」
「えーやだよ、君まじで字が汚いもん。読解してレポートにするって一仕事だろ。それに暇じゃないし」
「なら永遠に黙ってろ」
「その永遠ってやつ今流行ってんの? ただちょっと、僕さ、学会を追放されちゃった」
――は?」
 言われた意味がにわかに飲み込みがたく、ハーマンは思わず背筋を伸ばして振り返った。
 ニュートンはわざとらしい笑みで大げさに肩をすくめ、ふいにうつむき、椅子をふらふらと左右に回している。
「新しい論文出したばっかりだからかな。あの、君が心底馬鹿にしてたクローンの話だよ。怪獣グルーピーはお断りだって思われちゃった? それとも新時代に、怪獣博士は要らないってことなのかなあ」
 いじいじと足を揺らしながら、彼は明るいトーンでそう言った。まるで努めてそうしているように見えて、ハーマンは頭が真っ白になる。
 そんなニュートンが再び顔を上げたときには、勢いよくチョークを粉受けに叩きつけていた。まるっきり寂しそうな顔で、無理して笑っている彼に激情がほとばしる。ハーマンは憤然と杖を掴むと、できる限りの大股で、ニュートンの元へ駆けつけた。
「そんな馬鹿なことはない! 君がいることで世界がどれだけより良くなるのか学会は計算もできないのか?! 誰だ、そんなことを言ったのは!」
「誰、っていうか」
「ニュートン、君は素晴らしい科学者だ。そんな言いがかりは不当だ、断固毅然とした態度で異議を申し立てるべきだ。君が要らないなんて、絶対に馬鹿だ! いったいどんな――
 どんなふざけた文面で、そのようなことを言い出したのか。ハーマンは義憤に杖を打ち鳴らしながら、目を逸らして口元をゆがめているニュートンの体を押しやる。そして、これから殴り合いでも始めるような気合いと共に眼鏡をかけ、彼が見ていたディスプレイを覗き込んだ。
 メールの本文には、こうある。
 ――再三の催促にも関わらず、学会費の支払いが確認されなかったため、貴殿を学会のメンバーより外すことを通達します。
 ハーマンが硬直していると、座ったままのニュートンは、実に楽しそうに笑いながら、こちらに両腕を回して腰にしがみついてきた。
「へへっ、ハーマン、僕のことが心配だったな。大事な大事な僕が大事に大事にされてないと、ハーマンは我慢ならないんだな? ふふふ」
 なるほど、こちらの反応を確かめるための嘘だったのか。ハーマンはそう悟って、大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。『要らんほどの元気』というのは、こういうことだ。彼はもともといたずら好きで、鬱陶しいちょっかいなど日常茶飯事だが、最近ではそれに『愛情を確かめる』が加わって、更に腹立たしい仕上がりになっている。子供が親の気を引きたくて、わざと迷子になるようなものだ。
 ぎゅうぎゅうと頬を押しつけて、んふんふ笑っている35歳児の頭頂部を、ハーマンは見下ろした。それからゆっくりと手を伸ばし、見えている襟首をむんずと掴む。
 猫をぶら下げるようにして剥がし取ると、ニュートンはうわわと慌てた声を上げた。
「君がその気ならこうしよう、ニュートン。そこに立って、尻を出せ」
「し、し、尻を?! やだ僕なにされちゃうの?!」
「フルスイングでしつけてやる」
「いや待ってしつけっていうかそれ暴力だろ! 杖の構え方がもうイチローなんだよ君の足の悪さどこいった!」
「支払いを忘れるなとあれほど言っただろうが!! 今すぐ入金して学会に平謝りしてこい!!」
 がなり立てれば、逃げ足の早いニュートンはあっという間に研究室を飛び出していった。ハーマンは深々と溜息をついて踵を返し、途中まで考えていた数式が完全に飛んだことに気づいてちょっと泣きそうになる。



 ふたりの現在の仕事は、相変わらず納期に追われているとはいえ、戦時に比べればさほど切迫したペースではなかった。イェーガーの運用自体は当面の間継続されることになり、今度はPPDCから離反していたわずかな期間のリサーチ情報を内部に展開する必要に迫られていたが、身内相手なら「勝手に見ておいてくれ」も比較的通用する。まあ、上層部を除いて、という注釈はついて回るが。
 ニュートンはそんな課題の合間に、司令部を相手取っていつもの『わあわあ』をやり、しこたま怪獣のサンプルを買い込んでいた。研究室に入りきらなかったそれらは、かつてチームの共同研究室だった近くの部屋を再割り当てしてもらい、ずらりと並べて保管されている。
「そんなに狭いなら、理数研究室と生物研究室で分けたらどうです? いい部屋割り当てますよ、今は予算もつけてもらってるし」
 保管室を用意するにあたり、引き続き司令官の補佐的役割を務めているマコに代わって、何故かローリーが派遣されてきた。何故レンジャーが雑務を、と怪訝に迎えたこちらに対し、彼は愛嬌たっぷりに小首を傾げてそんなふうに提案する。マコがよく持っているファイルケースを、彼女がよくするように抱えているので、面白がっているのかもしれない。
 部屋のすみに寄せられた生物標本を前に、仁王立ちで腕を組んでいたニュートンは、そんな楽しそうな世界の英雄を不機嫌な表情でじろりと見やった。
「君じゃなくて森さんにやってほしかったな。チェンジ!」
「却下。ほら、部屋を分けろって要請は過去にもされてるじゃないですか。ガイズラー博士が3回、ゴットリーブ博士が21回」
「多くない?! おいハーマン! そんなに僕が嫌だったのか!!」
「そもそも解剖という本来緊密な環境で実施すべき作業を、こんな乱雑な部屋ですべきではない」
「あっ、じゃあ僕が嫌なんじゃなくて、僕が心配だったんだな! えっ、ハーマン、僕のこと大好きじゃない?」
「あ、ベケットくん。その部屋を分けるという話を詳しく」
「聞かなくていいよ! 君は馬鹿か? PPDCの頭でっかちたちが、僕らから連名のレポートをむしり取ろうと毎日あの手この手で画策してることくらい、君も身に染みて分かってるだろ! そのたびにいちいち、こんこん、僕だよハーマンいますか? うるさい永遠に後だ、なんてやり取りをするわけか? 僕の灰色の脳細胞をハーマンの面倒くささでいちいち停滞させるのは世界の損失だぞ!」
 ニュートンはぷんぷんしながらそうわめき散らすと、標本ケースのひとつに手にかけて、ごろごろと引っ張りながら部屋を出ていってしまう。
 振り返ってこちらに目を移すローリーは、実に楽しそうな笑みだった。どうせこうなることを分かっていて、単にニュートンをからかっただけらしい。ずいぶんと彼にも余裕が生まれたものだな、とハーマンはしみじみと思った。きっとそれは、とてつもなくいいことだろう。
 プログラムの見直しをしていた手を止めて、眼鏡を外す。笑って少し肩をすくめてやれば、ローリーも同じしぐさをして、ニュートンを呼びながら部屋を出ていった。



 そんな顛末を経て、ニュートンはレポート提出の合間を器用に縫い、保管室から標本を持ち出してきては、切り刻んだり、分離器にかけたり、顕微鏡で覗き込んだりしている。形態学者として、というより、『怪獣博士』としてだろう、すべての構造と機能説明を有する怪獣図鑑を、彼はこつこつと作っていた。おそらく歴史上、最初で最後の『解体新書』になるだろう。
「あっ、すごい! わっ、見てハーマン、見て!」
「今度はなんだ」
「ベビーオオタチの腕! ママの翼はほとんど吹き飛んじゃったから、もう無理かと思ってたけど、ちびにもちゃんと翼があるぞ!」
「なくて残念がってなかったか?」
「あのときの僕は馬鹿だった。でも、こうして天才に返り咲いたわけだ。見てみろよハーマン、まるで手品師だ」
「いや、結構」
「来いって~!」
「大丈夫です」
「何が『大丈夫です』だ! こんなのもう絶対見られないぞ、見とけって!」
 ハーマンはちょうどモデルを起動したばかりで、すっかり眼鏡も外してほっと一息コーヒーを嗜んでいるところだった。ビニル手袋越しに組織片を掴んだままこちらを振り仰いできたニュートンは、ぴかぴかの笑顔でぴょんぴょんと小さくジャンプしている。どう控えめに見ても自分は暇に見えるだろうし、この状態でNOを返し続けても、おそらくNOで返され続けるだろう。むしろこのタイミングを狙ったのではないかとハーマンはいぶかりながら、深く溜息をついて腰を浮かせた。
 ぞっとした表情を隠す気はないので、なるべく怪獣に近づかないよう、そろそろと迂回して彼の元へ向かう。そんな様子を見るニュートンはとっても愉快そうで、人が嫌がる姿を笑うのは最低の人間だぞ、という思いを込めてハーマンは睨みつけた。けれど、それすらも彼にとっては、面白要素になるようだ。
 こちらが到着するのを待って、ニュートンは上機嫌で組織片を構えた。そして、おもむろに、アイスピックのような器具で串刺しにしてしまう。
 彼が器用にそれを動かすと、しゅっと組織片が薄くなり、代わりに面積を得るような動きをした。
「消失とか出現のマジックは、あるものをないように見せるか、ないものをあるように見せるかの二択だ。いきなり生えるなんてことは絶対にない。ベケットくんたちの度肝を抜いたスーパーイリュージョンのからくりは、こんな簡単な物理法則で成り立ってる。面白いよね、すごくシンプルでかわいい方程式なのに、それを怪獣が使ってるとなんだかすごく恐ろしいものに見えるんだから」
 手元でうようよと組織片をもてあそびながら、ニュートンはそんなことを言ってうれしそうに微笑む。頬のてっぺんは少しだけ紅潮していて、目元はやさしく伏せられている、そんなピュアな無邪気さにこそ、シンプルでかわいいという評価が似合うようにも思った。
「ね?」
 まあ、その手元を完全に排除すれば、の話だが。
 こちらを向いたニュートンが目の前に組織片を掲げてくるに至って、ハーマンは顔をしかめて1歩下がった。
「きもちわる……
「君は結局、一度もこの美学に達することはなかったな。ロマンのかけらも分からないやつめ」
「ロマンではなく向き不向きの問題だ。そもそも私は生き物全般、あまり得意ではない」
「はは、それを生物学者に言うんだもんな。ま、ハーマンはあれだ、ヒューマンからして苦手だから! 人づきあいがへたくそだもんね」
「うるさい。人のことが言えるのか?」
「たとえ僕に何らかの非があったとしても、それは僕がハーマンの非を糾弾できない理由にはならない」
「胸を張って言えることかそれは。めんどくさい」
「言ってろ。どうせハーマンは、苦手なヒューマンの中でも僕のことだけは大好きなんだから。あれ、これってつまり、僕はヒューマンではないのでは……?」
「馬鹿か? 奇妙な同一律を唱えてないで仕事をしろ」
 内容が能天気な戯言に移ってきたので、ハーマンは片手を振って踵を返す。こうも言葉の端々で試すようなことをされると、いいかげんうんざりしてくるものだった。顔に出たかもしれないが、どうせ彼は気にしないだろう。
 もうほとんど、ドリフト酔いからは覚めていたが、彼のこの幼稚な振る舞いが「彼自身の不安」から発露するものだということは、感覚的に分かっていた。自分を受け入れてくれる人なんてこの世のどこにもいない、という信条を彼の心に植えつけるに至ったあらゆる出来事は、ブレインハンドシェイク中に垣間見てはいたものの、その不安を解消する方法として、自分から行動するのではなく、相手に行動をさせようとするのが性悪である。まるで自分の臆病さを写し取ってしまったようにも思えて、ハーマンはある種の食傷を持て余していた。ブレインハンドシェイクがRNAのような働きをすることはないが、彼のリボソームで自分のたんぱく質が作られているような錯覚に陥る。
 それに、こうも確認を繰り返さなければならないほど、自分の友情は疑わしいのか、と思うと腹が立った。
「仕事してるだろ。ねえハーマン」
 呼ばれて肩越しに振り返る。ニュートンは不服そうな表情で、組織片を持ったまま歩き出した。ハーマンは思わず両手のひらを彼に向けて、その場に留まるようジェスチャーする。
「それを、置いてから、動け」
 ニュートンにとって、怪獣の細胞とは日常に普通に存在するものだった。つまり、彼はペンを扱うように、平気であれらをそのへんに置いたりする。彼の行動はそのうち自分に悲鳴を上げさせるものになる、と予想して、ハーマンは気を引き締めた。
 そうされたニュートンは、きょとんとこちらを見て、次に手元を見下ろし、もう一度こちらを見る。
 そして、にやぁ、とものすごく嫌な笑みを浮かべた。
「がおー」
「うわっ、馬鹿! ニュートン!」
 彼は再び組織片を掲げると、ひょいとこちらに近づけてくる。予想はできた行動だが、まさかこんな馬鹿みたいなことを本当にやらかすとは思っていなかったハーマンは、飛び上がって身を引いた。そうしている間にも、彼は組織片をそのへんに置き、怪獣の体液で濡れている手袋を見せびらかしてくる。わきわきとうごめく10本の指を見て、ハーマンはなすすべもなく背中を見せた。
「馬鹿! 子供か君は! うわっ」
「わははは。逃げ惑え愚かな人間よ。がおがおー!」
「愚かな人間は君のほうだ! こっちに来るな、線を」
「がおー!」
「うわああああああ!」
 自陣に逃げ込んだ途端につんのめって、ハーマンはバランスを崩す。その隙をついて、馬鹿で子供で愚かな人間が、無遠慮に背中から抱きついてきた。腹に回された両手の感触にぞっとして、ハーマンは思わず悲鳴を上げる。自分のシャツを気にするあまり、おろそかになった足元は、ただひたすらに無防備だった。結局ふたりはそのまま、ラグビーのタックルよろしく、ばたーんと間抜けな音を立てて床に倒れ込んでしまう。
 強打した腿の痛みにぐっと耐えてから、ハーマンは慌てて自分の腹をチェックした。巻きついているカラフルな両腕の先には、ぬるい温度の素手があり、シャツはきれいなものである。あれ、と思いながら顔を上げれば、自分が逃げてきた道筋に、無造作に捨てられたビニル手袋の死体が落ちていた。
 ハーマンは心底ほっとして、ぐったりと力を抜いた。床に転がるのも大変不快だが、怪獣の体液よりは断然ましだ。さっきから爆笑しているクソガキになんとか身に染みるような罰を与えたいと思っているが、どっと疲れてそれどころではない。
 叱られないことに調子づいたのか、ニュートンは猫のようにすり寄って、首筋に鼻先を突っ込んできた。掻き分けるように動かされて、くすぐったさに肩を丸める。こいつ、本気で子供返りでもしているんじゃないだろうな。そんな懸念を覚えながら、ハーマンは彼を押しやって体を起こした。床に足を投げ出したまま見下ろせば、転がったままのニュートンは、外していた眼鏡をかけ直して威嚇するようなポーズをとる。
「がおー」
「がおーじゃない。小学生からやり直せ」
「だってハーマンがそっけないから」
「己を顧みろ。文明人ならな」
 言い捨てて、立ち上がろうと片手をつく。するとニュートンはその腕をむしり取って、あろうことか両手で手のひらを包んでしまった。思いっきりバランスを崩したハーマンは、再び転げて彼にぶつかって、そのまま立てなくなってしまう。どちらの手を拘束すれば、言うことをきかない片足を持つ人間が立ち上がりにくくなるのか、この生物学者が知らないとは思えなかった。
 ニュートンを睨みやると、彼はいたずらっ子のような、無邪気な笑顔を見せる。
「なあハーマン、もう1回ドリフトしないか」
……は?」
「君が頭のすみにいるの、すっごく面白かったから。君ももう酔いは覚めちゃっただろ? 君だって、僕の思考が君の頭の中にあるのは楽しかったはずだ。なんたって君は、僕の頭脳を、ぴかぴかの一等星みたいに思ってるからね。最高だったろ? それにほら、君は今にも目から破壊光線を出しそうなくらい怒ってるけど、そういうのもちょっとはなくなると思う。どれくらい君に近づきすぎたら君が怒るか、お互いに溶かし合った脳みそに酔ってる間は、僕だってはっきり分かるんだ。だから、君にもメリットがあるし、僕もむやみに怒られない。それに、それに、厳密に言うと、僕たちはふたりきりじゃなかった。ふたりっきりで君とハンドシェイクしたことがないって、むしろすごく不自然なことだ。だから、今度は間男なしで――
「むやみなブレインハンドシェイクはしない」
 突然の提案にぽかんとしていたハーマンは、彼の言い分を聞いているうちにしっかりと我に返った。
 なんてことはない、また〝確かめる〟行為の要求である。嘆息をこぼして捕らえられた手を引くと、ニュートンは一度抵抗して、逡巡したあと、素直にこちらを解放した。不満と寂しさをミルフィーユにしたみたいな表情を見やって、ハーマンは立ち上がる。
「なんでだよ!」
「分かるだろう」
「分からない! だってもう酔ってないからね!」
「ニュートン」
「いいもんね、どうせハーマンは僕が大事なんだ。お手製のマシンはJテクに取られちゃったけど、僕は何度だってがらくたから傑作を作ることができる。それに、僕がキャップをふたつ作ったら、結局ハーマンはやってくれるんだ。どっちにしろ僕の勝ちだ、ねえお願いハーマン、どうしてもやりたいんだ、ひとりじゃできないことなんだよ、それとも親友の僕を拒絶するのか? 君がしないっていうなら、僕はまた怪獣の脳みそとひとりでやっちゃうぞ――
「ニュートン!!」
 当てこするようなニュートンの言葉を、最後まで無視しようとして、できなかった。
 ハーマンは大声を上げて彼を遮り、自席に戻るのをやめて勢いよく振り返る。床にだらしなく座ったままのニュートンの姿が、じわりと歪んで奥歯を噛んだ。激情の奔流に一瞬でなぶられた体は、わずかに震えてしまっている。
 彼の、怪獣とのドリフトテスト1回目のログを聞いたときの記憶がよみがえった。あのときの憤怒とやるせなさを、等しく繰り返している。
 そんなこちらのリアクションを見て、ニュートンはしこたま驚いたようだった。おろおろと眼鏡の位置を直し、戸惑いながら立ち上がる。口を開けて、閉じて、1歩踏み出し、立ち止まる。こちらを指差して、手を下ろし、床に視線を這わせて、唇を舐めて。
「その……、冗談だよ、ハーマン。な~んちゃって、ははは」
 おどおどと動揺している彼の言い草に、ハーマンは目元をこすった。少しはダメージを与えることができたようで、心がすっとする。
「なんでこんなことで泣きそうになってるんだよ。馬鹿。変なハーマン」
「私たちが行ったのは、単なるブレインハンドシェイクではない。怪獣とのブレインハンドシェイクだ」
 なんとか自分を奮い立たせようと攻撃的な言葉を使うニュートンに、ハーマンは冷静に話しかけた。途端に顔を上げた彼の表情には、つられるように冷静さが戻ってきて、ハーマンは安心して自席にたどり着く。座り込んで椅子を回せば、まるで立たされた生徒のように、ニュートンはこちらの発言を待っていた。
「私は今でも、鮮明なアンティバースの夢を見る。君はどうだ、ニュートン」
「うん……
「ならばなおさら、この記憶を混ぜることで何が起こるか分からない。最悪、揃って脳の血管を吹き飛ばしてしまうかもしれない。非常に危険だと私は思う」
「うん……、そのとおりだ」
 しょんぼりとした彼の様子は、いとけなくいたわしかった。思わず駆け寄って励ましたくなるような衝動を覚えて、ハーマンは苦笑いを唇ですりつぶす。実際、ニュートンの言い分は正しいのだ。彼の思考が自分の頭のすみにあるのは楽しかったし、そのぴかぴかの一等星を、一番近い場所で感じられるのはうれしかった。残酷でグロテスクな別の思考を交えることなく、ただ純粋に彼と脳みそを溶かし合うことができたら、きっと素晴らしい体験になるだろう。
 けれどそれは、ニュートンの命に代わるものではない。
 彼に代わるものなど、この世に存在しないからだ。
「ニュートン。君のことは、親友だと思っている。本当に」
「ハーマン」
「だから、親友であることを〝使う〟のはやめてくれ。私を面白おかしく煽るだけの道具にしないでくれ。君自身を盾にされるのは悲しい」
 ずっと言語化できなかった苛立ちが、そんなふうにぼろりとこぼれ出て、ハーマンは自身で少しだけ驚いた。
 ニュートンはもっと驚いたようで、目を見開いてこちらを凝視する。そのまま彼は、夢遊病のようにふらふらと足を出して、今度は彼のほうが涙目になってしまっていた。泣かせるようなことは言っていないつもりだが、とハーマンは首を傾げながら、そんな彼を迎え入れる。
 ごく近くで立ち止まったニュートンは、目元をこすってからまっすぐとこちらを見つめてきた。
「ごめん、そんなつもりじゃなかった」
「君はいつでも〝つもり〟だけを取りこぼす」
「うるさいな、君はいつでも1歩遅いくせに」
「その時間差のおかげで君の取りこぼしを拾えるんだ。感謝しろ」
「努力するよ、ハーマン。努力する……、君と友だちでいたいから」
 めったにない神妙な様子で、繰り出される軽口の響きも真剣だった。適度に灸を据えることができたと判断して、ハーマンは座ったまま、ぽんぽんと彼の腿を叩く。するとニュートンはほっとしたように笑みをこぼして、その手をきゅっと握ってきた。こちらもささやかに笑い返して、彼を好きなようにさせておく。空いているほうの手でマグカップの様子を確認すれば、ホットコーヒーは見事、アイスコーヒーにイリュージョンしていた。






 アンティバースの悪夢の中で、何よりも恐ろしいのは、そのフラットさだ。
 彼らにとって侵略は作業であり、人間は刈るべき草と変わらなかった。憎悪や侮蔑の感情はほとんどなく、ただ「そうしていいモノだから」というだけで虐殺に至るその思考回路を、まるで自分の考え方のように思わせるような夢を見ると、目が覚めて自分の名前を思い出した瞬間、恐怖にすくんで手足が冷えていくような心地がする。早鐘のような心臓をなだめて、震えた吐息であえぎながら、胎児のように縮こまって余韻が薄れていくのを待つ、そんな夜明けをときおり過ごしている。
 こんな目に遭っているのは、人間より強烈な頭脳を持つ相手とのブレインハンドシェイクで、ひどいドリフト酔いを起こしているせいだろう。それに、自分の感覚は、怪獣を含むアンティバースのすべてに対して、ひどい嫌悪があるのだ。つまりドリフト相手としては、相性が最悪である。だから、まるでアレルギー反応のように、少しのことで大げさに悪寒を覚えてしまうのだろうと思っていた。
 暗い部屋の中で目覚めて、吐き気を催しているようなときは、ドリフト酔いならいずれ薄れる、と繰り返し考えて自分をなだめている。けれど今日はふと、自分も悪夢を見る、と言ったニュートンが、ひとりでこんな気持ちになっているのではないか、ということに思い当たった。
 はあはあと上がった息を飲み込んで、そっと体を起こす。自作して枕元に取りつけた小さな照明をオンにして、ハーマンは扉を見やった。
 ――いや、夢を見るタイミングはそれぞれだろう。自分だって、毎日見るわけじゃない。今から彼の様子を窺いに行ったって、寝た子を起こす事態になるだけだ。
 は、とひとつ吐息して、ベッドに座ったままそう考える。そうだ、もちろん、そのとおり。悪夢の寝起きで少し気が動転しているようだ。
 やがて冷静な思考を取り戻すと、ハーマンはおとなしく、明かりを消すために手を伸ばした。
 刹那、見つめていた扉がガタンと音を立てる。
 大げさなくらいに驚いて、びくんと体が勝手に跳ねた。身を守るように背中を丸めていると、外から「あれ、そうか、鍵がかかってる」という小さな声が聞こえてくる。
……ニュートン?」
 おそるおそる呼んでみるが、声はかさかさにかすれていた。どうやら外までは届かなかったようで、「どうしよ」という途方に暮れたささやきだけが返ってくる。ハーマンは扉を見つめたままコンフォーターを剥ぎ、そっと足を下ろして立ち上がった。鍵を開けて少しだけ扉を開けば、いささかびっくりしたような表情のニュートンが佇んでいる。
「ハーマン」
「どうした、こんな夜中に」
「いや、君は悪夢を見るって言ってただろ。だから、大丈夫かなって思って」
「夢を見るタイミングはそれぞれだろう。私も毎日見るわけじゃない。安眠していたら叩き起こす気だったのか?」
「でも、君は起きてた。それってつまり、そういうことだろ?」
 ひそやかな声でひそかに笑って、ニュートンは少し観察するような目を向けてきた。心配されている、ということが分かって、ハーマンは口をつぐんでしまう。いつもの自分なら、問題ないから帰れと言ったことだろう。
 ハーマンは、開け放したままの扉から、ぎこちなく身を引いた。
「入っていいってこと?」
「廊下で話すと近所迷惑だ」
「そうだね」
 ニュートンは特に気にする様子もない。小声で納得して入室すると、扉をきっちりと閉め切った。ハーマンはもうひとつ、はあ、と大きな吐息をこぼして、よろよろとベッドに戻る。肌寒さを感じてコンフォーターに包まれば、ロックバンドのTシャツを着ているニュートンは、まるで寒がる様子もなくベッドの縁に腰かけた。子供みたいだな、と改めて思う。
 脱力して横になると、彼は体をひねってこちらを向いた。
「こわい?」
 少しからかうようなしぐさだ。ハーマンは鼻で笑った。
「あれを怖がるのは、賢い人間の特権だ」
「なんだと。僕は怖くないぞ」
「君のそれは、恐ろしさを踏みつけて見ないようにしているだけだ」
「つまり、踏みつけにできるくらい勇敢なわけだ。ハーマンは怖いなら、僕の後ろに隠れてるといいよ」
 ぐっと胸を張って、ニュートンは両手を腰に当てる。筋肉があるようには見えない腕でスーパーマンみたいなポーズをするので、ハーマンは笑ってしまいながら口元までコンフォーターを引き上げた。
「頼りなさそうだ」
「笑ったな、この。だって、あれらは僕の専門だ。君は数学的アプローチしかしてないけど、僕はずっと直球ど真ん中で体当たりしてきた。世界一やつらのことを知ってるし、知ってるってことはそれだけ強いってことだ。彼を知り己を知れば百戦危うからずって孫子も言ってる」
……そうか。そうは言っても、君はやつらのことより自分のことを知らなさそうだ」
「どういうこと? 僕が子供だって言いたいのか? 自分のことなんか自分が一番よく知ってる」
 少しむっとした顔をするほとんど子供の親友を、ハーマンはゆったりと目に留める。彼が自分でもよく分かっていない、衝動や、欲望や、矛盾や、混迷を、もしかしたら自分のほうがよく分かっているのではないか、などと傲慢なことを思った。
 この調子ではまたいずれ、ドリフト実験のときのように、彼は何かを取りこぼして飛び出していくだろう。そして、その鮮烈な光のスピードに目をくらませることができる自分は、彼が落としていったものを拾って追いかけることになるのだ。馬鹿だな、落としたぞ、気をつけろ。そんなことを言って、彼のぐらついた世界の方程式を補填するのは、自分の仕事だと思っている。
 静かに見つめ合ったままでいると、そのうちニュートンはにやりと笑った。
「僕がかっこよすぎて見とれてるんだな。ハーマンなら特別にタダにしてやろう」
「いや。少し考えてみたが、やっぱり分からない」
「何が?」
「君がこの夢に感じることだ」
 ハーマンはコンフォーターから顔を出して、真剣にそう言った。ニュートンの笑顔はびっくりしたように固まって、ぱちぱちとせわしなくまばたきを繰り返している。
「君の言うとおり、君はずっとやつらと直接的に対峙し、その解明に尽くしてきた。それこそ人生を賭してきたことを私は知っている。だから今、君がどういう気持ちで、自分の研究と折り合いをつけようと奮闘しているのか、考えてみたが分からない。数学者は替えがきくからな、私は君ほど追い込まれないんだ」
「そんな――
「君の脳みそがどういう考え方をするか、もちろん私は実地をもって知っている。けれど、一度経験しただけですべてを分かったなどと思うのは、君に失礼だと思う。君の複雑さは折り紙つきだし、そういう複雑さこそ君そのものだ。だから、きっと私は、本当のところでは、君を理解することはできないのだろうなと」
「な、な、なんてこと言うんだ! 君は僕の親友じゃないのか?! 僕を受け入れてくれるんじゃ」
「いや、ニュートン。理解と受容は別の動作だ」
 途端にわなわなと震えて声を裏返したニュートンは、予想どおりの反応だった。だからハーマンは落ち着いて、ばしばしとシーツを叩いた彼の手の甲に手のひらを重ねる。
「それでも私は、君の気持ちが穏やかであるようにと願っている。本当のところの君がどうでも、きっとこの悪夢を見るたびに、君を苛むだろうある種の恐怖と憧憬が、君にとって、穏やかなものであるように――、私のすべてで、そう願っている」
 固く握られたこぶしを柔らかく包みながら、再び驚いて硬直してしまったニュートンによく言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を継いだ。うまく伝わればいいのだが、と思いながら、今度はまばたきを忘れてしまった親友の様子を窺う。
 やがて、彼はひゅっと息をのんだ。どうやら呼吸を止めていたようだ。ちょっと驚きすぎではないか、こいつは自分の親友の情の深さをたいがいなめてかかってやがる。そう思って少し不満の色を浮かべると、ニュートンも何故か辛そうに眉を寄せた。
 触れていた手が反転して、がしっとこちらの手首を掴んでくる。
 は? と思う間に、彼は身を乗り出して、眼鏡を外しながらかがみ込んできた。顔に顔を寄せられてぎょっとして、慌てて空いているほうの手で突っぱねる。
「何事だ!」
「いや、もうこりゃキスをするしかないなと」
「どういう思考回路があったらそういう結論に至れるんだ?!」
「だってハーマン、めちゃくちゃ僕のこと好きだろ……
「君は人の話をちゃんと聞いていたのか?! 私は今わりといいことを言ったんだぞ!」
「それを自己申告しなきゃいい話で終わったのに。でしゃばりハーマン」
「でしゃば、なんっ、なんだ! は?!」
 可能な限りの小声で叫びながら、迫りくる馬鹿をぐいぐいと押しやっていると、ニュートンは直進をやめてコンフォーターをめくり上げた。予想外の動きに素っ頓狂な声を上げれば、やつは嬉々としてベッドにもぐり込み、今度はこちらをぐいぐいと押しやってくる。
「つめて、ハーマン。もたもたするな」
「は?! 何を偉そうに、いや待て何がしたいんだ君は!」
「君が怖い夢を見ても穏やかでいられるように、僕が添い寝をしてやろう」
「結構だ! 正気か君は、うわ近い近い! うっとうしい!」
「文句が多いぞ」
「少ないと思うか?!」
 ほとんど揉み合いになりながら狭いベッドの上でじたばたしていると、そのうちパチンと音がして、室内は暗闇に包まれた。こいつ明かり消しやがった! と戦慄した一瞬の隙に、ニュートンにしがみつかれて身動きが取れなくなる。しばらくどうにかできないかともぞもぞやってみたものの、でかいコアラと化した親友は鉄壁なほどコアラに徹しやがった。オーストラリアに謝れ。
 頭も体も疲れ果てて、ハーマンは結局四肢を投げ出した。こういう呼吸はすさまじく身に覚えがあり、たいがいニュートンとのやり取りで発生するものである。深々と溜息をつけば、小さな笑い声が隣から聞こえてきたので、ハーマンは腹いせに近くのわき腹をつねってやった。
「痛い!」
「痛くした」
「やさしくしてほしい」
「君の態度による」
 この程度の報復で許そうとしている自分にも、ほとほと溜息が出る気分である。ハーマンは再三の溜息をついてから、投げやり気味に目を閉じた。眠るときに人が隣にいるなど、久しぶりにもほどがある。くっついている場所がひどく温かくて、緊張のかけらもしていない自分にはがっかりだった。もっと嫌そうにしてもいいはずだろう、こんなふうに安心しているなんて、お前はそれでもハーマン・ゴットリーブか。
……ハーマン」
 ほとんど何も見えない暗がりの中で、ニュートンは身じろいだ。こちらの肩に額をこすりつけて、ぎゅっと回した手に力を込める。
「どうしたらいいか何も分からなくなって、まるで迷子みたいな気分になるとき、僕はどうしたらいい?」
 ぽつりと不安そうに落とされた小声は、すでに迷子のようだった。ハーマンは静かにそれを聞いて、目を閉じたまま考える。
「自分を助けてくれるのは、結局自分しかいない。導いてくれる光は自分で灯さなければならないし、欠けたところは自分で補填しなくてはならない」
「僕の心が穏やかであるように願ってくれてるさっきのやさしいハーマンどこいった?」
 冗談だと思ったのだろう、ニュートンは少し吹き出すようにして揶揄した。片腕を動かしたかったけれど、彼に拘束されていて思いどおりにできない。
「十分にやさしいだろう。どうせ、君の思考は少しだけ私で、私の思考も少しだけ君だ。ブレインハンドシェイクなどしなくても、私たちはずっとそうだった」
……ハーマン。それってシンプルな言葉で言うと、You are my other halfになるんだけど。自分が何言ってるかちゃんと分かってる?」
「それでも怖いと言うなら、私が君の骨に火をつけてやる」



 しばらくの間、ニュートンは息をひそめていた。微動だにしない彼が何を考えているのかは分からないが、自分はすべて真摯に対応している自負がある。ふたり分の体温でぬくまったコンフォーターは次第に眠気をいざない、ハーマンはだんだんぼんやりとしてきた。拘束されていた腕がふいに動くようになって、まどろみにふらつきながら、ぽんぽんと彼の背中をやさしく叩く。ニュートンは少しだけうめいて、ぴったりとくっついてきた。
「初めて会ったあと、3年もほったらかしにしたくせに……
「それは私のセリフだ」
「分かってるだろ、かっこつけてたんだよ。追いすがって泣くなんてかっこわるいし、君に余裕を見せておきたかった」
「馬鹿の天才だな」
「それは僕のセリフだ」
「うるさいな……、私は初めから一貫していたからまだましだ」
「僕に嫌われたくないって? あの最初の手紙からずっと?」
「わざわざ言葉にしなくていい。もう寝るぞ」
「馬鹿だなあ、ハーマンは。馬鹿ハーマン」
「君ほど怖いものなしにはなれない」
 ぱたりと腕を投げ出して、ハーマンは深く呼吸する。顔を動かしたニュートンは、ぽんぽんとやさしくこちらの腹を叩いてきた。寝かしつけているつもりなのだろうか、君のほうが子供なのに。そう思うと口元がゆるんだが、笑みを形作るには1歩遅かった。
 ゆるりと眠りに落ちる寸前、耳元を揺れたささやき声が撫でる。
「ハーマンがいないと生きていけなくなりそうなのは、すごく怖いよ」
 その意味を問う前に、ハーマンは意識を手放した。翌朝起きてみると、ニュートンはすでにいなくなっていた。






「つまり、僕はハーマンから子離れして、自立しなければならないと思ったんだ」
「いや待て君が親か? ふざけるなよ? 君が長すぎる思春期を脱したいと決意したのならそれは喜ばしいことだが、それがなんで君の研究を私がまるごと抱え込む結論になる」
 研究室へ赴けば、ニュートンはいつもの調子で、サンプルから顔を上げるとぱっと笑った。すぐさま、キーボードの上に積んであったファイルを一抱えして、うれしそうに駆け寄ってくるので、犬の散歩はしないぞ、などと思いながら自席に座ったところである。
 ハーマンがコンピュータに電源を入れると、すかさずこちらのキーボードの上に彼のファイルが積み上げられた。キーボードはファイル置き場ではない、と苦言を呈して嫌な顔をしていると、ニュートンは得意顔で、でも君は紙のほうが好きだろ、と理屈の通らないことを言い出した。資料をめくってみれば、それは彼の今までのPPDC提出レポートに関わる補足資料の一部で、ニュートン曰く、これを君のせせこましく偉大な脳に全部収納しろ、とのことである。ふざけるな。
 ぺし、と紙を払って思いっきり眉を寄せても、ニュートンは構わず張り切っていた。ほめられるのを待つ子供のように、目をきらきらとさせている。
「君を一生負かし続けるには、僕はもっと強くならなきゃ。君がいなくても学会費の振り込み期限を守ったり、コーヒーカップを定期的に洗ったりしなきゃならない」
「うん……、それは私も本当にそう思うのだが、なんだろうなこのそうじゃない感は」
「僕は後にも先にもないブリリアントなジーニアスだが」
「その話、長くなるか?」
「君が悔しがって、完敗して腹を見せちゃうような超クールな人でいるには、さしもの僕にも努力が必要だ。だから、僕はひとり立ちして、ひとりでもできることを証明する」
「ニュートン……
「それで、ムキムキの男になって帰ってきたら、君と結婚する」
「超展開なんだが?!」
 言い方はさておき、ニュートンの突然の自立発言がお互いへの自負に由来しているらしいことを察して、ハーマンはじんわりとした感動を覚えたものだったが、直後無残に声を裏返らせた。にやっと歯を見せて、いたずらが成功したように笑うニュートンは、構わず楽しげにぽんぽんとファイルの山を叩く。
「そしてそのためには、僕はこの居心地のいい場所を出て、荒野に挑戦しなくちゃならない。つまり、君にここでの研究を引き継がなければならないんだ」
「理屈がアクロバティックすぎてついていけないんだが、ええと、つまり君はもう次の仕事を見つけたのか?」
「見つけてないけど?」
「いや、なんだそのきょとん顔。じゃあ何故今からこんなことをする必要がある」
「そりゃあ、僕の仕事は非常に天才的かつ膨大だからね。完璧に引継ぎをしようと思ったら時間がかかる。よって今からこつこつと行うことで、より効率的な素晴らしい未来を築こうという算段だ。Q.E.D.」
……君のその証明には致命的なミスがある」
「おっと? ご高説たまわりましょうかハーマン先生?」
 もしかしたら本当に素で忘れている可能性があるな、と考えるとまなざしも遠くなるというものだった。自分が正しいと確信しているニュートンの鼻を折るのは骨だが、こちらにもできることとできないことがある。今日は計算ソフトのアップデートをしなければならないし、彼の決意は尊重するが、馬鹿げた発想にいつまでも付き合っている暇はない。
 ひょい、と眉を持ち上げて、わざとらしく眼鏡をくいくいと動かすおとぼけ顔のニュートンを、ハーマンは高説を垂れる教授のようなしかつめらしさで見返した。
「念のために確認するが、君は私の専門を知っているか?」
「解析だろ。数学だ」
「そうだな。で、君の専門は?」
「生物形態学」
「解散!!!」
 尋ねている間に意味を悟ったようで、ニュートンは至極面白そうにそう答える。分かってやっているのかこのやろうとばかりに、ハーマンは声を張り上げて眼鏡チェーンを首にかけた。
 ニュートンはわははと笑いながらこちらに手を伸ばし、わざとらしくぶつかるように肩を組んでくる。
「集合!!!」
「せんでいい! 数学者に生物学を押しつけるな後任を作れ!」
「後任って、それPPDCの?」
「再編成されたんだから科学者はいくらでもいるだろう! というかここに以前のような追加人員が来ないのは何故だ!」
「そりゃ、僕らがめくるめくふたりの世界を作ってるからじゃないか? 無神経を誇る僕ほどの僕であっても、まあちょっと入りづらいだろうなと思う」
「くそ……! ごりごり入ってきていいんだぞ遠慮するな……! そして生物学者を増員しろこの馬鹿が馬鹿なことをほざかんように……!」
 キャンプファイヤーを囲むみたいに横揺れさせられながら、ハーマンは意地でも眼鏡をかけ、コンピュータを操作し、作業画面を取り出した。山積みのファイルは一抱えして、近くの小さな可動キャビネットを手繰り寄せて放置する。正直なところ、ものすごく、ものすごく読んでみたかったが、今その誘惑に負けてしまったら、この馬鹿の親友は有頂天で調子に乗るだろう。それだけは、どうしても避けたかった。今日が早々に終わりかねない。
「そんなこと言ったって、僕の研究を全部本当に分かってるのは、この世にひとりしかいないんだよハーマン」
「そうは言っても私だって、ずっとここにいるとは限らない!!」
「よしよし、分かった分かった。というわけで僕は君を弟子にしなきゃならないから、今からちゃっちゃと昨日提出の連名レポートを見直しするぞ」
「弟子?! ふざけ――、待った、昨日提出のレポートだと? 君が代わりに出しておくと言っていた?」
「ま、そんなこともあったよね。過ぎたことだよ」
「ニューーートン!!!」
 どうも、すでに今日は終了していたようだった。よしよしとこちらの髪をやさしく撫でてからニュートンは立ち上がり、のんびりと自席へ戻っていく。超展開が多すぎて頭を破裂させそうになりながらも、ハーマンは滞りなく、彼の名を呼んで叱責した。



 しばらく、自席でおとなしくレポートを読んでいたニュートンは、ほっと吐息してから背筋を伸ばす。
 その様子を見やってハーマンも背筋を伸ばすと、彼は椅子を回してぴたりとこちらを向いてきた。
「ハーマン」
「なんだ」
「だめだな、この結論は即急すぎる」
「計算ではそうなる。私が出すべきは数理モデル上の期待値だ」
「いや、断然、改善の余地があるね。聞きたいか?」
 くい、と持ち上がる口角は、挑戦的な曲線を描く。そんなニュートンの表情に、ハーマンはいつもどおり、同じものを返した。
「ご高説、たまわろうじゃないか」