はるの
2022-08-08 23:13:43
54039文字
Public パシフィックリム
 

骨に火をつける

全年齢|newmann|2022.1.30|香港シャッタードーム赴任時から怪獣戦争終結後までの博士組つれづれ話。



 2017年の破局を、ハーマンはよく覚えていた。
 4年もかけて培ってきた、情熱や、信頼や、相手が唯一無二である確信、そういった、心を捉えて魅了する、ある種の熱病にも似たものを、華々しく打ち上げて爆発四散させた事件だ。手紙ではあんなにも熱烈にやり取りしていたというのに、一目会ったその日にお互いキレ散らかして喧嘩別れしたのは、今までの人生においてもトップの成績を誇る「計算外」だった。
 正直なところ、張り切りすぎたのがだめだったのだろうと思う。
 ニュートンは自分をよりよく見せようと、過剰に強く大げさに振る舞い、ハーマンは余計なことをして嫌われないよう、過剰に口をつぐみピリピリと警戒していた。結果的に、空回りし、口論に発展し、会わなければよかったという意見の一致をみたふたりは、左右に分かれて靴音も荒々しく立ち去ったわけだ。
 そんなふうに子供じみた、コミュニケーションがへたくそでしかなかった失敗を、ハーマンはどうしても認めることができなかった。認めてしまえば、謝らなくてはならなくなる。自分から歩み寄ることを意味するそれは、拒絶された場合の仮定を想起させ、あっという間にハーマンの足元をすくませたのだった。それならまだ、嫌われていたほうがいい。ずっとそのようにしてきた経験から、ハーマンは自分の気持ちにそう折り合いをつけた。なんたって、こういうことは得意なのだ。嫌われたり、あきらめたりすることは。
 そして、ニュートンのほうも謝る気はさらさらなかったのだろう。あれ以来、ふたりは一度も連絡を取らなかった。発表される論文にはすべて目を通し、科学誌のインターネットコラムでさえ精読して、脳みそがパンクしそうなほど「言いたいこと」が溜まりに溜まっても。彼の連絡先を長時間見つめたあと、ぱたんと閉じてしまうしぐさが、もはやお決まりのパターンになるくらいに。
 だから、異動辞令を受けて了承したあと、改めて香港シャッタードームの科学部門メンバーを確認していたとき、ハーマンは思いっきり目を剥いて椅子から落ちかけた。同じ日付で異動辞令を受けているもうひとりの名前を、完全に見落としていたからである。






 ニュートンが香港に現れたのは、ハーマンが到着してから3日も経ったあとだった。
 研究室に入ってくるなり、近くにいたメンバーに自席の場所を聞き取り、まるで飄々とした様子で足取りも軽やかだ。大遅刻をしたとは思えない図太い態度で、抱えていた段ボールを空席にどさりと置くと、ぐんと伸びをしながらこちらを流し見てくる。思わず手を止めて彼を窺ってしまった自分に悔しい思いをしたものの、ハーマンは何も気にしていませんという表情を全力で取り繕って、その視線を静かに受けとめた。
 彼が今立っている場所は、いくつかの机を寄せた島を見渡す壁際の席で、自分も少し離れた隣の島の同じポジションに座っている。つまり、目が合ってしかるべきなのだ。あからさまに無視するほうが不自然だし、逆に意識したみたいになってしまうだろう。
「防潮堤みたいな巨大な壁を作る、なんてトンデモ案が出てるみたいなんだけど、どう思う?」
 ニュートンは、気軽に、世間話を振るみたいに、突然そう言った。
 昨日別れたばかりの同僚に投げるような、ライトでビジネスな装いだ。それがあまりに予想外すぎて、ハーマンは眉を寄せる。何故なら、ニュートンという人間は、もっと専門的で身勝手なはずなのだ。本当はずっとニッチで込み入っているはずの彼が、こういった態度を取るのは、非常に、非常に癪だった。連絡を絶っていた空白の3年間で、彼がそのように変化したというのなら、それは本当に、本当に――、私は何も変わっていないのに。
「あらゆる面から戦略を検討するのは必要だろう。現時点でもキルレシオは彼我の生産比の逆数を下回っている」
 とにかく反論しなければと、ハーマンは考えてもみなかったことをそれらしく口にした。ニュートンはシニカルに笑って、段ボールからごちゃごちゃと中身を取り出していく。
「そりゃあ、こっちがやっと2体修理している間に、向こうから1体寄こされちゃあな」
「とはいえ、イェーガーの工場滞在時間は現時点で最速だ」
「そうだ。どんなに強くても、作りかけじゃあ意味がない」
「だから、そのための壁なんじゃないのか? 時間稼ぎができれば」
 ファイルケースとラップトップが折り重なって出てきたかと思えば、精巧な怪獣の模型と一緒に食べかけのビスケット箱が現れた。うん、やはりこのカオス理論のモデルになれそうな乱雑さ、ニュートンだな。彼の斜め前に座っている分子生物学者が呆然とした顔で自分の新しい上司を見上げる様子にさえ、どこか安心した気持ちになってしまって嫌気がさす。
 そんなこちらには構わず、ニュートンはわざとらしいくらいの驚き顔で、妙なことを言い出した。
「あれ、もしかして塹壕みたいなの想像してる? 違う違う! 城壁を作るって話だよ、中世の都市みたいにね」
「城壁?」
 思わず、きょとんとしてしまう。壁を作る、という施策案は自分も聞き及んでいたが、まさにニュートンが言ったとおりの想像だったからだ。そうでなければ、あまりにもでたらめだと思った。数日で自然死する生命体を相手にするならさておき、放置して増加した怪獣がまとめて押し寄せでもしたらどうするつもりなのだろう。
 改めて目を合わせた彼は、殊更あざけるような笑みをしてみせた。
「間抜けそのものみたいな顔だぞ。僕は断固反対だ、それこそまったく意味がない」
……断言する根拠がない」
 ぴしゃりと断言したニュートンは、さっさと荷物の整理に戻ってしまう。揶揄されたハーマンはむっと来て、ごく正当に異議を申し立てた。それこそ、こんな口頭のうわさレベルで展開される論説に、いったい何の意味があるというのか。
 ニュートンは箱の中身をすべて出し終わったと見えて、適当に空の段ボールを床に放ると、どっかりと椅子に座り込んだ。その行動にも遠慮なく眉をひそめていると、彼は山となった資料ファイルを吟味するように指でたどって、適当な紙を引っ張り出してくる。
 そして何故か、かろうじて空いている机の端で、その紙を折り始めた。
「段ボールは、潰して、畳んで、所定の場所へ捨てろ」
「だって、空飛ぶ怪獣が現れたらどうするんだ?」
 折り終わったニュートンは、くるりと椅子を回して確信的に口角を上げる。
 彼の手から放たれたごくシンプルな紙飛行機は、ひょろりと飛んでハーマンの額を直撃した。
 例の分子生物学者も、こちらの島で一心不乱にデバッグ作業をしていたエンジニアですら、驚いたように顔を上げる。きっと誰もそんなこと、考えたことすらなかったのだろう。斬新にもほどがある。彼にしか得られない視界だった。海中でものしのし歩くあの連中に、y軸の発想があるなんて――、これだからこの男は。
 あっけにとられた一瞬、強烈な憧憬が稲妻のようにやってきて、ハーマンは奮い立った。脳裏でこぼれ落ちた過去に慌てて蓋をして、論理的な思考を取り戻す。
「あんな重量の生き物が飛ぶか!」
 そして、ごくまっとうな反論をした。小さく叫びながら、ラボメイトの全員が驚いていたのは、生物学の権威たるガイズラー博士が素っ頓狂なことを言ったからだ、とやっと気づく。
「飛ぶ! 僕はいずれ飛ぶ怪獣が現れるんじゃないかと思ってる。何故ならやつらの構造は」
「そんなの、単に君が見たいだけだろう! なんて不謹慎なんだ、まったく、信じられない!」
「なんでも不謹慎で片づけるのは馬鹿がやることだぞ! そりゃ見たいのは見たいけど、でも十分に考えられることだ!」
「考えられるわけがない! そう言うのならその根拠を出してみろ!」
 なんだか自分が本当に間抜けになったように思えて、ハーマンはひたすら声を張り上げた。思ってもみなかった再会に、きっと自分は思うより動揺しているのだろう。
 それに、なんでもないように話しかけてくるニュートンにも、やたらめったら腹が立った。自分以外の人間すべてが馬鹿だと思っている傲慢さも、自分の望みを一番に優先させる身勝手さも、そういう、こいつの悪いところは全部、どうせ何もかも変わってないくせに。
「言ったなハーマン、ちょっと待ってろ!」
 ニュートンは歯をむき出しにしてこちらに人差し指を向けると、ファイルの山の下のほうからラップトップを引っ張り出してきた。同時になだれ落ちて床に散ったファイルを呆然と見つめる分子生物学者に、電源タップどこ! と叫んでいる。
 こんな態度じゃラボメイトに早々嫌われるだろうな、ざまあみろ、と思いながら、ハーマンは額に当たって墜落した紙飛行機を拾い上げた。色褪せたそれをゴミ箱へ捨てる前に、何の気なしに広げて――、『親愛なるハーマン、』という、いつもの手紙の書き出しだけが書かれていることに気づく。
「ハーマン! いいか、怪獣の構造に関する力学的処理において、おい話を聞けよ!」
 用意ができたらしいニュートンは、ディスプレイをこちらに向けてわあわあと騒いだ。ハーマンの手の中にある紙などお構いなしに、放心して話を聞いていない同僚に文句を言う。本当に、何ひとつ、彼は変わっていないのだろうと思った。――何ひとつ、かけらだって。
「人前で馴れ馴れしく名前を呼ぶな!」
 ハーマンは、かつて謝罪になり損ねたのだろうその紙を、ぐしゃぐしゃに丸めて自分の引き出しに放り込んだ。ニュートンは非難がましい悲鳴を上げたが、構わず杖を取って立ち上がり、わざわざ彼の机まで出向いてやる。話してみろ、と凄みをきかせれば、彼は一瞬唇を噛んだあと、威勢よく持論を展開し始めた。



 ニュートンはべらべらと論説を並べ立てながら上着を脱ぎ、ラップトップの画面を切り替えながら器用に腕まくりをする。つくづく並行処理のうまい男だと思いながら、ふむふむと真剣に聞いていたハーマンは、思わずぎょっとしてその前腕部を二度見した。頭の中で積み立てていた反論が一気に吹き飛んで、横隔膜が勝手に大量の空気を肺に取り込む。
「ニュートン!!」
「うわびっくりした! やっと名前を呼んだな、君は人間の発明した名辞というものを――、ハーマン?」
 思わず伸ばした手が、空中をさまよう。
 どう考えても彼の腕に敷き詰められていたのは入れ墨で、どう穿って見てもそれは怪獣のデザインだった。つまりこの男は、彼の研究のすべてであり、世界に仇なす人類の敵を、一生消えない形で肌に刻んだわけだ。馬鹿じゃないだろうか。なんて馬鹿なのだろう。君のその複雑系の権化みたいな気持ちなんて、誰にも理解されないだろうに。
「君のことは、常々天才だと思っているが」
「えっ! ハーマンがほめた……、あ、これのこと? 最高にクールだろ、こんなことができるのは世界中でも僕くらいだ。というか君が気に入るなんて」
「馬鹿の面でも世界に誇る天才であることを忘れていた。本気で言っているのか?」
「全然ほめてなかった……、馬鹿の天才ってなんだよ!」
「どうしてこんな馬鹿なことを」
「あーあ。君もそれ言うんだな、まあ知ってたけど」
 様子を窺っているラボメイトの全員が、奇異の目で新任の生物学者を観察しているのが分かった。ハーマンとしては、なんだかもう悲しくなってきてしまう。彫師も止めろよ、と切実に思った。どうしてこの男は、自ら進んで生きづらくなってしまうのだろう。
 結局どうにもできなかった手を、ハーマンは腿の隣に戻してぎゅっと握り込んだ。
 その手をじっと目で追っていたニュートンは、ふいにやさしい笑みを浮かべる。
「最初に墨を入れたのは、2017年だったよ」
 ほとんど甘やかな、夢見るようなまなざしだった。そんなふうに見つめられて、ハーマンはおののき息をのむ。
 つまり、こいつは、あの喧嘩別れをしたあとに、自分の皮膚を針で突き刺したということか。自分を強く、大きく見せたがる、無茶苦茶な彼とのファーストコンタクトを思い出す。これがあのときに損なわれた、自己顕示欲を満たしたいという衝動の結果なのだとしたら。
「な~んてね。傷ついた? 傷ついたねハーマン、君はロマンティストだから。これでドローだぞ」
 わなわなと震えながら頭を真っ白にしていると、ふいに、ニュートンはにやりと笑ってそう言った。ふんぞり返るように椅子の背もたれに背を伸ばし、大げさな態度で足を組んでみせる。
 ここが職場でよかった、とハーマンは思った。そうじゃなければこいつの眼鏡をカチ割るか、泣き出すかしていたところだ。
――話を続けろ。生体構造のほうだ」
「こっわ。そんなツンツンしてたら嫌われるぞ」
「君になら望むところだな!!」
 結局その日は1日中、そんな調子で終わっていった。しゃべりどおしで交感神経も振り切れていたので、夜には夢も見ないで寝てしまった。






 実際のところ、すさまじく鬱陶しがられてはいたが、ニュートンが嫌われるということはあまりなかった。もともと、彼のような人間に嫌悪のある者は近づいてこなかったし、彼もわざわざ遠くにいる人間に近づいていくことはしない。ルールは守らず、いるだけでやかましく、否定の言葉はきつかったが、科学部門のメンバーに関していえば、そのすべてをカバーして余りある彼の比類なき才能に、一定の理解があった。ガイズラー博士なら仕方ない、と思わせる彼のありさまは理不尽ですらあったが、ペントコスト司令官からしてその術中にはまっているのだから見事である。
 ニュートンの仕事は主に怪獣の解体――物理的にも、理論的にも――であったので、研究室よりも実験室にいることのほうが多かった。ついこの前には、実験室のすみに自分の寝床を作ってしまったらしい。まあでも仕方ないよな、ガイズラー博士だもんな、なんてバイオチームのメンバーはあきれたように言い合っていたが、それで済んでしまうあいつは本当にずるい男だと腹立たしく思ったものだ。
 たまに彼が戻ってくれば、報告書! と親の仇くらいの憎々しさを込めて吠えたて、うるさいと注意しようものなら怒涛の多弁で食ってかかられた。八つ当たりはいいかげんにしていただきたい。それに、そうなったニュートンは、1から10まで報告書の内容を伝えてくるのだ。こちらだって黙っていられなくなってしまう。
 そんな彼でも、ごくまれには、おとなしく座って延々とデスクワークをこなすこともあった。けれど、一定時間で彼は突然立ち上がり、散歩と称して部屋を出てしまう。ニュートンが言うには、「何時間も画面を見たままなんて脳みそが眠っちゃう」からで、どうもシャッタードーム内をうろついているようだった。ハーマンは何時間でも画面を見ていられるタイプなので、彼の言い草はよく分からない。けれど、管制室のメンバーなどと楽しそうに話しているのを廊下で見かけるたびに、彼自身はディスコミュニケーションの塊でもなんでもなく、人と話すことにためらうことも恐怖することもないのだ、と思い知ってなんとも言えない気持ちになった。つまり、彼の個人的な交友関係の希薄さは、ただ単に彼自身の奇天烈さが、人類にとっては少し高いハードルであるだけで――、いや、こう考えると根本的な問題があるのではないか、と思わなくもないのだが。
「ちょっと強烈が過ぎますけど、面白い人だと思いますよ」
 彼の部下であるところの分子生物学者は、このような評価であった。研究室とドアでつながっている検証用の別室で、彼はやや苦笑を交えつつ回答し、それにハーマンはぎこちなく笑い返す。
 ブレインハンドシェイクの脳データ処理に関する実験だった。パイロット側の負荷を軽減すると同時に、入力と出力に必要な時間を短縮する改良である。人の脳を専門に扱う彼からシステムアップデートの精査を求められ、ともにシミュレーションを動かすことになったのだ。
 こういうときは、黙々と作業をするだけではなく、何か話さなくてはならない。せっかくの新しい環境で、偏屈なばかりではだめだということは分かりきっていたので、ハーマンは努力して話題を探し、結局ニュートンをやり玉にあげる手段を取った。やつに頼るようで気に入らなかったが、もし何か間違えたりしても、どうせニュートンだと思えば気も楽である。
「ある意味愉快、ということだろうな」
「はは。この前、実験室でシンセサイザーのリサイタルしてました」
「何をやっているんだあいつは……
 仕事をしろ、とここにはいない同僚に向かって叱責しながら椅子を引けば、彼はささやかに笑ってホログラフィックをオンにした。イェーガーの思考部分と同じシステムが表示されて、ハーマンはソースコードを確認する。
「でも、彼のあの怒涛のラッシュを、ゴットリーブ博士は全部打ち返すじゃないですか。俺、最初びっくりしましたよ」
「打ち返せる程度の球を投げてくるならな。私だって学者の端くれだ」
「全然端くれではないと思うんですけど……。そうじゃなくて、博士って結構しゃべるんですね」
 気軽に言われたそんな言葉に、思わずぎょっとして相手を凝視してしまった。なんと返答するのがいいのか分からなくて、脳がフリーズしてしまう。彼はそんなこちらを気遣ってか、すぐさまやさしく眉尻を下げると、謙虚な様子で笑みを絶やさず軽く片手を挙げた。
「あ、悪い意味ではなくて」
「い、いや……、その。うるさくしているのなら申し訳ない」
「悪い意味ではないですって。すごく気難しい方なのかなって思ってたけど、今は親近感ありますから。あ、これはさすがに失礼かな、すみません」
「いや、なにも……、その、大丈夫」
 言葉に詰まってもごもごとなってしまい、ハーマンは意識してキーボードに向き直る。こういうとき、どう会話をつなげるのが正解なのか、この分子生物学者にならきっとすぐさま分かるのだろうなと思った。バイオチームのみんなだって、管制室のメンバーだって、きっとすぐに分かるのだろう。たぶん、ニュートン・ガイズラーだって。
 そう考えた途端、ものすごく自分が嫌になった。この醜悪な羨望は、やり過ごすのに少しだけ気力が必要だ。
「見たところ問題はない。シミュレーションを?」
「はい、お願いします」
 システムをスタートすると、疑似的なデータが取り込まれてポンズを形成した。その様子はホロにも映し出されており、彼は真剣にその様子を見つめている。少し落ち着いてきたハーマンは、処理中の画面を見つめながら、予想より速度が出ていない理由を考え始めた。
「処理の偏りで……、遅延が」
「えっ、どこです?」
「落ちたあとつなぐタイムラグ……
……ゴットリーブ博士?」
 感覚的に動作が不自然に思えた場所を目でなぞって、頭の中で処理内容を構築していく。そのうち、問題はなくともあまりうまくはない部分を発見して、書き直してからリトライした。速度は出てきたが、改善の余地はありそうである。
「よくはなっている、が、もう少しよくなると思う。入力じゃなくて出力のところだな」
 総合的にそう評価して見上げると、ぽかんとこちらを見下ろしていた分子生物学者は、はっとしてごまかすように笑った。
「ありがとうございます。やっぱ数学ができると違うなあ」
「君は脳みそに詳しければそれでいいだろう」
「脳みその話になると、やっぱ数学の素養って必要ですよ。それからゲノムとか、バイオメカニクスとか」
「ああ、ニュートンがやっていたな。ひどい数理モデルを作っていた。最後にはなかなかきれいになったが」
 確かあれは修論か何かになったのではないだろうか。彼の論文はつぶさに覚えているが、それがどこで発表されたかはうろ覚えである。たとえノーベル賞を取っていても忘れてしまいそうなくらいだが、そういえばニュートンは、いずれ受賞するノーベル生理学賞は受け取りを拒否する、と断言していた。世迷言もはなはだしいが、そうする理由が「そのほうがロックだから」だったのは、さすが馬鹿の天才といったところだ。
「博士はずっと数学なんですか? 結構コンピュータにも強いですよね」
「いや、最初は航空工学だった」
「へえ! あ、じゃあそこからイェーガーにつながっていくわけですね。数学に転向したのはお父さんの影響ですか?」
 お父さん、という単語が耳に届いて、我に返った。
 のんきに回想していたハーマンは、手持ち無沙汰そうな分子生物学者を見やって慌てて立ち上がる。席をゆずれば、そのまま改良に着手するようで、彼はそつなく着席した。ハーマンは立てかけておいた杖を握り、手のひらが少し湿っているのを感じる。
「まあ……、うん、そんなところだ」
「ハーマン!!!」
 苦心して笑みを浮かべた途端、ドアの外からそんな怒号で呼びつけられた。



 何故か戸口で仁王立ちしているニュートンは、何故か非常に不機嫌そうで、ハーマンは辟易した顔になった。
「自分の機嫌は自分で取れ」
「えっ、君は僕の機嫌がハーマンで直ると思ってるのか。すごい傲慢だ!」
「そんなわけあるか! 八つ当たりをするなと言っている」
「どうして八つ当たりだって分かるんだ」
「今のその言葉で証明された。語るに落ちたな」
 眉間のしわをつまみながら別室を出ていくと、ニュートンはそのまま歩いて研究室からも出ようとする。自席に戻ろうとしていたハーマンは、思わずその場でたたらを踏んだ。
「だが八つ当たりじゃない。ついてきて」
「どこへだ。あと人前でファーストネームを呼ぶな」
「懲りないな~」
「君から懲りろ!」
 どうせ無視して机に座っても、気になって仕方ないだろう。そう考えて踵を返し、ニュートンの背中を追う。廊下に出ると彼は肩を並べて、散歩でもするような歩き方をした。
 すぐそばに、彼の入り浸っている実験室がある。目的地はここだろうと思っていたが、やつはそのドアも通り過ぎてしまった。
「ハーマンの航空工学は、イェーガーとも、君のパパとも無関係の、君自身が飛行機を飛ばすためのものだった。なんで嘘なんか言ったんだ」
 この先にはJテクや司令部につながるハブルームがある。研究者が陣取るスペースは人の出入りが少ないので、閑散としたものだった。ごつごつと金属の床に杖の音を立てながら、ハーマンは隣の同僚を見やる。
 なんてことない顔で前を向いていたので、自分もなんてことない顔で前を向いた。
「そんな話をしても、つまらないだけだろう」
 技術者が数名行き交っているハブルームに入る寸前、ニュートンはのんきな足音を変えた。こちらの顔を覗き込むようにしてステップした彼は、背中の後ろに両手を組んで、実ににやにやとしただらしない表情を向けてくる。
「そのとおりだな! 死ぬほどつまんなくて退屈な話だから、誰にもしないほうがいいよ!」
「なっ、きさま……! 人の心がないのか?!」
「言い出したのはハーマンだ!」
 つまりハーマンが人でなしだ! と楽しそうに叫んで駆け出したニュートンに、慌てて大股を出しながら、君のほうがそうだ! とハーマンは反論した。地団駄を踏むようにがつがつと強く杖をつけば、また君らか、という顔をして、Jテクメンバーがすれ違っていった。






 ペントコスト司令官からの要求は実に端的である。
 科学部門に課された仕事は、簡単に言えば、負けても死なずに壊れない方法と、勝てるときには必ず勝つ方法を、理論化し、実用できる形にして、報告書として司令部に提出することである。それも、常になるべく早く。
 実用的な人間であれ、という方針で育ってきたハーマンにとっては、まだ食らいついていけるスピードだった。けれど、軍属歴の短い数人の同志は、そうもいかなかったようだ。納期より自分の研究を大切にしたいという意思は、科学者全員が深く理解できるところである。致し方なし、とは思うものの、離職者が出るたび並行して進めなければならないプロジェクトが増えて、非常に頭が忙しかった。ひとつの問題を考えている脳のバックグラウンドでまた別の計算を無意識にしているおかげか、突如降って沸いたようにまったく別の解決策を思いついて、それがまた無意識に沈んでしまわないよう慌てて書き留めるものだから、机の上が紙だらけという大変なことになっている。取り急ぎ、プロジェクトごとにきっちりと角をまとめて机上に配置はしているのだが、それをちらっと見たニュートンは、不快そうな顔つきで「うわっ、ハーマングリッドだ目がちかちかする!」とわめき立てた。誰がうまいことを言えと言った。
 つまり、年の瀬が迫った夜であっても、決まった労働時間を課されていない研究者たちは、それゆえに、それぞれの問題に没頭していた。
「来年早々テストだそうだ」
「来年?! いや、それってあの新兵器の話じゃないよな。怪獣の進路を台風みたいに予測しろとか無茶なこと言ってきてる君の案件のほうだよな?」
「それは君が怪獣固有の放射線をポータブルに検知する方法を考えるやつだから、君の案件でもある」
「謎の中性子反応だぞ! シンチレータ使ってわやわやしてるけど、どうあがいても物理の仕事なんだよ! 怪獣博士には荷が重い!」
「何が怪獣博士だ。物理も博士号を持っているだろう君は。あと、あの新兵器の話だ」
「やっぱりぃい! 今のままじゃ怪獣を吹っ飛ばすと同時に自分も吹っ飛ぶって司令部は分かってんの?!」
「それをなんとかするのが科学部の仕事だろう、と言われた」
「いつかあのすました顔を怪獣の小腸ではたいてやるからなペントコスト……!」
「その前に森氏にこきゃっとやられるだろうな」
 はあ、と大きな溜息をついて、ハーマンは力なく自席に収まる。先ほどまで出ていた会議で、司令部からは断固としたトップダウンで厳命され、技術部からは「そちらの納期が遅れれば遅れるほどこちらがデスマーチする羽目になるのは重々承知なんですよね?」という鬼気迫る視線を矢のように受けてきたばかりだ。ただでさえ人との意思疎通はひと仕事だというのに、このまましおしおと枯れ果ててしまいたい気分だった。
 ちら、と顔を上げてほかのメンバーを窺ってみるものの、テックチームは誰もが必死に画面に向かっているし、バイオチームは全員実験室送りになっている。
 結局、自分しかいないのだ。ハーマンは深く目を閉じて、静謐な北極海に沈んでいくようなイメージを作った。自分を助けてくれるのは、結局自分しかいない。導いてくれる光は自分で灯さなければならないし、欠けたところは自分で補填しなくてはならない。
「ニュートの巨体制御理論もイェーガーの設計に反映させないと……
「えっ、今ニュートって言った?」
「あれでずいぶん軽くなる。いや、今は関係ないな、関係ないか? 相手を焼く前に自分の手が焼け落ちるんだから」
「聞いてないな。おーいハーマン、だが僕が算出しただけの電磁場がないと必殺の武器にはなんないぞ」
「分かっているから君も案を出せニュート!!」
「びっくりした!! 完全に目が据わってるぞハーマン、そんなふうに愛称呼ばれてもうれしくないよ! いやごめんうれしいな?! いいぞハーマンその調子その調子」
「杖で殴られたいのか?」
「殴られたいわけないだろ何言ってんだよ」
 おそらく、ニュートンのほうも、ほぼランナーズハイみたいな状態になっているのだろう。突然わめいたあとド真顔で彼を見つめれば、彼も同じくらいのド真顔でこちらを向いてくる。ふっ、と短く息を吐いて、ハーマンは問題に取り組み始めた。ニュートンは実験室へ行かなくていいのだろうかという懸念が一瞬脳裏をよぎったが、努めて気づかないふりをする。導きの光も欠損の補填もセルフサービスだが、その〝セルフ〟の境界線をどこに定めているのか、自分で思い知って打ちのめされたくなかったからだ。彼と連絡を絶っていた3年間、彼との弁証法的アプローチなしで、どうやって自分の思考に推進力を得ていたのか、ハーマンはもはや思い出せなかったし、思い出したくもなかった。そんなものはないという結論が出てしまったら、きっととてつもなく恐ろしいことになる。
「とにかく、手元にあるときは放射を最小に、着弾で最大にしなければならない」
「その発想でいいと思う。段階的にエクスプロードできないかな」
「爆弾ならどうにでもなるが、電磁波だろう。手元でまとめるにしても技術がいる」
「まとめなくても強い指向性があれば? サイクロトロンからライフリングみたいに」
「あ、あ、待った、計算する」
 ニュートンは奇抜で奇矯な人物だが、科学者のおおむねがそうであるように、研究に対してはいつでも真面目だった。ぶつぶつ言っていると、隣から的確に合いの手が入り、そのうちふたりでぶつぶつと言い出すのは、両者が在席しているときにはよくあることである。そのうちヒートアップすることはもちろん多いものの、万感の思いで解けた問題の美しさを実感することもある。研究室のメンバーは、もはやそんなふたりには構わないようになっていた。
「違う違う! だとしたらドリフトで不安定になるだろ、いやブレインハンドシェイクのほうじゃなくて」
「分かってる! MHDの式があっただろう、ここの計算を合わせないと」
「あ~~~~~~、反転させられない?」
「反転! 君は馬鹿か! 理論上は可能だろうがどうやってそんなもの」
「あー、待って、ここまで出かかってる……



 結局、その問題が解けたのは年末で、実用化案を報告書にまとめ終わったのはぎりぎり年も変わる時間だった。
 ほうほうのていで技術部へ送信し、「よいお年を」に中指の立ったハンドサインが添えられている返答を受け取って、ハーマンは机に突っ伏したものである。もともと、体力には自信がない。隣で元気いっぱい技術部を煽り返している馬鹿の体力を少し分けてほしいくらいだった。
「はは、ほとんどふたりでやっつけたな!」
「物理学者に入ってほしかった……、どうして国に帰ってしまったんだ……
「そりゃ、ホリデーシーズンだからだろ」
「戻ってくるんだろうな?」
「さあ、どうかな」
 年々、PPDCの立場が悪くなっていることは、主にコスト管理の面において、じわじわとした実感がある。世間の風評にはほとんど目を通さないので分からないが、将来性を見限って出ていってしまう研究者や技術者が何人かはいるようだった。
 顔を上げれば、空席しかない研究室が映る。年始の深夜だからということは分かっているが、なんとなく、今後の自分がどうなるかを予想させるような風景だった。
「ねえ、君の仕事を手伝ったんだから、今度はハーマンが僕の仕事を手伝ってよ」
「は? これは君の仕事でもあっただろうが。まあいい、何をしてほしいんだ」
「真皮を同じグラム数で切り分けるやつ。君そういうの得意だろ?」
「怪獣の解剖は絶対にやらない!!」
「なんでだよ! 一緒に仕事を仕上げた日くらい『うん分かった最高にロックで天才なニュートくんの頼みなら何でも聞いちゃうだ~いすき!』くらい言えないのかよ!」
「言うと思うか?!?!!」
「思わない。はあ……、かわいそうなニュートくん。自分の研究そっちのけで助けてあげたのに」
「だから、君の課題でもあるって……、はあ、だめだ。疲れた」
「君ほんと体力ないな? こんな軍事研究室、レンジャーじゃなくても体力勝負だぞ」
「うん……
「助けてくれなんて頼んでないぞ! とか言わないの? え、寝ちゃう? ハーマン!」
 ニュートンのあまりの軽口に大声を出したせいでどっと疲れ、ハーマンは再び机に突っ伏した。とにかく頭が膨張していてどこかふわふわした感覚があったし、「助けてくれ」とは言っていないが、意識的にニュートンを実験室へ向かわせなかった自覚はあるからだ。実際のところ、この案件が解決したのは彼が隣に座っていたからだし、自分ひとりでは到底たどり着けなかっただろう。〝セルフ〟の境界線における憂慮を思い出して頭が重くなったが、せめてそれを認めるだけの素直さは、こんな自分の中にもあってほしかった。
「君と私の課題だと言っただろう」
「厳密に言うと、僕の理論を使った君の課題だ」
「じゃあもうそれでいい。よくやった、いい仕事だった」
「上から目線じゃない?」
「導いてくれる光を君が灯してくれて、欠けたところは君が補填してくれた、とでも言えばいいか?」
「えっ」
……
「えっ、ごめん、なんだって? えっ、どこの歌詞から引用した? えっ、もしかして僕のこと、めちゃくちゃほめちぎってる?」
「だめだ、ねむい」
「ちょっ、ハーマン! すっごいこと言ったまま寝落ちないで! あと普通に年越しだから今年もよろしく的な挨拶をする場面なんだけどハーマン! そんな格好で寝ると肩痛めるぞ! ハッピーニューイヤー!」
 ガタンと音を立てたかと思うと、飛び出すようにやってきたニュートンにわしわしと肩を揺さぶられる。慣れないことを言ったせいでどういう顔をしていいか分からないのと、今更改まって挨拶をするのもどうかと思うのと、普通に眠気が押し寄せてきて、ハーマンはただ揺さぶられるまま、脱力して机に突っ伏し続けた。






「絶対にテレパシーが使える。あるいは本当の脳みそが故郷にあって、データ通信で思考してるんだ、クラウドゲームみたいに」
「世迷言を言っている暇があるなら働け」
「だってそう考えないとおかしいだろ、イェーガーの被ダメージパターン見たか? 見たよな君が監修してる。どう考えても全員コンティニューしてるし、こいつなんかほとんど攻略方法を知り尽くしてる。的確にコンポッドを狙ってくるんだぞ」
「テレパシーだとかクラウド化だとか……、最近の君の発言は突飛すぎるぞ」
「そりゃあ分かってきたからね。そんで、世界中の誰も僕みたいな研究の仕方はしてないんだ。自分が理解できないことを見ようとしないのは本当に残念なことだよハーマン、人間なんて所詮赤外線すら見えないし、低周波も聞き取れないポンコツなんだぜ?」
 ニュートンは研究室の自席に戻ってくるなり、むかむかとした表情でそうわめき立てた。PPDC拠点間での生物学ミーティングが予定されていたと思うが、おそらくその帰りだろう。強い発言は必死に自分を守っているようにも聞こえ、どうやら才能をひけらかしたいムードになっているようだ、とハーマンは推測した。
 こういうニュートンと話していても、どうせ中身のない喧嘩にしかならない。ハーマンは落ち着き払って、自分の仕事に戻った。
……なら、その機能をつかさどる部位はちゃんと発見したんだろうな」
「それはまだだけど! 君も知ってるだろ! 知ってることをわざわざ聞くなんていじわるのやることだ! それに、僕は見たこともない形態のDNAを解析する偉業で手いっぱいだった! もっとほめられてもいいと思う、ほとんど暗号の解読だったんだぞ。あれほど美しく、あれほど難解な設計図は、きっと僕にしか理解できない」
「そうだな」
「『そうだな』! 片手間に答えやがって……、ハーマンのmRNAをナイフヘッドに移殖してやる」
「やめろ。それに、やつらたんぱくは作らんだろう」
「言ってられるのも時間の問題だ。もし僕が正しくて――、まあ正しいけど! 怪獣のみなさんが戦略レベルでタイムラグなしに意思決定の最適化を行っているとしたら、君ののんきなオペレーションズ・リサーチも終わりだ。今すぐシミュレーションをやり直すべきだね」
「今はブリーチの解析で忙しい。君はくだらない会話を続けていられるくらい暇なようだから、ぜひ代行してくれたまえ」
「あのフェルミ推定みたいなやつか? そりゃあああ大変だな!」
 まあ、およそのところでニュートンの学説は冷笑されたのだろうな、という同情心はあったものの、完全にとばっちりである。だんだんとこちらもむかむかしてきて、いよいよ声を荒げようとした瞬間、ハーマンのコンピュータが音を立てた。



 司令官から直々に呼び出されては、「ちょうどいいところなので」とアポを改めることなどできない。逃げるのかこら、と不平を垂れるニュートンを無視して、ハーマンは心なしか早足で、研究室をあとにした。歩いて歩いて、司令室にたどり着く。ノックをすれば自動で扉が開き、中から開けてくれたマコはこちらに軽く会釈をすると、そのまま廊下へ出てしまった。
 すれ違うように、入室する。ペントコスト司令官の背後には、少し前にここへ来たシドニーのレンジャーがいた。確か、父親のほうだ。
「端的に言うが、君を解雇したい」
――は」
……いや、それは端的すぎないか」
 背筋を伸ばして前に立った瞬間、いつでも厳しい表情のペントコストからまさかの人事命令を頂戴して、ハーマンは無防備にぽかんとした。クビ? と理解が及んだ途端、あきれた様子のレンジャーから補足が飛んできて、更に思考が混乱する。
「し、れいかん」
「なんだ」
「私は、約10年間、ここで……、あらゆる貢献をしてきたと自負しています。それを何故」
「君のその10年の貢献を高く評価しているからだ」
「は」
「まずはこれが、私の意思だ。現在の状況を話そう」
 そのようにしてペントコストは、イェーガー計画の中止、という更に強大な爆弾を落としてきた。
 そして、軍属として防衛計画へ転向するのではなく、離反して計画を継続する自分たちの組織に所属してほしい、というのが彼の伝えたかった〝解雇〟の内容であると理解するに至って、ハーマンは唯一のすがるものとして自分の杖をぎゅっと握りしめた。
 香港シャッタードームだけがイェーガー計画を継続することは、違反行為ではないがすべて静観される。つまり、衣食住の世話はしてもらえるが、最低限かつ万全ではないし、給与は出ない。ありていに言えば、そういうことだ。この一大プロジェクトに人生をかけてきた者は多いから、一定の賛同者はいるだろう。けれど、自分の生活と引き換えにできる者は、きっとあまり多くない。
 必要事項を伝え終えた司令官は、ただ静かに反応を待っていた。同じようにただ静かに、待機しているレンジャーをちらりと見やる。ペントコストといい、彼といい、歴戦のパイロットとは何事にも動じないモデルに収束する宿命でもあるのだろうか。ふと、そんなことを考える。自分がもしレンジャーで、何年もイェーガーに乗っていたとしたら、今頃どっしりとした態度で、「大丈夫です、任せてください」などと言えたのだろうか。そう思う。
 けれど、その想像上のレンジャー・ゴットリーブは、もはや自分ではない。そうとも思った。
「防衛のみに転向ということは、命の壁計画一本に絞るということですか」
 すでにいくつかの場所で建築が進んでいる『命の壁』を連想し、ハーマンは自分の唇を舐めた。ペントコストはかすかに頷き、毅然とした態度でこちらに向き直る。
「君の意見は?」
 厳かに尋ねられて、この職場に来た初日の出来事を思い出した。いや、自分の初日ではない。あれはニュートンの初日だった。
――空飛ぶ怪獣が現れたら意味がない」
……は?」
「いえ。私の意見は、了解しました、それだけです。司令官」
 解雇理由が100%雇用者の都合なら社会保障が受けられるのでせめてそのように取り計らってくれるとうれしい、と返答に添えると、レンジャーと元レンジャーは揃って不思議そうな顔をした。もしかしたら『クビ』を経験したことがないのかもしれない。
 司令室を出て、ハーマンは考えながら歩いた。具体的に何が変わるのか、うまく想像ができない。ここに残るのなら、今までの暮らしと何も変わらない日々が続くように思えた。衣食住と研究以外に金を使うことといえば、書籍の購入と通信・交通費くらいで、貯金は十分にある。たまにいい靴を新調したって、当面の生活には困らないだろう。
 そう考えても気分はそぞろで、このまま戻れば癇癪を起こしたニュートンが待っていると思うと、ハーマンの足はのろついた。意味もなくシャッタードーム内をぐるりと回り、時間をかけてからおそるおそる研究室を覗く。けれど、肝心のニュートンは出払っていて、ハーマンは安堵の溜息をついた。
 すぐさま問題に取りかかれるような気分でもなく、ドリンクサーバに寄って小さなカップにホットコーヒーを満たす。薄くて飲めたものではないがないよりまし、という評価を誇るこんな些細なサービスも、そのうちコストカットを理由になくなってしまうだろう。
 振り返ればエンジニアがふたり、たまに独り言をこぼしながらソースコードを書いていた。離れたところには数学者もひとり。彼女はコンピュータが専門で、非常に精密な仕事をするいい科学者だ。彼らも、そのうちいなくなってしまうのだろうか。そう考えると少し寂しいような気持ちを抱える。
 部屋を出て、近くの休憩室を覗いた。広くはない中は無人で、ハーマンは気兼ねなく窓を開けてベランダに出る。杖を立てかけて手すりに掴まり、風を受けながらちびりと熱いコーヒーに口をつけた。ほとんど宇宙の色に開けた空は、西の向こう側だけがうっすらと赤い。夜に落ちる寸前の暗がりの中で、ハーマンは口元のカップを両手で包み込んだ。コーヒーの落ち着く匂いと、遠くに人の営みを感じる静寂。今、この瞬間だけは平和なのに、と考える。たぶん、こういうのが、平和というものだろう。
「あ、お疲れさまです」
 声をかけられて振り向けば、同じ研究室の分子生物学者だった。以前、一緒にブレインハンドシェイクのシステム改良をしたことがある。彼は気軽に手を挙げてやってくると、持っていたエナジードリンク缶のプルトップを開けた。
「珍しいですね、休憩室にいるのは」
「まあ、たまには」
 確かに、共有の休憩室にはめったに立ち寄らないハーマンである。ごく自然な振る舞いで隣に並んだ彼に、人と話す準備ができていなかったハーマンはどぎまぎしながら、努めて平然とした素振りで海へと目を向けた。向かい合わせでないほうが話しやすいし、暗いほうがもっと話しやすい。背中から照射される薄暗い蛍光灯に感謝しながら、とりあえずコーヒーの匂いをかいでみれば、彼は笑みを含ませて息を吐いた。
「それ、よくまともに飲めますね」
「味にはあまりこだわらないから」
「便利だ」
「そういう意味では優秀だな、私の舌も」
 はは、と笑って、彼は持参の缶を呷る。ちらっとそちらを盗み見れば、彼もただ海を見つめていた。はつらつとしていてそつがなく、話しかけやすい真面目な科学者。彼はそんな印象である。面倒なニュートンにもよく付き合ってやっていたし、純粋にいいやつだった。
 もし、彼が〝解雇〟を迫られたとしたら、とハーマンは想像してみる。やっぱり、いなくなってしまうのだろうか。それとも、今までどおりにいてくれるだろうか。
「そういえば、トップニュースで出てましたね。命の壁計画のこと」
――は?」
「あ、知りません? 国連がイェーガー計画を捨てるって。チーフなら、司令部から事前に聞いてたりするのかなって思ってましたけど」
 ふいに思い出したように、彼は軽い調子で笑った。そんな重大な話題を、ありふれた話でもするみたいに振られて、ハーマンは思わずカップを揺らしてしまう。
……いや、知って、いる。ただ、情報が早いなと」
「はは。前から結構うわさになってましたしね。あーやっぱりか、って感じです」
「そ、そうなのか……
 自分はかけらも知らなかったことを、まるで当たり前のようにしれっと言われて動揺した。交友関係の広さによってこういう能力を獲得できる、ということは分かっているが、改めて、彼は人当たりがいいのだろうなと再認識する。自分とは正反対の人間だ。
 ぽかん、と間抜け面で感心していたからだろう、彼は愉快そうに微笑んで、こちらに向き直った。
「正直、この場所はあまり性に合わなくて、よかったなとは思ってます」
――え?」
「戦争の仕事は向いてないのかな。いっそ企業に就職するのもいいなって」
「え、君は、ここをやめてしまうのか?」
「え、だってここ、閉鎖ですよね?」
「いや、閉鎖はしない。司令官はイェーガー計画を継続する」
「え?」
 今度は、分子生物学者がぽかんとする番だった。性に合わない、ようにはまったく見えない彼に、ハーマンは思わずそう伝えてしまう。彼は優秀だったし、それに、ニュートンとうまくやれる数少ない人材だ。できれば、今までどおりにいてほしかった。できるのなら、今日と同じ日が、明日も続きますように。
「まさか、趣味で続けるってことですか?」
「しゅ、趣味で、というのは少し語弊があるが」
「国連の命令に背いて勝手にするってことですよね」
「勝手にする許可は得ている」
「なんだそりゃ。そんなことになってるんですね」
 彼はゆっくりと驚きを咀嚼して飲み込み、穏やかな表情に戻った。ドリンクをひとくち飲んで再び海に目を向け、それから背を向けて手すりにもたれかかる。
「ゴットリーブ博士は、俺に続けてほしいですか?」
 ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて、彼はおどけたようにそう言った。まさか自分に尋ねられるとは思っていなかったハーマンは、びっくりして、けれど素直に返答する。
「それは、もちろん」
「そっか」
 心から誠実に伝えると、彼は肩をすくめてにこりと笑った。
「残念だけど、本当にこの場所は性に合わないんだ」
 まるで好青年がにじみ出るような、いい笑顔だった。
「ガイズラー博士についていけない。まるで特急列車を駆け足で追いかけてるような気分なんだ。それに、俺の母はトレスパッサーのせいで死んだのに、あの厄災を素晴らしいもののように言うのがどうしても許せない。ときどき、あの腕を切り落としたくなるよ。でも、彼の腕が素晴らしい仕事をするのも分かってる。彼がだめだと叫ぶような理論は、結局絶対によくないんだ。けど、ときどき我慢ならなくなる。博士はよく彼とやり合ってるだろ? でも、いつだってけろっとしてるし、楽しそうだ。それはあなたが天才だからで、正直俺は必要ないんじゃないかと思ってる。ガイズラー博士は間違いなくそうだし、あなただってそうだ。ペレルマンがひとりでポアンカレ予想を解いたように、天才ってのは、ひとりいれば事足りる。だったら俺はいったい何に我慢し続けてるんだ?」
 抑揚は穏やかで、まるで詩でも諳んじているようだった。きっともう、ずっと前から、考え抜かれていたことなのだろう。
……そういうことを、考えてる自分も嫌なんだ。博士も、あの人も悪くない。けど、大義名分があるなら、俺は心置きなくやめられるから」
 引き留めてくれてありがとう、でも、二度としないでほしい、あなたはいい人だから。彼は最後にそう言って申し訳なさそうに微笑むと、軽い身のこなしでベランダを出ていった。



 ひとりぼっちで冷え切ったコーヒーを飲み干してから戻ると、研究室には誰もいなかった。ほっとして、とぼとぼと自席に戻る。机にきちんと重ねられた紙片をぼうっと見つめてから、ハーマンは読みづらい方程式にそっと指先を触れさせた。
 言葉では表せないような、漫然とした悲しみがある。それは自分に対してとも、ニュートンに対してとも思えたし、もしかしたらあの分子生物学者に対する思いなのかもしれなかった。ひどく憐れな存在に思う。自分も、やつも、彼も。もしかしたらこの研究室のメンバーも。
 ハーマンは自分のことを、天才だと思ったことはない。それは単純に、天才というものがどのように存在するのかを、経験によって知っているからだ。
 純粋に頭脳だけを求めてくれるペントコストが、一番賢いのかもしれない。
 ふいに司令官の顔を思い出し、ハーマンはのろのろと端末をアクティブにした。PPDCの方向転換は速報になったそうだが、いったいどういう報道のされ方をしているのか。今後のラボメイトとのやり取りを考えると、知っておいたほうがいいだろう。
 そうして最初に目にした記事に、ハーマンは自分の父親の名前を見つけた。
 ある時点で有用なものが、ほかの時点でも有用であり続けるとは限らない。そのような言葉と共に、彼はイェーガー計画の中止を支持していた。まったく実用的でないことはもはや自明である――、そうだろう、まあ、分かっていたことだ。彼がこの計画から抜けたときから、いつかこうなることはそれこそ自明だったことである。使えなくなったものに対する父親の怜悧なまなざしを思い出して、ハーマンは、分かっていた、と何度も胸中で繰り返した。十分に予想できたことだ、分かってる――。数回そうしたのち、自分が想像以上にショックを受けていることに気づいて、ハーマンはやんわりと傷ついた。
 かといって、今更すべてを投げ出すことはできない。投げ出すだけの理由が、残念ながら分子生物学者の彼にも、ラース・ゴットリーブにすら、存在しない。それより自分の研究のほうが大切だという、確固たる自信があった。なんて冷たい人間なのだろう。こんなふうだから、いつまでたっても人とうまくやれないのだ。あんなふうに誰かを追い詰めるくらいなら、もう誰かと関わりたいなんて思わないほうがいいに決まっている。そのほうが、自分も楽だ。好きなだけ、自分の好きなようにやってしまえばいい――
 そんなふうに自暴自棄になっていると、やたらテンションの高いニュートンが靴音も高らかに戻ってきた。
「やっと僕の説を認めたなハーマン!」
 彼はそんなことを言うと、イェーイと歌うように口ずさみながら勢いよく自席の椅子に腰かける。勢いあまってくるりと回って、彼はこちらに身を乗り出してきた。
「怪獣がいつか飛ぶだろうって認めた!」
……何の話だ」
「ごまかしても無駄だぞ。だってさっきペントコストがそう言ったからな。ハーマンがそう言ったって。あの軍人さんはむやみやたらに厳しいけど、絶対に冗談は言わない」
「ああ……、そう」
 司令官に呼ばれたときのやり取りを聞き及んだのだろう、と理解して、ハーマンは気のない返事をする。ということは、ペントコストはこの男も呼び出して、自分と同じ話をしたのだろうか。スカウトする対象としてはちょっと奇天烈すぎやしないか、ある意味蛮勇だな。そんなセリフが脳で自動生成されたが、ハーマンは黙っていた。今、こいつとやり合うだけの気力はない。
 そんな神妙な様子を不思議に思ったのだろう、ニュートンはわざとらしいしぐさで首を傾げ、人を馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「ハーマンは世間体でも気にしてるのかな? 最高にクールだろ、レジスタンスなんて! だいたいこういうのは反乱軍のほうがいけてるんだ」
………
「ハーマン、決めたことにうじうじするのは馬鹿のやることだぞ。君は残るって決めたんだろ? だったら何の心配もいらない」
……君は能天気だな」
「君が神経質すぎるんだ。僕は今の暮らしが気に入ってるからね。今すぐ怪獣たちのクラウド思考説を証明しないといけないし!」
「私たち以外のみんな、やめてしまったらどうするんだ」
 ニュートンも案の定、ここに残るつもりらしい。そのことに心底安堵している自分が許しがたかった。今の暮らしが気に入っているというのなら、君の助手を務めたり、君の理論を実際にスクリプト化するエンジニアたちのことは、いったいどう考えてるんだ? 自戒するような思いで、ハーマンはその問いを隣に投げつける。
 彼はすでにハーマンが残ることを司令官から聞いたようだが、もし、その補足がなくても、今みたいに能天気に振る舞うのだろうか。もし、この研究室に、ニュートン以外誰もいなくなってしまっても?
「やめたいやつはやめればいいよ」
 彼は鼻白んだような表情で、吐き捨てるようにそう言った。
 その反応に、ハーマンは劇的な苛立ちを覚える。積み重なったあらゆるすべてが、熱を持って破裂するようだった。
「そう言えるやつは幸せだな!」
「なっ、なんでいきなりぷんぷんするんだよ、当たり前のことだろ? 人の意思は自由でないと」
「いい! もう知らない! 私だってやめられるならやめたかった!」
「はあー?! いや、嘘だね。ハーマン、それは嘘だ。どうせ君はやめられないし、やめても行くとこなんてない」
「そんなことは分かってる!!!」
 こういうときのニュートンの言葉は、正しさの棍棒でひどくぶつようなところがある。ハーマンは力の限り虚空に吠え立て、ぎゅっと目を強くつむった。そのとおり、そもそも、ほかに行ける場所などない。今の自分が抱えている研究を、快く受け入れてくれるような機関なんて、もはやここしか存在しない。抱えたものを放り出さない限り、自分はどこへも行けないし、抱えたものを放り出せば、きっと自分ではなくなってしまうだろう。
「ねえ、ハーマン」
「うるさい! 私に話しかけるな!」
「何なんだよ! またそれか?! 君が勝手に絶交したときもそうだったよな!」
「全部君のせいだ、馬鹿!!」



 ペントコスト司令官から正式な離反発表がされると、研究室からは半数の人間がいなくなった。もともと、そこまで大人数の部屋ではない。そのうち、要求される仕事量のせいか、上司たちのいがみ合いのせいか、世間の風評が冷たいせいか、ぱらぱらと離職が続き、ついにはふたりだけになってしまった。
 がらんどうとなった研究室からは経費削減のため追い出されることになり、その時点で常時稼働していた実験室、つまりニュートンのすみかに押し込められるはめになる。数学者はどこでも仕事ができるだろう、というひどい偏見を受けてハーマンは抗議したが、結局はペントコストの一声でひとまとめにされてしまった。腹いせに、ほとんど趣味の代物である講義用のどでかい黒板を注文したところ、即時で届けられた。どうも悪いとは思っているらしい、ということは察したが、さりとて腹に据えかねるものが昇華されるわけでもない。搬入時に嫌そうな顔をしたニュートンを見て、ざまあみろと思えたくらいだ。
 ひとりで使うには広々とした実験室――、現・研究室を、好き放題に散らかしていたニュートンを叱りつけて片づけさせながら、ハーマンは悪戦苦闘して、自分の机と機材と書籍を移動させた。そして中身を取り出そうと全開にした机の引き出しの奥に、くしゃくしゃに丸めた紙飛行機を見つけて、ハーマンはほとんど慟哭するような気分になる。今すぐこれに噛みついて、ばりばりと咀嚼して飲み込んでしまいたい、そんなめったにない衝動にすら襲われる始末だった。こんなことになっても、いまだに自分は安堵している。初日にニュートンが突きつけてきたものを、後生大事にしまい込む程度には。
 チームの研究室があった頃は、ほとんど常に在席する自分に反して、彼は実験室とを行ったり来たりしていた。つまり、あの距離感だったから、きっとあの頃はあの程度の口論で済んでいたのだろう、と今では思う。
「貴重なサンプルなんだぞ! チョークの粉まみれにする気か!」
「ラインを越えなければ問題ないだろう! もっとすみのほうでやれ!」
 毎日毎日、ブレインハンドシェイク並みの負荷が脳にかかっているのではないかと思えるほど、血圧を上げるはめになっている。
 けれど結局、自分はこのようにしかいられないのだ。良くも、悪くも。