Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
はるの
2022-08-08 23:11:51
18770文字
Public
パシフィックリム
Clear cache
星を数える
全年齢|ハーマン・ニュートン|2022.1.27|すべての問題が全面的かつ完全に解決して何もかもうまく収まったあと、ニュートンとハーマンが南の島で暮らしている話。
1
2
「彼女はなんて?」
「怒ってた。問題ない」
手でひさしを作りながらハーマンが戻ってくると、ニュートンは気楽な様子でハンモックに揺られていた。彼がこのタイミングで気にする事柄を類推して、最後に訊かれた質問とその顛末を端的な言葉にまとめる。ニュートンはにやっと笑うと、ひょいと器用に重心を移動させて飛び起きた。
「通常運転だな」
「態度が悪いぞニュートン」
「いいんだよ。あーあ、君がラボまで案内を始めたらどうしようかと思った!」
眼鏡の位置を直しながら部屋に入っていく彼の背に、それのどこがいけないんだ、という言葉をハーマンは飲み込む。確かに、求められれば応えただろうが、積極的に招き入れたいかというと、答えは否だ。
キッチンへ逸れていった彼を見送って、ハーマンは奥のドアの前に立った。植物製の扉を引き開ければ、迎えるのは金属製のもうひとつの扉だ。
どこかシャッタードームを思わせるのは、あそこの建築技術を応用しているからだろう。扉をくぐり、振り返ると、弾む足取りのニュートンがやってくる。待ってやってから扉を閉め、ハーマンは振り向いた。
ちか、と同時にコンテナ中の照明が点灯して、そろそろ見慣れた光景が広がる。ニュートンは片手に飲みかけの炭酸をぶら下げながら、鼻歌交じりに自動ドアをくぐった。緊密に隔離されているそのガラスの向こうからは、ひんやりとした冷房の風がそよいでくる。
「あ~涼しい。もうずっとここにいたい」
「南の島、と言い出したのは君だ」
「だってどうせ島流しにされるなら、サンゴ礁とか見たいだろ。それに、だいたいのパラダイスは南のほうにあるって決まってるんだ」
「誰の説だ、誰の」
「僕のだハーマン、信ぴょう性があるなあ」
「今この瞬間に疑わしさのメーターが振り切れたな」
ニュートンはくるりと右へ折れて、げっぷをしながら散らかった部屋を舞うように進んでいく。壁際には大変な思いをして搬入した顕微鏡、遠心分離機、無菌棚、冷蔵庫と、やたら場所を取る機材が詰め込まれている。彼は自分の机がものであふれるたびに物置用のキャビネットを購入するので、今はキャビネットがあふれている状態だった。きっとよい複雑系のモデルになるだろう、腹立たしい。
「それに、場所なんてほんとは関係ないんだから」
どすん、と椅子に座り込んで、ニュートンは下手くそなウィンクを投げてきた。ハーマンは鼻白んだ顔を彼に向けて、粛々と左へ折れる。自席にかけておいたカーディガンを羽織って座り、コンピュータをアクティブにすると、さっそく「冷たい!」と不平を垂れる文句がチャットのダイレクトメッセージで届いていた。送り主は、むろん目の前の男だ。溜息しか出ない。
香港にいた頃には大きな黒板を持ち込んだりもしたのだが、この狭い部屋でチョークの粉はまずいだろう、という良識が自分には備わっている。なので、振り返れば、壁に貼り付けるタイプのホワイトボードが広がっていた。そして、ニュートンがキャビネットを増やすたびに、自分は書架を追加中だ。ドローンが着陸するたび電子書籍にしろとやつはうるさいが、紙でしか存在しないものがこの世には多すぎるということを、彼はなかなか納得しそうにない。
モニタは4面、ホロディスプレイも、計算用のハイスペック端末もある。PPDCに勤めていた頃より環境はいいのではないかとすら思うが、敷地面積は一般的な家屋と同等である。厳密に物量と比例する美しき方程式によって、最近では人が中央に追いやられ気味になっていることは、いずれ考えなければならない問題だった。
「あーっ、ほら見て、ハーマン、昨日の」
唐突にそう叫んだニュートンは、ごろっと椅子を後ろに転がす。同時に、彼からぶしつけに共有された画面が、ぱっとモニタに現れた。それは彼がへんてこな名前を名乗っている彼自身のホームページで、これまたへんてこな名前のユーザが、コメント欄でニュートンの載せた論文をほめちぎっている。
「ふうん」
「ふうんって。この素晴らしい発想は生化学がつまずいているいくつかのことを解決する糸口になるかもしません、だって。そんなのハーマンにも言われたことないぞ」
さっと目を通して気のない返事をすれば、ニュートンはごろごろと椅子を戻しながら背中を丸めて不満そうな顔をした。
「言った覚えはないからな。だいたい、君のその研究は、最後の計算のところがおかしいと言っただろう」
「生物学上では許容できる誤差の範囲だって何度も言った」
「誤差の均一性がおかしいと言っている、おおもとのところでねじがひとつ飛んでるはずだ」
「だから、それも分かってるんだ。君が懸念していることはてんでお門違いで余計なお世話なんだよ、そもそもこの誤差は出るものであって」
「出ないように計算できないのか? それが一番シンプルだろう」
「違うね。全然違う。言っとくけどこの誤差が
――
、そうか、この誤差か」
言い合う内容は、2日前くらいにさんざんやり合った内容だ。こいつはひとつも納得していないなということを改めて認識しながら、メッセージ確認を片手に慣れた反論をしていると、ふいにニュートンは高い声を上げた。手を止めて見やれば、彼はぽかんとした表情で、まっすぐにこちらを見つめている。
「ニュートン?」
「この誤差だ。はは、君は早く僕のことをほめちぎるべきだ。僕にかかれば君の足をたちまちに治せるし、なんなら君をもうひとり作るくらいわけないね!」
「ぜっっっったいにやめろ! 絶対にだ! 君の治すはどうせ〝治す〟じゃないだろう、テセウスの逸話を知らないのか?!」
「うるさいなあ」
「うるさくさせているのは君だろう!」
途端にテンション高くはしゃいだ彼の発言内容に、ハーマンは思いっきり机を叩いて抗議した。やや倫理的な側面を見落としがちなのは相変わらずで、ハーマンがいつも頭を抱えるのはおおむねその点である。
残念ながら、どんな大口でも実現できてしまうのが彼なのだ。天才・ニュートン・ガイズラーの興味が〝人間〟に移ってしまった以上、自分だけが最後の門を守るヘカトンケイルだと思っている。
「ちぇ、冗談に決まってるだろ。君に代わるものなんてないことくらい分かってるよ」
「ニュ
……
」
とはいえ、思わず立ち上がった先に見えたニュートンは、唇を尖らせながらくるりと椅子を回転させていて、少し寂しそうな、いじけたような様子だった。こちらを逆なでするためだけの冗談だったことが分かり、ハーマンは言葉を詰まらせる。
そんな様子をちらりと上目遣いで見やったニュートンは、途端にうれしそうな顔をした。
「あ、僕にやさしくしたくなった? いつでもほめてくれていいよ!」
「
――
君のコンピュータを今も私がクラッキングしていないことを、心からありがたく思うといい」
「はあ~?! 君の侵入くらい簡単に防げますけど?!」
うん、同情したのは間違いだったな。私はいつでも間違うんだ。
ハーマンはそんなことを思いながら、青筋を立てて着席した。
香港でも似たような形態でコワーカーを務めていたが、ここでの暮らしはもう少しシンプルだ。お互い、独り言は多いし、考えに没頭しだすと周りが見えなくなる。かといって、聞こえてきた内容に不服な点があれば、すぐさま「違う!」と叫びたくなるし、起きたいときに起き、食べたいときに食べ、寝たいときに寝るスタイルが一番頭を働かせることも分かっている。
リモートで学会参加なども行っているハーマンは、比較的規則正しい生活をしていた。そして、相反するニュートンの暮らしぶりについて、健康上の懸念がない限りは、口うるさくすることを控えている。自分もずいぶん丸くなったものだ、と思うのはこんなときだ。
「外部からで恐縮ですが、質問よろしいでしょうか」
PPDC関係者がほとんどの小さなセミナーにリモートで参加していると、あくびをしながらラボに入ってきたニュートンは、きょとんとこちらを見たあと、ぽむ、と自分のこぶしを手のひらに打った。そのままうきうきと近寄ってくる姿に眉間の皺を増やし、それでもこちらから挙手をした質問を滞らせるわけにもいかず、ハーマンは何食わぬ顔で発表者に質問を投げかける。机の対面までやってきたニュートンは、わざとらしい手の動きで『わあわあ喋ってる』と揶揄するようなジェスチャーをして、ひょいと画面を覗き込もうとした。
すかさず、ハーマンはその不埒な頭を押し戻して、なんとか質問を終える。今はカリフォルニアにいるだろう壇上の彼は、少しだけ沈黙してから、考え考え返答を構築した。出力は遅いが、誠実でよい科学者だと思う。
「いや、だめだな」
漏れ聞こえてくる声を拾ったのだろう、ニュートンはぐっと腕を組んでそう言った。ハーマンは慌ててミュートにして、彼を睨み据える。
「喋るな!」
「ダブルリアクターの効率をもっと上げる方法だろ? だめだだめだ、そんなのうまくいくはずがない!」
「分かってるから、君は喋るな! この会議に出ているのは私だ!」
「効率が悪すぎる。ああ、だから今君は『少しばかりまずい』と言ったのか。少しばかりか?」
「しっ!」
めげずに身を乗り出してきたニュートンを再び押し返し、ハーマンは大急ぎでミュートをオフにした。「いかがですか、ゴットリーブ博士?」と言われてからもう5秒は経っている。やたらわたわたしているこちらの映像のせいか、映し出された表情は怪訝顔だ。
「
――
失礼。少しビデオの調子が悪いようで」
「前半はまだましだったけど、後半のくだんないアイディアは捨てたほうがいい」
「ニュートン!!」
思わず、ハーマンはそう叫んだ。
黙れと言っているのが分からないのか
――
、と、いつもどおりに続けようとして、はたとする。
ぽかんとした様子の発言者と、静まり返っているヘッドセット越しの雰囲気。画面の右端でいち早く吹き出したのは、古くから付き合いのある物理学者だった。おそらく、ここで何が起こったかを察したのだろう。彼女はニュートンの人となりを知っている。
そのニュートン、もとい、諸悪の根源は、アッチャーとばかりに両手で口元を覆って肩をすくめる、という屈辱的なジェスチャーでもって、こちらの動向を見守っていた。
「
……
その、猫が」
『
――
え?』
「猫が、悪さをしていて
……
」
『ね、猫ですか?』
ハーマンは、相当頑張ってニュートンの存在をごまかした。冷や汗をかきながら、もだもだと訳の分からない発言をして、物理学者の彼女を楽しませたあと、残りは貝のようにやり過ごし、やっとのことで退出する。ニュートンは床で腹痛を起こすほど笑い転げていて、ハーマンはそこまでのっしのっしと歩いていくと、絶対零度の眼光で見下ろした。
「ハ、ハーマン、ねこ」
「今から君を力の限り踏んずけようと思う。いいな?」
「ちょっ、やめろハーマン、お気に入りのTシャツなんだぞ! うわっ」
「リモート中は邪魔をするなと! 何度も! 言っているだろうが!!」
「完全にハーマンの墓穴だっただろ今日のは! それに今日のメンバーはここに僕がいることくらいみんな知ってる!」
「そうは言っても体裁というものがあるだろう!」
「体裁! この期に及んでどんな気遣いだよ、逆に僕を子猫ちゃん扱いしてるハーマンのほうに気が散ってるよ今頃みんな!」
「ああもう!」
ぎゃふんとなったハーマンには、もはやそうとしか言いようがなかった。確かに、彼の言うとおりである。今回の恥辱の5割は、自分がテンパった結果だろう。
踏もうとしたらごろんと避けられた足で地団駄を踏んで、ハーマンはごんごんと杖で床を叩く。ニュートンはそんなこちらの様子を窺うと、ひどく楽しそうに再びごろんと戻ってきた。甘ったれに手を伸べられて、仕方なく、ハーマンは手を取ってやる。ぐっと引っぱって起こせば、彼は大事そうにTシャツの胸元を打ち払った。なら転がるな、と何度でも言いたい。
「私に半責あるとしても、そもそもの元凶は君だ」
「君だってあんなだめな話聞いたら、そりゃ口も出したくなるだろ」
「言うほどだめじゃない」
「けど無茶だ」
「無茶だな。3段階目でうまく分離と結合を連続させる必要がある」
「うん、その考えならよさそうだ」
そのあとは一通り、ダブルリアクターの改良案について議論した。一事が万事、このような調子である。
星を数える、か。
ハーマンはぼんやりとそんなことを思い出しながら、椅子を回してホワイトボードを見つめていた。空いている壁であること、かつ、手の届く範囲が設置条件になるため、そこそこの大きさはあるものの、巨大なサイズではない。横長のそれは、半分が先週使った計算の跡で埋め尽くされていた。もう消しても構わない、そう考えて、ハーマンは立ち上がる。
計算は、コンピュータでも、なんなら頭の中でもできるけれど、自分は手で書きながら考えるのが好きだった。ときどき、自分の頭ではなく利き手の中にも脳みそがあって、それが考えているのではないか、と自分でも驚くようなアイディアを書き出すことがある。きっとそれは、長い年月をかけて習得してきた『慣性』に違いないのだが、ひょんなときに少しだけ楽しくなるのも事実だった。
この性癖のせいで、自分のワークデスクは相変わらず紙だらけで、ニュートンが揶揄するネタを無限に提供してしまっている。四の五の言いたい、というろくでもない熱意によって、自分でも読みにくいと思う、自分にしか読めない文字列を、彼がやすやすと読んでしまうのは、果たして良いことなのか悪いことなのか、今でも判断しかねている。
計算の跡を拭き終わって、ハーマンは再びぼんやりと白色を見つめた。
星を数える、か。
ニュートンにそうしろと言われてから、なんとなく、折を見ては考えていたことだ。誰かがすでに考えてしまっていることでもいいし、別に科学の発展につながるものじゃなくてもいい、ただ自分が楽しむためだけに、何の役にも立たないおもちゃで遊んでみないか。何故なら君はもう十分、世界の役に立ったのだから。
ハーマンはペンを取って、ゆっくりとキャップを外した。それから、とつとつと静かな音を立てて、頭の中の数式を綴る。これはちょっと面白いだろうなと思いながら、自分にはまだ早いと、ずっとしまい込んでいた問題だった。もとをたどれば、ニュートンとまだ文通をしていた頃にさかのぼる。
書き終えるのに、少しだけ勇気が必要だった。
これを書き終えるということは、これに取り組む覚悟を持つということだ。
「おっ、新しいみみずをたくさん量産したなハーマン、言葉より数字のほうが読みやすいって何事だよ。君の第一言語ってバイナリだっけ?」
唐突にすぐ背後から話しかけられて、ハーマンは飛び上がった。集中していて気づかなかったのだろう、振り返ればこちらの挙動に少し身を引いたニュートンがいて、ぱちくりと眼鏡の位置を直している。
図らずも、ちょうど書き終わったタイミングで、覚悟も何もあったものではなかった。ハーマンはあらゆる気持ちを込めて、大きく息をつきながら胸に手を当てる。
「えーっと、なんかのシミュレーションでも頼まれた?」
そんなこちらの様子は一切気にせず、ざっとボードを読んだニュートンは首を傾げながらそう言った。ハーマンは背筋を伸ばしてキャップを閉じ、同じようにボードを見つめる。
「いや。ただ、少し面白いかと思って」
そう言った途端、ニュートンが勢いよくこちらを見た、ような気がした。
気がした、というのは、椅子に座ろうと彼に背を向けたからである。
ハーマンはゆっくりと自席まで歩いていって、椅子の背をくるりと回す。そうしてペンを机に置きながら、ゆったりと腰かけた。
目が合ったニュートンは、まさかのとんだ真顔である。あんまり似合わない顔つきだったので、ハーマンはおざなりに笑ってやった。
「新しい計算方法を考えなければならない。私が思うに」
「アクロバットな微分が必要だな。あと大きな数を体系的に動かさなきゃ」
「おい。こら。私の問題だ」
先走る彼をたしなめると、数式を指差していたニュートンはぱっと振り返る。すっかりいつもの調子になって、にやにやと腹の立つ笑い方で、上機嫌に頬を紅潮させてすらいた。
「そうだ、君の問題だ。つまり、ハーマンより先に解けたら僕の勝ちだな」
「ほう。だが、君には無理だろう」
「なんだと。そんなのやってみなくちゃ分かんないだろ。ほら、アイザック・ニュートンといえば微積分法を発明した人じゃないか、同じ名前のよしみで」
「微積分法を発明した人はゴットフリート・ライプニッツだ」
「おっと。その訂正はおかしいぞハーマン、あのふたりはまったく別々に考えて、結局同じ場所にたどり着いただけじゃないか」
「そのおかげで延々と喧嘩してたがな。君がひとりしか挙げなかったのを訂正しただけだ」
いつもどおりのごくつまらない言い合いをしながら、ニュートンは軽やかな足取りで弾みをつけて、こちらの机にぴょんと尻を乗せてきた。ぶらり、と自由になるその両足に眉をひそめて、ハーマンは彼を見上げる。
ボードを見つめてきらきらと輝く双眸は、まるで星を詰め込んだようだった。見た目がどれだけ経年しても、ずっと変わらないものがある。そんなニュートン・ガイズラーを見てしまえば、ハーマンにはもう、何も言えなくなってしまうのだ。こういうところが本当に、いつでもずるい男だった。もう何度も、何度も、何度も、ハーマンはそう思っている。
「美しいだろう」
きらめきを見つめたままそう言うと、ニュートンはからかうような笑みを見せた。首を傾けて目を合わせ、待ってましたとばかりに口を開く。
「解けたらの話だろ? もう美しいってなんだよ。それとも、自分の文字の造形に相当な的外れの自信を持ってる? アバンギャルドとしてならワンチャンあるかもな」
案の定、いつもの多弁が繰り出されてきて、それがあんまり想像どおりだったから、ハーマンはなんだか笑ってしまった。
しばらくの間、くすくすと笑っていると、やがて彼は「ハーマンだけ楽しそうなのはずるい!」と大声を上げた。
自動ドアを抜けて重い扉を開けば、リビングルームはほとんど暗闇だった。時間的には夜明け前のはずだ。
手探りでスイッチを探していると、後ろにいるニュートンのほうが先に探し当てたようで、彼の爪に触れるのと、部屋に明かりがともるのとは同時だった。肩越しに振り返れば、良い意味でも悪い意味でも子供じみたおじさんが、してやったりとばかりに喜んでいる。
いちいち相手していると体力が持たないので、ハーマンは早々にキッチンへ向かった。
「ちぇ、ノリが悪いんだよハーマンは」
「いいかげん懲りろと何年も言っている」
空にしてしまったカップに少しだけ水を入れて、一気に飲み干す。心地よい疲労感と、それに伴うぼんやりとした幸福感があって、ハーマンはほっとまるい溜息をついた。窓を開ける音に視線を向ければ、ニュートンが全開にして風を取り込んでいる。バンブーチャイムがひそやかに鳴って、ハーマンはわふ、とあくびをした。
「何年経ったって君に懲りることはないよ」
窓から海を見ているニュートンも、わふ、と大口であくびをする。東の空はうっすらと明るさを帯びていて、朝焼けの兆候だろう、ほのかな暖色を帯びていた。もう少しすると、びっくりするくらい、空も海も甘いピンク色になることを、習慣として知っている。
「それは残念だ」
「ざまあみろだな」
肩を並べて窓辺に立てば、ニュートンは少し笑ってわざと肩同士をぶつけてきた。慌てて杖を握り込む必要もない、ほんの小さなふれあいだ。ハーマンは気にせず、今日も変わらず広がる太平洋を見つめた。寄せては返す波の音が、ゆるやかに眠気を誘ってくる。
「君のいない静かな生活を送ってみたかった」
「それは僕が死んでから試してみればいい」
停止気味の脳みそで、心にもないことを言えば、ニュートンはシニカルに笑った。自信があるからこそ、この笑みなのだろう。そう思うと、肋骨の奥のくしゃくしゃした何かがうずく。
彼が今、持ち前のあらゆる才能を使って、人間を熱心に調べているのは、ハーマンを自分より確実に長く生かすためだからだ。
「そうだな、試してみる」
「だいたい、僕に会う前だって君は生きてたろ。静かで厳かでつまんない生活をしてたんじゃないの?」
「そりゃ、君がいなければ何も始まらなかったからな」
ハーマンはもう一度、あふ、とあくびをして踵を返した。次第次第に明けていく空が、部屋の明かりをとぼけた色合いに変えている。涙のにじんだ目をこすりながらベッドルームのドアを開けると、背後からばたばたと駆けてくる音がした。
まあ、結局、そうなのだ。結局のところは、そういうことだ。
照明を消してから追いついてきたニュートンを待って、ハーマンはドアを閉めた。
1
2
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内