はるの
2022-08-08 23:11:51
18770文字
Public パシフィックリム
 

星を数える

全年齢|ハーマン・ニュートン|2022.1.27|すべての問題が全面的かつ完全に解決して何もかもうまく収まったあと、ニュートンとハーマンが南の島で暮らしている話。



 ヘリコプターのプロペラが完全に停止して、リーウェンはそっとヘッドフォンを外した。絶えず響いていたローター音に代わって、穏やかな波の音が聞こえてくる。
 目を閉じてしばらく、それを認めてから、のんびりと目を開けた。こんな贅沢な時間の使い方ができるようになるなんて、少し前までの自分には想像もできなかっただろう。まして、それを疎むのではなく、享受する、なんてことは。
 殊更ゆっくりとシートベルトを外し、ドアを開けて外に出る。つるりとしたエナメルのつま先は、白い砂に埋まってしまった。整えておいた髪も、自由な潮風に散らされていく。ヘッドフォンをつけた時点でやや懸念はしていたものの、いよいよリーウェンは自分の見た目をあきらめることにした。
 力いっぱいドアを閉めて、振り返る。今日も変わらず、太平洋はどこまでも青く美しい。
 その輝く青を背景に、こちらに向かって歩いていたハーマンは、すでに立ち止まっていた。
「まさか、自分で運転してきたのか?」
「いけなかった?」
 ぽかん、とひとり乗りの機体を見つめながら、ハーマンは怪訝そうに質問する。久しぶりに会った第一声がこれかと思うと、良い意味でも悪い意味でも彼らしく、リーウェンは直ちに挑発めいた笑みを投げつけてやった。あきれ顔に変化する彼の様子に、かつての日々がすぐさま現在に接続されるような気安さを覚える。
「私用でちょっと小島へ寄るのに、わざわざ運転手は要らないでしょ」
「そう言えるのは、人類のうちのほんの僅かだということを自覚したほうがいい」
「それ、もう何回も聞いた」
 彼の元へ歩み寄っている間に、靴の中は砂だらけになってしまった。立地条件から着陸可能な場所は砂浜しかない、ということは分かっていたものの、ここまで歩きにくいのは想定外である。
 眉を寄せて立ち止まり、片足の靴を脱いで逆さにした。さらりとこぼれ落ちた砂粒を目で追うと、すぐそばにバンド型の古ぼけたサンダルが落ちてくる。ハーマンが片手にぶら下げていたものだった。
 顔を上げると、彼は何食わぬ表情で、落としたサンダルを顎で指し示す。
「履くといい。だいたい、ヘリには砂地対策をしているのに、自分の足元がおろそかなのは何事だ」
「失礼しました、博士。でもありがとう」
 リーウェンは素直に靴を脱いで、日に焼けたサンダルにつま先を突っ込んだ。今着ている揃いのスーツとは不釣り合いなこれが、わざわざ用意されていたということは、こちらの足元のおぼつかなさを正確に予測されていたということだ。見透かされて少し腹が立つのと同時に、それだけ積み重ねてきた信頼の歴史を思う。もし現地で困っても彼がなんとかしてくれるだろう、という気の緩みは、確かにあったかもしれない。
 使い道のなくなったパンプスを手に持って背を伸ばすと、ハーマンは踵を返して歩き出した。リーウェンもそれに倣って、彼と肩を並べて歩く。もともとやせぎすだったその肩は、今では出会った頃よりも尖っていて、ゆったりとした袖や裾から覗く手足もひどく細くなっていた。けれど、足取りは力強く、あの頃と同じだけ確かだ。
「どうしてこんな砂地で安定して杖をつくことができるのか、不思議」
「杖を下ろす瞬間、私が常に力学的計算をしているとでも?」
「せめて接地面を広げる工夫くらいはできそうなのに」
「最初はそう考えた。けれど、なんというかな……、もう1年だ、リーウェン。私がここに来て」
「ええ」
「経験は、すべてのよき教師だ」
 彼はゆったりと足を止めて、目を細めた。まるで贅沢に時間を使って、ハーマンは波間に目を向ける。



 砂浜はすぐにカーブして、島の中心部に茂るシュロの緑の向こうに消えていた。オセアニアに浮かんでいるこの島は、まさに小さな無人島というにふさわしく、南側にはかろうじて、いくつか島の影も見えるのだが、北側はただ広がる空と海の青さしかない。太陽が昇り切る前なのに、すでに直射日光と照り返しが厳しく、リーウェンは目をすがめた。
 ハーマンが見つめる先、少し離れた浅瀬の海に、使い込まれたボートが一艘浮いている。
「シャオ博士が来たぞ!」
 ハーマンはそちらに向かって大声を張ったものの、ボートの上で立ち尽くしていたニュートンは動かなかった。半分ただれた入れ墨は健在だが、すっかり日焼けの肌になっている。そのうち、ハーフパンツとゴーグル姿の彼は、ぷいっとそっぽを向いて海に飛び込んでしまった。
「まったく無礼だ」
 途端に隣からそんな不平が飛んで、リーウェンは笑ってしまう。
「まあ、彼は私が嫌いだから」
「来ると伝えておいたんだぞ。ちゃんと挨拶をしろと言ったし、あいつはそれをすべて了承した。それなのに、まったく」
「気のせいかもしれないけど、彼、銛を持ってなかった?」
「気のせいではない。やめろと言っても聞かないから、放っておいたらずいぶんと上達した」
「もしかして、あなたも海で泳いだりする?」
 やれやれ、といった様子で再び歩き出すハーマンに付き添いながら、リーウェンは海を振り返った。きれいな放物線を描いて飛び込んだ彼の頭が、光を砕いて波間に浮かび上がる。じっとこちらを見つめるその影に、リーウェンは再び口角を上げた。
 そんなに気になるのなら、正々堂々と対峙すればいいのだ。待ってあげられるほど私はやさしくないのだから――、彼とは違って。
「するわけがない。だいたい、日焼けは嫌いだ。ぼろぼろと肌の薄皮がめくれる不快を君は知っているか?」
 こつん、と木の板を杖でつく音に顔を戻せば、ハーマンは玄関の小上がりに足をかけている。眉間と鼻頭をしわくちゃにしている彼に、リーウェンは軽く肩をすくめた。



 玄関先には柱に括りつけられたハンモックが揺れている。この気難しく老獪な数学者が、のんきなネット生地にくるまってゆらゆら揺れることがあるのだろうか、と考えると愉快だった。
 招かれた家屋は、気候に耐えうる民族的なつくりである。ビーチバンガローと呼んで差し支えない規模だが、中は広々としており、天井は植物で編まれていた。入口のラグで足の砂を落として、リーウェンはぐるりと部屋を観察する。すぐそばにソファがあり、すぐ向こうにはキッチンがあった。ドアは玄関を除いて3枚だ。窓辺にはハワイ風のバンブーチャイムが吊るされていて、風に揺れながらコトコトと音を立てている。全体的に明るい部屋は、偏屈な科学者が居住しているにしては、ごく一般的でシンプルだった。よく整えられ、あまりものがなく、文明の利器もほとんどない。
 ただ打ち寄せる波の音があり、風を伝える甘い音があり、食器の重なる生活の音があった。
 彼らがそういった暮らしを選んだことに、裏切られたような心外さを覚える反面、穏やかな気持ちにもなる。
「なんと紅茶が出る」
 かちゃかちゃとキッチンで何かを用意していたハーマンは、トレー片手にそんなことを言って不器用な笑い方をした。彼のジョークの言い方を、ふいに思い出して懐かしくなる。そして、器用にそれをコーヒーテーブルに乗せ、断りもなく隣に座り、いそいそと配膳を始めるに至って、リーウェンは難しい顔をした。ほとんど腕が触れるくらいの距離にいる彼を見つめながら、確かに、この程度のことを改めて断るような間柄ではないが、と考える。彼からの遠慮がそのうち消えてなくなってしまったことを、彼のジョークと同じように懐かしく思った。
 手ずから淹れてくれたお茶を、ひとくち飲んでみる。ごく普通の、ただの紅茶だった。
「こんなところにも配達が来るの? あなたが無から有を生じさせるメカニズムを構築していなければだけど」
「残念ながら素粒子は私の領域ではない。だが、この界隈には伝手があるんだ」
「この界隈」
「パシフィック・リム」
「なるほど。その伝手、最初はPで始まって、最後はCで終わる名前を持ってそう」
「週1でドローンを飛ばしてくれる。まあ、嵐にならなければ、だが」
 ハーマンも自ら淹れた紅茶に口をつけ、一時、会話が途切れる。
 打ち寄せる波の音、風を伝える甘い音。
 今回の訪問に、特別な目的はなかった。ただ、オーストラリアへ行く予定ができたから、旧友の様子を見に寄ってみようと思っただけだ。寄り道にしては手がかかったけれど、目的のない移動というものは新鮮だったし、彼の紅茶を飲むために払ったコストだと思えば安いものだった。
 ハーマン・ゴットリーブと出会ってから、もうずいぶんと経つ。
 気難しげに寄せられた顔の皺が、いつの間にか定位置に居座るようになった。そんな彼の変化を知っている。
 そしてその間、かけらも変わらなかった彼のことも、知っているのだ。
「今のあなたは、星を数えているの?」
 気の抜けたハーマンの横顔を眺めながら、リーウェンは唐突にそう問いかけた。
 途端、彼は紅茶を吹きかけて、むせながら慌ててカップを置く。げほごほと酸欠で顔を赤くさせながら、ハーマンはほうほうのていで口元をぬぐった。
「なん――、なんだって?」
「実用的な人間であることを求められ続ける肩の荷が下ろせたら、ハーマンは金や勝利じゃなく星を数えられるようになる、って」
 約1年前、ニュートンから聞いた言葉をそのまま差し出すと、彼は片手で目頭を押さえ、露骨に頭を抱えてしまった。どうもこの夢見がちな言葉を、やつは彼にも言ったようだと悟って、リーウェンはごくごく上品に足を組む。揶揄するような視線を向ければ、そっと顔を上げた彼は、心底面倒そうなしかめっ面をした。
「君たちは数学者をメルヘンチックに考えすぎじゃないか。もともと私は工学寄りだし、計算を応用にフィードバックすることは好きだ」
「それでも、戦争の道具にするための限られた問題をがむしゃらに計算し続けるより、好きな問題を好きなだけ、四六時中考えても許されるようになることは、あなたにとってはとても自由なことじゃない?」
 数学を美しいものと断言するような人種は、たいがいにおいてそうなのだ。リーウェンはそのような確信でもって、最も美しく見える角度で笑みを刷く。彼が自由であることは、自分だって望んでいることだ。
 ハーマンはぐっと顎を引いて、反論しようと口を開いた。けれどその唇は珍しくそのまま閉じられ、彼は横顔を見せると、脱力したようにソファにもたれかかる。
 ゆるりと上下するまつげが、不安に震えることはなかった。彼の虹彩には、窓の四角に切り取られた、輝く青が映っている。
……別に、今までが不自由だった、とは思っていない」
 それは、まるでやさしい響きだった。バンブーチャイムが甘やかに鳴いて、やさしさの余韻に柔らかさを添える。
「2013年のあの日からずっと、不運にも不幸にも不遇にも嘆いたが、たぶん、不自由だったことはなかった」
 穏やかにそう告げる、彼の澄んだ視線の先で、突如、玄関が荒々しく開け放たれた。



 ぎょっとして身を引くリーウェンに反して、ハーマンは慣れたように溜息をつくだけだ。海から上がってきたばかりと思われるびしょ濡れのニュートンは、ゴーグルをつけたままぽたぽたと水を滴らせて、得意げに銛の先を掲げてきた。
「どうだ、ハーマン。アカハタだ」
「5分も外にいればだいたい乾くというのに、どうして君というやつは待てができないんだ」
「魚は鮮度が命だろ、そんな常識的なことも知らないのか? これだから内陸の男は」
「ずいぶんと小柄な獲物だな? さては集中できなかったとみえる、だから素直に挨拶をしろと私はわざわざ」
「はいはいはいはい。おや、そこにいるのは元・ボスじゃないですか」
 途端にうるさくなった周囲に、リーウェンはゆっくりと力を抜き、やっとのことで息をつく。まるっきりわざとらしい態度で目をかっぴらいてくるニュートンに、ふっと短く息を吐くと、最大の戦闘態勢でもって迎撃の構えを取った。つまり、見る者すべてを圧倒する、天才にして実業家たるカリスマを兼ね備えた態度だ。
「そのまま野生に還ってもよかったのに。お邪魔してるわ、元・部下」
「うん邪魔だからすぐ帰ってよね。野生にでも都会にでもどこにでも」
「なんでそう喧嘩腰なんだ君たちは……、リーウェンは分かるが君はもっと恐縮しろ」
「しない!」
「しろ!」
 ニュートンは銛の先から赤い魚をもぎ取ると、振り返って窓の外に銛のほうを放り投げた。同時にハーマンの厳しい声が彼の名を呼ぶが、気にせずどかどかと部屋を横切ってキッチンへ入ってしまう。がさ、と製氷機を開閉するような音がして、彼は空になった両手をシンクで洗うと、そのままばたんとドアの向こうに消えてしまった。ちらと見えたところによると、おそらくバスルームだろう。
 はあ、と重々しい溜息がこぼれて、リーウェンは振り返った。
「すまない、何故か君には毛を逆立てる」
「そこであなたが謝っちゃうのが、なんていうか」
「なんだ」
「いいえ? きっと彼は本能的に私を敵だと察してるんでしょうね」
「敵じゃないだろう。だいたい、君は彼と和解をしてくれたじゃないか、いったい何が不満なんだあいつは」
「そうね。厳密に言うと和解はしてないし、そんなことはどうでもいいんだけど」
「は?」
「どうでもいいことにする代わりに、忌憚なく言い争う条件を獲得したわけ。だから、あなたは気にしないで。お互い分かってやってることだから」
……は? なんだ、ファッション不仲か?」
「どこから拾ってきたのそのイディオム」
 分かりきったことを分かりにくく答えれば、ハーマンはまるで難解な問題と正面衝突したような表情で、意味不明な言葉を口にする。リーウェンは心底小馬鹿にした表情を作ってから、謹んで贈呈した。
「あわよくばものすごく大きなウニにめった刺しにされればいい、と本気で思ってるから安心して」
「何ひとつ安心できないのだが……、あと、それはすでに三度やった」
「馬鹿なの?」
「答えは分かりきっていると思う。いつか漂流する気がするから、海に出るときは必ずバイタルバンドをつけるようにしつけた」
「そう。それで胸を張れちゃうあなたにちょっと疑いは隠せないけど、それならむしろ海に出ないようしつけたほうが早いんじゃない?」
「それは……、その。ここに来て早々、あの馬鹿が日射病で倒れて溺れたときに言ったんだ。もう若くもないのだし、節度を持つ気がないならやめろと」
……それで?」
「『だって自由になった気がするだろ』って」
………
「やつはのべつまくなしに並べ立てる言い訳のひとつとしてそう言っただけで、きっともう覚えちゃいない。けれど私は、そんなことを言われてしまえば、よりにもよって太平洋で、自由にしていられるのなら、まあ、最大の譲歩をしようと――、おい、なんだその顔は」
「いいえ、何でもありません。ずぶずぶの過保護だなあと思っただけ。ホイップスプレー1億個分の甘さだわ」
「それは誤解だ!」
 素直に感想を述べると、おそらく自覚があるのだろう、ハーマンは恥ずかしそうにばしばしと自分の腿を叩いた。



 ニュートンのバンドの位置情報が突然倍速で動き出し、サメに食われたと確信したハーマンが死に物狂いでボートを漕いで急行したら、元気いっぱいイルカに乗ってはしゃいでいたときがあった、などという与太話を聞かされながら待っていると、やがてすっきりした様子のニュートンが現れた。南国にふさわしい格好をしているが、表情は相変わらず憮然としたままだ。リーウェンは彼を一瞥して、ハーマンに向き直った。
「つまり、一定の海域から出ても、一定以上の速度が出ても、バイタルに異常が出ても、この部屋に警報が鳴るの? 博士、あなたの稀有な才能がこんな残念なことに全力投球されているということを知った私の気持ちを考えたことがある?」
「買いかぶりすぎだリーウェン、簡単なプログラムだよ。めったなことをして海上保安の問題になるよりずっと合理的だろう。それに、能天気なあいつを見て私はブチ切れたし、3日は口をきいてやらなかった。そりゃあ少しは過保護かもしれないが、これでずぶずぶってレベルでないことは分かってもらえたと思う」
「うん……、そうね……、そうだったらどんなによかったでしょうね……
「何故君が落ち込むんだ」
 ニュートンはすたすたと部屋を横切ると、キッチンでごそごそやって、スカッと空気が抜けるような音を立てる。ハーマンのあまりのハーマンぶりにほとんど頭痛を覚えていると、視界に現れたニュートンは、仁王立ちで正面をふさぎ、そのまま持っていたボトルの炭酸をがぶ飲みした。無遠慮にげっぷをしながら顔を戻す彼に、すかさずハーマンの鋭い声が飛ぶ。
「失礼だぞ!」
「君は何しに来たんだ?」
 じっとまっすぐなまなざしで見据えられて、リーウェンはぱちりとまばたいた。
 惑うことなく、混じりっけなく、据えられる視線の中に、深く問うような色を感じて、同時に彼の心配事を察する。
「もう目的は果たしたわ」
「本当に?」
「別に、外で何かあったわけじゃないから。あなたのコワーカーを誘拐する気もないし」
「そんなのは元よりだめだ」
「あなた自身に何か深刻な相談をすることもない。本当に、ただ何となく、足が向いただけよ。本当に、ただ元気かなと思っただけ」
 まるで不安に怯える子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、穏やかに、けれど噛んで含めるような確かさで。
 そのように答えると、ニュートンはしばらく見つめ続けてから、ふっと肩の力を抜いた。すぐさまいやみったらしい笑みで歯を見せてくるので、リーウェンも不快な顔つきを向けてやる。
「うっそだあ」
「本当です。ああ、言っておくけど、元気かなと思ったのはハーマンのことであって、あなたのことではないから勘違いしないで」
「君からの心配は要らないし、ハーマンの心配は僕がするから君はしなくていいよ」
「でもほら、彼は私のコワーカーだったわけだし。いろいろあなたの知らない付き合いもあるのよ」
「ハーマンのコワーカーは僕だし、君はちょっと借りてただけだろ。僕の片脳をちょっとだけ貸してただけだ」
「どうも君たちが仲良く喧嘩をしているらしいことは分かったが、私をダシにするのはやめてくれ」
 負けじと頭を回転させて、あらゆる言葉を脳裏に浮かべていると、疲れた顔をしたハーマンが間に入って両手を挙げた。
「君なあ!」
「あなたがそう言うなら」
 そんな彼に反論しようと勢い込んだニュートンを遮って、リーウェンはそつなく紅茶を飲み干す。にこりとハーマンに笑みを向ければ、彼はほっとした表情でソファに落ち着いてくれた。不服そうなニュートンにざまあみろと思いながら、リーウェンはこのとてつもなくおかしな感じに口元をゆるめる。
 この3人で、こんな馬鹿みたいな話で盛り上がるなんて、平和にもほどがあるだろう。
「帰るわ」
「え、早くないか?」
「帰れ帰れ」
「うるさいぞニュートン。来たばかりだろう、魚は?」
「本気で言ってるの? 要らない。だいたい、私今夜はパーティに出なきゃ」
「まさか、今からヘリを飛ばして、その足で仕事をするのか?」
「ええ」
「元気だな……
「あなたたちよりはずっと若いつもりですから」
 足元に揃えておいた自分の靴を拾って立ち上がれば、ハーマンも慌てた様子で杖を掴んで立ち上がる。
 リーウェンは再び部屋をぐるりと見渡してから、かしこまるように背筋を伸ばした。それから、断りもなく踏み出して、扉に手をかける。
 出ていく瞬間、ニュートンと目が合った。そのまなざしにすべてを察して――あるいは察した気になって――、笑みを浮かべて外へ出る。



 ハーマンはまた、ヘリコプターまで見送ってくれるつもりのようだった。
 日差しの強くなった砂浜を並んで歩きながら、リーウェンはちらりと彼を見上げる。ひどくまぶしそうな表情は、なんだか面白い顔つきだった。この気候である、きっと普段、昼間はあまり外に出ないのだろう。
「ひとつ、気になることがある」
 歩きにくい砂地をゆっくりと進みながら、リーウェンは結局、その問いかけを口にした。訊いてしまってよいものか迷っていたが、回答をするかしないかは、ハーマンにゆだねてしまおうと思ったのだ。
「なんだ」
「空から島を見下ろしたとき、あの家屋に隣接する、あの家屋と同規模の、大きなコンテナのようなものを見た。さっきの部屋にはドアが3つ。ひとつがバスルーム、ひとつがベッドルームだとすると、あとのひとつはあのコンテナにつながってるはず。つまり、あれはあなたたちのラボ?」
「唐突だな。案内はしなかったが、そうだ。こんなに早く帰るとは思っていなかったから」
「つまり、あなたたちはごく普通に家電製品を使用しているばかりか、どこかに真水を作り出す機構を持っていて、更にはあらゆる塩や砂塵から強固に守る必要のある精密機器を、あの部屋いっぱいに収まるだけ所有している。きっと『界隈』の伝手を使って用意したのね」
「君の発言がどこに向かうか、なんとなく分かったが、なんとも答えづらいな」
「だったら答えなくていい。いったいどうやって、その電力を確保しているの? 私はなんだか、とてつもなく嫌な予感がするんだけど」
 まるっきり困ったな、というおざなりな笑みを浮かべたハーマンに、自分の想像がほとんど正しいことを確信して、リーウェンはわざとらしい笑顔を返してやった。振り返ってヘリコプターのドアを勢いよく引き、慣れた調子で颯爽と運転席へ乗り込む。
 靴を履き替えようとすると、聞きなれた声がリーウェンを呼んだ。
 もう何年間も聞いてきた声だ。
「よかったらそれは履いていってくれ。次に来たときに必要だろう」
……次。次ね。あなたのそういうところ、ほんとなんていうか。それだったら、ここに置いておいてよ」
「そうか?」
「ああ……、でも、いいか。ちなみに、このサンダルはどっちのお古?」
「私のだが」
「じゃあ、このまま履いてくわ」
 自分の私物をここに置く、ということに誘惑はあったものの、なんだか依怙地な感じがして、自分にふさわしくない気がした。気を取り直して足を持ち上げ、彼に向けてサンダルを揺らしてから、ベルトを引いて装着する。
 ハーマンは少し身を引いて、ヘリコプターの扉に手をかけた。どうも閉めてくれるようだと察して、リーウェンはヘッドフォンを手に取る。
「今日はありがとう」
「ああ、気をつけて――、リーウェン」
 気安く挨拶を投げて、さて、と正面を向いたところで、ハーマンはやっと呼び止めてくれた。
 待ち望んだ顔をしてしまわないように注意しながら、リーウェンはそっと流し目で外を見る。なんとなくむずむずして落ち着かない様子の彼は、むやみにヘリコプターのドアを撫でていた。
「その、内緒にしてくれ。きっと君の想像したとおりだが、勝手に発電機を作った。その……、イェーガーの技術を応用して」
「外から見えないということは、地下?」
「ああ、ラボと同じコンテナが地中に埋め込んである。上り下りがしづらくて、ほとんどニュートの独壇場になっているが」
「秘密基地ごっこは勝手にすればいいけど、大丈夫なのそれって。危険はないの?」
「ない。と断言したいが、こんな環境下では不測の事態が起こらないと断言することのほうが難しい」
「きっとあなたのその誤差は、正常動作範囲内なんでしょうけど……
「でも、私たちにはラボが必要だ」
 そう言ったハーマンは、情けなく眉尻を下げて見上げてきた。日に焼けたせいか鼻と頬のてっぺんを少し赤くして、まるで小さな男の子みたいに、不器用なしぐさで笑みを浮かべる。
「キッチンより、ベッドより、必要なんだ。海より、空より、何より――、だから、秘密にしておいてくれ」
……私がそうすると思ってるから、ここに来ることを許したんでしょう」
「ああ」
「ひどい信頼。それって」
「すまない。だが君はそうする」
「ほんと最低!」
「はは。もし私たちのどちらともが突然同時に音信不通になったら、島が吹っ飛んだとでも思っておいてくれ」
「馬鹿!」
 そんな、すでにとんでもなくぶっ飛んでいることを、まるで楽しい遊びのように言うハーマンに、リーウェンは子供みたいな癇癪を起こした。シンプルな暴言を吐いて手を伸ばし、ドアは自分できっちりと閉める。慌てて離れたハーマンはまだ笑っていて、よろよろと後ずさるその姿に、リーウェンは口を尖らせた。彼が十分に離れたことを確認して、勢いよくエンジンを入れる。
 回り出すプロペラに髪と裾をあおられながら、ハーマンはご機嫌そうに手を振った。
 その頃にはリーウェンも笑ってしまって、厳しい表情を取り繕うのは困難になっていた。