はるの
2022-08-08 23:03:28
31734文字
Public スタートレック
 

バラ色の人生

全年齢|AOS spirk|2021.6.19|年齢を重ねて引退したジムとスポックが、郊外の家でのんびり一緒に暮らす話。ふたりの未来をフリ~~~ダムに捏造しています。



 水をやり、雑草を抜き、虫がついていないかを確認する。つやつやに張った葉の青さに満足して、スポックは腰を伸ばした。
 芝をはがして土を作るところが最も大変な工程だったが、植えた野菜は期待どおりにどれも育ってくれている。クワを持てばなんか武器に見えると言い、カマを持てばどんな敵も倒せそうと言ってウケていたカークも、最近は見慣れたのか、特に絡むこともなくのんびりと水を撒いていることが多かった。
 キイ、と門の開く音がして、スポックは麦わら帽子のつばを持ち上げる。
 買い物に出ていたカークは、何故か男の子を連れて帰ってきたようだった。
「あれは、スポック。耳がとがってるけど怖がらなくていい。だいぶ面倒だけど、そこそこ優しい、かしこいおじさんだ」
「だいぶ面倒でそこそこ優しい、とは?」
「あと、こう見えて喧嘩っ早いし、地獄耳だな」
 男の子と目線を合わせるようにかがんで、カークはからかうようにこちらを指差す。にかっと笑みを向けられた少年は、似たような笑みを浮かべて返していた。どこか親密な空気があって、今日初めて会ったようには見えない。
 少年をウッドデッキに座らせ、飲み物を取ってくる、と家に入ったカークを追って、スポックも合流した。
 キッチンへ入った途端、彼は慌てて振り返り、潔くホールドアップの体勢になる。完全にやましいことがあるときの表情になっていて、スポックは遠慮なく、眉間に皺を寄せて怖い顔をした。
「ジム?」
「あいつ、よく公園で、ひとりぼっちで座ってんだよ。気になって声かけてたら、そのうちしゃべるようになって」
「それでも、勝手に連れ出せば未成年略取です」
「そうなんだけど、でもさっき、ちょっと若いのに絡まれてて」
「保護が必要な児童ですか? 本人はなんと」
「学校行きたくなくてさぼってるだけ」
「それが真であることを祈りましょう。保護者に連絡を。名前は?」
「ジミー」
「ジミー?」
「そ。俺と同じ」
 立派な眉をハの字にして、カークは少しだけ情けなさそうに小さく笑う。
 その柔らかく、繊細で、いたいけな表情は、スポックに深い溜息を落とさせるのに十分だった。
……まあ、私もいじめられていましたから、学校に行きたくない気持ちは理解できます」
「喧嘩吹っかけられてぶん殴ったんだろ? お前のそういう見た目に反したバイタリティ、俺は大好きだな」
 年々柔らかくなっていくカークの髪質は、それでもいつの時代も指馴染みがよい。頭皮をなぞるように彼の横髪を梳けば、カークは気持ちよさそうに目を細めた。
 ともかくも、言質が必要である。
 甘いレモネードとドーナツでなんとかジミー少年を懐柔し、トリコーダーで健康状態を確認してから、スポックは彼の保護者と連絡を取った。
 もちろん、ものすごく不審がられたため、ビデオチャットをつないでジム・カークブランドで言いくるめるという作戦に出ざるをえなかったが、結果として、カークに小さな友だちができたことは、とてもよいことだったと思う。



 地球で最もポピュラーな楽器は? という問いに、カークがピアノと答えたので、そのうちリビングにはグランドピアノが導入された。
 ヴァルカン・ハープとかかと思った、と彼は拍子抜けしたような顔をしていたが、スポックとしては、すでに弾けるものではなく、新しく、また地球産のものがよかったのだ。
 ウッドデッキに続く大きな窓の前に置いたそれは、何故かカークのほうがいたく気に入っていた。スポックが座れば喜んで手を叩き、分かる、頭よさそう、育ちよさそう、とよく分からない納得をされたものである。
 地球の楽譜は、機能的である反面、例外ルールが多数存在し、言語学的にも面白かった。読み方を学習したのちに教本をタブレットに落とし、弾き始めたのは最近のことである。
「それ、何弾いてんだ?」
「バイエルです」
 背もたれのない長椅子タイプのチェアを選んだので、興味津々なカークはきらきらした目で遠慮なく背中にまとわりついてきた。その夜、スポックがバイエルを始めた、という情報が友人たちのコミュニティに漏洩し、大量のありがたいコメントをいただく羽目になる。
「確かさあ、ふたりで弾くやつもあるだろ。ほら、並んで座ってさ」
「連弾ですか?」
「それかな。好きな子と手を触れ合わせたいがために書かれた曲とかなかったっけ」
「そんなものが? 実にロマンティックですね」
「言い方に含みがあるんだよな。おろかなヒューマンですみませんね」
「生きとし生けるものはみなおろかです。現に、私はあなたが連弾したいと言い出すことを待っています」
「それは、好きな子の手にさわれるから?」
「さあ、どうでしょう」
 カークはときどき、気が向いたときに、ピアノを弾いているスポックの隣に肩をぶつけながら座った。
 そのたび適当に鍵盤を押す彼に、根気よく楽譜の読み方を説いてはいるのだが、彼がまともに取り合うことはあまりない。決まって無茶苦茶になるそのセッションは、たまたま遊びに来ていたジミー少年によって、おとなげない、と言わしめた逸品であった。



 ジミー少年はあれ以来、ときどき自転車をこいで遊びに来るようになった。一度、彼の両親による訪問を受けて、訴えられる覚悟もしたのだが、どうやら許されたようである。
 カークとふたりで似たような顔をして、そろって庭ではしゃいでいるのを見ると、スポックはことさら穏やかな気持ちになった。
「よし、今度は絶対うまくいく」
「そう言ってさっきだめだったじゃん」
「さっきはさっき、今は今。行くぞジミー、3、2、1!」
 とはいえ、彼らが最近もっぱら全力で取り組んでいる遊びがモデルロケットの打ち上げなので、あらゆる意味で迷惑行為がはみ出さないかと不安ではあるのだが。
 シュッと小気味のいい音を立てて打ち上がったロケットに振り向けば、ふたりはぽかんと間抜け顔で空を見上げていた。スポックは剪定の手を止めて、よく晴れた青空を振り仰ぐ。ぱっとパラシュートが開いて、ふたりはわっと歓声を上げた。
「開いた! 開いた!」
「よし、そのままこっち、こっちこっち」
「ああーっ、風が」
「なんでそっち行くんだよ! 風が、いやこれ絶対風のせいだろ」
 やがて、その歓声はどことなく慌てた調子になり、スポックはゆっくりと後ろに手を組む。そしてくるりと彼らに向き直れば、同時にごつんと頭頂部に衝撃を受けた。
 じろり、と視線を持ち上げると、麦わら帽子のつばにパラシュートが引っかかってぶら下がっている。
――そこのジェームズたち」
「ヒィ……! ごめんなさい!」
「いやこれ風のせいだから! 今日は風があって残念だったな!」
「ご年配の方は聞き分けるという素晴らしい能力をもうろくさせてしまったようですね、嘆かわしい」
「すっげー怖い」
「風速も計算に入れて設置しなさい。ジミー、老人はものを忘れがちですから、あなたがしっかりすること」
「はい、ミスター・スポック。ジムの面倒はちゃんと俺が見ます」
「あっれなんかおかしくね???」
 軽く嘆息しながら帽子を取ってパラシュートを回収すると、ジミーは首をひねっているカークの手から勝手に端末を奪って、トコトコとこちらにやってきた。彼に問われるまま、風速シミュレーションをその端末で作っていると、そのうちカークが乱入してくる。
「勝手に進めるな!」
「スポックのほうが正確だもん、こういうのは」
「おじさんだってなあ、やるときゃやるんだぞ。おじさんはこいつが作ったコバヤシマル・テストをクラッキングして」
「えっ、スポックかわいそう……
「ジミー、もっと言ってやってください」
「それは本当に『やるとき』だったのですか? ジムおじさん」
「すぐスポックの味方するじゃん!」
 子供みたいな癇癪をしてみせるカークに、ジミーは声を上げて笑った。
 スポックは端末を操作しながら、ゆっくりと歩いていってウッドデッキに腰かける。途端に左右をあたたかい体温に挟まれて、思わず口元をゆるめてしまった。



 モデルロケットを申請不要の高度ギリギリに到達させる、という目標が佳境に入った頃、カークはまた少年をひとり連れてきた。自転車のチェーンが壊れて困ってたから、と先手を打ってしょげた笑みをされて、結局スポックは深々と溜息をつく羽目になる。
 でこぼこと傷が多い自転車をちりちりと引いて、恐縮そうにガレージまでついて行く少年は、アキと名乗った。
 カークが工具を取り出してきてチェーンを直す間、スポックは彼から事情を聴取し、速やかに保護者へ連絡したものである。ジミーとは違ってどうも放任が強い親であるようで、そうですかで終わってしまったことに拍子抜けしたくらいだった。
 そんな通話を終えてウッドデッキへ出ると、カークは何故か、いそいそとモデルロケットの発射台を庭の中央へ運んでいる。その後ろを興味津々にちょろついている少年を見て、スポックはうっすらと眉を寄せた。
……ジム?」
「あ、スポック。どうだった?」
「彼の保護者から了承はいただきましたが……、いったい何を?」
「アキもモデルロケット見てみたいって。すごいぞこの子、自分でクラフト飛行機の設計図引くんだ」
 ぱっと明るい笑みをして、カークはまるで自慢するように少年を指し示す。倣って彼に視線を落とせば、アキは遠慮がちに見上げてきた。カークのこともスポックのことも知っているという彼は、立派な科学畑の少年であるようだ。
「それは、見てみたいことでしょう。私は構いませんが、怪我をしないように」
 そう言って小さく顎を引けば、アキは嬉しそうな笑みを見せた。どこかほっとしたような、上気した丸い頬を見つめながら、スポックはもうひとりの少年を思い浮かべる。
 これを、ジミーはどう思うだろうか。
 そんな懸念は、もちろん正確に再現された。
 アキが再訪した昼間に、ちょうどジミーも遊びに来た日だった。カークはふたりをお互いに紹介して、みんなでロケットを飛ばそう、といつもどおりに遊び始める。庭でああだこうだと楽しそうにしている声を聞きながら、一抹の不安を抱えつつ、スポックは粛々とバイエルを進めていた。
 そのうちに突然、ジミーがデッキから駆け込んできて、飛び乗るように隣に座り込んでくる。
……ジミー?」
「あいつなんなの」
 手を止めて見下ろせば、彼はずいぶんとふてくされた顔つきだった。案の定、ジミーは快く思っていないようである。その心境を悟って、スポックは静かに寄り添った。
「気に入りませんか」
「だってあのロケットは俺とジムで作ったやつなのに、途中からしゃしゃってきて」
「文句を言うのですか?」
……違う。うんとうまく飛ばすようにする。ジムはべた褒めだし。そりゃあ、そりゃあ、俺は別に航空工学とかに詳しくないけど」
「それは、少し悔しいですね」
「スポックは頭いいじゃん。分かんないよ」
 みるみる顔をしかめて眉を寄せる少年は、表情を隠すように、こちらの腕に額を押しつけてくる。スポックはじっとして、彼の好きなようにさせた。
「そうですね。学問において最適解が分からない、ということは、私にはあまりないので分かりませんが」
「スポックって、本当にいつでもスポックだよな」
「言い方がジムに似てきていますよ、危険です」
「やっぱ頭はよくないとだめなのか」
「ジムが頼りにする科学士官が私に無断で増員されたとき、私は最高に腹が立ちましたので、気持ちは分かります」
 ジミーは一瞬、何を言われたのか分からない、というように言葉を切ったあと、ぽかんと口を開けて顔を上げる。
 スポックは素知らぬ顔をして、そんな彼をまっすぐに見返した。
「それが、非常にはつらつとした大変魅力的な女性でしたから、余計に。なにも私の目の前で、見せつけるように、君の代わりはいくらでもいる、みたいな顔をする必要はないじゃないですか。私の怒りは妥当でしたし、ジムは子供じみていました」
「いや、それだいぶスポックも子供だぞ……
 途端にあきれた表情になるジミーは、あっさりと正解を口にする。スポックは彼の聡明さを敬して、軽く背中をぽんと叩いた。
「ええ。私ですらこうですから、子供のあなたはそのままその不満をぶつけても何ら支障はないと考えます」
 その後、庭に走り戻ったジミーと、割と言いたいことははっきり言うアキとの、子供じみた言い合いが始まり、完全に困った様子のカークが的を射ないなぐさめ方をしてふたりにそろって怒られる喧々諤々をBGMに、スポックは粛々とバイエルを進めた。
 翌日から、ふたりは仲良く自転車で乗りつけてきたものである。



 何かたいそうな箱が届いたな、と思いながら受取人たるカークに渡したところ、彼は嬉々として梱包をむしった。中から出てきたのはレコードプレーヤーのような機械で、新調したのだろうか、とスポックは首を傾げる。
 そんなこちらの様子をにやりと見上げて、カークは「タダー!」なんて言いながら、それをリビングのテーブルに置いた。
「なんです?」
「まあ待て、まあまあ」
 どう見ても、何かを企んでいる表情だった。スポックは眉をひそめながら、今しがた淹れてきたお茶を片手に、彼から少し距離を取ってソファに座る。カークは顔を上げると、楽しそうに吹き出して笑った。
「人間を警戒する野生動物かよ」
「危機管理能力というものがありますから」
 彼は梱包の中からぺらりと1枚レコードを取り出すと、円盤部に設置して、ジャックに端末をつなげる。それからカチカチとボタンを操作すると、円盤が回り始め、自動で針が落とされた。
 カークは一仕事終えた様子で、満足げに隣に座るのだが、レコードからは何の音も聞こえない。
「ジム? 音がしません」
「うんうん。そうだな。不思議だなあ」
「壊れているのなら返品交換を、と言いたいところですが」
「ですが?」
「その顔はどう見ても分かってやっていますね。音が出ないレコードなのですか?」
「そうだな、まさにそのとおりだ。正確に言うと、『そのうち音が出るようになるレコード』だ」
……まさか」
 思い立って、スポックは身を乗り出した。カップをテーブルに置いて、下ろされた針に目を近づける。針は円盤の外周から少しずつ内側へ回っていて、針の周りにはレコードから削り取られたらしいふわふわとしたカスがまとわりついていた。
「まさか、今書いているのですか? レコードに? 音を?」
「その嬉しそうな顔。君、実は俺よりアナログ機械大好きだろ」
「車にそこまで興味はありませんが、レコードは違います。音響学のシンプルな原理ですよ、美しいと思いませんか」
「完全五度?」
「周波数の純正な音律」
「君が喜んでくれて嬉しいよ」
「針はダイヤモンドでしょうか」
「確かそう。いやあ、実にいい買い物をしたな」
「そうで――、ジム。それは私のお茶です」
「君のものは俺のもの」
「その理論でいくと、私はまるごとあなたのものになりますが」
「ブッ――、っ、ごほッ、ごほ!」
「こぼさないでください。いったいいくつになったら飲食物を問題なく口に収められるようになるのです」
「き、君がすっごいことブッ込んでくるからだろ! びっくりした」
「ごく当たり前のことを論じたまでです。ジム、服の裾で顔を拭かない」
「えっ、スポック?」
「ハンドタオルを。すぐに戻ります、そんなさみしそうな顔しないでください」
「そ、そんな顔してない」
「鏡が必要なようですね」
 15分ほどだろうか。そんな他愛のない会話でじゃれていると、そのうちかちりと音がして、カークはびくりと肩を揺らした。
 何故か悲愴な表情になった彼は、恐る恐る、自動で針が上がったらしいカッティングマシンを振り返る。スポックはつなげられた端末を一瞥して、きょとりと素直に首を傾げた。
「そういえば、何を録音したのですか? あなたの好きなロックでも?」
 尋ねても、カークは答えない。のろのろとしたしぐさでレコードを持ち上げると、いくばくか逡巡して、彼はそれをリビングにあるプレーヤーにセットした。
 ぷつ、とレトロな音がして、かすかに擦れた音が流れる。
 そして、聞き覚えのある、滑らかな声が再生された。
 ――ジム? 音がしません。
 ――うんうん。そうだな。不思議だなあ。
「あなたまさか」
 スポックはとっさに手を伸ばして、マシンにつながったままの端末を裏返した。それは今もまだ、録音モードになっている。
「ジム」
……いや、君のこのさあ、最初の、ぴっかぴかのすげー嬉しそうな声は、すげー面白いから、まじ成功したなって思ったんだよ、俺は」
 ――君のものは俺のもの。
 ――その理論でいくと、私はまるごとあなたのものになりますが。
 ――ブッ――、っ、ごほッ、ごほ!
「後半、完全にいちゃいちゃしてんじゃん……、死ぬほど恥ずかしい」
「もしかして、録音していることを忘れていたのですか?」
「君がすっげえこと言うからだろ!」
 カークはプレーヤーを乗せた棚に両手をつくと、そのまましゃがみ込んでしまった。
 スポックはその様子を見て、ふう、とソファにもたれかかる。
 ――君の声は反則なんだよなあ。
 ――光栄ですね。耳元でささやきましょうか?
 ――やめて。
 この、最初も最後も関係なく、通してぴっかぴかに嬉しそうな声は、確かにこう、あれだ。
 結局、そのカッティングレコード第1号は、カークとスポック両名の合意の元、レコード棚のすみに封印された。高血圧でマッコイのお世話になりそうだったからである。



 カッティングマシンは子供たちもいたく気に入り、しばらくの間、歌ったり朗読したりと自分の声を刻み込んでは再生して面白がっていた。
 モデルロケット開発がひと段落ついたあとは、カークにクラシックカーのエンジンを見せてもらったり、船舶の模型を作ってプールで走らせたりと、彼らはやや独特な遊びを続けている。日差しの強い中で元気に動き回るものだから、スポックはそのうちウッドデッキにサンシェードを設置した。
 真っ先に居座ったのは、ダーシャである。
「これ以上水抵抗をなくすとしたら、もう船体を浮かせるしかなくない?」
「それもうただの飛行機じゃん」
「いや、ダーシャ天才か? やはり飛ぶ乗り物がこの世で最も優れているということだな、ボーンズに言っとこう」
「あ、ジムは黙ってて」
「ええ……、はぁい……
 モーターをころころと手の中で転がしながら座り込んだ彼女に倣って、ジミーとアキも日陰に転がり込んできた。最後に肩を落としたカークが加わって、スポックは顔を紅潮させたそれぞれの様子を注意深く観察する。それから踵を返して、人数分の冷たいレモン水を作ってくると、デッキに置いてカークにトリコーダーをかざした。
「わあ、ありがとうスポック!」
「ありがとう、スポック」
「今日も素敵よ、スポック!」
「愛してるわ、スポック!」
「ジミー。ジムのアホみたいな真似は絶対に君のためになりません」
「ひどくない? 主に俺に対して」
「ごめんなジム、俺、スポックに愛されてんだわ」
「憐れみの表情やめろ?!」
「スポック、ジムはどこか悪いの?」
 数値が正常範囲内であることを確認して、スポックは腕を戻す。心配そうに見上げてくるダーシャには、努めて優しい表情を向けた。
「いいえ。ただ、はしゃぎすぎると倒れる可能性があります」
「ジム……、あなた大人の分別をちゃんと持って、そこそこにしなきゃね」
「ほら、ミス・スウィーティ・プーのお言葉だよ、ジム」
「勝手にイグノーベル賞に輝かせるのもやめろ」
 チェックが終わるまでおとなしく待っていたカークは、途端にごろんと寝転んで大の字になる。伸ばした腕でべしと腿をはたかれて、スポックは軽い溜息と共にその場に座り込んだ。のんびりと過ぎていく時間は、ときおりグラスの氷をカランと鳴らす。
 今でこそ、こうして3人仲良く遊んでいるが、ダーシャはアキが連れてきた友人である。
 例によって例のごとく、なにあいつ、とふてくされたジミーは、今度はしばらくスポックにくっついて離れず、アキが話したそうにしていても完全無視を貫いた。スポックは、無理に話すことはないと言いつつも、いずれは和解を考える必要がある、と根気よく伝えたものだったが、その緊張状態を見事にすべて吹っ飛ばしてくれたのが、カークの「スポックはジミーばっかり構っててずるい。スポックはそもそも俺のだし、つまり俺を一番に構うべきだ」というすがすがしいほどの自己主張だった。
 事態を収束させるためにわざと言った言葉らしいのだが、各方面への影響は絶大だったわけである。



 カークの健康状態はすこぶる良好であった。いっそ、大佐から昇格直後の地上勤務ストレスに対抗して毎晩のように飲酒をしていた頃のほうが不健康だったくらいである。マッコイにとっては約束された安眠が待っているはずであったが、相変わらずなんだかんだとカークの言動に振り回されては嬉しそうな悲鳴を上げていた。嬉しいわけあるかと本人は言うのだが、あれは絶対に嬉しいのだとスポックは確信している。
 そんな彼と飲みに出かけてくる、とカークが不在を告げてきた夜だった。
 彼が不在なら、とスポックも外出の予定を立て、アカデミーに残してきた研究の進捗でも伺いに行こうかと家を離れた。引退した前任者が顔を出すのは煙たがられるだろうかと懸念したものの、かつての同僚は快く迎え入れてくれて、あれこれと相談を投げてくるほどだった。気になっていた結果が少しずつ得られるようになっており、近いうちに有意と判断できるだろうと聞いて、スポックもたいそう安堵したものである。
 そのまま、どこそこと連れまわされて、気づけばいい時間になっていた。
 彼らと別れ、もし近くにカークがいれば拾って帰ろうか、と思いながら、一般人は持ち込み禁止になっている私用端末をセキュリティから回収すると、カークからの着信が3件並んでいる。
 メッセージはなく、時間も少し前だった。何かあったのだろうかと折り返したが、不通のままコール音が鳴るだけである。
 スポックは大股で通りまで駆け出し、ほとんど体当たりで車を止めて、住所を告げながら乗り込んだ。もう一度、彼にコールバックしてみるが、相変わらず反応はない。スポックはいらいらと足を動かして、ただ進行方向一点だけを見つめた。この眼力でワープ航行ができたらいいのに、と馬鹿な思いつきが脳裏をよぎる。
 そろそろこの距離なら走ったほうが早いから飛び降りよう、と考えていたとき、カークからの着信があった。スポックは素早く通話に応じ、耳を研ぎ澄ませる。
「ジム?」
『スポック、いま』
「もうすぐ自宅です」
『はあっ、よかった。じゃあ、もういい』
「もういいじゃありません。何があったのです」
『帰ってきて』
「ジム」
『用事があっても、俺に会いに来て』
 スポックは車のドアをこじ開けて道路に降り立った。思えばいつでも、自分が走るのはカークのためだったような気がする。そして、自分を走らせるのは、いつだって彼だけだった。
 門を跳ね開けて、伸び気味の芝を蹴り、土のにおいのする畑を過ぎる。ウッドデッキ向こうのリビングで、カークがソファに横たわっているのを見つけて、電撃を浴びたように心臓が跳ねた。彼の目と同じ色のプールをまたいで、思わず、そのまま庭側の窓に飛びついてしまう。就寝時でない限り開錠していることが多いので、それが今回も幸いしたようだった。
「ジム」
「じじいの動きじゃねーんだよな。ピューマかよ」
「ずいぶんと元気そうですね」
「まあ、ちょっと、びっくりしたかな」
 駆け寄って膝元に控えると、カークはゆっくりと顔を上げてへらへらと笑う。手には酸素スプレーを持っていて、マスクをセットし損ねたのか、同じものがもうひとつ床に落ちていた。電話口から呼吸の早さは窺えていたが、今は少し落ち着いているようだ。それでも、うっすらと汗を浮かべるカークは、いつもよりずっと苦しそうだった。
 スポックは彼の手首を取って指で探った。脈拍と、呼吸回数を見て、落ちているスプレーを拾う。
「何があったのです」
「いやあ、まあ」
「白状しなさい。用事があっても会いに来て、とは相当です」
 のらりくらりと返答するカークは、言いにくいのか言うつもりがないのか、目を逸らして言葉を濁した。状況を把握する意味でも、それ以上の意味においても、逃げ出すことは許可しない、とばかりに手首を握れば、カークは迷うようにううんと唸る。
 はあ、とまたこぼれた吐息を見て、スポックは両手を伸ばし、彼の体を抱え上げた。
……じじいの動きじゃねーんだよなあ」
「おとなしく。寝室へ運びます」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「君、今日出かけること俺に言ってなかったろ」
「あなたの帰宅は日付が変わると思っていましたので」
「ボーンズんとこに急患が来て、帰されちゃったんだよな」
「すみません。すぐに帰るつもりでしたし、なんならあなたを拾って帰るつもりでしたから」
「ちょっと、びっくりして。君、勝手にいなくなるタイプじゃないし、何かあったのかと」
……すみません」
「電話、出ないし」
「ジム、申し訳ありません」
「そのへん、走り回って探してみたんだけど」
「ジム……
「苦しくなっちゃって……
 彼のベッドの上掛けを剥いで、とても慎重にその体を横たえた。
 首に回ったカークの腕がそのままなのをいいことに、スポックもそのまま、彼の胸元に抱き込まれたような状態で停止する。
 とくとくと打つ脈拍はいつもより少し早く、彼をすぐさま安静に寝かせなければならない、ということは分かっていた。けれど、分かっているだけだ。
 カークはしばらくすると、スポックが離れないことを悟って、ほっとしたように体から力を抜いた。
「君ともう、どこまでも一緒に走れないのがさみしいな」
「ジム」
「俺ががむしゃらに走ってると、なんだかんだ文句を言うくせに、それでもいつも、君が一緒に走ってくれるのが好きだった。俺も、君と仕事ができて、本当によかったと思ってるんだ。スポック、本当はもう少し、続けたかったくらい」
「けれどあなたは、呼吸器官の再生手術を断りました」
……うん」
「そこまで言うのなら、何故」
「まあ、いい機会だと思った。ほんとに、それだけなんだ」
 そっと彼の手が滑り、優しく髪を撫でられる。
 穏やかに語られる言葉は、きっとそれでも、自分の知らないいろんな意味が込められているのだろうと思う。彼の言う『それだけ』が、それだけだったためしは一度もなかった。
 ぎゅっと目を閉じて、彼のやわい体を抱きしめれば、あわいからカークの吐息がこぼれて落ちる。
「あなたが走れなくなっても、私が走ります」
「ええ?」
「こんなふうにあなたを抱えて、まるでじじいの動きじゃないみたいに」
「ええ、やだな、完全にお荷物じゃん」
「いいえ。私のジムは羽より軽い」
「スポック」
「もう少し、このままで」
 この家に転がり込んだのは、ほとんど衝動的だった。
 そうしてもいい、という思考は頭のすみにあったものの、たまたま訪れてそのまま居つく、なんてことは、スポックとしても衝撃的な情動だったわけである。
 サングリアでさんざん酔った翌朝、スポックは自宅を片づけに、3日ほどこの家を離れた。
 そのとき、彼はあっけらかんとした態度で、努めて明るく振る舞いながら、怯えたような目をしたものである。
 もう帰ってこないかもしれないし、そもそも自分は迎えてはいけない、と悲愴な決意をしているようだった。
「いっそ、その赤い唇を割って舌をねじ込んでしまえば、もっと話は簡単だっただろうか、とは思っています」
「突然何の話だ。セクハラはよくないと思います」
「でも、そんなことをしたら私は際限なく求めますし、すなわちあなたは窒息死してしまうので、やはりこれでよかったのです」
「なんか、それ自分に言い聞かせてませんか」
「いえ。ただ、どうしたら、あなたが納得してくれるのかと」
「納得? 何を」
「私をつなぎとめようと努力する必要などないことを。すでに惚れている男に、惚れ薬を飲ませる必要はありません」
……スポック」
「はい」
「寝よう」
「そうしましょう」



 翌日、スポックはオートバイ用のごっついキーチェーンを門に噛ませて、厳重に施錠した。
「スポック! どういうことだよ!」
「本日は閉園です」
「いつから園になったんだここ」
「せっかく水鉄砲持ってきたのに~!」
「明日以降で。ジミー、子供たちが増えていませんか?」
「こいつは知ってるだろ? 3つ隣に住んでるんだぞ」
「はじめまして」
「ますます園じみてきましたね……。はじめまして。ですが、今日はだめです」
 ぴしゃりと放つと、盛大な「ええ~!」という非難の声が返ってくるものの、スポックは揺るがぬ真顔で彼らと対峙する。無茶を通そうとするやんちゃをたしなめる、ということについては、一家言持っているスポックであった。
「ジムは?」
「何故こうなったのかは明日以降、ジム本人に聞いてください」
「あいつまさか倒れたんじゃねーだろうな」
 見た目に反して繊細なつくりをしているジミーは、意外とこういう機微に敏い。スポックが彼に向かって小首を傾げると、ジミーはわざとらしいむっとした顔をして、不安を押し込んだようだった。
「スポック」
「有り余るほど元気ですからご心配なく。ただ、今日は臨時休業です」
 後ろに手を組んで、門の前で仁王立ちすれば、彼らは一言二言、わいのわいのと騒いでくれる。けれどこちらが譲らないことを悟ると、じゃあまた今度、と言ってしぶしぶ踵を返してくれた。
 帰っていく集団に足を合わせながら、ちらとジミーが振り返る。スポックは視線を合わせて軽く頷き、自分もくるりと反転した。
「ちびたち、文句言ってた?」
「言いましたが帰りました。水鉄砲を持ち寄っていましたから、近いうちに示し合わせて遊びに来るでしょうね」
「水鉄砲! いいな、俺もつええの買っておかないと」
「あまりはしゃがないでくださいね」
 リビングに戻れば、のんびりとソファに座ってハンドグリップを握っているカークの嬉しそうな笑顔が迎えてくれる。
 スポックは通りしなに、彼の柔らかい髪を撫でると、そのままピアノの椅子を引いた。鍵盤を開けて布を取り去れば、まるで当たり前のようにカークが隣に座ってくる。
「君のバイエルタイムは正確だな。きっとお隣さんはアラーム代わりにしてるぞ」
「今はハノンも弾いていますよ」
「そうか、分からん。いかにも練習曲、みたいな単調なのばっかり弾いててもつまんなくないか?」
「いえ、あまり。何を練習させようとしているのかが分かると面白いです」
「スポックだなあ」
「褒められているのでしょうか」
「うん。俺でも知ってる曲とかない?」
「ああ、そうですね。おそらくこの曲集にはないかと。ここで検索できますから、探してみてください」
 確かに、聞いているほうはつまらなかっただろう、とスポックは合点した。譜面台からタブレットを取って彼に渡せば、カークは受け取りつつも微妙な表情で首を傾げる。こちらの練習を中断させてしまうことを気に病んだのだろうその顔に、スポックは挑戦的な眼差しを向けた。
「私がどこまで弾けるようになったのかを試すいい機会です」
「言ったな。すげー難しいの選んでやる」
 カークはにやっと悪い笑みを浮かべると、いそいそとタブレットを操作する。人気曲、定番曲、といろんなコーナーを開いてみては、うーんと言って首をひねった。
 その伏せられた眼差しを、スポックはそっと見守る。ちらちらと画面をあちこちする瞳、ほのかな影を落とすまつげ。優しく寄った目尻の皺と、愛嬌の塊のような唇。椅子を半分にしているだけの近い距離で、触れている体半分から感じる体温。再びうーんと言って傾けられたカークの頭に、そっと自分のを触れ合わせてみた。カークは熟考するポーズのまま、ぐいと頭を押しつけてくる。
 スポックが腕を回して彼の肩を抱くと、カークは縮こまるようにして吹き出した。
「いちゃいちゃすんな」
「手持ち無沙汰なので」
「面の皮がぶ厚いことこの上ないな」
「子供たちが来ると、あなたは彼らにかかりっきりになりますから。今日はもう来ないと思うと、少しだけ爽快ですね」
「おとなげないぞ、ミスター・スポック」
「ひとり占めです」
「それに、かかりっきりになるのは君もだ」
 コトン、と譜面台にタブレットを置いて、カークはその画面を見つめる。
 穏やかに微笑んだ口元と、物柔らかな眼差しにつられて、スポックも目を移した。
「『バラ色の人生』」
「君と最初に聞いたレコード、ピアフだったなあと思って」
 その言葉に一瞬、まだ年若いカークのひそやかな微笑みを思い出す。どこか切ないような郷愁に包まれながら、スポックは譜面をたどった。装飾が難しそうだが、メロディラインはシンプルだ。
 両手を合わせてから開き、鍵盤に指を触れる。音符を確かめながら鳴らすものだから、リズムはまるでがたがたで、よちよち歩きのようだった。そんな様子に、カークはくふくふと柔らかい音を立てて含み笑いをする。思わずそちらを見てしまえば、豪快に音を間違えて、目を合わせたカークはとても嬉しそうに微笑んだ。
 仕方なく、スポックは楽譜に集中する。繰り返し記号から先は、初見より少しましになった。
 カークはくるっと足を回して互い違いに座り直すと、そんなふうに奮闘するこちらの肩にもたれかかり、演奏に差し支えない程度にぴったりと頬をくっつける。それからしみじみと、ほっとするように吐息した。
「いい人生だな」



 スポックは、カークからの課題曲をある程度滑らかに弾けるようになるまで、バイエルを中止した。
 毎日毎日同じ曲を弾いているからか、カークの最近の鼻歌は100%の精度でこの曲で、スポックですらつられそうになっている状態である。けれど、1週間も弾いていれば、だいぶさまになってきた。
「上達が早すぎるんだよな。このハイスペック魔人め」
「少し跳ねるように弾くとあなたが楽しそうだ、ということも分かってきました」
「分からんでいい、そういうのは」
 カークは相変わらず、背中に絡んできたり、隣に座って邪魔をしてきたりと自由である。けれどそのうち自分でも気になりだしたのか、スポックがピアノから離れても居座って、ポロンポロンと鍵盤を叩いてみることがあった。
 楽譜の読み方は教えたが、たぶんこれはどちらかというと、スポックの指の動きを見て覚えたやり方である。誰がハイスペック魔人だって? と問い返しても問題のない案件だったが、スポックは何も言わないことにした。ときどきこぼされる、カークのたどたどしい『バラ色の人生』に、耳を澄ませていたかったからだ。
 彼のピアノは思いついたときに突然始まって、突然終わっていくので、なかなか上達することはなかった。
 スポックの教材がバッハの小品集になっても、彼はポロンポロンとかわいらしい和音を奏でるのだ。
 ちょうど庭の野菜を収穫し終えた頃合いで、その音色が聞こえてきて、スポックは顔を上げた。振り向けば、さんさんと明るい窓の向こうで、少し唇をとがらせて背中を丸め、手書きで紙に書き出した彼専用の楽譜を睨みながら、ピアノに向かっているカークが見える。
 スポックは、ふと思いついてそっとリビングに入った。戸棚にしまい込んでいたレコードカッティングマシンを静かに取り出し、窓を開けた状態でウッドデッキへ出る。プールのきらめきに目を細めながら腰を下ろして、さっそくマシンをセットした。
 のんびり、ゆったり、なんとか進んでいく曲の愛おしさと、頬をなでるそよ風、明るくよく晴れた日に、当たり前に存在するこの奇跡のような穏やかさを、分かる形で残してみたいと思ったのだ。
「あっ、あーっ! ちょっ、スポック録んなよこんなの!」
 しばらくして、そんな素っ頓狂な声が背後から飛んできたので、スポックは満ち足りた気持ちで目を閉じた。



 友人が友人を呼ぶおかげで、この家を訪問する子供たちはその後もちらほらと増えた。ジム&スポックの青空子供科学教室、みたいな看板でも出すか? とカークは冗談を言い、すでに近所にはそのようなものとして認識されている、という事実にスポックは頭を抱えたものである。宇宙艦隊の優秀な士官に勉強を教われると聞いて、と親からやってきたケースすらあった。
 実際、ジミーたちの年齢が上がると、スポックは彼らの勉強を手伝うようになった。カークは相変わらず、なんやかやと遊びを考えては彼らを巻き込んでいたのだが、そのうち喧嘩をするようにもなったし、仲直りの仕方が分からないと落ち込むこともあったし、そのあと和解してさんざんはしゃいでぶっ倒れる、なんて芸当をしてみせたりもした。カークは始終、彼らとは対等な友人として接していて、それは子供たちもよく分かっているようである。カークから「スポックにばっかりなついてずるい」などと言われたこともあったが、子供たちの関心はいつだって、我らがキャプテンこそ最たるものだった。



 スポックは少しずつ少しずつ、庭の畑を拡張し、そのうちやりすぎだとカークに苦言を呈された。協議の結果、収まったのが今の広さである。ぶどうなども植えてみたかった、と申し出ると、カークは「うそでしょ」という顔をしてこちらを二度見した。決して冗談ではないのだが。
 たまにカークや子供たちによって盗み食いされることを除けば、実に質のいい収穫率を誇っており、ひそかなスポックの自慢である。



 夏には海へ出かけ、冬にはパーティをした。カークはいくつになってもクラシックのオープンカーで乗りつけようとするものだから、スポックはいつも屋根の重要性をこんこんと説くことになる。ごきげんなサングラスのカークはいつも話半分で、むしろ心地よいBGMだとでも思っているようだった。「うんうん、それで?」なんて嬉しそうな顔で言われてしまっては、スポックには溜息をつく以外なすすべがない。
 古い友人たちはいつでも遠慮がなく、いつだってまるで自宅のようにくつろいで帰っていった。一度、ゲストルームをマッコイの部屋にするプレゼンテーションを本気で行ったことがあるのだが、本人からは「そのでかいプロジェクターをしまえ」と即座に却下されてしまった。あのスライドは本当にいい出来だったので、今でも不当な評価だったと思っている。



 ときおり、ふたりきりの夜に、屋根裏部屋へ上がって星を見た。天体望遠鏡を覗くこともあったけれど、海の向こうに広がる宇宙をぼんやりと見ていることのほうが多い。
 寒い日には、厚手の大きなひざ掛けと熱いお茶を持ち込んで、包まって窓辺に座り込んだりもした。カークを腕の中に抱き込んでいるとあたたかくて、そのまま眠ってしまったこともある。翌朝、怒涛の体の痛みに襲われたカークは、ぴんぴんしているスポックに、わあわあと逆恨みを投げつけたものだった。



 雨の日は、誰の訪問もなく静かだ。
 しとしとと庭に降る雨音を聞きながら、リビングのソファに座ったり、寝そべったりして、有閑に過ごすことが多かった。それぞれに本を読むときもあれば、チェス盤を引っ張り出してきて対戦することもある。けれど決まって、ソファの上だ。
 このつかず離れずの距離を、雨音が満たしていく空間は、何物にも代えがたいものがある。きっとこの価値は、この世でふたりにしか分からないだろう。



 よく晴れた日には、庭の芝を刈るカークの姿が見られた。
 何度か自動のロボットを導入する提案をしたのだが、何故か彼はブオンブオンと音の出る手押し車をかたくなに押したがるのだ。