全年齢|AOS spirk|2021.6.19|年齢を重ねて引退したジムとスポックが、郊外の家でのんびり一緒に暮らす話。ふたりの未来をフリ~~~ダムに捏造しています。
いつもどおりの、よく晴れた日だった。
明日退院なんだけど付き添い頼むわ、と前日にメッセージを寄こしてきたカークは、メディカルセンターの前でのんびりと立っていた。
スポックが近づくと彼は気づき、明るい日差しの中でにこりと笑う。今日も目尻に寄った皺は柔らかく、実に自由で楽しそうだった。
「レナードは?」
「開口一番ほかの男の話をするな」
「昨日の今日で予定をねじ込むのはやめてください。私に外せない用事があったらどうしたのです」
「うーん。用事があっても俺に会いに来て、って言ったかな」
いたずらっぽい軽口は、相変わらずの冗談だ。歩み寄ったスポックの肩を軽く拳で叩き、カークは茶化すように眉を持ち上げた。スポックはそんな彼の、陽光に透ける青い虹彩を静かに見つめる。
しばらくの間そうしていると、ふいにカークは肩をすくめた。そのまま歩き出してしまうので、スポックは大股で彼に並ぶ。
「先に行かないでください」
「君がいつまでも見とれてるからだろ。困ったなあ、俺がいい男で」
「付き添いが必要な理由は、倒れる可能性があるから、と聞いています」
「もっと正確に言うと、解き放ったらそのへんむやみに走り回るかもしれないから初日は飼い主連れてこい、だな。なんでボーンズはいつもこうなんだ。俺は人だ、犬じゃない」
「ああ、何か今、所業が巡り巡って自分に返ってくるという因果応報の概念をこの目で見た気がします」
そんなことを言っている間に、カークは車を拾った。告げられた住所が初めて聞く場所で、スポックはぴくりと眉を動かす。けれど、座席に落ち着いたカークが、一仕事をした、というようにほっと息をついたのを見て、より盛大に眉を寄せた。
息が弾んでいる、ということはないが、頬は少し上気していて、彼は目を閉じている。わずかに発汗しているが、日差しに当たったせいだろうか。
そんなふうにじろじろ見ていると、カークは目を閉じたまま、穏やかに口元を持ち上げた。
「困ったなあ、俺がいい男で」
「くたびれているようですが?」
「失礼なやつだな。ちょっとくたびれたくらいがかっこいいんだろ、この年になると」
いえ、そういう意味ではなくて、と反論しようとして、結局スポックは発言を取りやめた。
カークがそういうことにしておきたいのであれば、自分だってそうしておきたいと思ったからだ。
車は静かに南下していった。
その間、カークはマッコイの言動を揶揄しては四の五の言ってみせたのだが、明らかに口調は嬉しげで、スポックは相応の適当さでもって相槌を打った。聞いてるのか、と言ってわざとらしく腰に手を当てる彼の様子に、ふかふかとした柔らかい気持ちを持て余していると、やがて車はゆっくりと停止する。
しばらく住宅街が続いていたが、その一角のようだった。あたりはどの家も敷地が広く、目の前にある物件も等しく広大に見える。
「ここはどこですか?」
ぱちりとまばたいて、スポックはカークを振り返った。けれど彼はにやりと笑うだけで、そのまま車を出てしまう。
慌ててそんな彼を追えば、車はさっさと帰ってしまった。いいのだろうか、と逡巡しているうちに、カークは古めかしい門に手をかけると、ひらりと中に入ってしまう。
「ジム」
「大丈夫だから」
さすがに不法侵入では、ととがめるスポックを、彼はなごやかに受け流す。のんびりと歩いていってしまうその背中を追って、スポックも門をくぐった。
広い庭である。シャトルの離着陸ができそうだった。片隅に植えられたシュロは豊かに茂り、やや伸びすぎた芝のあわいにアプローチが続いている。迎える家屋はのびのびとした平屋で、突き出しのウッドデッキからは小さなプールに接続されていた。
「いいね」
のどかな足取りで歩を進めながら、カークはのほほんと頬をゆるめる。
「いい、とは」
「他から少し遠い感じがして」
玄関にたどり着いた彼は、尻ポケットからカードを取り出すと、扉にかざして開錠した。そんな重要そうで壊れそうなアイテムを尻ポケットに入れるのはどうかと思う、という意見と、どうして彼がこの家の鍵を所持しているのか、という疑問が対消滅して、スポックは言える言葉がなくなってしまう。
カークは物珍しそうな表情で、好奇心旺盛に家の中を歩き回った。
リビング、ダイニング、キッチン、いずれも少し古めかしいが、不潔さは一切感じられない。中古の物件だろうということは分かったが、それがどういう意味をなすのかは今ひとつ推測できなかった。彼の発想はいつでも突飛であったし、きっと今回もそういった類の何かだろう、という漠然とした想像ができるだけだ。
バスルーム、ランドリー、ゲストルーム、ベッドルーム。
「おっ、これは屋根裏部屋があるな」
目ざとく引き出し式のはしごを発見したカークは、いそいそとそれを伸ばすと意気揚々と登っていった。こういうところはいくつになっても変わらない、とスポックは思う。
「ん? あれ、スポックがいないぞ。どうしてだろうな? まさかあのご老体、この程度のはしごも登れなくなっちゃったのか?」
そして、こういうところもいくつになっても変わらない。スポックは軽く嘆息すると、はしごを登った。
「勝手に要介護者にしないでください」
「君の煽り耐性が変わらなくて嬉しいよ」
カークは窓枠に片手をかけて、背中から日差しを受けている。開け放たれた大きな窓の向こうには、陽光に透けてきらめく青い海があった。
逆光の中、風にくるりと舞う小さなほこりがきらめいて、カークは少しまぶしそうだ。その場に立ち尽くしてしまったスポックを見つめて、彼はとろりと優しく笑う。
「いいね」
「いい、とは」
ほとんど呼吸を忘れてしまいそうになって、スポックは唇を舐めた。庭でしたように尋ねれば、彼はそっと微笑んで、くるりと背中を向けてしまう。淡い色に落ち着いたカークの髪は、きらめきの中で透けるように揺れていた。
「君が、いれば、もっといい」
ふいに聞こえたそんな言葉を、わずかな驚きと、十分な緊張で受け止める。
彼の少し震えるような、このまま風に溶かしてごまかしてしまいたいような、そんな声を、今までいくつ胸にしまいこんできただろう。
「
――から、たまには遊びに来てくれると嬉しい。そしていいみやげを持ってこい」
ぱっと踵を返したカークは、ぱっと明るい笑顔を浮かべてそう続けた。
スポックは一瞬、強烈にやってきた激情を飲み込んで、いつもどおりに眉を寄せる。
「遊びに、とは? まさかここに引っ越す気ですか」
「あれ、言ってなかったっけ。そう。というか、今日は内見のつもりだったんだけど、気に入ったしいっかなって」
「言ってないのはわざとでしょう。本部からずいぶん遠くなりますし、あなたが早起きに積極的だとはあまり思えないのですが」
「真っ先に心配するとこそこかよ」
「このような広い敷地をあなたが管理しきるとも思えません。他の懸念点も述べましょうか?」
「はいはいスポック先生、分かりました、結構です」
カークは面倒そうな表情で両手を挙げて、じゃれるような会話を打ち切った。
スポックが口をつぐんだのを確認すると、彼はうんうんと大げさに頷いて、気安いいつもの笑みを見せる。
「君の最初の懸念については、取り越し苦労を約束しよう」
「最初の?」
「早起きしなくていい生活になると思うから」
いずれにせよそろそろ考えなきゃなあとは思っていたし、いい機会かなって。
そんな理由で引退を決めたカークは、ひどくあっさりとした様子だった。彼はひとりで考え込んでいることを周りに悟らせないタイプなので、きっとここに至るまでに、いろいろと葛藤したことはあっただろうと思う。何もかもを決めてしまう前に、彼からの相談が一言もなかったことにはやはり口惜しさを感じるが、大切なことほど自分できちんと考えたいと思う傾向があることも分かっているので、スポックは自分なりにしこたま驚いてみせて、カークを喜ばせるに留めた。
引き継ぎには、2か月ほどかかった。
その間、彼は常に惜しまれ続け、上官からは大佐に降格してやるから残らないかと誘われたそうだ。ちょっとぐらついた、と照れ笑いをするカークは子供のようで、俺はもう絶対に宇宙なんて絶対に行きたくないから絶対にやめろとマッコイにわめかれていた。内輪で開いた引退パーティのメンバーは、いつもの友人たちである。数名は久しぶりの邂逅だったものの、集まればいつだって昨日別れたようなテンションでいられたし、いつまでも20代や30代の頃に起きた出来事の話で盛り上がっていられた。
「それにしても、一緒に辞めちまうなんて」
赤ら顔になったスコットは、そう言ってグラスを持った手でスポックを指差す。
それを聞いて不満顔になったカークは、同じくびしっと指を差してきた。
「スコッティもそう思うよなあ? もっと言ってやれよこのばかに」
「いずれにせよそろそろ考えなければとは思っていましたし、いい機会でしたので」
絡み酒になっているふたりに対して、スポックはしれっとそう返す。少なくともカークは、ぐうと唸って押し黙った。
「まあでもなんか、分かる気がします」
「そうね。なんか、知ってた、って感じ」
あったかい眼差しを寄こしてくるのは、スールーとウフーラだ。スポックは丁重に片眉を跳ね上げて、彼らの揶揄するような視線に対抗した。
「でも、おふたりともいなくなっちゃうって思うと、やっぱりさみしいです
……」
チェコフはしみじみとそう言って溜息をつく。けれど、その隣でしょんぼり顔をするキーンザーとまとめてカークに抱きつかれると、嬉しそうな悲鳴を上げた。
「もう十分だからだろ」
隣を見れば、マッコイは口をへの字に曲げている。そのあきれたような、ばかにしたような、その実穏やかな表情に、スポックは彼の言葉の意味を考えた。
そして、自らに納得すると、深くまばたくようにして小さく顎を引く。
「ええ、十分に思います」
酔っぱらってしまったカークの健康状態を執拗なまでに調べ上げたマッコイから許可をもらい、スポックは彼を抱えて車に乗り込んだ。ひとりでできる、と言い張る彼の浮ついた言葉は聞き流して、一度行ったきりの彼の新住所を告げる。
夜の道を移動するうちに、カークはうつらうつらと眠り込んでしまったようだった。
到着と同時に起こしてはみたものの、返事は一向にはっきりとしない。仕方なく、スポックは再び彼の腕を取った。
カークをなんとか引っ張り出し、肩に抱えるようにして一息ついたと同時、背後で車が動き出す。さっさと帰ってしまうそのテールランプを呆然と見やって、スポックは待機と指示を出し忘れていたことに気づいた。
ひどいデジャヴを感じつつ、ふうとひとつ息を吐く。
それから覚悟を決めて、まるで防犯の意味をなしていない門を押し開いた。
「ジム。鍵を」
「んうぅ」
「鍵」
「尻ポケット
……」
「あなたはまたそんなところに」
さすがに玄関は施錠されていたので、カークの尻からカードを拝借してドアを開ける。ぱっと自動で灯る明かりに目をすがめながら、スポックは彼をどこへ連れていくべきか迷った。結局、リビングに居心地がよさそうなソファを発見して、カークをそこに座らせる。
それからキッチンへ入り、グラスを拝借して水で満たした。すぐに戻ったものの、座っていたはずの彼はぐんにゃりとしていて、ほとんど横になってしまっている。
「ジム。水です」
「すげえ、眠い」
「縦になって」
眠い、と言いながら、半ば閉じた目で片手をうろうろさせるので、スポックは一度グラスをテーブルに置いた。カークの両脇に腕を入れて、もう一度彼を助け起こす。
「スポック」
ぽすん、と座らせたと同時、だらんと伸びていた彼の両腕がこちらの首に回った。
そのままぎゅうと抱きつかれて、スポックは中腰のまま動きを止める。
しばらく、その状態で待った。何を待ったのかは分からない。
やがて耳元に安らかな寝息が届いて、スポックは慎重にゆっくりと、溜息のすべてを吐き出した。水を飲ませるのは諦めて、起こさないように彼を抱え上げる。
翌朝、ぼんやり顔であくびをしながらリビングに入ってきたカークの、驚きようといったらなかった。
「ベッドメイクはしてきましたか。あなたを寝室へ運んだとき、起きっぱなしでくしゃくしゃだったのには目を疑いました」
開口一番、そう言ってやっても、いつものこましゃくれた反論が返ってこないほどである。静かにソファに落ち着いているスポックを、まるで信じがたい奇妙な現象でも見つけたかのように凝視していたカークは、再起までに少なくとも1分は費やした。
「
……なんで」
「何故。起きたら普通、ベッドは整えるものでは?」
「そうじゃなくて! なんで」
「もしかして、酔って私に運ばれたことも覚えていませんか?」
「覚えてる! 違くて」
「ほかに整合性が取れないような事象はないと考えます」
「なんで君が、君、もう帰ってるかと」
カークは動転した様子で、ふらふらと重心を変えながら落ち着きなく視線をうろつかせている。
スポックは背筋を伸ばして座ったまま、小さく首を傾げてみせた。
「私もあらゆる意味で疲れましたので、少し座らせてもらおうかと」
「君が?」
「ええ。そうしたら、なんだか立つのが億劫になりまして」
「
……君が?」
「ええ」
疑わしげなカークに、スポックは静かに首肯する。
「このまま座っていてもいいでしょうか?」
「え
……、そりゃ、いいけど。疲れてるならゲストルーム貸そうか? あの部屋のベッドはきれいだぞ」
「ありがとうございます。今は大丈夫です」
次第に頭の回転速度が戻ってきたのだろう、カークの表情には心配そうな色が浮かんだ。あまり気に病むことがないよう、スポックは軽く優しく返答する。
そうして、そのままリビングで過ごして、夜になっても帰らなかった。
カークがそれを切り出すのには、3日かかった。ずいぶんと慎重で、やたらと無防備だ、というのがスポックの評価である。
果実酒を詰め込んだ瓶を抱えて屋根裏部屋へ行ったまま戻ってこないカークに、倒れてやしないかとやきもきして様子を見に行ったときだった。
はしごを登る音で気づいただろうに、カークは窓辺で外を眺めたまま、こちらを見ようともしない。乾いた板張りの床に直接座り込んで、傍らには瓶とグラスと、レトロなデザインのランタンを置いていた。窓の外は海だからだろう、見える夜空は黒々と広がっていて、まるで航宙艦ブリッジのフロントスクリーンのようだと思う。カークがいるから、なおさらだった。
「スポックは、いつ帰るんだ?」
炎を模したライトはほのかに暖色で、まるで本物のように小さく揺らいでいる。彼の髪を撫でるその明かりを見つめながら、スポックはそっと彼に近づいた。
「今更ですね。そんな調子では訪問販売の悪徳業者に騙されますよ」
「騙されるか、そんなもん」
「現に今、住所不定無職の異星人に無断で居座りを受けています」
思わず、というように、カークは顔を上げる。こちらを振り仰いだ彼は耳まで肌を赤くしていて、酔いに溶けた目はランタンの明かりをちかちかと集めていた。目が合うと、彼はぱっと顔を背ける。スポックはそんな友人の傍らに、そっと膝をついてしゃがみ込んだ。
「君は、べつに」
「3日もかけて、更に酒の力も借りなければならないほどの質問ではないと思いますが」
下唇を突き出すようにしているカークにそう言うと、彼は露骨に顔をしかめる。傍らの瓶の中身を見やってから、スポックは飲みさしのグラスを手に取った。
そのまま、一気にぐっと呷る。伸ばした首を元に戻せば、隣にはあっけにとられた様子のカークがいた。
もう1杯、と瓶に伸ばしたスポックの腕を、彼は慌てて掴んでくる。
「ちょ、スポック、サングリア、それサングリア」
「でしょうね。果物が浮いていますし、とても甘い。もしかしてはちみつも入っていますか? ひとつペナルティだな」
「なに、いったいどうしたんだ」
「あなたは艦隊をやめたんだ」
「スポック?」
「だから、もういいでしょう。私がここにいても」
まとわりついてくる彼の腕には構わず、スポックはすっかりと座り込んで、なみなみに注いだグラスの赤色を再び一気に飲み込んだ。舌をしびれさせるような甘さと渋さが、ぬるくわだかまって胃に落ちる。
グラスの縁についたしずくを、スポックは丁寧に舐めとった。
赤い顔のうるんだ目が、至近距離で見開かれるのを、少し気分よく思う。
「いいですかジム。これが、酒の力も借りなければならないほどの回答、というものです」
ひとつかしこくなりましたね、と彼がいつも使うような言い回しで唇の端を持ち上げると、カークはぺたりと腰を抜かした。
3か月ほど前になるだろうか。連邦主要惑星の代表者が集まるサミットがあった。持ち回りで開催地が変わるそれは、今回ちょうど地球の年で、宇宙開発に関わる分野の会合において、カークは出席を要求されていた。何故そんなものに連れていかれるのか分からない、とぶつくさ言う彼を叩き出すのはスポックの仕事であったし、そのような謎の指令を出してくる艦隊も艦隊だ、と思いつつ、久しぶりに正装をした彼の姿を求められるまま写真に撮り、友人たちのコミュニティに流したものだった。
緊急の救難信号を受けたのは、そんな折である。
スポックは自分のデスクに戻っていて、ディスプレイの中にそのアラートを見た。出航指示を受けた航宙艦の名前がリアルタイムで列挙されていき、スポックは嫌なデジャヴをよみがえらせる。自分のかつての母星がなくなってしまった事件でも、8隻が一斉に出航し、帰ってきたのは1隻だった。
ほとんど無意識に、けれど直ちに、カークの居場所を照会する。彼は今、艦隊上層部と同席しているはずだ。ということは、エマージェンシーを受けて出航指示を出しているその現場にいたということである。自ら艦を指揮して航宙する生活からは少し離れているものの、救難信号と聞いた彼が何をしようとするかは容易に考えつくことだった。
搭乗艦を特定して、スポックは弾けるように立ち上がる。ほとんど走るようにしてオフィスを飛び出し、人を何人か跳ね飛ばしてしまって謝罪した。それでも足を前に動かして、すでに離陸が始まっているシャトルベイに到着する。一瞬だけ足を止めて、どのシャトルがどこへ行くのかを見定めた。
そして大股で1歩、踏み出した途端に、横から人にぶつかられる。
じろりと睨んだ先で、マッコイはほぼ憤怒の形相だった。
アイコンタクトは一瞬だ。ぐずぐずしていると乗り遅れる、とずかずか進んでいった先で、スポックはやっと自分が搭乗許可申請をあげていないことに気づいた。すぐにあげようにも、なんと手ぶらで来てしまっている。
その空の両手を、マッコイは揶揄するように覗き込んできた。そして、ものすごく意地の悪い、にやにやした笑みを浮かべてくる。
悪い友人からのそんなろくでもない期待を一身に受けて、スポックは溜息をついた。ヴァルカン人は嘘をつかない、と彼も分かっているはずなのだが。
たぶんそのとき、一番可哀想だったのは、突然体調不良を訴え始めた袖章のラインが多いおじさんと、その体を支えて医療規約を唱える袖章のラインが多いおじさんが、どう考えても無断で乗船しようと画策している様子を目の当たりにしてしまった、哀れな搭乗管理員の士官だったと思う。
副長の位置に収まっていたカークは、それはそれは爆笑して迎えたものだった。おっと使える密航者が来たぞ、ふたりまとめて敵にぶつけてやろうぜ。そんなことを言って年下の船長に指を鳴らしたものだったし、彼の訓練を受けていたらしい彼女は笑って受け入れたものだった。宇宙艦隊のキャプテン層を独自の文化に染めてやしないかとマッコイは渋い顔をして、勝てるときには目いっぱい勝っておく極意を教えてあるとカークは太鼓判を押す。スポックはというと、朱に交われば赤くなる、ということわざを披露した。
結局、その救出作戦において、カークはほとんど死にかけて、大けがを負い、スペースデブリになりかけた。
後遺症として呼吸器系の機能低下を抱えることになったのが引退の原因だと彼は話したが、いったいいつになったら俺を安眠させてくれるんだ、とマッコイが珍しく本気で泣いたことも原因のひとつではあるだろう。
サミットへのテロ行為に絡んだ見せしめの虐殺からコロニーを救い、首謀者をあぶり出して捕縛した。それが、カークの艦隊士官としての最後の仕事になった。
「あなたと仕事ができてよかった。あなたは素晴らしい士官で、よき上官だった」
どこまでの発言なら許されるだろう、と測っていられたのは4杯目までだった。5杯目に差し掛かる頃にはふわふわと感覚が落ち着かず、小脳の少し外側あたりに漫然とした重力を感じる。
のったりとした動作で隣を見れば、床にへたり込んだままのカークは、ゆでだこみたいにふにゃふにゃになっていた。
「仕事が終わったら、星に帰るんじゃなかったのか」
赤ワインで染まってしまっている指先で、彼は瓶からりんごのかけらを取り出して口に入れる。スポックはそれを見て、自分もオレンジをつまんでみた。風味はほとんどワインに移ってしまっているため、あまり美味しいとは言えない。
「そんなこと、言ったことありましたか」
「君はお父さんみたいになりたいんだろ。俺もそういう君が見たいよ」
「家庭を持って、子供を育てて?」
「平和だ」
「平和ですね。今からでもそうしましょう。養子はどちらがいいですか? 地球人? ヴァルカン人?」
「そういう冗談は、本当に面白くないぞ」
「あなたこそ、そうしたらよかったんだ。あの中将の紹介で婚約までいった女性の」
「やめろその話」
「私の35歳のポンファーのあとでしたから」
「あのときの話もなし」
「努力はしたのですよ。あなたが結婚するというのなら、私もするべきだと思って」
「君はあの婚約者をそんなふうに選んだのか。なんてひどい男なんだ」
「俺を差し置いて君が誰かと結婚するなんて、とひどい非難をしたあなたに言われたくありません」
「そんなこと、言ったことあったか」
「あなたほうが破談した夜です。覚えてらっしゃらない? これはこれは」
「
……だって君が結婚するなんて」
「さんざん私に家庭を持てと言っておいて」
「だって君は。君は
……」
「
……その言葉の先を一生言うつもりがないのなら、私はもう、それでいいかと思っています」
「スポック」
「ただ、あなたがだいじにだいじにだいじにしてきた、あなたと私という関係は、おおよそのところが宇宙艦隊に帰属するものだ。だから、もういいだろう、と私は言っています」
「もういい、ったって」
「この部屋、本当に星がよく見えますね。天体望遠鏡でも置きましょうか」
「酔ってる?」
「それを理由にできるのは今夜だけですよ、ジム。私たちなら5秒で行ける天体を、アンティークなレンズ越しに見つけて喜ぶのは楽しそうじゃないですか?」
「
……絶対に楽しいな、それは、俺が」
「なら間違いなく私も楽しいでしょう」
それからふたりは、馬鹿らしくもかわいらしい、楽しいと思えることを口先だけで並べ立てた。庭が広すぎるから一角を自家菜園にしてもいいんじゃないか、ほら、君がよく食べるだろう。時間を持て余すことになるので何か趣味の幅を増やしたいですね、楽器でも始めましょうか、観客ならひとりいますし。夏が来たら、一緒に近くの海に行かないか、古くてかっこいい車を買ってガレージに飾ろう。クリスマスにはいつもの友人たちを呼んで、パーティをするのもよいですね、好きなだけはしゃいでもそのままベッドに直行できます。
美味しくない果物をつまんで、甘くぬるいワインを飲みながら、過ぎていく夜は優しかった。
ふにゃふにゃでぐにゃぐにゃのカークは、ひとつ言ってはでろでろと体を崩し、そのうちスポックにもたれると、ぐったりとしなだれかかる。しまいにはこちらのおなか周りを抱き込んで寝そべり、まるで心臓に直接言い聞かせるように、甘くてもろい『したいこと』を熱い吐息交じりに語った。触れた肩は往年の頃より痩せていて、呼吸をするたび上下に動く。そっと撫でるとカークは身じろぎ、くるりと上を向いてうっとりと目を細めた。変わらないな、とスポックは思う。
見た目も立場も世の中も、何もかも変わってしまっても、彼という存在そのものの強烈なあり方は、きっといつまでも変わらないのだろう。
だから、自分も変われないし、きっと何もかも変わっていないはずだ。
ろれつの回らない舌をむにゃむにゃと動かしながら、スポックは努めて彼に付き合った。けれどそのうち限界が来て、ぐんにゃりと重力に屈してしまう。寄り添って床に転がりながら、ぬくもりを追ってカークに頭をすり寄せると、彼も同じように額をこすりつけてきた。たとえば野良猫の兄弟なんかは、こんなふうに眠るのだろうか、とぼんやりしたことを考える。
「そうやってずっと、君のそばにいれたら」
その言葉をどちらが発したのかは、もはやよく分からなかった。
とろとろに溶け出した思考をそのままに、心地よくまどろみに飲まれる。